7
その日の蝶屋敷は、ひときわ慌ただしかった。
"隠"と呼ばれる事後処理部隊によって、任務帰りの隊士たちが次々と担ぎ込まれていたからだ。彼らの存在を耳にすることはあっても、テキパキと動く姿を初めて間近で見て、その手慣れた様子に圧倒された。
一方で、屋敷の寝台には次々と布団が敷かれ、空いている部屋はみるみるうちに埋まっていく。横たわる人影はどれも傷だらけで、押し殺した呻きや浅い息づかいがあちこちから漏れていた。
「痛っ、痛いってば、やめてくれ!」
「暴れないでください!動くと余計に傷が開きますよ!」
アオイさんの鋭い声が響く。彼女の細い腕が、ベッドで暴れる隊士の肩を必死に押さえ込んでいた。
「すぐに終わりますから、じっとなさってください!そんなんじゃいつまで経っても治りませんよ!悪化しても知りませんからね…!」
「痛いもんは痛いんだよお!」
「まったく……子どもじゃないんですから、少しくらい我慢してください!」
アオイさんは眉を吊り上げながらも、包帯を巻く手を決して止めない。
その様子を、少し離れた場所で胡蝶さんが穏やかな微笑みを浮かべて見守っていた。
「リサさん、こっちは大丈夫です。次の部屋をお願いしてもいいですか?」
「あ、はい!すぐに行きます」
ふと振り返ったアオイさんの声に、我に返る。私は手に持っていた水の入った重い桶を持ち直した。きよちゃんたちが待つ次の部屋へ急がなければ。
けれど、部屋を出ようとしたその時、視界の端に真っ赤に染まった布が見えて、思わず足が止まった。
そこにいたのは、手の指先を失った青年。すごく若く見える。まだ十五、十六歳くらいだろうか。私の弟や親戚にいてもおかしくないような年齢だ。
彼の隣には、膝をついて手当てをする胡蝶さんの姿。周囲の喧騒が嘘のように、彼女の周りだけが静かで、落ち着いている。
慎重に包帯を整えながら、時折、優しく脈を確かめる。その横顔を見つめていると、青年が震える唇で、誇らしげにかすかな笑みを浮かべた。
「……俺、やりました。あいつの、首……ちゃんと、斬れたんです」
「ええ。えらいですよ。よく頑張りましたね」
胡蝶さんの穏やかな肯定を聞くと、青年は糸が切れたように安心した顔をして、そっと目を閉じた。
その瞬間、鼻の奥がツンとして、視界が滲んだ。私は今まで"鬼"という存在を、どこか物語の登場人物のように思っていたのかもしれない。けれど、これは現実だ。この人たちは、本当に"それ"と戦っている。命を削って。
彼らをこんな風にしてしまう鬼が、怖い。この屋敷の温度の中で、人が死んでいくのだと、初めて肌で理解した。
「急がないと……」
自分に言い聞かせるように呟き、私は廊下に出た。
この現実から目を逸らしてはいけない。この場所にいるなら私も、何かを覚悟しなくてはならない。
*
ここ数日、アオイさんも三人娘も手いっぱいで、傷の手当てや食事の世話に駆けずり回っている。
廊下の向こうでは、胡蝶さんが淡々と指示を飛ばしている。その声だけが、この混乱の中で唯一の秩序だった。
私には治療の技術も薬の知識もないけれど、だからといって立ち尽くしているわけにはいかない。
出来る限りのことをしよう。そう思って、私は水を運んだり、洗濯物を抱えて干し場に行ったり、みんなの手が回らない仕事を率先して片づけていた。
その日も、私は汲みたての水を運び終えた後、山のような寝具や衣類を抱えて廊下を歩いていた。お日様の匂いがする洗濯物は、私の腕には少し大きすぎた。目の前が真っ白な布で覆われて、足元がよく見えない。
「……っ、よいしょ」
ふらつく体を必死で支えながら、私は一歩ずつ慎重に廊下を進んでいた。けれど、角を曲がろうとしたその時だった。
「わっ……!」
目の前に現れた人影に気づくのが遅れ、私は勢いよくぶつかってしまった。
そのまま後ろにひっくり返り、床に尻もちをつく。腕の中から、真っ白な敷布や隊服がバサバサと床に散らばっていった。
「す、すみません……!」
「ごめんなさい……!」
ほとんど同時に声が重なる。痛む腰をさすりながら顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。隊服を着ているから、胡蝶さんの検診帰りの人だろうか。
黒い髪をうしろで一つにまとめた、すらりと背の高い人。彼女は腰に差した刀の柄をそっと押さえながら、すぐに私の前に手を差し伸べてくれる。
「だ、大丈夫ですか…?」
