60


「あ、アオイさん!助けてください……!」

バタン!と、私は台所の扉を蹴り飛ばさんばかりの勢いで開け放った。立ち込める出汁の柔らかな香りと、トントントンと刻まれていた規則正しい包丁の音が一瞬で止まる。

「……え、リサさん。そんなに息を切らして一体どうしたんですか」

アオイさんは驚いたように目を丸くし、濡れた手を手拭いで拭きながらこちらに歩み寄ってきた。
驚かせてしまった申し訳なさはある。けれど、今はそれどころではない。私は膝に手をつき、乱れた呼吸を整えようと必死に言葉を絞り出した。

「と、冨岡さんが……その、冨岡さんが……!花火……っ!」

一気にまくしたてるように、さっきの出来事を話す。しかし、最初は「何か事件か」とでも言うように険しく寄っていたアオイさんの眉根は、言葉が進むにつれて緩やかに解けていった。そして、鋭い視線は次第に穏やかな光を湛え、どこか拍子抜けしたような、得も言われぬ表情がその瞳に宿る。
彼女は私の話を聞き終えると、一度深く溜息をついた。

「……なんだ、そんなことですか」
「えっ?」

あまりに落ち着いたアオイさんの反応に、今度は私の方が呆然としてしまう。
これはそんなこと、なのだろうか。私一人だけがテンパリすぎてるのだろうか。
彼女は呆れたようなどこか温かい眼差しを向けて、台所の隅にある椅子を指差す。

「とりあえず、座って落ち着いてください。お水を持ってきますから」
「え、あ、ありがとうございます…」

言われた通りに腰掛け、差し出された冷たい水をごくごくと飲み干すと、喉の奥の熱が少しだけ鎮まった。けれど、頭の中のパニックは一向に収まりそうにない。
だって、冨岡さん自ら私を花火に誘ってくれたのだ。いつも彼から何かをしてもらう時、それは大体お手伝いや任務などの延長線としてのことが多かった。けれど、今回は違う。今になって、ようやくその実感が追いついてきている。

「ど、どうしましょう。これって……その、世間で言うところの『逢瀬』というものに入りますか?冨岡さん、しのぶさんにも話を通してくれるっておっしゃってましたけど、でも二人きりで花火なんて……!それに私、浴衣も何も持っていませんし、こんな普段着で冨岡さんの隣を歩いてもいいんでしょうか……!」

混乱のままに訴える私を、アオイさんは腰に手を当ててじっと見つめていた。
けれど、心配にもなるだろう。分かってほしい。突然のことで、自分ではどうして良いのかまるで手に追えないのだ。

「冨岡さんがわざわざしのぶ様に話を通すなんて、よほどのことですよ。それを『違うかもしれない』なんて済ませるつもりなのは、この世界でリサさんくらいですね」

アオイさんはそう言って、私の肩をポンと叩いた。なぜか、びくりと肩を跳ねさせてしまう。

「そういうことでしたら、私に任せてください」







少し苦しいくらいに帯が絞められたかと思えば、指一本分の遊びを作るように、すっと空気を通す隙間を作られて。
ピシッ、シュッ、パシッ。迷いのない手つきで布が整えられ、余った生地が折り込まれていく。普段、台所でテキパキと立ち働く姿とはまた違う、職人のようなアオイさんの手際に私はただ圧倒されるばかりだった。

「よしっ、完成!」
「……わあ!リサさん、とっても綺麗です!」
「よく似合ってます!お姫様みたい!」

アオイさんの力強い声に重なるように、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人が、飛び跳ねるようにして手を叩いてくれた。

「最初は苦しいかもしれませんが、歩けば自然と体に慣れてくるはずですよ」
「あ、ありがとうございます……」

照れくささに頬を赤らめながら、私はおそるおそる、部屋の隅にある大きな姿見の前に立った。鏡の中に映っていたのは、見慣れた着物姿の私ではない。
水色地に、大輪の白い百合の花が咲き誇る模様。帯も淡い白色で、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出している。サイズも驚くほどぴったりで、まるでこの日のためにあつらえたかのようだ。

