59


「高月、何かあったか?」

唐突に落とされた声に、私は出納帳の上で走らせていた万年筆を止めて顔を上げた。座卓を挟んだすぐ向かいから、冨岡さんがまっすぐに私を射抜いている。

「……どうしてですか?」

心臓が嫌な跳ね方をしたのは、どこか心当たりがあるからだろうか。
筆を置いた冨岡さんに机越しにまじまじと見つめられ続けると、息の吸い方すら分からなくなってくる。

「私、何か不手際でもありましたか……?」
「いや、何もないならいい。変なことを聞いた」

冨岡さんはそれ以上詮索することなく、再び手元の書類へと視線を落とした。
ほっと胸を撫で下ろすのと同時に、微かな罪悪感がちくりと胸を刺す。

「あ、冨岡さん。この先月分の遠征費の記載についてなんですが」
「ああ」

努めて平静な声を出しながら、私は指先で帳簿の一角を示した。仕事に没頭している振りをしていれば、余計なことを考えずに済む。
…何かあったか。あったにはあった。大いにあった。心当たりしかない。
この部屋で冨岡さんと過ごす時間は、私にとってかけがえのない宝物のはずだった。それなのに、今では少し、ここに足を踏み入れること自体が怖くなってしまっている。
屋敷へ向かう竹林の小道を踏みしめるたび、笹の擦れる音にすら肩が跳ねる。またフエコさんにここを出入りしているところを見られるのではないか。あの冷ややかな視線で「まだ厚かましく居座っているのか」と糾弾されるのではないか。
他人の気配に怯え、びくびくと縮こまっている自分の浅ましさが酷く情けない。
そして、冨岡さんはたまに、先程のような難しい顔をするようになった。私のことをじっと見つめ、それから何かを探るように視線を落とす。
「何かあったのか」と口に出して聞かれたのは、さっきのが初めてだったけれど。

「今日はないのか」
「え?」
「いつも持ってきていただろう。手土産を」

冨岡さんは書類に筆を走らせたまま、こちらを見もせずに尋ねてきた。
手土産?と内心頭を傾げて、それからはっと息をのむ。
…自分で自分が信じられない。忘れた。なんの言い訳もない。用意はしてあったのだ、今回は身体にいい生姜を。ただ、屋敷を出る時に、余計な考え事をしていて玄関に置いたまま忘れてきてしまった。要するにシンプルな凡ミスだ。本当に信じられない。
催促されたわけじゃないのは分かっているけれど、いつも通りのことが抜けているのを見て、冨岡さんも「何かあったのか」と違和感を覚えたのだろう。鋭い人だから。

「すみません。今日は、その……用意するのを失念してました」
「責めているわけではない」
「で、でも……」
「お前の務めでもないだろう」
「……はい」

務めではない。それはそう。でも、そう言われたことによってさらに凹む。
自分の不甲斐なさに落ち込んでいると、冨岡さんがまた筆を止め顔を上げた。どこか疑わしげな目を向けてくる冨岡さんに、

「何もありません」

と慌てて首を振ったが、微かに眉を顰められてしまった。
きっと、私の考えていることなんてお見通しなんだろう。ここまで見透かされると居心地が悪いが、正直に話せることなんて何一つないのにどうすればいいんだ。
座卓の木目を見つめながら、私は膝の上で指をぎゅっと丸めた。
どれだけ望んで必死に手を伸ばしても、見向きすらされない人がいる。こうして会話を交わせることが、どれほど過分で幸運なことか。私は分かってしまった。
…せめて、いつも通り冨岡さんの役に立ちたい。そこまで考えて、アオイさんと話したことが脳裏をかすめたのだ。

「そうだ、冨岡さん。その、手を出してください」
「手?」
「はい。どちらの手でも大丈夫なので、こう……こちらに差し出す感じで」

怪訝な顔をされるかと身構えたけれど、冨岡さんは少し目を瞬かせたあと、意外にもすんなりと右の手のひらを上に向け、机越しに差し出してくれた。
失礼します、と小さく呟いてから私は正座を崩し、膝立ちになって腰を上げる。

