58
「お帰りなさい、リサさん」
「ひぇ……」
なんということでしょう。
蝶屋敷の前で甘露寺さんと別れ、玄関に足を踏み入れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。なぜか土間に仁王立ちして待っていたのは、他でもないしのぶさんだったからだ。
わずかに開いていた引き戸に嫌な予感はしたものの、暗がりの中で藤色の瞳と目が合った瞬間、私は本能的にそろりと戸を閉め直した。
…どうしよう。めちゃくちゃ怒っている。
戸を閉めたまま途方に暮れていたのも束の間、がらがらと独りでに戸が開き、細い手が伸びてきて私の手首を掴んだ。そのまま無言で屋敷の中へと引きずり込まれる。
本当に怖い。
「随分と遅いお帰りですね?夕餉の時間はとうに過ぎていますが」
声音こそいつものように柔らかいけれど、額に青筋が浮かんでいるのが見えそうなほどの圧迫感だ。
「あ、あの、しのぶさん……すみません!その、買い出しの帰り道に、偶然甘露寺さんとお会いして……」
「あら、甘露寺さんと?とっくに日は沈んでいるのに、二人で何をされていたんでしょうか」
しのぶさんは私の手首を掴んだまま、じりじりと距離を詰めてくる。嘘をついても一瞬で見抜かれそうなその眼差しに、冷や汗が止まらない。
まさか「綺麗な女優さんに詰め寄られて落ち込んでいたら、洋食をご馳走になって恋バナをしていました」なんて、正直に白状できるわけもなかった。
「あのっ、そのっ、とってもハイカラで素敵なお店に連れて行っていただいて……!洋食をご馳走になって……!」
「あら、西洋料理ですか。甘露寺さんらしいですね」
「それで、その、お話が弾んでしまって……」
「それで?」
「それで、気づいたら、こんな時間になっていました。……本当にすみません」
消え入りそうな声で謝りながら、私は肩をすぼめて小さく縮こまった。
怒られるのは当然だ。鬼が出る夜に、何の力もない私が一人で出歩くのがどれだけ危険か、日頃から耳にタコができるほど言い聞かされていた。
しかも、夕餉の準備や片付けだって、アオイさんたちに丸投げしてしまった形になっている。
しのぶさんのことだから、甘露寺さんと一緒だったこと自体は咎めないかもしれない。
でも、「無責任に遅くなったこと」や「危ない時間まで外にいたこと」に対して、これからどれだけ恐ろしいお説教が待っているのかと思うと、心臓が縮み上がる思いだった。
しのぶさんは、ふぅ、と息を吐き出すと、掴んでいた私の手首をそっと離す。
「心配しましたよ」
「ごめんなさい……」
「連絡もなしに。アオイもなほたちも、あなたが戻らないので心配して、今にも夜道へ探しに行こうとしていたところですよ」
「心配をおかけして、すみません……」
「……全く。とにかく、無事でよかったです」
視界がじわりと熱くなり、私は逃げるように視線を床に落とした。
こんなことになるなら、最初から「誰かに見られている気がする」としのぶさんに相談しておけばよかったかな。そうすれば、こんなに夜遅くまで皆を心配させることも、しのぶさんにこんな顔をさせることもなかったはずなのに。
それとも、最初から冨岡さんのお手伝いなんて、しなければよかったかな。
「リサさん。違いますよ」
ふう、と再び溜息を落としたしのぶさんが私の頭にそっと手を置いた。くしゃりと髪を乱すように、彼女の細い指先が私の頭を撫でる。
「私が怒っているのは、私たちを心配させたからではありません。あなたが、あなた自身を、危険に晒したことに怒っているんです。まあ、今回は甘露寺さんがいたので良かったですが」
「はい、ごめんなさい……」
頭に乗せられた手のひらの温かさが、申し訳なさを加速させる。
「周りに迷惑をかけたこと」じゃなくて、「私が危ない目に遭うこと」を何よりも怒ってくれる。
蝶屋敷の誰もが、こうして私という存在をひとりの家族のように大切に想ってくれているのだと、痛いほど伝わってきた。