「こんな素敵な浴衣、どこにしまってあったんですか……?」

私が感嘆の声を漏らすと、アオイさんは少しだけ誇らしげにどこか懐かしむような目を向けた。

「これは私が昔、着ていたものなんです」

そうだったんだ。青色がよく似合うアオイさんに、さぞかし似合っていたことだろう。そんな大切な思い出の詰まったものを借りていいのかと不安が過ったけれど、彼女は私の心配を察したように、にこりと微笑んでくれた。

「もう袖を通すこともないでしょうから、ただ持っているだけじゃ箪笥の肥やしになるだけですし」
「……大切に着ますね、ありがとうございます。アオイさん」

改めて鏡に映る自分を見つめ、私はアオイさんに向けて微笑んだ。
昨日、あんなに息を切らして台所に飛び込み、アオイさんを驚かせてしまった時のことを思い出す。あの時は、本当に頭の中が真っ白で、どうしていいか分からなかったのだけれど。

『任せてください』

そう言って、アオイさんは箪笥の奥からこの大切な浴衣を引っ張り出してきてくれた。
さらにその話を聞きつけた、すみちゃん、きよちゃん、なほちゃんの三人も「私たちが可愛くします!」と大張り切りで手伝ってくれることになったのだ。
未来にいた頃の私なら、もう少し要領よく振る舞えたのかもしれない。けれど、この世界に来て、冨岡さんという不器用で真っ直ぐな人に触れてから、私はいつの間にか自分の本当の気持ちを隠すのが下手になってしまった。
アオイさんやみんなが、こんなに一生懸命になってくれるなんて…。自分一人では、きっと怖気付いて逃げ出していたかもしれない。

「……よし。これで、準備は万端ですね」

アオイさんは私の肩にそっと手を置き、鏡越しに力強く頷いてくれた。

「はい。本当に、ありがとうございます。みんなのおかげで、少しだけ勇気が出ました」
「ふふ、はい。……でもまだ行かせませんよ」

お礼を言って立ち去ろうとした私の肩を、アオイさんがくい、と押した。そのまま流れるような動作で鏡台の前の椅子に座らされる。そこには、漆塗りの小箱に収められた数々の化粧道具が並んでいた。

「えっ、お化粧ですか?私、そこまでは……」
「何を言ってるんですか。悪いですけど、浴衣を借したからには今日は私の好きにさせてもらいますからね」

アオイさんの有無を言わせぬ口調に、私は口を噤むしかなかった。正直に言えば、ここまで手をかけてもらうと、何だかとっても張り切っている人みたいで気恥ずかしい。…いや、実際、心の中ではこの上なく張り切っているのだけれど。
未来にいた頃は、当たり前のように毎日化粧をし鏡に向かっていた。けれど、この世界に来てからはそんな余裕も習慣もすっかり消え失せてしまっていた。
しのぶさんはいつも、優雅な化粧を施しているけれど、この時代の化粧品はどれも高価そうで、使い方もわからず、自分から手を出そうとは到底思えなかったのだ。

「すごい……」

アオイさんの手慣れた手つきに、思わず声が弾む。

「しのぶ様に教えていただいたんです」

アオイさんはそう言いながら、柔らかな筆でお白粉を乗せ、指先で頬紅を私の顔に薄く塗りぼかしていく。
肌に触れる指先はひんやりとしていて、けれど不思議と温かい。時折、ふわりとおしろいの甘い花の香りが鼻先をかすめて、胸がくすぐったくなる。
鏡の中でいつもより少しだけ、潤んだように見える唇。いつもより少しだけ、凛として見える目元。
…冨岡さんは、私がこんなに背伸びをして、一生懸命おめかしをしたことに気づいてくれるだろうか。なんとなく、彼はいつもと変わらぬ調子で「行くぞ」とだけ告げる気がした。
期待と、それ以上に大きな不安が胸の中で複雑に混ざり合い、浴衣の袖を握る指先にじわりと熱がこもる。