「その、アオイさんに教えてもらったことがあって……」

そのまま意を決して、彼の右手をそっと両手で包み込むようにして掴んだ。
触れた瞬間、刀の柄で鍛え上げられた皮膚の硬さと、じんわりとした体温が手のひらを通して伝わってくる。

「効くか分からないですけど、こんな方法もあるみたいです。ここのツボを押すと、昂った気が落ち着いてよく眠れるって」

冨岡さんの親指と人差し指の付け根、骨が交わる窪みのあたりに自分の親指を当てた。
そして、じわりと体重を乗せるようにして、ゆっくりと指先を押し込む。

「より効かせるためにはコツがあって……」

瞬間、冨岡さんの手がぴくりと跳ねた。

「すみません。痛かったですか?」

アオイさんに「少し痛いくらいが効く」と言われたものの、力加減を間違えたかもしれない。彼の顔色を確かめようと、慌てて顔を上げたところで、ひゅっと息が詰まった。
顔を上げた先にあった端正な顔立ちが、想像以上の近さにあったからだ。机越しとはいえ、体重を乗せるために身体を乗り出していたせいで、お互いの息遣いまで届きそうな距離にいる。
吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、至近距離からじっと私を見つめていた。

「えっ、と……それ、から……」

あれ、私、何を話そうとしていたんだっけ。
ツボの押し方、息を吐くタイミング、アオイさんから聞いたはずの手順が、頭の中からさらさらと抜け落ちていく。
握りしめた手の熱さが、触れているところから全身へ一気に駆け巡り、耳の奥までカッと熱くなった。
…まずい。あまりにも無防備に触れすぎてしまった。じわじわと我に返るにつれて、気恥ずかしさと焦りが押し寄せる。
いたたまれなくなって、咄嗟に彼の手から自分の手を離そうとした次の瞬間。

「すみません。やっぱり何でもないで……っ!」

引こうとした私の手首を、冨岡さんの大きな手が逃さず掴み取った。そのまま有無を言わせぬ強い力で、座卓越しにぐい、と引き寄せられる。

「っ……!」

勢いに負けてお尻が畳から浮き、私の身体は大きく前のめりになった。

「それがなんだ?」
「え……?」

目と鼻の先で、ゆらゆらと揺れる青い瞳。
どこか縋るようなそれに、体が震える。

「それ、がなんだと聞いている」

すり、と彼の指先が私の手の甲をゆっくり撫でた。反射的に引こうとした手首ごと掴まれて、僅かに彼の方に引き戻される。

「とみ岡さっ、」
「いつも寸前のところで逃げるな」

冨岡さんの瞳は、どこまでも真剣だった。
はじめて、彼を怖いと思った。どういった種類の怖さなのかは定かじゃないけれど、彼の内側に潜む剥き出しの熱量に呑み込まれてしまいそうな感覚に、本能がしきりに警鐘を鳴らした。自然と腰が引けてしまう。

「あの、とみおかさ……」
「高月、ちゃんと俺の目を見ろ」

ここで嫌だと答える選択肢は、用意されていないのだろう。とにかく解放されたくて、私は黙って何度も頷いた。
それでも怯えたように視線が泳ぎ続ける私に、冨岡さんは手を握る力を一層強めて小首を傾げる。

「高月」
「え、……あ、」
「言わないと分からない」

なんだか、泣きたくなってきた。
さっきまで、私が冨岡さんを励まそうとしていたはずなのに、どうしてこんなことになっているんだろう。
いつの間にか形勢を完全に逆転されている。逃げ場のないまま、おそるおそる彼を見上げて、私は震える口を開いた。