優しくて、落ち着いた声だった。彼女は、私の頼りない指先をしっかりと引き上げてくれる。
「ご、ごめんなさい。私、前がよく見えていなくて……」
「私の方こそ。少し、考え事をしていました。お怪我はありませんか?」
お互いに何度も頭を下げて、散らばった荷物を拾おうとした、その時。
「……あっ」
彼女が、私の胸元を見て小さく声を上げた。
つられて自分の姿を見下ろすと、心臓がひっくり返りそうになった。転んだ拍子に帯が緩み、着物の合わせが大きくはだけてしまっている。
「あ、大変……っ」
慌てて帯を締めようとするけれど、焦れば焦るほど指が震えて、布はだらしなくずり落ちていく。
どうしよう。まだ一人では着付けを上手くこなすことができないのに。いつもは胡蝶さんやアオイさんに手伝ってもらって、ようやく形にしている。
けれど、今あんなに忙しそうにしている二人のところへ、こんな姿で行けるはずもなかった。
「えっと、あの……」
情けなくて泣きそうになった私の前に、彼女がそっと寄り添ってくれた。
「任せてください」
彼女は私の荷物を手際よく拾い上げると、近くの空き部屋へと私を連れて入ってくれた。
静かな部屋で、彼女は私の正面に立つと一度帯を解き、迷いのない手つきで着物を整え始めた。布をなぞる彼女の指先は、とても器用で優しい。
「……慣れていらっしゃるんですね」
「昔、母に仕込まれたんです」
まるで遠い日の記憶をなぞるような、そんな口ぶり。その所作の一つ一つに、もうこの世にいない誰かの教えが刻まれているのだと気づいた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
…そうか、この人もそうなんだ。
「……はい、これで大丈夫」
最後に帯をきゅっと締め直して、彼女は一歩下がって私を見据えた。
「苦しくないですか?」
「だ、大丈夫です。本当にありがとうございます。助かりました……私、一人では着付けがまだできなくて」
「それならよかった」
あまりに綺麗なその笑みに見惚れて、私は一瞬立ち尽くした。
けれど、このまま「ありがとうございました」の一言だけで終わらせてしまうのは、なんだか――。
「あ、あの……お名前を、伺ってもいいですか?」
唐突すぎたかも、と頬が熱を帯びる。
けれど彼女はすぐに柔らかく口元を緩めた。
「尾崎、といいます。鬼殺隊の隊士です」
「尾崎さん……」
「あなたは?」
「あっ……私は、高月リサです。最近、蝶屋敷でお世話になり始めたばかりで……」
名乗る声が心許なく震えたのは、照れとも、もっとしっかりした人間に見られたいという気持ちの表れだったのかもしれない。
けれど、尾崎さんは眉を和らげて「そうなんですね」と短く頷いた。その仕草だけで、否定も軽蔑もせず、この歳になって着付けもできない今の自分を受け止めてくれたような気がして、胸の奥が温かくなった。
これが、私と尾崎さんとの最初の出会いだった。
名前を教え合ったときはまだお互いにぎこちなかったけれど、気づけばすぐに打ち解けていた。
年も近いこともあって、壁が崩れるのに時間はかからなかったのだ。いつの間にか会話は自然にタメ口になり、私にとって彼女は"頼れるお姉さん"のような存在になっていた。
尾崎さんは、艶やかな黒髪を高い位置できゅっと結び一つ括りにしている。凛として見えるのに、ふとした瞬間にこぼれる彼女の笑顔は驚くほど柔らかで、一緒にいると不思議と肩の力が抜けるのだった。
「重そうだね、ひとつ貸して」
その日も、廊下で私が大きな木箱をいくつも重ねて運んでいると、ふいに横から手が伸びてきた。
「あ、尾崎さん……!来てたんだ」
「うん。胡蝶さんの検診の帰り」
「そうなの?怪我の具合、大丈夫だった?」
「もちろん!もう任務に戻っても大丈夫だって」
「良かった……!」
隣に並んだ尾崎さんが、私の腕から一番上の包みをひょいっと奪い取るように持ち上げる。
「うわ、これ結構重たいね。よく一人で運んでたよ」
「そ、そうかな?」
木箱を軽々と抱え直した尾崎さんが、驚いたように目を丸くする。
言われてみれば、確かに一回で運ぶような量ではなかったかもしれない。腕から重みが消えた途端、それまで麻痺していた指先にしびれるような熱さが戻ってきた。
二往復するのが面倒で、ついつい一度に済ませようと横着してしまう。
「リサってさ、本当に頑張り屋さんだよね」
「え、違うよ?往復するのが面倒なだけだよ?」
「ううん、違うよ」