「さて、仕上げですよ」

アオイさんはそう言って、化粧筆を置くと今度は櫛を手に取った。私の背後に回り、手際よく髪を梳き始める。髪が一本、また一本とまとめ上げられていくにつれ、露出した首筋にこれまで感じたことのない気恥ずかしさが込み上げてきた。自分では見えない場所だからこそ、余計に不安になる。

「最後に、これを」

アオイさんが取り出したのは、白い百合の花をかたどった簪。浴衣の柄とお揃いのそれも、アオイさんが大切にしていたものなのだろう。彼女は私の髪の結び目に、その簪をそっと挿し込んでくれる。

「はい、できました。……リサさん本当に素敵ですよ」
「うんうん!いつもの薄紅色も似合ってましたけど、リサさんはお肌が白いからこの百合の白もすごくよく似合います!」
「あ、ありがとう……」

アオイさんと三人娘の満足げな声に、私は鏡の中の自分ともう一度視線を合わせた。
そこには、これからの逢瀬を待ち侘びて落ち着かない心を隠しきれない、一人の恋する女の子が立っていた。





***





皆の温かな視線に見送られ蝶屋敷を出発し、冨岡さんのお屋敷に向けて山道を歩いていると、あたりは少しずつ薄暗くなってきた。高く伸びた竹林の中に入ると、木漏れ日は遮られ、視界はさらに暗さを増す。
カラン、コロン。慣れない下駄の音が、今の私にはうるさいくらいに響く。
…どうしよう。心臓が、破けちゃいそうだ。そわそわと落ち着かず、何度も立ち止まって深呼吸を繰り返してしまう。
今日は帳簿じゃない。花火、なんだよね。二人きりで。
視線の先には、高く伸びた千年竹林。いよいよ到着してしまった。どうしよう、なんて声をかけたらいいんだろう。いや、そもそもこの格好を見て、冨岡さんは何も思わないだろう。そんなに緊張することはないんじゃないか。
落ち着け、私。いつも通りに、深呼吸。
……よし。

一歩、また一歩。門が近づくにつれて、期待と緊張の混ざった重苦しい高揚感がせり上がってくる。冨岡さんはもう、待ってくれているだろうか。
カラン、という音を立てて角を曲がれば、もうそこは彼の領域だ。

「………あ」

しかし、門まであと数十メートルというところで、そこに佇む見知った背中を見かけ、私は咄嗟に足に急ブレーキをかけた。
下駄が砂利を噛んで、鈍い音を立てる。一瞬前までの甘い緊張感は、氷水を浴びせられたように一瞬で散っていった。

「……あれ、は……」

視界の端に飛び込んできたのは、夕闇の中でも鮮やかに浮かび上がる、情熱的な赤。

「ミヨコさん……」

今日も来ていたのか。彼の非番の、しかもこんな夕暮れ時に。
以前見かけた凛とした袴姿とは違う。彼女もまた、この夏の夜に合わせて赤い花の浴衣を身に纏っていた。そして、その小さな手には丁寧に風呂敷に包まれた小包が、大切そうに握られている。
どうしよう。進むべきか、戻るべきか。でも、今彼女の元に割って入る勇気なんて、私にはこれっぽっちもない。
ミヨコさんは懐から小さな手鏡を取り出すと、慣れた手つきで前髪の乱れを整え、紅を差したばかりのような唇を少しだけ噛んだ。さらに帯の結び目が緩んでいないか何度も確認し、ふぅと長い息を吐き出す。
まさか、彼女も冨岡さんを花火に――。

「へえ、綺麗な人……。あの人誰?」
「え、わぁああっ!!!」
「なに!?わぁあっ!!!」

突然すぐ耳元で声がして、心臓が跳ね上がるどころか口から飛び出すかと思った。悲鳴に近い声を上げた私に驚いて、その人も情けない声を上げてのけぞる。
しまっ…!聞かれたかもしれない…! 咄嗟の判断だった。私は反射的にその人の腕を掴むと、力任せに近くの塀の影へと引きずり込んだ。
息を殺し、心臓を抑えつけながらそっと塀の端から門の方を伺う。強い夕日に照らされた一本道。そこには、相変わらずの佇まいで門の前に立つミヨコさんの背中。こちらを振り返る様子はない。幸運なことに、蝉の鳴き声が私の失態をかき消してくれたようだった。