「え、えっと、」
「うん」
「……こ、呼吸を、使って……ここを押すと、より効果が出る、らしいから……」

言ったそばから恥ずかしくて、顔から火が出るかと思った。

「呼吸を使うのか」
「は、はい……」
「どうやって?」
「吸う時、じゃなくて吐く時に……合わせて、じっくり……って、アオイさんが……」

語尾が情けなく震える。
もう何が何だかさっぱりだ。視界がぼやけて、生まれて初めて羞恥で涙が溢れそうになった。

「吐く時に押すとどうなる」
「吐く、と身体の力が抜けるから……その時に押し込むと、頭の熱が下がって、気持ちが落ち着くって……」
「そうか」

もう本当に限界だった。顔を真っ赤にしながら、ただアオイさんから聞いた受け売りを必死に並べているこの状況は何なのだろうか。このまま消えてしまいたいくらい恥ずかしい。

「わかった」

素人の拙い呼吸の説明をじっと聞き届けた冨岡さんは、短くそう告げてようやく手首を解放してくれた。
私は弾かれたように乗り出していた身体を引き戻し、畳の上に深く座り直す。

「っ、……失礼、しました……」

どっどっ、と暴力的なまでの鼓動が収まりそうにない。おかしくなりそうだった。じんじんと熱い自分の手首を、もう片方の手で押さえ込む。
じわりと滲んだ涙を、目に力を入れて必死で瞬きして散らそうする。

「高月、泣くな」

まだ、零れていないのだからセーフだと思う。まだ、泣いてなんかいない。
唇を食いしばって、気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。

——いつも寸前のところで逃げるな。
どうしてか、その通りだと思ってしまった。これ以上踏み込んだら戻れなくなるのが怖くて、冗談めかして誤魔化したり、話をすり替えたりして。
そうやって、ずっと私は逃げてきたんだ。けれどそうやって私が引いてきた境界線に、冨岡さんはちゃんと気づいていた。

「高月、お前が何を考えているのか俺に教えて欲しい」
「……え?」
「言わなければ分からない」
「……」
「俺はお前のことを何も知らない。……分かったな?」

逃げ道を塞ぐように念押しされて、私はただ頷くしかなかった。こうして言質を取らないと、この人は話を終わらせてくれないのだと悟ったから。

「……はい」

返事を聞いて安心したのか、冨岡さんは満足げに一度目を瞬かせると、再び筆を手に取って書類へ視線を戻した。
さらさらと、筆の走る音がまた部屋に響きはじめる。

…好き、なんです。冨岡さん。
どうしようもないくらいに、あなたのことが好きなんです。もし、今ここでそう言ったら、あなたはどうしますか。
言葉を飲み込むなと言った手前、ちゃんと私の目を見て、その言葉を受け止めてくれますか。それとも困ったような、何も映さない瞳で私を見つめますか。

こんな気持ち、伝えたところで困らせるだけに決まっている。言えるわけがない。
彼に掴まれていた手首を、今度は自分の手で痛いくらいに強く握りしめる。まだ肌に残る冨岡さんの体温を、これ以上心に染み込ませないように。
そうやって自分に言い聞かせるように、ぎゅっと、爪が食い込むほど力を込めた。











「リサさん」

少し強めに腕を叩かれて、我に返った。
アオイさんは険しい顔で私を叱ると、声を低めて続ける。

「刃物持ったままぼーっとしたら危ないですよ」
「ごめんなさい……」

謝りつつ、握っていた包丁の刃を上に向けてまな板に置く。
自分はそんなに気落ちしていたんだろうか、と小さく息を吐いた。
私の様子をしばらく見つめていたアオイさんは、つり上げていた目尻を下げて、気遣わしげに問うてくる。

「大丈夫ですか?最近ほんと元気ないですね」

曖昧に頷いて、私は俯いた。
自分の右手首を擦る。あの時、掴まれた感覚がいまだに抜けない。
怖い、と確かに思ったはずだった。本能的な恐怖が全身の筋肉を強ばらせていたのに、いざ離されると次は力が抜けてしまって。凪いだ水面のようにいっそ静穏で、抗えなかった。
あのあと筆を走らせる冨岡さんは、触れ合っていたさっきの熱が嘘のように静まり返っていた。
あの近さにいたはずなのに、ふと気がつくと、彼はいつもすごく遠い存在になっている。それにまた、胸を痛めてしまう私。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、その実、決して交わらない別の世界を生きている。
同じ土俵に立ちたいと願えば願うほど、彼は遠くへ離れていってしまうんだ。そうやって踏み込ませてくれないくせに、私が逃げようとすれば強引に引き寄せる。