尾崎さんはクスッと笑って、私の言葉を優しく遮った。
「一人でどうにかしようとしてたでしょ?普通はね、一人で持てないと思ったら、誰かに『手伝って』って頼むものなんだよ。……リサはもっと誰かに甘えてもいいんだよ?」
「あ、それ……胡蝶さんにも言われたかも」
尾崎さんは「やっぱりね」と楽しそうに笑い、私の歩調に合わせてゆっくりと歩き出す。
この屋敷に来たばかりの日。胡蝶さんに「与えられることに慣れていい」と諭されたことを思い出した。
けれど、言葉で分かっていても、誰かに「甘える」という行為そのものが、私の心にはまだうまく馴染んでくれない。
「私はここに助けて置いてもらっているだけだから……。みんなは自分の仕事があって、あんなに忙しそうにしてるのに。そんな中で私だけ『手伝ってください』なんて言うの、なんか忍びなくて……」
私は足元を見つめ、腕に残った木箱の縁を指先でそっと撫でた。
この屋敷に来て、温かい食事も、清潔な着物も、安心して眠れる場所も。全部、当たり前のように与えてもらった。
何も知らないまま助けてもらって、守ってもらって……。これ以上、何かを求めるなんてとんでもない。
「リサはさ、お世話になってるからって思ってるかもしれないけど、頼ることもぜんぜん悪いことじゃないんだよ?」
「でも、迷惑じゃないかなって思っちゃうよ」
「迷惑じゃないの」
尾崎さんは、きっぱりと言い切った。
それ以上、私は言葉を紡げなくなる。
「誰かに頼られるって、それだけで嬉しい時もあるんだよ。特にここみたいに、大変な場所ならなおさらね。みんな助け合ってやっと回ってるんだから」
「助け合い……」
「そう。それにリサは、自分のことを"してもらう側"だと思ってるかもしれないけど、じゅうぶん立派にこのお屋敷で頑張ってるじゃん」
そう、なのかな…。
すぐには頷けなかった。けれど胸の奥のどこかが、そっと揺れる。ここに来てからずっと抱えていた遠慮の固まりに、小さなひびが入る音がした。
尾崎さんは、そんな私の沈黙の意味を正確に読み取って、ふっと笑う。
「すぐに出来なくてもいいよ。でもね、ひとつだけ覚えておいて」
「……うん?」
「誰かに頼られるって、案外悪くないんだよ。だから次は、迷わず私に言ってほしいな。"手伝って"って」
言葉の終わりに、春風みたいな優しさが混じっていた。その温度が、胸の奥にそっと溶け落ちる。
「うん……尾崎さん。ありがとう」
私が少しだけ笑って答えると、尾崎さんは「うん!」と上機嫌に声を上げ、わざと軽く肩をぶつけてきた。
コツン、と伝わってきた彼女の体温が不思議と心地良かった。
尾崎さんは任務でこの近くを通ると、必ず蝶屋敷に顔を出してくれるようになった。
荷物を抱えて廊下をうろうろしている私を見つけると当たり前のように手を貸してくれたし、疲れて座り込んでいたら何も言わず飴玉を差し出してくれることもあった。
そうやって少しずつ、互いのことを知っていった。
人懐こさと芯の強さを併せ持った人だ。明るくて、でも表情の奥にほんの小さな翳りを抱えていて――それでも前を向こうとする姿が、私にはまぶしく見えた。
彼女と出会ってから、蝶屋敷で過ごす日々がほんの少しだけ、心強いものになった気がする。
「はい、これ」
荷物を運び終わったあと、中庭に面した縁側に尾崎さんと並んで腰を下ろした。
目の前には風に揺れる梅の枝があり、まだ咲いてはいないけれど、ほのかに良い香りが漂っている気がする。
尾崎さんが懐から取り出したのは、竹皮に丁寧に包まれた三色団子。
「いただきものなんだ。二人で食べよう」
「わぁ!いいの?」
鮮やかな色に、思わず目を輝かせてしまう。ここに来てから、甘いものを口にする機会なんて数えるほどしかなかった。
「こういうのも、たまにはいいでしょう?」
尾崎さんはふわりと笑って、ひとつを差し出してくれる。
二人並んで頬張ると、もちもちとした食感に塩気の効いた葉の香り、そして甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい……!」
「でしょう?良かった」
横で尾崎さんが肩を揺らして笑った。
昼下がりの風が、そよそよと頬を撫でていく。
「ねえ尾崎さん」
穏やかなひととき、私は隣で団子を頬張る尾崎さんに、ずっと胸の奥で燻っていた疑問を投げかけた。
「ん、なあに?」
「その……冨岡さん、って人を知ってる?その人も鬼殺隊の人なんだって聞いたんだけど」
「冨岡さん?」
