7
胡蝶さんと冨岡さんの看病のお陰か、二日後私の熱はすっかり下がっていた。体調の不調はまだ引き摺っていて味覚は鈍いし怠さも残っていたが、熱自体は平熱そのものだ。
体調が戻ったのに休む理由はない。みんなに迷惑をかけてしまったから、今日はそれを挽回するつもりで働かないと、と意気込んでいた。
湯船にも浸かり、アオイさんの手作り栄養満点の朝食を食べ、いざという時になってそれは起こったのである。
「もう一度いきます」
朝の道場。板張りの床に置かれた小さな机を挟み、正座で向かい合う二人の隊士。
一人は、いつもきびきびと屋敷を切り盛りしているアオイさん。そしてもう一人は、この屋敷で療養中の男性の隊士だ。
そんな二人の間には、並々と薬湯の注がれた湯呑みが置かれている。
「……はじめっ!」
きよちゃんの掛け声に、アオイさんが鋭く息を吐き、目にも止まらぬ速さで手を伸ばした。狙いは机の上の湯呑み。
男性の隊士も腕を伸ばすが、それより早くアオイさんがその湯呑みの縁を押さえ、男性の顔に文字通り、薬湯をぶっかけた。
「…っちょ、わあっ!」
激しく薬湯を浴びせられた隊士が、たまらず顔を覆って仰け反る。
目の前ではアオイさんが「集中力が足りません!」と、厳しい表情で次の湯呑みを用意していた。ビシャビシャと床を濡らす薬湯と、道場に充満する独特の苦い匂い。
私は開いた口が塞がらず、ただただ呆然とその様子を眺めることしかできなかった。話には聞いていたけれど、まさかこんな方法が取られていたなんて。
これが、反射神経を鍛える訓練だという。
「お二人ともがんばれー!」
「負けないでー!」
道場の隅から、三人娘がぴょんぴょんと跳ねながら声援を送っている。そんな光景を眺めながら、私は道場の隅っこに、もう一人女の子がいることに気がついた。
栗花落カナヲさん、胡蝶さんの妹さんだ。姉妹だとアオイさんから聞いたとおり、彼女は言葉を失うほどに可愛らしかった。名字が違うから血は繋がってないのかもしれないけれど、やはり姉妹になると人は似るものなのかもしれない。
サイドで結った黒髪に、大きな瞳。お人形さんみたいに整った顔立ちだ。
でも、何だろう。彼女は瞬きすら惜しむようにじっと訓練を見つめている。表情ひとつ変えない。ただ、静かな瞳でアオイさんの手の動きを追っている。
カナヲさんも、あの訓練に混ざりたいのだろうか。なんて、ぼんやり考えていたその時。
「リサさん!薬湯のおかわりをお願いします!」
アオイさんの鋭い声が飛んできて、私はハッとした。いけない、自分の役割を忘れるところだった。
「は、はい…!すぐに!」
私は慌てて返事をすると、空になった湯呑みを回収し、大きな薬缶から並々と薬湯を注ぎ足していく。
「か、神崎さん少しは手加減してください。病み上がりにはキツすぎる……」
「何を仰ってるんですか!現場に出れば、鬼はこれ以上の速さで襲ってくるんですよ。甘えたことを言わないでください」
アオイさんの容赦ない言葉に、隊士さんは「はい…」と力なく笑いながら、また構えを取る。
そのやり取りを横で聞きながら、私はふと、以前アオイさんが少しだけ話してくれた内容を思い出していた。
「最終選別……ですか?」
数日前、門の前で掃き掃除をしていたときのことだ。
聞き慣れない響きに首を傾げると、一緒に掃除をしていたアオイさんが、遠くの山並みを見つめたまま静かに教えてくれた。
「はい。鬼殺隊に入るには、誰もが必ずあの試験を受けなければならないんです。藤襲山という山で、七日間生き延びることができた者だけが、鬼殺隊として認められます」
「一週間……」
「はい。そこには隊士によって生け捕りにされた鬼が放たれていて、命を賭けて戦うんです」
アオイさんは少し息を整えてから、さらに言葉を続けた。
「前にも少し説明しましたが、鬼というのは私たちが知っている生き物とは根本から違います。だからこそ、人間も特別な呼吸を身につけて戦かうんです。呼吸法によって身体の力を極限まで引き出し、鬼に立ち向かえるよう鍛錬を積みます」
鬼殺隊には、なりたいと思って誰でもなれるわけじゃないらしい。
単なる入隊試験なんてものじゃなく、死と隣り合わせの山で七日間。想像しただけで足がすくむような、過酷な試練だ。
選別に行くまでにも、きっと気が遠くなるほどの鍛錬を積んでいるはずだ。呼吸を整え、身体を極限まで追い込んで、ようやくそのスタートラインに立てる。そこまでしても、生き残れるのはほんの僅かな人たちだけなんて。
そう思うと、今目の前で薬湯をぶっかけられながらも必死に食らいついている隊士たちや、彼らを叱咤するアオイさんの姿が、これまでとは全く違って見えてくる。
本来ならこんな年端もいかない年齢で、鬼狩りになりたいだなんて考えることもないはずだ。
彼らの笑顔は、本来はもっとのんびりと日々の
学校の帰り道に寄り道をしたり、好きな服を選んだり、何でもないことでお腹を抱えて笑ったり――そういう普通のことをまだこれからしていいはずの年齢なのに。
そんな「当たり前」が許されない時代。ひとつ生まれる時代が異なると、こうも違うなんて。
鬼の存在を、私はまだよく知らない。姿を見たわけでも、戦いを目の当たりにしたわけでもない。
けれど、こうして幼い子たちや年若い少年少女までもが日常を奪われ、刀を手にする世界を作り出しているのだとしたら。それだけで、胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
