59
抜けるような青空から、容赦のない日差しが降り注いでいる。蝶屋敷の庭に響き渡る蝉の声は、耳の奥に張り付くように激しく、肌をなでる風も湿り気を帯びて重い。
そんな夏の盛りに、私たちは裏庭の井戸端にしゃがみ込んでいた。
「なほちゃん、こっちの節も綺麗になったよ」
「ありがとうございます!次はこっちをお願いします!」
今はすみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人と一緒に大きな竹の筒を囲んでいる。
事の始まりは数日前、あまりの暑さに食欲を落としていた隊士たちの様子を見て、アオイさんが「それなら、目にも涼しいものを」と流しそうめん大会を提案してくれてのことだった。厳しい修練に励む彼らへの労いと、屋敷のみんなで束の間の夏を楽しもうという、彼女らしい細やかな気遣いから生まれた計画だ。
「これ、本当に立派な竹だよね」
私が感心して竹の表面を撫でると、きよちゃんが誇らしげに目を輝かせた。
「そうなんです!去年の夏に、冨岡さんのお屋敷の近くからいただいたものなんですよ」
「一年間、風通しのいい場所でじっくり乾燥させておいたんです。だから、とっても丈夫なんです」
すみちゃんが付け加える。
なるほど。冨岡さんのお屋敷の近くには、立派な竹がたくさん生えているから…。
手元にあるのは大人が両手で抱えるほどに太く、真っ直ぐな竹。去年のうちに枝を払い、半分に割って節を抜くという、気の遠くなるような下準備が既に済まされている。
本当の竹を使って流しそうめんをするなんて、すごく本格的だ。
「これに冷たいお水が流れるのを想像するだけで、お腹が空いてきちゃうね」
私が笑いかけると、三人娘も「わかります!」と声を揃えて笑った。
その屈託のない笑顔に癒やされながら、私はふと、この準備の先に待っている賑やかな光景を思い描く。育ち盛りの隊士たちのことだ。きっとそうめんだけじゃ足りないだろうから、天ぷらやちょっとした副菜も用意した方が喜ばれるに違いない。
その時、敷地の奥の方から、ふらふらとおぼつかない足取りで近づいてくる人影があった。土埃にまみれた、見覚えのある黄色い羽織――善逸くんだ。
「あ、善逸さんだ。おかえりなさい!」
なほちゃんが気づいて声をかけたが、善逸くんからの返事はない。うつむき加減で、まるで魂が抜けたかのように一歩、また一歩と井戸の方へ這うように進んでくる。どうやら連日の猛暑と任務の疲れで、限界に近いようだ。
「あ、善逸くんおかえり。今、冷たい飲み物持ってきてあげるね。少し待っ……」
そこまで私も言って口をつぐむ。
井戸のすぐそばまでたどり着くと、善逸くんは何かを決意したかのように目を見開いた。そして、黄色い羽織を乱暴に肩からずり落とし、そのまま地面へ脱ぎ捨てると井戸の縁へ身を乗り出す。
「…え、善逸さん?」
すみちゃんが驚きの声を上げる間もなく、彼は井戸の縁に置かれていた木の手桶を掴み取った。そのまま冷たい水を並々と汲み上げ、ザブンと迷うことなく頭からふっかける。
バシャアァッ!と冷たい水が勢いよく弾け、彼の金髪を濡らし、隊服の襟元から背中へと伝わっていった。
「わあっ!」
「善逸さん!何してるんですかあ!」
「隊服がびしょびしょです!風邪をひきますよ!」
その豪快すぎる光景を目の当たりにした三人は、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
一方、髪から滴る水も気にせず、ようやく人心地ついたような恍惚とした表情を浮かべて善逸くんは天を仰いだ。
「はぁぁ、生き返ったぁ……」
滴る水が、夏の熱を孕んだ地面に落ちては黒い斑点を作っていく。善逸くんは犬のように頭を振り、四方に水飛沫を飛ばした。
「あっ、みんなごめん!でもさ、この隊服がもう、笑っちゃうくらい暑すぎなんだよ。これもう少しどうにかならないのかなぁ。涼しく改良するとか、風通しを良くするとかさ」
濡れて束になった金髪をかき上げながら、善逸くんは恨めしそうに自分の袖を引っ張った。
彼の言う通りだ。見ているだけでも、この日差しの下で詰襟の長袖、そして長ズボンというのは過酷という他ない。それに、隊服の黒い生地は容赦なく日光を吸い込んでいるはずだ。