「リサさーん。ちょっと来てほしいです!」

廊下の方からすみちゃんの呼ぶ声が響いて、私ははっと顔を上げた。

「あ、うん!今行くね!」

大きな声で返事をしながら、割烹着でさっと手を拭う。

「ごめんなさいアオイさん、私あっち見てきますね。あと五枚なんですけど、お願いしてもいいですか?」

まな板の上に残った薄切りの大根と包丁を指さして、私は手短に頭を下げた。
アオイさんは「いいですよ」と鷹揚おうように手を振る。困ったように小さく微笑む彼女の表情に、胸の内を全て見透かされているような錯覚に陥った。
ありがとうございます、と返して私はぎこちなく頬を緩め、急ぎ足で調理場を後にした。








まだ明るさの勝る夕方の空。
私は、普段は滅多に来ない調薬室の裏手にある縁側に腰を下ろし、遠くで打ち込み稽古に励む隊士たちの姿をぼんやりと眺めていた。
今は誰とも話したくない気分だったのと、ただ静かに座れる場所が欲しかった。
けれど、すぐにここへ来たことを後悔する。竹刀の鋭い打撃音と、長く伸びる隊士たちの影。朱と青が溶け合う空の色を見上げていると、ふいに耳の奥であの声が甦る。

『頼れ。一人で抱え込もうとするな。次からはもっと早くに人を頼れ』

嫌だ。思い出したくない。今、その記憶は出てこなくていいのに。
あの時も、ちょうどこんな夕暮れだった。一人で無茶をして、叱られて、それでも真っ直ぐに向けられたあの不器用な気遣い。

『人に頼ることは弱さではない』

そうやって、いつだって私を真っ向から引き留めてくれた。鬼狩りでもないただの私を、放り出さずにいてくれた。

『高月、ちゃんと俺の目を見ろ』

見てましたよ。
たまに恥ずかしくて逸らしちゃったり、まともに見られなかったりしたけれど、私はずっと、あなたのことだけを見ていたんです。

本当に、自分が嫌になる。頭を真っ白にしたくて誰もいないところへ足を運んだはずなのに、結局また冨岡さんのことばかりだ。
台所にいても、庭に出ても、馬鹿みたいに彼の声や手の温もりばかりがぐるぐると頭を回っている。
…分かっちゃったんだ。今まで冨岡さんと当たり前に言葉を交わしたり、屋敷に上がれたりしていたのは、たまたま運が良かったからじゃない。ただ時間が流れて、自然と距離が縮まったわけでもない。
冨岡さんが、私を受け入れてくれていたからだ。誰とも群れようとしない彼が、私の存在を拒まず、勝手に逃げようとする私をその都度引き戻してくれていた。厳しい言葉の根底にはいつだって、私を迷子にさせないための温かさがあった。

それなのに私は、勝手に怖がって、また線を引こうとしている。彼の優しさに甘えてばかりで、何一つ返せていないというのに。

『高月、泣くな』

脳内で再生された言葉。瞬間、膝の上で握り締めていた手の甲に水滴が落ちて、思わず苦笑した。

すごいです。どうして分かったんですか、冨岡さん。どうしていつも私の心を読んじゃうんですか。
私いま、自分でも気づきませんでしたよ。こんなに苦しいのも、頭が痛いのも、本当は見て見ぬふりをしなくちゃいけなかったのに。
出会った時からずっと胸の奥で燻っていた。それが何なのかは分からなくて、でも蓋を開けてはいけない気がして。
気のせい、があの桜の日に確信に変わった。絶対に開けてはいけなかった玉手箱。

最初から抗えるわけなかった。踏み込んじゃだめ、なんて。そう思った時点でもう手遅れだ。自分で暗示をかけているようなものだったんだ。
…正解だよ、尾崎さん。息をするだけで胸が痛くて、視界が滲んで、ただ名前を思い浮かべるだけで泣きそうになる。
想い続けるだけというのは、とても苦しい。いつの間にか私は、どんどん欲張りになっている。

