57


「お帰りなさい、リサさん」
「ひぇ……」

なんということでしょう。
甘露寺さんに屋敷まで送ってもらい帰宅すると、なぜかしのぶさんが玄関先に仁王立ちして待っていた。わずかに開いていた戸に嫌な予感はしたものの、恐る恐る中を覗き目が合った瞬間、私は静かに戸を閉めた。
…どうしよう。めちゃくちゃ怒っている。
戸を閉めたままどうしたものかと思っていたら、今度は戸が独りでに開いて腕を掴まれ、そのまま中へと引きずり込まれる。怖い。

「随分と遅いお帰りですね?」
「あ、あの、しのぶさん……すみません。その、冨岡さんのところの帰りに甘露寺さんと会って……」
「あら、甘露寺さんと?何をされていたんでしょうか」

しのぶさんは私の手を掴んだままじりじりと距離を詰めてくると、私の顔をじっと覗き込んだ。
その瞳の奥にあるのは、怒りというよりも、心からの心配。それが伝わってくるからこそ、余計に申し訳なさで身が縮こまる。

「そ、その!冨岡さんの屋敷のすぐ近くで、偶然、甘露寺さんとお会いして…!」
「あら冨岡さんの屋敷のすぐ近くで、ですか」

しのぶさんの眉がぴくりと動く。
私は必死に、引きずり込まれた玄関先で身振り手振りを交えて弁明した。

「そのままの流れで、とってもハイカラで素敵なお店に連れて行っていただいたんです。…洋食をご馳走になって」
「へぇ。…西洋料理ですか。甘露寺さんらしいですね」

しのぶさんは相槌を打つが、その声のトーンはまだ低いまま。
嘘はついていない。でも、一番肝心な「心が折れていた」という部分を隠している後ろめたさのせいで、彼女の「へぇ」という一言が、私の胸をチクチクと刺す。

「それで、その、お話が弾んでしまって……」

必死に言葉を重ねる。
…言えない。ミヨコさんに酷いことを言われて、泣きそうになりながら夜道を彷徨っていたなんて、口が裂けても言えない。そんな暗い話を、甘露寺さんがせっかく明るく塗り替えてくれたのに。
自分の中にあったドロドロとした感情を必死に隠して、ただ「偶然会って、そのまま誘われた」という形を強調する。私の不自然なまでの必死さを、しのぶさんは静かな眼差しで見つめていた。

「それで、気づいたら、こんな時間になっていました。……本当にすみません」

私は最後にそう言って、小さく縮こまった。
私の話を一通り聞き終えたしのぶさんは、ふぅ、と重い溜息を吐き出す。

「連絡もなしに。…アオイもなほたちも、あなたが戻らないので心配して、今にも夜道へ探しに行こうとしていたところですよ」
「心配をおかけして、すみません……」
「……全く、あなたという人は」

しのぶさんは掴んでいた私の腕をゆっくりと離すと、今度はどこか慈しむような手つきで私の肩のあたりを軽く叩いた。

「とにかく、無事でよかったです」

視界がじわりと熱くなり、私は逃げるように視線を床に落とした。
こんなことになるなら、最初から「誰かに見られている気がする」としのぶさんに相談しておけばよかったかな。そうすれば、こんなに夜遅くまで皆を心配させることも、しのぶさんにこんな顔をさせることもなかったはずなのに。
それとも、最初から冨岡さんのお手伝いなんて、しなければよかったのだろうか。

「リサさん。違いますよ」

ふう、とまた溜息を吐いたしのぶさんが私の頭にそっと手を置いた。くしゃりと髪を乱すように。彼女の細い指先が私の頭を撫でる。

「私が怒っているのは、私たちを心配させたからではありません。…あなたが、あなた自身を、無防備なまま危険に晒したことに怒っているんです。まあ、今回は甘露寺さんがいたので良かったですが」