私がそう尋ねると、尾崎さんはお団子を口に運ぼうとした手を止めて、少しだけ意外そうに小首を傾げた。
もしかして、あんまり有名な人じゃなかったのかな。そもそも、私はこの鬼殺隊という組織がどれほどの規模なのかも知らない。もし何千と隊員がいるような大きな組織なのだとしたら、一人の名前を出したところで「誰それ?」となってもおかしくはないのだ。
けれど、尾崎さんは何かを思い出した様子でポンと手を打った。
「……ああ!それって、もしかして水柱様のこと?」
「あ、たぶんその人だと思う。きよちゃんたちも、そういえば水柱様って呼んでた気がする……」
「そりゃあ、知らない人はいないわよ」
尾崎さんは団子を飲み込むと、どこか居住まいを正すようにして続けた。
「リサが言ってるのは、冨岡義勇様のことだよ」
はじめて下の名前を聞いた。
そうか。冨岡さんのお名前は、"義勇"さんというのか。名前を知るだけで、その人の輪郭が少し近くなる。
「冨岡……ぎゆう、さん」
そっと口の中で転がしてみると、言葉の形が妙に整っていて、胸がなぜかきゅっとした。
自分でもよくわからない、その小さな痛みと温かさがまじった感覚に、思わず目を伏せる。
「会ったことあるの?」
「う、うん。彼に、助けてもらって…」
「へえ。水柱様がねえ…」
「尾崎さん。水柱って……なに?」
尾崎さんは三色団子の串をくるりと回しながら、小さく瞬きをした。
あ、皆が知ってる当たり前だったのかな。不思議に思わせてしまったのも。
でも“柱”といえば建物にある柱くらいしか知らない。普通は、人につけられる呼び名だなんて思わないだろう。
「柱っていうのはね、鬼殺隊の中でも最高位の剣士のことだよ。今いる九人の内の一人が冨岡さん。蟲柱が胡蝶さん」
…知らなかった。そんなにすごい人達だったなんて。
けれど言われてみれば、あの二人がまとう雰囲気は普通の人と何かが違うとは日々感じていた。でも、そこまでとは思わなかった。
「冨岡様は"水の呼吸"を極めた人。…まあ、私たち一般隊士とは住む世界がちょっと違うっていうか」
そう、なんだ…。
尾崎さんが丁寧に教えてくれたおかげで、彼らが歩いている場所と、私がいま立っている場所が、まるで違う高さなんだと実感した。
普段の私は、食卓で当たり前のようにこの屋敷のお膳をいただいて、寝るときには胡蝶さんが用意してくれた浴衣を着て布団に潜り込んでいる。
困れば声をかけてくれるし、失敗すれば笑って受け止めてくれる。でもそれって、本当はとんでもなく恐れ多いことなのでは。
もちろん、あの二人には頭が上がらないし、特に胡蝶さんには足を向けて寝られないくらい感謝している。
けれど「柱」という存在を知ってしまうと、その有難さは言葉で追いつかない。
「水柱……」
思わず呟き、手の中のお団子を見つめてしまう。
静かで少し近寄りがたいのに、どこか優しさをにじませていたあの人が――鬼殺隊の最高位だなんて。
「ふふ、急にどうしてそんなこと聞くの?」
尾崎さんが横目で私の顔を覗き込んでくる。その瞳は、単なる好奇心というよりも、どこか探るような色を帯びていた。
まるで「何か特別な意味があるんでしょ?」と言いたげで……。女子同士なら、こういう話題に敏感なのは時代が変わっても同じらしい。
その視線に、くすぐったいような、むず痒いような感覚に襲われる。
「そ、そういうのじゃなくて!私を拾ってここに連れてきてくれたのが冨岡さんだったから……。だから、命の恩人がどんな人なのかなって、少し気になっただけ。……とても、感謝してるんだ」
「…へえ、なるほどね」
尾崎さんはニヤリとした笑みを堪えるように小さく頷いた。
…なんだか、全然納得されてない気がする。
「……そういえば、村田先輩が冨岡さんと同期だって言ってたような気がするわ。今度、こっそり詳しく聞いてみようか?」
「う、ううん、いい!大丈夫!本当に少し気になっただけだから…!」
「そう?本当にいいの?」
尾崎さんの言い方はからかっているようでいて、ちゃんと私の心の核心を突いてくる。否定の言葉は次々と溢れてくるのに、本心では首を横に振れていない自分がいた。
この中庭で会ったきり、一度も姿を見ていないあの人。なのにどうしてもここを歩くたびに、思い出してしまうのだ。目を合わせたときの、深い水みたいな静けさを。
冨岡さん、いったいどんな人なんだろう。
尾崎さんの話を聞いて、彼のことがなぜか気になって仕方がなくなってしまった。
前へ 次へ
目次へ戻る