…憎い。理由も理屈もいらなかった。ただ、この子たちにそんな生活を強いているものが鬼だというのなら、私は心の底から鬼を憎まずにはいられなかった。
冬の陽射しは不思議だ。刺すように冷たいはずなのに、どこか包み込むような柔らかさもある。夕日に染まった石畳を眺めながら、私は洗い物の籠を抱えて中庭を横切った。
すると、光の真ん中にぽつんと二つの影が並んで座っているのが見える。
「あ、カナヲさん……」
それと、小さな毛玉――あれは子猫だろうか。
カナヲさんはよくこの中庭で、一人静かにシャボン玉を吹いている。透明な球体が空へ溶けていく様子を、彼女はただ黙って見つめているのだ。
けれど、今日はその隣に愛らしい客人がいた。ふわふわとした三毛の子猫が、宙を舞うシャボン玉を夢中で追いかけている。
カナヲさんがそっと息を吹き込むたび、それを子猫が短い前足でぱしりと叩く。手応えなく消えるそれに、子猫は不思議そうに首を傾げる。
…可愛いな。先ほどの道場で見たときとは違い、今の彼女の瞳はとても穏やかだ。
本当は、こういう時間がもっとたくさんあっていいはずなんだよね。
「隣、お邪魔してもいいですか?」
声をかけると、カナヲさんは小さく瞬きをしてこちらを見上げた。彼女は何も答えなかったけれど、拒絶するように目を逸らすこともなかった。
私はそっと隣に腰を下ろし、子猫の背中を撫でてみる。
「ふわふわ……」
この子はどこから来たのだろう。
首輪がないから野良猫なのかな。
「カナヲさんはこの子と仲良しなんですね」
カナヲさんはまた何も答えなかったけれど、新しく作ったシャボン玉を一つだけ子猫の鼻先に飛ばして見せる。その仕草が答えの代わりなのかもしれない。
私は小さく笑って、もう一度子猫の背中をそっと撫でた。
「…あら。お二人で仲良く日向ぼっこですか?」
ふわりとした声が背後から降ってくる。顔を上げると、中庭から一段高い縁側に胡蝶さんが立っていた。
「胡蝶さん」
見上げる私の隣で、カナヲさんも動きを止める。
子猫は、新しく現れた人影を不思議そうに見上げ、小さく欠伸をした。
「あまり精を出しすぎてはいけませんよ、リサさん。まだ病み上がりなのですから。なほから聞きましたよ、道場で張り切って薬湯を運んでいたそうですね」
胡蝶さんは少し困ったように眉を下げて、くすりと笑う。
張り切っていたというか、圧倒されていたというか…。図星を突かれた私は、思わず視線を泳がせた。
「す、すみません。熱も下がったので、何かお手伝いをしなきゃと思って……」
「その意気込みは嬉しいですが、無理をしてぶり返しては元も子もありません。貴女は真面目すぎて、少し心配になります。今はまだ、そんなに忙しなく立ち働かなくても誰も怒りませんよ」
胡蝶さんは縁側の柱にそっと手をかけながら、優しく諭すような視線を向けてくる。拾ってもらった恩を返さなきゃと焦る私の心を見透かしているのだろう。
「…はい。ありがとうございます」
私が小さく頷くと、胡蝶さんは満足げに目を細めた。
「ええ、それがいいでしょう。…さて。カナヲ、貴女はこちらへ。少しお話ししましょう」
「……はい」
隣にいたカナヲさんが呼ばれ、静かに立ち上がる。彼女は一瞬だけ私の方を振り返ると、またあの不思議な微笑みを残して、胡蝶さんのもとへと歩いていった。
「リサさんも陽が沈むと一気に冷え込みますから、ほどほどで切り上げてくださいね。…おやすみなさい、とはまだ早いですが今夜もゆっくり休むのですよ」
「は、はい。胡蝶さんもおやすみなさい」
そう言ってその後ろ姿を見送ろうとした時、ふと胡蝶さんが足を止め、何かを思い出したように振り返った。
「…あ、そうでした。リサさん、もう一つよろしいですか?」
「は、はい。何でしょう」
「もし今後、冨岡さんにお会いすることがあれば、彼に伝言をお願いしたいのですが」
「え……?冨岡さんに、ですか……?」
なぜ私に伝言を頼むのだろう。私より胡蝶さんの方が冨岡さんに会う機会が多いはずなのに。
戸惑う私に、彼女はどこかわざとらしいほど丁寧に微笑んでみせた。
「はい!様子が気になるなら私にいちいち遠回しに聞いたりせず、さっさと自分で見に来てください!と。言ってくださると助かります」
「えっ、と……」
どういうことだろう。そんな伝言を託されても、私には何のことだかさっぱり見当がつかないが、冨岡さんにはそのまま言えば伝わるのだろうか。
胡蝶さんは「自分で見に来なさい」と、何かに少し怒っているようにも見えるけれど…。
とりあえず「わかりました」と返事をしておく。首を傾げ何のことだろうと頭を悩ませる私に、胡蝶さんは去り際少し呆れたような笑みを浮かべて言い放った。
「貴女のことですよ」
「……へ?」
驚きで固まっている私を置き去りにして、胡蝶さんは「では、お大事に」と軽やかな足取りで屋敷の奥へと消えていく。
一人残された中庭で、私は今の言葉を頭の中で何度も反芻する。
「…にゃあ」
私のこと?
足元では、子猫が「何をぼーっとしてるの?」と言いたげに一鳴きして私の足に頭を擦りつけてきた。
足元に伝わる柔らかな温もりと、先ほどの胡蝶さんの言葉を交互に受け止めながら、私は子猫と一緒にぽかんと空を眺めることしかできなかった。
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