しのぶさんの手のひらから伝わってくる体温が、やけに熱い。その熱に浮かされるようにして、今日一日の出来事がよみがえった。
私は…。取るに足らない存在なんだと思いこんでいた。ミヨコさんに投げつけられた「身の程知らず」という言葉。冨岡さんを濁しているという毒。
それを真実だと思い込んで、自分の価値を砂粒のようにちっぽけなものだと思い込もうとしていた。だから、自分がどこでどうなろうと、誰にも迷惑はかからないはずだと、心のどこかで投げやりになっていたのかもしれない。
けれど、目の前のこの人は、私の命に重さがあることを疑っていない。私が傷つくことを、この場所からいなくなることを、心から「嫌だ」と言ってくれている。

「…自分でも、どうしてこんなに軽率だったのか、分かりません」

喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
本当は分かっている。ミヨコさんの言葉で足元が真っ暗になって、どこへ歩けばいいのか分からなくなっていたのだ。
でも、それを言えば、また誰かを傷つけることになる。あるいは、しのぶさんをまた困らせてしまうことになる。

「あなたは、自分が思っている以上に脆いんです。自分を大切にしてくださいね」

しのぶさんの声は静かだけれど、その一言一言に重みがあった。

「あなたが、自分のことをどう思っていようと自由です。けれど、私たちにとって……あなたはそうではありません。もし、あなたの身に万が一のことがあれば、私たちはどれほど悔やみ、己を責めるでしょうね。…それが、リサさんの一番望まないことではないんですか?」
「……っ」

核心を突かれた。
私が一番恐れているのは、私が私自身のせいで、皆の心を曇らせることだ。もし私が消えることで皆が傷つくのなら、それは本末転倒じゃないか。

「……ごめんなさい、」

じわぁ、と滲んだ熱いものが視界を歪め、目尻から一筋頬を伝って零れ落ちる。
…子供か、私は。泣いてどうする。今日一日のことがあって冷静にさえなれやしないし、涙腺はどうやらぶっ壊れてしまっているようだし。
ぐすぐすと鼻を鳴らせば、しのぶさんは苦笑を浮かべて私の目尻を人差し指で拭ってくれた。

「…あらあら。泣かせるつもりはなかったのですが」

しのぶさんは困ったように目を細めると、懐から出した懐紙で私の涙をそっと拭った。
その手つきは、まるで本当の姉のように優しい。

「リサさん。以前にも言ったでしょう。……あなたは、与えられることに慣れていいんです」

しのぶさんは私の目をじっと見つめ、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「あなたはいつも、誰かのためにと自分を削ってばかりです。けれど、誰かがあなたを想い、あなたに何かを与えたいと願うこともまた、その人の『優しさ』なんですよ。あなたはそれを拒まずに、ただ『ありがとう』と受け取ればいいんです。……いいですね?」

ミヨコさんの言葉はまるで「欲しがってはいけない」と釘を刺すようだった。けれどしのぶさんは私の心に、それに真っ向から対立する福音。
与えられてもいい。ここにいてもいい。私はしのぶさんの言葉を信じたいと、震える胸の奥で、強く、強く願った。

「さあ、中に入りましょう。アオイがお説教の準備をして待っていますからね」
「……まだ、続くんですか」

鼻を啜りながら絶望する私をよそに、しのぶさんは「自業自得ですよ?」と楽しげに笑って、屋敷の中へと促した。









「火は、これくらいを保ってください。強すぎると成分が壊れてしまいますし、弱すぎるとうまく抽出できません」
「こう……でしょうか」
「そうです、そんな感じです。とても上手ですよ。そのまま、水が半分くらいになるまでゆっくりと木べらを動かしてくださいね」

アオイさんの指示を受けながら、私は手元の土鍋に意識を集中させた。
パチパチと爆ぜる小さな炭の音。立ち上る湯気からは、鼻の奥をくすぐるような、少し苦くて青臭い香り。
いつもはアオイさんやしのぶさんたちが担当している仕事だが、今日は負傷者が重なり、蝶屋敷は朝から慌ただしい。人手が足りないということで、私もこうして本格的な薬作りのお手伝いをすることになったのだ。