私が内心で同情していると、竹を拭いていた手を止めたきよちゃんが口を開いた。
「仕方ありません!その生地は特殊な繊維でできているんですから」
「命を守るためなのは分かってるけどさぁ……。でも今の俺、鬼に喰われる前に暑さで溶けて死んじゃいそうだよぉ……」
「すぐに死ぬなんて言わないでください!」
「あ、はい、すみません」
確か、この隊服は特殊で、下級の鬼の爪や牙なら通さないほどの強度があり、火にも強いとアオイさんから聞いたことがある。安全性を最優先に考えれば、肌の露出を抑え、頑丈な作りになるのは仕方のないことなのだろう。
「でも、任務、任務、任務でさぁ、もう参っちゃうよ。俺だってたまには夏らしいことがしたいんだ。女の子と手を繋いで歩いたりとか、浴衣着たりとか……。花火だって見に行きたいよぉ」
善逸くんは力なく縁側まで歩いていくと、濡れた隊服の重みに耐えかねるように、どさりと腰を下ろした。
深く吐き出された溜息には、連日の過酷な戦いと移動で削られた疲労が色濃く滲んでいる。彼がこうして弱音を吐くのはいつものことだけれど、今日ばかりはその背中がどこか痛々しく見えた。
「花火?」
気になって竹を拭く手を止めて聞き返すと、善逸くんは恨めしそうに空を仰いだまま「そうだよ、花火だよ」と力なく繰り返した。
「リサさん、明日近くの町でお祭りと大きな花火が上がるんですよ」
横からすみちゃんが、ぱっと顔を輝かせて教えてくれる。きよちゃんとなほちゃんも、思い出したように「そうですそうです!」と元気よく頷く。
「町の広報の方が、この前薬を取りに来た時に言っていました。去年よりもたくさん上がるみたいですよ」
「えっ、本当?ここからでも見えるかな」
私が聞き返すと、三人娘は少し残念そうに顔を見合わせた。
「山を一つ越えたところですから、ここからだと音だけかも……」
「そっか……」
この時代の花火、少し気になったんだけどな。一つ一つが職人さんの手作りで、未来よりずっと情緒的な光景がそこにはあるような気がしたけど、夜に出歩くことはできないし。また、しのぶさんを心配させることになってしまうだろう。
ふと隣を見ると、善逸くんがまだ肩を落として項垂れている。せっかく任務から無事に帰ってきたのだから、少しでも彼に元気を出してほしかった。
「ねえ、善逸くん。今日はこれからここで流しそうめんをするんだよ。だから、まずはそれをみんなで一緒に楽しまない?」
私が努めて明るい声で提案すると、それまで死に体だった善逸くんの耳がピクリと跳ねた。
「えっ、流しそうめん!?今、流しそうめんって言った!?」
勢いよく顔を上げた善逸くんの瞳に、みるみるうちに輝きが戻っていく。彼は縁側から身を乗り出すようにして、私たちが囲んでいた大きな竹をまじまじと見つめた。
「何やってるんだろうって思ってたけど、これ、そのための竹だったの!?ただの巨大な棒を洗って遊んでるわけじゃなかったんだね!?」
「失礼なこと言わないでください、善逸さん!一生懸命準備してるんですから」
きよちゃんが頬を膨らませて抗議すると、善逸くんは「ごめんごめん!」と手を合わせながらも、その口角は隠しきれずに上がっている。
よかった。やっぱり善逸くんは、美味しいものの話になると現金だな。少しだけ安心した気持ちで、私は再び竹の節に指を這わせる。
一年間乾燥させた竹は驚くほど滑らかで、その頑丈な手触りには、去年の夏にこれを切り出した人の手の温もりが宿っているような気がした。
「そうだよ、伊之助くんたちももうすぐ帰って来るだろうし、早く着替えておいで?」
「うん!ありがとうみんな……!俺生きててよかったあ!」
「極端ですよ、善逸さん……」
なほちゃんが呆れたように笑い、五人の間にようやく穏やかな笑い声が満ちていく。私は少しだけ軽くなった心で、冷たい水に浸した布を力強く動かした。
*
賑やかだった流しそうめん大会は、嵐のような喧騒を残して幕を閉じた。
山のように茹で上げられたそうめんは、炭治郎くんや善逸くん、それに猪突猛進に食らいつく伊之助くんたちの胃袋へと消え去り、あんなに頑張って準備した竹の筒も、今は役目を終えてひっそりと水を滴らせている。