だからこそ、やっぱり打ち明けるべきだったのかもしれない。誰かに見られているような違和感も、フエコさんに呼び止められて詰め寄られたことも。
私ひとりで抱え込んで、呑気に構えて、勝手に落ち込んで寄り道なんてしていなければ、こんな風にみんなを肝を冷やさせるような真似はしなくて済んだはずだ。
私の頭を撫でてくれるしのぶさんの指先を見つめながら、私はぎゅっと着物の裾を握りしめた。
もう、これ以上この人たちに心配をかけたくない。
大切に思ってもらえている分、私だって自分を雑に扱っちゃいけないんだ。
「……自分でも、どうしてこんなに軽率だったのか分かりません」
「あなたは、自分で思っている以上に脆いんです。自分を大切にしてくださいね」
「はい……」
「もし、あなたの身に万が一のことがあれば私たちはどれほど悔やみ、自分を責めるでしょうね。……それが、リサさんの一番望まないことではないんですか?」
その通りだ。
私が一番恐れているのは、私のせいでみんなの心を曇らせることだ。もし私が消えることでみんなが傷つくのなら、それは本末転倒だ。
「……ごめんなさい」
じわぁ、と滲んだ熱いものが視界を歪め、なんとかこぼれ落ちないように目に力を入れる。
…子供か、私は。泣きそうになってどうする。今日一日のことがあって冷静にさえなれやしないし、涙腺はどうやらぶっ壊れてしまっているようだし。
ぐすぐすと鼻を鳴らせば、しのぶさんは苦笑を浮かべて私の目尻を人差し指で拭ってくれた。
「……あらあら。泣くなら泣いたらいいのに」
しのぶさんは困ったように目を細めると、懐から出した懐紙で私の目元をそっと拭った。
その手つきは、まるで本当の姉のように優しい。
「リサさん。以前にも言ったでしょう。……あなたは与えられることに慣れていいんです。誰かがあなたを想い、あなたに何かを与えたいと願うこともまた、その人の『優しさ』なんですよ。あなたはそれを拒まずに、ただ『ありがとう』と受け取ればいいんです」
フエコさんの言葉はまるで「欲しがってはいけない」と釘を刺すようだった。けれどしのぶさんは私の心に、それに真っ向から対立する福音。
与えられてもいい。ここにいてもいい。私はしのぶさんの言葉を信じたいと、震える胸の奥で、強く、強く願った。
「さあ、中に入りましょう。アオイがお説教の準備をして待っていますからね」
「……まだ、続くんですか」
鼻を啜りながら絶望する私をよそに、しのぶさんは「自業自得ですよ?」と楽しげに笑って、屋敷の中へと促した。
*
「はあ……」
机に突っ伏したまま、重々しく息を吐き出す。
蝶屋敷の食堂は、いつも通りの穏やかな空気に包まれていた。
湯気の立つ味噌汁の匂いや、すみちゃんたちが食器を並べるパタパタとした足音、遠くで聞こえる隊士たちの他愛のない話し声。そんな日常の真ん中にいるはずなのに、私の周りだけ別の重力がかかっているみたいに身体が重い。
「仰々しいため息ですね。ご飯食べないんですか?」
目の前に座ったアオイさんの心配そうな声に顔を上げる。
私は緩慢に姿勢を戻して、首を振った。
「食べます、けど……なんか今日はあんまりお腹空かなくて」
「朝ご飯いっぱい食べたんですか?」
「うーん、そういうわけじゃないんですけど」
自分でも明確には答えられない。ここ数日、ずっと胸の奥がざわざわと落ち着かなくて、何だか憂鬱だ。
原因は分かっていた。分かってはいるけれど、それが一つだけではないからこそ、余計に糸が絡まり合って解けなくなっている。
まず頭に浮かぶのは、しのぶさんのことだ。いつものように優しく微笑んで、屋敷を仕切っているけれど、ふとした瞬間に見せる表情の陰りがどうしても気にかかる。私なんかが踏み込んでいい領域ではないと分かっていても、あの華奢な背中に背負われたものの重さを思うと、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