「リサさん」

あまりにも唐突だった。俯いたまま肩を揺らした私の隣に、腰を下ろす気配がする。

「泣いてるんですか?」

覗き込まれそうになって、慌てて顔を背けた。
今の私は、人に見せられる顔をしていない。

「……どうして最近、回復訓練に顔出してくれないんですか。今日も目も合わせてくれないし」

彼は私が必要ないくらい器用で能力がある、というのがもちろん一番大きな理由だけれど、彼に言えない理由が実はある。
以前、雪くんと話してからというもの、時折彼が全く違う人物に見えてしまうのだ。
かげった表情に、低い声。そして狂気にも似た色を孕む瞳。全身ぞわりと鳥肌が立って、その度に脳内は危険信号を発する。

「ねえ、リサさん」

耳元で彼が言う。

どうして泣いてるんですか・・・・・・・・?」

背筋に悪寒が走った。
弾かれたように顔を上げた私を、雪くんは人工的な笑みをたたえて眺めている。

「綺麗ですね、リサさんの涙」

彼の手が伸びてくる。それが頬に触れる寸前で、私は反射的に身を捩った。

「雪くんどうしたの?おかしいよ。さっきから変……」
「おかしいのはリサさんですよ」

私の言葉を遮って、彼は真顔で言い放った。

「ずっと避けてるじゃないですか。僕が話しかけても生返事で、目も合わせてくれないし。何か気に障ること言いました?言ってくれないと直せないですよ」

拗ねたような、子供っぽく唇を尖らせる仕草。直前まで感じていた底知れない気味悪さが、ふっと薄れる。
思えば、彼に対して一方的に違和感を抱いて、露骨に距離を取っていたのは自分の方だ。まだ年若いのに、そんな態度を取られたら傷つくのも当然だろう。自分の勝手な勘繰りで、彼を不安にさせてしまっていたのかもしれない。
それは確かに悪かった、と胸の奥で小さな罪悪感が持ち上がったその瞬間。

「……それとも、あの柱のせいですか?」
「え?」
「昨日も行ってたんですよね。その人の屋敷に」

低い、底冷えするような声だった。
どうして知っているの?アオイさんやきよちゃんたち以外には誰にも言わずにいつも通っているのに。いつ、見ていたの。

「どうしてあんな男に近付くんです?ただ孤高を気取っているだけの人ですよ。空っぽなんです。真っ白なリサさんがそんな人と関わるなんて、言語道断ですよ」

まさか、冨岡さんのことを言っているのか彼は。
そんな非人道的な罵詈が彼の口から飛び出したことが、信じられない。

「いいですか、リサさんは優しくてそいつが心配なのかも知れませんが、あんな無愛想で周りからも浮いてるような人、本当は――」
「冨岡さんをそんなふうに言わないで……っ!」

勢い余って、私は縁側から立ち上がっていた。声を荒らげた私を、雪くんは愕然とした表情で見上げる。
喉の奥が、目頭が熱い。煮えたぎる激情が、確かに自分の中に渦巻いている。

「どうしてそんなこと言うの……酷いよ。雪くん、何にも分かってない!」

知らないでしょう。
冨岡さんがどんなに優しくしてくれたのか。どれほど私にずっと向き合ってくれていたのか。
冨岡さんの優しさがみんなに伝わればいいのにって、前はそう思っていた。今だってそう願っているはずなのに。
それなのに、私はいつからこんなに欲深くなったんだろう。
冨岡さんが優しいのは私だけの秘密にしたい、なんて。誰にも教えたくないなんて、考えるようになってしまった。

この関係を壊したくないのに、特別になりたくて。
心臓が痛いくらい跳ねてもたないから触れないで欲しいのに、距離を置かれると考えるとどうしようもなく辛い。
好きになっちゃだめだったのに、好きだ。

「次、冨岡さんのこと悪く言ったらもう口利かないからっ!!」
「リサさん!!」

叫んでから駆け出す。
背後から追い縋るような声が聞こえたけれど、振り返らなかった。




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