「すみません。急に手伝わせてしまって。本来なら私がつきっきりで見るべきことなのに…」

隣の台で別の薬を調合しながら、アオイさんが申し訳なさそうに微笑む。

「いえ!私でよければ、いつでも言ってください。こうして皆さんと一緒に働けるのは、とても嬉しいですから」

私は木べらで、沈んだ薬草を優しく掬い上げるように動かした。
水面に浮かぶ細かな泡。少しずつ琥珀色に色が濃くなっていく液体を見つめていると、不思議と心が凪いでいくのがわかる。

「助かります。実を言うと、夜明けに運び込まれた隊士の方が予想より多くて、少し焦っていたんです」

隣で別の薬草を刻んでいたアオイさんが、トントン、と小気味よい音を響かせながらそう言った。

「そうだったんですね。いつもアオイさんの手際があまりにいいので、てっきり余裕があるのかと思っていました」
「そんなことありませんよ。これでも必死です」

そう言って少しだけ肩をすくめた彼女は、まな板から視線を外さずに言葉を続ける。

「…でも、リサさんが隣にいてくださると、なんだか私の焦りも皆に伝染しなくて済む気がします」
「……?それ、は、私が少しのんびりしているからですかね」
「ふふ、違いますよ。一緒にいると落ち着くんだと思います」

アオイさんは一瞬だけ手を止めてこちらを見ると、優しく目を細めた。
面と向かって言われると少しだけ照れくさいけれど、素直に嬉しい。自分の存在が誰かの安心に繋がっているのなら、それはとても幸せなことだと思う。
私は木べらを動かしながら、自然と緩んでしまう口元を隠すように手元に視線を落とした。

「……あ、そろそろ色が濃くなってきましたね。一度アクを掬いましょうか」
「はい、わかりました」

アオイさんに手渡された網を使い、表面に浮いた細かな泡を丁寧に取り除いていく。
隣でアオイさんが薬草を擦り込む規則正しい音を聞きながら、私はただ、目の前の作業に没頭する。
大きな出来事があるわけではないけれど、こうして誰かと肩を並べて働く時間は、今の私にとって何より心地よいものだった。

「……よし、これでいいでしょうか」
「ええ、完璧です。ありがとうございます、リサさん」

アオイさんの太鼓判に、私は今日一番の笑顔で頷いた。
火の熱で少し火照った頬に、開け放たれた窓から入り込む風が心地よい。
手際よく土鍋を火から下ろすアオイさんを手伝いながら、ふと彼女が思い出したように顔を上げた。

「そういえば、なほたちがあとでかき氷を作ると言っていましたよ」
「かき氷……!?」

なんだそれは初耳だ。驚いて身を乗り出すと、アオイさんは私の反応が予想通りだったと言わんばかりに、くすくすと声を立てて笑った。

「はい。朝から三人で内緒の相談をして、ずいぶん張り切っていました。リサさんが最近、どこか元気がなさそうに見えるから…苺味の蜜は絶対に用意するんだって」
「え、みんな……」

胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
この前はあんなに帰りが遅くて心配をかけたから、できるだけ普通に振る舞っていたつもりだった。けれど、なほちゃんたちはちゃんと私のことを見ていてくれたのだ。
言葉には出さなくても、彼女たちなりの精一杯の優しさで、私を元気づけようとしてくれている。
…嬉しいな。私、本当に幸せ者だ。

「……楽しみです。私、三人が作り出すものぜんぶ大好きなんです」
「そう伝えたら、きっともっと張り切って作ってくれますよ」
「はい、またあとで伝えます…」

アオイさんとそんな取り留めのない会話をしながら、私は次の作業へと移った。







蝉の声が落ち着いてきた夕方。廊下を渡る風が、火照った肌に心地よく抜けていく。胃の奥にはまだ、ひんやりとした冷たさが心地よく残っていた。
さっきまで食堂で囲んでいた、あのかき氷の光景を思い出す。きよちゃんたちが一生懸命に氷を削り、私の器にだけ、これでもかというほど真っ赤な苺の蜜をたっぷりとかけてくれた。
「元気を出して」という直接的な言葉こそなかったけれど、山盛りの氷を差し出す彼女たちの誇らしげな笑顔と、キラキラした瞳ったら…。
それだけで、彼女たちがどれほど私を想ってくれていたのかが痛いほど伝わってきて、あまりの愛おしさに、私はたまらず三人をまとめてぎゅっと抱きしめてしまった。
突然のことに目を白黒させて驚いていた彼女たちだったが、すぐに小さくて温かい手を私の背中や腕に回し返してくれた。
あんなに心の底から笑ったのは、久しぶりだったかもしれない。
アオイさんの穏やかな眼差しに見守られながら、かき氷の冷たさに身悶えしたり、甘さに顔をほころばせたり。