腹を空かせた隊士たちが満足げに去っていったあとの裏庭には、祭りの後のような少し切ない静寂が漂っていた。
「あ、リサさん。久しぶりにおつかいを頼まれてくれますか」
しのぶさんにそう声をかけられたのは、午後の日差しが心持ち傾き始めた頃のことだった。
私の隣には、大きなたらいを抱えたアオイさんもいる。いつも通り昼餉の片付けに向かおうとしたところで、しのぶさんの柔らかな響きを含んだ声に私たちは足を止めた。
「はい、しのぶさん。どちらまででしょうか」
「麓の町にある薬屋まで、このお薬を届けていただきたいのです。急ぎではありませんが、明日のお祭りで人出が多くなる前に届けておきたくて」
しのぶさんが差し出したのは、丁寧に風呂敷で包まれた小さな木箱だった。
麓の町。そこはさっき善逸くんが「花火が見たい」と零していた、あのお祭りが開かれる場所だ。
「わかりました。すぐに行ってきますね」
「すみません、お願いしますね。……アオイには、また別件で頼みたいことがあるのですが」
「はい。もちろんです」
しのぶさんはいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、ひらりと蝶のように身を翻して奥へと消えていった。
「ごめんね、リサさん。おつかい一人で行ってもらってもいいですか?」
「もちろんです。アオイさんもお片付け大変そうですけどお願いします」
私はアオイさんに小さく手を振り、蝶屋敷を後にした。
坂道を下り辿り着いた麓の町は、明日の祭りを控えてどこか浮き足立った空気に包まれていた。
軒先には色とりどりの提灯が下げられ、どうやら町の人たちも明日のお祭りを心待ちにしているようだ。
「ありがとうございました」
無事に薬屋へ届け物を済ませ、私は軽く息を吐いた。
今回の届け先は、以前から何度もお世話になっている、町外れにある薬屋の
「しのぶさんからの預かり物だね、確かに。わざわざ悪いねぇ、こんな坂道を」
藤堂さんはいつものように眼鏡を指で押し上げながら、温和な微笑みで迎えてくれた。
アオイさんと一緒に、しのぶさんの指示で薬草の補填に来るたびに、藤堂さんはこうして親身に声をかけてくれる。時には「これは喉にいいから」と新しい煎じ薬のサンプルを持たせてくれることもあり、彼は蝶屋敷の日常を支えてくれる大切な理解者の一人だった。
「いえ、今日は流しそうめん大会の片付けもありましたから、外の空気を吸えてちょうど良かったです」
「ははは、相変わらず賑やかそうで何よりだ。明日の祭りはもっと騒がしくなるからね、気をつけて帰りなさい」
「はい。藤堂さんも、お祭りの準備頑張ってくださいね!」
藤堂さんに見送られ、私は小さく会釈をして店を出た。
せっかくだから少しだけ町を見て回ろうかな。立ち並ぶ出店の準備を眺めながら歩いていると、色々な品目が目に入る。
イカ焼き、りんご飴、かき氷、焼き鳥。その中でも、往来の脇に立てられた古い木造の掲示板が目に留まった。
その張り紙には、力強い筆致で「明日、黄昏時より、川辺にて大花火打上」と記されている。
明日の晩……。川の近くで上がるんだ。しばらくの間、私はその張り紙をじっと見つめていた。
善逸くんが言っていた通りだ。澄んだこの時代の夜に上がる花火は、一体どれほど美しいのだろうか。
「……お前は、花火が見たいのか」
まさか声をかけられるとは思わず、え、と小さく呟きながら振り返る。半々の羽織。それはよく見慣れたもので、それを纏った人物もまたよく見慣れた人だった。
「…っと、冨岡さん。どうしてここに」
その表情からは感情を読み取ることは難しい。けれど、木漏れ日を受けた蒼い瞳がまっすぐに私を射抜いていた。
帳簿のお手伝い以外で、こうして外でばったり顔を合わせるのは珍しい気がする。
「どうしてここに、はこちらの台詞だ。お前こそ何をしてる」
「私はしのぶさんのおつかいに……」
そう答えていると、冨岡さんが私の横に並ぶように立った。
「また一人で町まで降りてきたのか」
「ごめんなさい。でも、明るいうちなら大丈夫ですよ」
彼の方を向いて、へらりと力を抜いた笑みを返してみる。すると、冨岡さんは深く眉間に皺を寄せた。あ、怒らせちゃったかな。
「あ、ええと……冨岡さんは任務帰りですか?」
「いや、昼餉を摂りに来た帰りだ」
