58
「高月、何かあったか?」
そんな冨岡さんの何気ない一言から、その話は始まった。
今日も私は、いつものように冨岡さんからの手紙を受け取り、慣れた足取りで彼の屋敷を訪れていた。
手伝いを始めてから、随分と月日が流れた。今では山積みになった帳簿の整理も、複雑な遠征費の計算も、滞りなくこなせる。それに、筆跡を見ただけで誰の書状か判別がつくほどだ。言葉を交わさずとも、彼が何を求めているのかが手に取るように分かる。
淡々と作業を進めるこの時間は、私にとって何よりも心安らぐ、かけがえのない日常のはずだった。
「な、なんですか……?」
突然問われて目を瞬かせる。心臓が嫌な跳ね方をしたのは、どこか心当たりがあるからだろうか。
筆を置いた冨岡さんに机越しにまじまじと見つめられ続けると、なんだか気まずいというか、どうしたらいいんだろうと分からなくなってくる。私はたまらず、少しだけ身を引くようにして問い返した。
「私、何か不手際でも……?」
「…いや、何もないならいい。変なことを聞いた」
そう言って、冨岡さんは再び手元の書状へと視線を落とした。少し難しそうな顔をしているが、口はまた硬く閉じられる。
追及を免れたことに安堵して、私は肺に溜まっていた空気を悟られないよう静かに吐き出した。
…何か、あったにはあった。大いにあった。心当たりしかない。
「あ、冨岡さん。この、先月分の遠征費の記載についてなんですが」
「ああ、どれだ」
けれど、仕事に没頭している振りをしていれば、余計なことを考えずに済む。ミヨコさんのあの冷たい声も、自分の寄る辺なさも、このインクの香りが一時的に塗りつぶしてくれるはずだ。
「ここの合計が、報告書の数字とわずかに食い違っていて。…私の計算違いでしょうか」
「……いや。お前の計算はいつも正しい。俺の書き間違いだ」
「そうですか…。書き直しておきますね」
絞り出した声が、自分でも驚くほど平坦で、どこか他人事のように響いた。
冨岡さんを見上げることができない。もし今、彼の真っ直ぐな瞳を見てしまったら、堰を切ったように「私、ここにいてもいいんでしょうか」と、子供のように泣きついてしまう気がする。
この静かな部屋で彼といる時間は、何よりも心安らぐ、かけがえのないもののはずだったのに。
今では少し、それが怖くなってしまった。屋敷へ向かう道中さえ、今の私にはひどく落ち着かない場所に変わってしまった。
門を潜る時、あるいは帰り際。もしまた彼女に、ここを出入りしているところを見られたらどうしよう。そんな怯えが、常につきまとっている。
冷ややかな視線で「まだ厚かましく居座っているのか」と、糾弾されるのではないか。
そして冨岡さんはたまに、先程のような難しい顔をするようになった。私のことをじっと見て、それから少し考えるように。何かあったのかと聞かれたのはさっきのが初めてだったけど。
本当は、もうここに来るべきじゃないのかもしれない。一度は、もうこのお手伝いも辞めて、彼の前から姿を消すべきではないかと考えた。
けれど、そう決心しようとするたびに、冨岡さんと交わした「手伝う」という約束が、そして彼が私に向けてくれる僅かな信頼が、今日も私の足をこの屋敷へと向けさせる。
約束を破ることはできない。けれど、以前のように手放しに喜んでこの場所に馴染んでいいのか分からない。
そんな割り切れない思いを抱えたまま、私はただ淡々と、数字の羅列を追い続けていた。
再び筆を止めた冨岡さんが、今度は手元の紙ではなく、私の横に置かれた机の上の空白に視線を向ける。
「今日はないのか」
「え……?」
問いの意味が分からず、私は顔を上げた。
冨岡さんは少しだけ視線を彷徨わせた後、どこか名残惜しそうに口を開く。
「…いつも、持ってきていただろう。手土産を」
「あ……」
言われて初めて、自分の失態に気づいた。
そうだ。いつもなら、少しでも彼が深く眠れるようにと、「安眠グッズ」を必ず一つは忍ばせて持ってくるのが私の日課だったのに。それが、今日は懐のどこにも入っていない。
…すっかり、忘れてた。ここに来るべきか、それともこのまま姿を消すべきか。そんな極端な二択にばかり心を支配されていたせいで、彼のために用意するはずの一番大切な心遣いを置き去りにしてしまった。
「すみません……。今日は、その……用意するのを、失念してました」