「……ぜ、善逸くん。こんなところでどうしたの。急に話しかけられたから寿命が縮まるかと思ったよ」

胸を撫で下ろし、消え入りそうな小声で問い詰める。善逸くんもまた涙目で自分の胸をさすりながら声を潜めた。

「ご、ごめん……!そんなに驚かせるとは思わなかったから……!俺も実は、任務が想像より早く終わって花火を見に行けることになったんだよ…!それで浮かれて向かってたら、ちょうど目の前にリサちゃんが見えたからさ……」

なるほど、彼もまた夏の夜の賑わいに誘われた一人だったらしい。けれど、だからと言ってこの状況で声をかけられるのは心臓に悪い。まるでお化けにでも遭遇したかのように肩を震わせていると、善逸くんも私と同じように塀の陰からこっそりと門の方を覗き込んだ。

「ねえ、何で隠れるの?リサちゃん、水柱と花火に行くんでしょ?」
「い、いや咄嗟に………って何で知ってるのかなあ」
「きよちゃんから聞いたんだよ」
「……なるほど」

善逸くんの純粋な問いに、私は思わず言葉を濁した。「ミヨコさんと鉢合わせたくないから」なんて、今の自分にはあまりに情けなくて口にできない。ただ、固唾を飲んで彼女の動向を見守る。
ミヨコさんは意を決したように、冨岡さんのお屋敷の門をしっかりと叩いた。あたりはしばらく静まり返る。やがて、重厚な音を立ててゆっくりと門が開いた。
現れたのは、もちろん冨岡さんだ。いつも通りの無表情で門の前に立つ彼女を静かに見下ろしている。

「もしかして、あの人が噂の水柱……?」
「うん。冨岡さんだよ」
「げ……なんだよ。ただの美丈夫じゃん」

善逸くんがなぜか怒りながら舌打ちをしているけれど、それに応える余裕はなかった。
冨岡さんの澄んだ視線に、ミヨコさんは一瞬たじろいだように見えた。けれどすぐに顔を上げ、必死に何かを語りかけ始める。
距離があるせいで言葉までは聞こえない。冨岡さんは微動だにせず彼女の言葉を聞いていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
けれどミヨコさんは諦めなかった。何度も、何度も食い下がるように声をかける。それでも冨岡さんは、もう話は終わったと言わんばかりに、屋敷の中へ戻ろうと背を向けかけた。
その瞬間、ミヨコさんが焦ったように彼を引き止め、手に持っていた小包を両手で差し出す。

「あ、なんか渡した」

善逸くんが隣で短く呟く。私はごくり、と唾を飲み込んだ。
夕日に照らされた風呂敷の包み。その丁寧な結び目を見れば、それがどれほど大切に準備された贈り物であるかは容易に想像がついた。
顔を真っ赤に染め上げ、必死に言葉を紡ぎながらそれを差し出すミヨコさんの姿。それは、誰の目から見ても「恋をする女の子」そのもので。…私は素直に、とても可愛らしいと思った。
中身は何だろう。どれほど悩み、期待し、不安になりながら選んだのだろう。その高揚感を知っているからこそ、見ていて胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。
冨岡さんはしばらくの間、差し出された小包を黙って見つめていた。
私の指先が、浴衣の袖を強く握りしめる。冨岡さんは受け取るのか、それとも断るのか。心臓がまるで自分のことのように激しく脈打つ。その時――。

「あ……」

冨岡さんはどこか困ったように肩の力を抜いたあと、その手で彼女の差し出した小包を静かに受け取ったのだ。
ミヨコさんの顔に、パァと花が咲いたような嬉しそうな笑顔が浮かぶ。冨岡さんの表情は相変わらず崩れなかったけれど、受け取った小包を持った手を静かに下ろしたその姿は、彼女の想いを拒絶しなかったという明確な事実としてそこに在った。
夕日に照らされた二人。竹林の青を背景にしたその光景は、誰の目から見ても微笑ましく。そして。
――お似合いだ。単純に、そう思ってしまった。