話を逸らすように問いかけると、冨岡さんは淡々と答えてくれた。
そういえば、ここから少し歩いたところに彼が好むと噂の、美味しい鮭大根を出す店があったはずだ。彼が鮭大根を好きだと知ってからリサーチしたから分かる。そこに行ってきたのかもしれない。
「……それで、花火か」
冨岡さんは視線を私から掲示板の張り紙へと移した。横顔に落ちるまつ毛の影が長く、綺麗だなあなんてそんな場違いなことを思う。
「あ、はい。明日花火が上がるみたいです。いいですね、夏って感じがして」
私も視線を冨岡さんから掲示板へと戻す。
最近は彼の屋敷で、帳簿の手伝いをしながら過ごす時間ばかりだった。だからだろうか。偶然とは言えど開けた場所でばったりと会うのは、どこか新鮮で嬉しい。何より、ここにはミヨコさんの視線もない。
打ち水が乾き始めた石畳からは、むっとした土の匂いと熱気が立ち昇っている。けれど、すぐ隣に立つ冨岡さんからはほんのりと甘いお出汁の香りが漂っていた。
本当に、鮭大根を食べてきたんだ…。リサーチ通りだったことが少しだけ可笑しくて、頬が緩みそうになるのを堪える。
「お前は見たいのか。花火が」
「あ、いえ。その……少し気になっただけです。明日はお祭りなんだな、って。おつかいのついでに立ち止まっただけで……」
慌てて手を振って否定する。
本当は善逸くんに聞いた時から少し気になってはいた。この時代の花火が、この澄んだ夜空にどんな大輪を咲かせるのか、この目で確かめてみたい。
でも夜の外出は危険だし、ましてやしのぶさんが許してくれるとは思えなかった。以前も心配をかけたばかりだ。私の身を案じてくれる彼女を、これ以上困らせるわけにはいかない。
それに、鬼殺隊の皆は夜に命を懸けて任務に当たっているのに、そんな中で私だけが浮かれてお祭りに行くなんて。
冨岡さんは何も言わず、ただじっとそんな私の横顔を見つめていた。
「高月」
静かな問いかけに、私は瞬きを繰り返す。
「はい、何でしょう」
「それがお前の本心か」
「……本心?」
本心か、と言われれば違う。でも、これと言ったことは浮かばない。それを言葉にしていいものか測りかねて口を噤む。
「思ったことははっきり言え、と言った」
「あ……」
その言葉が引き金となり、以前、彼の屋敷で交わしたやり取りが鮮明によみがえる。確かに、そんなことを言われた。
"寸前で飲み込んで逃げるのではなく、お前が何を考えているのか、俺に教えろ"
真っ直ぐな瞳に射抜かれて、心臓が跳ね上がるようなその時の衝撃を思い出す。
「前に約束しただろう。今、本当は何を考えている」
約束。あれは約束だったのだろうか。言葉少なな彼に押し切られるようにして、確かに返事をしてしまったような気がする。
そうか、冨岡さんにとってあれは破ってはならない約束だったのか。
「……本当は」
自分の指先を強く握りしめた。じわりと手のひらに滲む汗。
本当は……本当は、花火に行ってみたい。本当は、誰かと一緒に、あの火の花が咲くところを見てみたい。でも、言ったところで叶わないのだ。こんな自分勝手な子供じみた憧れは。
けれど、まっすぐに私を見据える蒼い瞳は、一分の隙も誤魔化しを許すような甘さも持ち合わせてはいなかった。
「…本当は、少し、少しだけ…その花火を見てみたいと、思いました…」
思い切って白状すると、冨岡さんが軽く鼻で笑った気がした。やっぱり子供みたいって思ったかな。
でも、この世に鬼がいる限りはそんなこと不可能なのでしょう。だから、ただ一瞬だけ。それをこの人が「教えろ」と言ってくれたから、その真っ直ぐな誠実さに嘘を吐きたくなかった。そう自分に言い聞かせてみる。
「ならば明日、屋敷へ来い」
「…………え?屋敷?」
思わず抜けたような声が漏れる。
明日、お屋敷に?どうして。帳簿の手伝いなら、まだ数日は先のはずだ。
掲示板を見つめる彼の横顔を、私は呆然と見つめる。
「胡蝶には俺から伝えておく」
しのぶさんに伝えておくって、なぜ。いつもなら、鎹鴉を通して直接私とお手伝いの日程を決めるのに。
「お前を連れて行く」
「え?」
私は思考が完全に停止して、ただ瞬きを繰り返した。
え、どういうことだろう。明日、冨岡さんのお屋敷に行けば、私をどこかに連れ出してくれる、と…?