申し訳なさで身を縮めると、冨岡さんは「…いや、それならいい」と短く一言だけ呟く。
がっかりしているわけではないのだろう。怒っている様子もまったくない。けれど、だからこそ、その淡々とした一言が今の私にはどんな言葉よりも胸に突き刺さった。
…惜しいことをしてしまった。こうやって聞いてくれるということは、冨岡さんも心のどこかで、私が持ってくるささやかな贈り物を楽しみに待ってくれていたということではないだろうか。
せっかく私が冨岡さんにしてあげられる、唯一のことだったのに…。
「……すみません。本当に……」
もう一度謝るけれど、失った機会は戻ってこない。急に後悔が押し寄せてくる。
何か、何か今ここで、物以外で私にできることはないだろうか。
安眠、安眠…。道具がなくても、この手で、今すぐにできること。焦燥感に駆られて必死に記憶を辿っていると、ふと、アオイさんに教わったある手当のことが脳裏を掠めた。
「そうだ、冨岡さん」
「…なんだ?」
「その、手を、出してください」
いくらなんでも、唐突すぎただろうか。
そう思ったが、冨岡さんは特に理由を問い質すこともなく、座卓越しに大きな右手をすんなりと差し出してくれる。そして不思議そうに瞬きを繰り返した。
「どうした?」
「その、代わりと言ってはなんですが、アオイさんに教えてもらって……」
意を決して、私は差し出されたその右手を、両手で包み込むようにして掴んだ。
「効くか分からないですけど、こんな方法もあるみたいです。ここを押すと、昂った気が落ち着いてよく眠れるって……」
私は震える指先に力を込め、冨岡さんの親指と人差し指の付け根の間――
じわり、と体重をかけるようにして押し込む。私の手とはまるで違う、一回りも二回りも大きな掌。剣士特有の硬いタコがいくつもあり、指先は節くれだっている。
この手が、これまでどれほどの命を護り、どれほどの痛みを抱えてきたのだろう。そう思うと、胸の奥が熱くなる。
「より効かせるためにはコツがあって……あ、痛くないですか?」
一瞬だけ、冨岡さんの手がぴくりと跳ねる。
その反応に私は途端に不安になって、彼の顔色を確かめようと顔を上げた。
「すみません、力加減を……、」
しかし、そこまで言って言葉を飲み込んだ。じっと私を見つめる蒼い瞳と真っ正面からぶつかり、想像以上の近さに思わず息を止めて固まってしまう。
「えっ、と……それ、から……」
あれ、私、何を話そうとしていたんだっけ。見つめられ、急激に頭が冷えていくのを感じた。
いや、何をしているんだ。何が物を忘れたから代わりにツボ押しだ。そんなの、あまりにお節介が過ぎるし、図々しすぎる。
この間、あんなに自分の身の程を思い知らされたばかりなのに。医者でもない私が、さも分かったような顔で健康法を説くなんて。
…なかったことにしよう。今すぐ謝って、この手を離さなきゃ。
「すみません、やっぱり、何でもないです……」
我に返れば、掌から伝わってくる彼の体温が、まるで焼けるように熱く感じられた。
見られすぎている。この蒼い瞳に。弾かれたように指を離そうとした――その瞬間。
「え……、」
引こうとした手首を、そのまま捕らえられた。逃がさないと言わんばかりの強い力で、座卓越しにぐい、と引き寄せられる。
「っ…」
私の体は勢いに負けて、大きく前のめりになった。
机の角に腹部が当たり、手首を掴む冨岡さんのから伝わってくる熱。どくどくと、早鐘を打つような拍動。
それが私自身のものなのか、それとも手首を掴んでいる冨岡さんのものなのか判別がつかない。
「それがなんだ?」
驚いて顔を上げれば、蒼い瞳が私を射抜くように見つめていた。いつもは凪いでいるはずのその中に、今は得体の知れない熱が渦巻いている。
「え……?」
「それ、がなんだと聞いている」
私の戸惑いを無視するように、冨岡さんはもう一度問いかけた。
すり、と。掴まれた手首の親指が、私の手の甲をゆっくりと確かめるように撫でる。
反射的に腕を引こうとしたけれど、彼はそれを許さなかった。むしろ、掴む力をより一層強めて私を彼の方へと引き戻す。
「あ、の……とみ、岡さん、」
「高月」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
ここで何も答えないという選択肢は、最初から用意されていないと感じた。縋るような期待が入り混じった瞳から、どうしても目を逸らすことができない。