「チッ、顔が良いとさぞおモテになるんでしょうね。羨ましい限りですよ。チッ、なんだよあの余裕……」

隣で善逸くんがなぜか怒っているけれど、私は何も言い返せなかった。
どこかで、冨岡さんは受け取らないと思っていたのだ。人との境界線を厳格に引く人だから、きっと贈り物も受け取らないだろうと、勝手に都合よく信じていた。

「あんな可愛い子から贈り物されても、うんともすんともなしですか」

けれど、目の前の現実は冨岡さんという人の優しさを残酷なまでに突きつけていて。私だけが特別だったわけじゃない。彼はこうして向けられた想いを、無下にはできない人なのだ。
ミヨコさんは何度も何度も深々と頭を下げると、まるで羽根が生えたような弾む足取りで、こちらとは逆の方向へ去っていった。

「……リサちゃん?」

横からのぞき込んでくる善逸くんの気配を感じるけれど、応える言葉が見つからない。さっきまであんなに浮かれていた自分が急に、たまらなく情けなくなってくる。
ミヨコさんのあの赤い浴衣は、彼女の情熱そのもののように鮮やかだった。冨岡さんは彼女の贈り物を受け取った。彼女のひたむきな想いを、拒まずにその手に収めた。
それは、私たちが築いてきた「帳簿の手伝い」という事務的な関係や、「安眠のお供に」という体裁のいい贈り物の口実とは、決定的に何かが違って――

「ねえ、リサちゃん。あのさ」

その時、善逸くんの言葉に肩がびくりと震える。声のトーンが変わった。いつものおちゃらけた感じはない。

「…聞こえてるよ。リサちゃんの音。そんなに自分をいじめないでよ」

自分をいじめないで。
そうだ、炭治郎くんと似たようにこの人は「音」で人の感情を読み取ってしまうんだった。私の胸の中で渦巻く、このみじめで臆病な音を。
善逸くんは少し照れくさそうに頭を掻きながら、けれど真っ直ぐに私を見つめる。

「今のリサちゃんめちゃくちゃ可愛いよ。大丈夫だよ。そんなに自分を低く見積もらないで」
「……善逸くん」

そう言ってもらえるのは、本当に嬉しい。でも、どうしたらいいのか分かんないよ。
彼にそんな音を聞かせたくなくて、私はぎゅっと拳を握りしめる。

「でも、私には、あんな風に真っ直ぐ誰かを想う資格なんて、最初からないなって……」
「資格なんて、そんなの誰が決めるのさ」

彼は私の手元に視線を落とし、それから優しく、包み込むような声音で続ける。

「俺、耳がいいから聞こえちゃったんだけど」
「き、聞こえたの?」
「うん。あの人があのお姉さんの誘い、きっぱり断ってたのは確かだよ」
「……え?」

思わず、抜けたような声が漏れた。
断っていた?あんなに嬉しそうにミヨコさんは笑っていたのに?彼女も冨岡さんを花火に誘いに来たのだと思ったのに。

「…ほら、見てみなよ。まだ門のところに立ってるでしょ。リサちゃんが来ないから心配してんじゃないの?知らないけど。なんか腹立つけど」

善逸くんに促されて、私はもう一度塀の陰からそっと顔を出した。西日はすでに竹林の向こうへ沈み、あたりはしっとりとした深い青色に包まれ始めている。
門の前には、手に小さな小包を持ったまま、微動だにせず佇む冨岡さんの姿。ただじっと、私がやって来るはずの道を見つめている。
その孤独にも見える佇まいの中に、視界がふいに潤んだ。

「ほら、行っておいでよ。その格好見せるためにおめかししたんでしょ!」
「え、わっ……!」

善逸くんの言葉が終わるか終わらないかのうちに、背中を強く押された。
抗議する暇もなく、私は塀から道の真ん中へと文字通り放り出されてしまう。咄嗟に振り返ったけれど、善逸くんは器用に気配を消してどこかへ引っ込んでいた。
カラン――。バランスを取り直した時に、響いた下駄の音。しまったと思ったが、それに気づいた冨岡さんがゆっくりとこちらを振り向いた。





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