一瞬、あり得ない想像が浮かんで咄嗟に打ち消した。まさか、彼がそんなことを言うなんて信じられなくて、心臓がバクバクと音を立て出す。
「え、あ、あの、もしかして……花火、一緒に行ってくださるんですか?」
「……そうだ」
「え、」
まさかそんなはずはないと確認で言ったつもりが、そのまさかだった。
どうして?突然、目の前が真っ白になって、体がふわふわと浮き上がるような錯覚に陥る。
聞き間違いじゃない。夢でもない。だって、冨岡さんは今、確かに「そうだ」って。
「え?ほ、本気ですか?で、でも、冨岡さん、夜は任務があるんじゃ……」
「明日は非番だ」
「で、でも、冨岡さんいつも夜は見回りされてますよね!それに、人混みは嫌いなんじゃ……」
「確かに騒がしい場所は好まないが、お前が見たいと言うなら俺も見てみたいと思った。……来るか?」
再び重なった視線。
…そんなことが、あって良いのだろうか。そんな夢みたいなこと。こんなにすぐに叶うなんて。
私は溢れそうになる想いを堪えるように、何度も何度も大きく頷く。
「い、行きます…!行きたいです…っ!!」
「ならば、決まりだな」
いいのかな。本当に、いいのかな。過酷なこの時代に、自分だけがこんな幸福を享受してしまっても。
でも、嬉しい。とっても。泣いちゃいそうなくらいに。あまりに突然降り注いだ幸福の重みに、私はただ立ち尽くすことしかできない。
掲示板の「花火」の文字が、突然輝いて見え始める。
「みっ、見られると思ってなかったので!あのっ!とっても!嬉しいです…!冨岡さん、ありがとうございます……っ!」
必死に喜びを伝える私を、冨岡さんはどこか可笑しそうに見つめていた。切れ長な目尻がふっと緩み、大きな右手を上げて私の頭をゆっくりと撫でてくれる。
「明日、日が沈み切る前に屋敷へ来い」
「は、はい……っ!!」
優しい声に目を細める。
冨岡さんと、二人きりで、花火。考えただけでまた顔が熱くなる。明日になれば、しのぶさんもきっと驚くだろう。あの三人娘だって、目を丸くするに違いない。
けれど、そんなことさえ今はどうでもよく思えるほど、温かな期待で満たされていた。
「待っている」
冨岡さんはそれだけ言い残すと、手を離し、翻った羽織の裾を躍らせて歩き出した。
私は、彼の手が触れていた場所をそっと自分の手で押さえながら、その言葉を反芻する。
「っ、……大変だ」
我に返り、弾かれたように走り出した。西日に照らされた石畳を強く蹴り、立ち並ぶ屋台の準備を横目に、一目散に蝶屋敷への道を駆け上がる。
アオイさんに相談しなくては。しのぶさんには何て説明しよう。浴衣は、髪型は、それから……。
背後で鳴り響く蝉の声さえも、今は私を急き立てる応援歌のように聞こえていた。
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