逃げ出したいのに、足に力が入らず、なぜか腰が引けてしまう。
「いつも寸前のところで逃げるな。それ、がなんだ?」
「え、……あ、」
なんだか、泣きたくなってきた。さっきまで、私が冨岡さんに少しでも安らぎを与えようとしていたはずだったのに。どうして、いつの間にかこんな風に形勢逆転されているんだろう。
でも、逃げている…。確かに、そうかもしれない。冨岡さんがふとした瞬間に隙を見せたとき。あるいは、私の方が彼に踏み込みすぎてしまったとき。嫌われるのが怖くて、不釣り合いだと思われるのが怖くて、私はいつも自分の感情に蓋をしてきた。
彼の孤独に触れたいと願うくせに、いざその孤独の熱に晒されると、自分まで焼き尽くされてしまいそうで怖くなる。そんな私の卑怯な臆病さを、彼はすべて見抜いているようだった。
「それは……その……、」
言い淀む私の唇を、冨岡さんの視線がじっと追う。
「え、えっと……」
「うん」
促すような短い相槌。それだけで、私のなけなしの防波堤は音を立てて崩れていく。
このまま黙って逃げることなんて、今の冨岡さんの前では許されないのだと本能が悟る。
「…こ、呼吸を、使って……ここを押すと、より効果が出る、らしいから……」
言ったそばから恥ずかしくて、顔から火が出るかと思った。頬が焼けるように熱い。
柱である冨岡さんを前にして、素人の私が「呼吸」なんて言葉を口にするのに、意味なんてあるのか。
「呼吸を使うのか」
「は、はい……」
「どうやって?」
けれど、冨岡さんは少しも馬鹿にする様子はなく、むしろ真剣に私の言葉を拾い上げようとしている。
きっと、全部言わないと終わらせてくれないんだ。私はそう覚悟を決めて、逃げ場を失ったまま、さらに絞り出すように言葉を繋いだ。
「吸う時、じゃなくて、吐く時に……合わせて、じっくり。……って、アオイさんが、言ってて……」
語尾が震え、視界がじわりとぼやけてくる。
もう、何が何だかさっぱりだ。彼から伝わってくる重たい感情の渦に耐えきれない。
「…わかった。では、お前の言う通りにしよう」
冨岡さんは満足げに、でもどこか名残惜しそうに指の力を緩めると、ようやく私の手首を解放してくれた。
縛り付けていた強烈な熱が引いていく。
「っ、……失礼、しました……」
弾かれたように乗り出していた身体を引き戻し、畳の上に深く座り直した。
あまりの恥ずかしさと、彼から向けられた剥き出しの熱に当てられて、視界がじわりと歪む。
「高月、泣くな」
泣いてなんか、いない。…まだ、零れてはいないから、セーフなはずだ。
そう自分に言い聞かせ、ぎゅっと唇を食いしばる。ここで泣いてしまったら、本当にお節介を焼きに来ただけの、ただの迷惑な女になってしまう。
膝の上で握りしめた拳に力を込め、肺の奥まで冷たい空気を送り込むようにして、大きく、深く息を吐き出した。
「高月」
「……はい」
視線を上げられずに、膝の上の拳を見つめたまま応える。
「思ったことは、はっきり口にしろ。寸前で飲み込んで逃げるのではなく、お前が何を考えているのか俺に教えろ」
冨岡さんの声は、いつになく真剣に響いた。
いつもなら、私が黙れば冨岡さんも黙る。けれど、今の冨岡さんはそれを許してはくれない。私の内側で、色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
教えろと言われても、私の考えていることなんて、きっと冨岡さんを困らせてしまうだけだから。
「分かったな」
「……はい」
ぎゅっと唇を噛み締めて、ただ黙って頷くことしかできなかった。
返事を聞いて安心したのか、冨岡さんは満足げに一度だけ頷くと、再び筆を手に取って書状へと視線を戻した。さらさらと、筆の走る音だけが部屋に響く。
……好き、なんです。冨岡さん。どうしようもないくらいに、あなたのことが好きなんです。
あなたのその不器用な優しさに、救われてしまう私がいる。あなたがくれるその言葉一つで、心臓が痛いくらいに跳ねてしまう。
でも、こんな想いは口が裂けても言えない。今のこの、脆くも温かい関係を壊してしまいたくないから。
私はただ、熱を持ったままの左手を見つめ、彼に悟られないよう静かに、息を吐き出した。
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