それに加えて、なんだか様子のおかしい雪くんのこと。いつもならもっと可愛らしく感情を出すはずなのに、ここ最近の彼はどこか変で、視線を合わせてもどこか遠くを見ているような、ぎこちない違和感が拭えない。何か抱え込んでいるのは明白なのに、どう声をかければいいのかすら掴めずにいる。
極めつけは、先日のフエコさんの一件だ。あんなことが起きてしまってから、私の中で何かがずっと引っかかったまま、冷たい棘のように刺さっている。
いくらなんでも、自分の身の回りに色々なことが起こりすぎている。
ただ平穏に、目の前の務めを果たしながら過ごしたいだけなのに。誰かの異変に気づいては立ち止まり、思いがけない出来事に心を揺さぶられ、次から次へと押し寄せる波にただ呑み込まれているような感覚。
目の前に置かれたお椀を見つめたまま、私はお箸を握る手に力を込めた。
「悩みすぎて食欲がないなら、いっそ別のこと考えましょ」
アオイさんはそう言いながら、自分のお椀からたくあんをぱりりと小気味いい音を立ててかじる。
「ほら、一口だけでも食べながら。で、何の話にします?」
「……あのね、アオイさん」
「はい」
「鮭大根って、どうやって作るんですか?」
思考の隙間からぽろりと零れ落ちた疑問に、アオイさんはお味噌汁の椀を持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
「突然ですね。……まあ、鮭と大根をしっかり下茹でして、生姜に、味噌と味醂でじっくり煮込むだけですけど」
そこまで淡々と説明したあと、アオイさんはお椀をことりと机に置き、すっと目を細めてジト目を向けてきた。
「……誰かに作りたいんですか?」
「えっ……と、そういうわけではないです」
思わず口ごもって、私は視線を泳がせた。嘘が下手なのは自分でも分かっている。
「もしかして、難しそうだから諦めようとしてます?」
「えっ、あ……私、あんまり魚料理得意じゃないから、失敗したらどうしようって……」
それは決して嘘というわけではなかった。
けれど、そうやって動くこと自体、本当に正しいのかどうか。最近、時々分からない。
ぐるぐると巡る思考に耐えきれなくなって、私はもう一度、机の上に突っ伏した。
「あたまが破裂しそうです」
木の板に額を押し当てたまま、くぐもった声で呟く。
情けないのは分かっているけれど、いっぱいいっぱいになった心は、そうでもしないと本当に爆発してしまいそうだった。
その時、こつん、と突っ伏した頭に小さな衝撃が落ちてくる。痛くはないが、呆れが混ざったような軽い小突き方だ。
「考えすぎです」
「うぅ……」
「破裂する前に、頭を空っぽにしてご飯を食べてください。食べないことには、頭も働きませんよ」
そう言って、アオイさんはことりと私のお椀の位置を直してくれた。
私はまた机からゆっくりと顔を上げ、小さく息を吐き出す。
「……はい」
素直に返事をして、置いたままだったお箸を手に取る。
まずは目の前のご飯を片付けよう。私はお味噌汁を一口すすり、白米を口へと運んだ。もぐもぐと噛み締め、少しずつ胃袋に温かいものを流し込んでいく。
アオイさんは私がちゃんと食べ始めたのを確認すると、満足そうに頷いて自分のお茶をすすった。
「そういえば、しのぶ様、今夜からまた数日屋敷を空けるそうですよ」
「任務ですか?」
「はい。遠方らしくて、夕方には出立されるそうです」
「そうなんですか……本当にお忙しいですね」
また休む間もなく次の任務へ向かうのかと思うと、あの華奢な背中がまた脳裏をよぎる。
「柱ですからね。留守の間、怪我人の手当てと薬の管理をしっかり頼まれました。だから私たちも、気を引き締めて屋敷を守らないと」
「はい、そうですね」
アオイさんのきりっとした表情につられるように、私も小さく頷いた。
頭を悩ませている暇なんてない。目の前には、やるべき仕事がたくさんあるのだから。
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