そのまま廊下を歩き縁側へ出ると、そこには案の定、暑さに参った先客がいた。
にゃー吉が、廊下の隅で文字通り溶けている。お腹を上にして、手足を投げ出し、普段の凛々しさはどこへやら。だらりと伸び切ったその姿は、まるで白い餅が縁側に放置されているかのよう。

「…にゃー吉、大丈夫?流石に今日は暑いよね」

声をかけると、にゃー吉は耳をピクリと動かしたが、目を開けることさえ億劫なようで「ふにゃあ…」と力ない返事を返すだけ。

「ふふ、誰かが日陰に入れてくれたのかな?君、自分からは屋敷の中に上がってこないもんね…」

倒れそうというわけではないだろうが、このままでは可哀想だ。私も何か対策をしてあげようと考えていると、背後から静かな気配が近づいてきた。

「…あ!カナヲさん」

振り返ると、カナヲさんが大きな石を抱えて立っていた。
ひんやりとした質感の、滑らかに磨かれた大理石の板。おそらく、蔵の奥に眠っていたものだろう。
彼女は無言で私の隣にしゃがみ込むと、にゃー吉をじっと見つめ、それから私の方を見て小さく首を傾げた。

「これ、にゃー吉に」
「あ、もしかして暑さ対策ですか?その石、ひんやりしていて良さそうですね」

彼をここへ上げたのはカナヲさんだったのか。私が問いかけると、カナヲさんはコクリと頷き、大切そうに抱えていた石を、にゃー吉のすぐ隣の影になっている場所にそっと置いた。
けれど、にゃー吉は自分から動く気配を見せない。ただ、石から放たれる僅かな冷気を鼻先で感じているだけだ。

「これだけじゃ、少し足りないかもしれませんね。…ちょっと待っていてください」

私は一度台所へ戻り、井戸水で固く絞った手拭いを数枚持ってきた。
カナヲさんが見守る中、私はにゃー吉の近くの板の間に、その冷たい手拭いを広げて敷いていく。

「カナヲさん、その石、この手拭いの上に置いてもいいでしょうか?石がもっと冷たくなって、板の間も冷えると思うんです」

私の言葉に、カナヲさんは「…は、はい」と短く答え、手際よく石を移動させてくれた。
仕上げに、私は手持ちの扇子でその周辺に風を送る。水で湿った手拭いの上を抜ける風は、気化熱で驚くほど涼しくなった。

「あ、見てください。にゃー吉が動きました」

ひんやりとした空気の層ができたことに気づいたのか、にゃー吉がモゾモゾと這うようにして移動し始めた。
そして、カナヲさんが持ってきた石の上に、お腹をぴったりとくっつけて丸くなる。
よほど気持ちが良いのか、にゃー吉はごろごろと喉を鳴らし、ようやく満足そうに目を閉じた。

「……よかった」

カナヲさんが、ぽつりと呟く。彼女の視線は、穏やかに寝息を立て始めたにゃー吉に注がれていて、口元もほんの少しだけ和らいでいるように見えた。

「カナヲさん、ありがとうございます。にゃー吉もきっと感謝していますよ」
「…ううん。リサさんが、手拭いを持ってきてくれたから」

カナヲさんは静かに首を振ると、懐から扇子を手に取り、私と交互ににゃー吉へ風を送り始めた。
パタ、パタ、という規則正しい扇子の音。時折聞こえるにゃー吉の寝息が弾けるような音。
そんな静かな夏の午後。私たちはにゃー吉が心地よく眠り続けるのを、暗くなるまで隣で見守った。



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