7
『どこへ向かっていたんだ』
『あ、藤堂さんの薬屋に……』
冨岡さんの後ろをついて歩くこと数分。ようやく目的地である薬屋の看板が見えてきた。
このあとほんの少しの距離を自分一人でたどり着けなかったなんて、本当に情けない。
「いらっしゃい……おや、蝶屋敷のお嬢さんじゃないか」
暖簾をくぐると店の奥から顔を出してきたのは、白髪混じりの穏やかな店主藤堂さんだった。以前アオイさんと来たときのことを覚えていてくれたらしい。
私は震える手で懐からメモを取り出し、台に置く。
「お久しぶりです。これ、胡蝶さんからお願いされていた材料です」
「ああ、承っているよ。しのぶさんの頼みだから、とびきり良いのを揃えないとね」
藤堂さんは眼鏡の奥の目を細めて笑い、メモに目を通す。その何気ない日常のやり取りに、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。
ふと入り口の方へ視線を向けると、冨岡さんが陳列棚の前で足を止めていた。腕を組みながら、棚に並んだ瓶や乾物を静かに眺めている。
「お嬢さんお待たせ。はい、これだね」
「あ……ありがとうございます藤堂さん。早いですね」
「準備は済んでたからね」
奥から戻ってきた藤堂さんから、丁寧に包まれた薬の束を受け取る。代金を支払い、包みを抱きかかえるようにして私は冨岡さんのもとへ歩み寄った。
「冨岡さん、すみません。お待たせしました」
声をかけると、冨田さんは見ていた棚からゆっくりと視線を外した。一度店主の方をちらりと見つめると、私が暖簾をくくるのを待ってから彼も外に出る。
夕暮れ時で、道はすでに茜色に染まりかけていた。
ぽーっと流れる景色を眺めていると、なんだか頭がふわふわしてくる。結局、胡蝶さんにも冨岡さんにも多大な心配と迷惑をかけてしまった?
現代にいた頃は、おつかいなんて子供でもできることだと思ってたのに。今の私はその当たり前のことさえ、誰かの助けなしには完遂できない。
この世界で生きていくって、こういうことなんだ。お祭りを楽しむ町の人たちと、その影に潜む悪意。さっき、路地裏で震えていただけの自分を思い出すと、とてもとても情けない。
隣を歩く冨岡さんは何も言わない。彼にしてみれば任務でもないのに、おつかいで迷子になった私の世話を焼かされているわけで。きっと呆れているに違いない。文句の一つでも言われたほうが、まだ気が楽だったかもしれない。
「……少しいいか」
ふいに冨岡さんが足を止め、通りに並ぶ屋台の方へと歩いていく。
「は、はい……」
不思議に思いながら、私は彼の後ろをついて行った。
冨岡さんが立ち止まったのは、色とりどりの瓶詰めの飴が並ぶ飴玉の屋台だった。
意外すぎる光景に、私は目を丸くしてしまう。失礼ながら、甘いものを買い食いするようなイメージが全くなかったからだ。
少し離れた場所で眺めていると、冨岡さんは店主と何やら言葉を交わし、懐から財布を取り出しお会計まで済ませる。
お腹が空いていたのだろうか。いや、誰かへの贈り物?そんなことを考えている間に、冨岡さんは小瓶を手にこちらへ戻ってくる。
「待たせた」
「あ、いえ……」
そのまま目の前にその小瓶が差し出されて、私は首を傾げた。
「あ、あの、これは……?」
夕陽を反射してキラキラと輝くその瓶の中には、琥珀色の飴玉がいくつか詰まっている。戸惑って問いかければ、冨岡さんはじっと私を見つめて言った。
「甘いものは気分を落ち着かせると聞いた」
「えっ、と……私にですか?」
「……そうだ」
驚いた。冨岡さんは至極真面目な顔で、瓶をさらに私の手元へと近づける
「どうして……」
「お前の手がまだ震えていたからだ」
言われて自分の手元を見ると、指先がまだ小刻みに揺れていた。
なんとなくその手を背後に隠そうとしたけれど、それよりも早く冨岡さんが私の震える手を取り、そこに飴の小瓶を握らせる。
「すみません、こんなことまで気を遣わせてしまって」
「謝るな。お前はさっきからそればかりだな」
冨岡さんは私が受け取った小瓶から手を離すと、そのまま私の目をじっと覗き込んできた。
逸らそうとしても、その深く澄んだ青い瞳に絡め取られて動けない。まるで、私の心の中に溜まっている「何か」を、無理やり引きずり出そうとしているみたいで。
「……何を考えてる」
何を、考えてる。
「そんな大したことは別に……」
それは言葉にするのも恥ずかしい感情ばかりだった。自分の不甲斐なさとか、申し訳なさとか、情けなさとか、色々。
こんなに強い人の前では曝け出せない。鬼殺隊だという冨岡さんからすれば、私の悩みなんて子供のわがままのように聞こえるだろう。
「お前は、嘘をつくのが下手だな」
口を結んで視線を逸らしても、冨岡さんは私の答えを待つように足を止めたまま。
「自分が……役に立たなかったことを悔やんでました。おつかいを頼まれただけなのに、道に迷って怖くて動けなくなって、結局冨岡さんに助けていただいて。一人では何もできない自分が、とても情けなくて……」
期待に応えられなかった自分への苛立ちと、皆の手を煩わせてしまった罪悪感。
こんな話をしても、彼はきっと困るだけだ。あるいは、戦場に生きる彼からすれば「命があるだけ幸運だ」と切り捨てられる話だろう。
「俺は言ったはずだ。胡蝶に頼まれて様子を見に来たと。お前が一人で何かを成し遂げることは、最初から誰も期待していない」
「そう……ですよね」
期待されていない。
やっぱりそうだった。私はただの足手まといなんだと、その事実に胸を抉られたような気がして視界が滲む。
「私は何もできないですから。結局、皆さんのお手を煩わせるばかりで……」
「違う。お前の役目は、誰かを助けることではないと言ってるんだ」
「え……?」
自嘲気味に呟いた私の言葉を冨岡さんは強い語調で遮り、私は顔を上げる。
「無事に帰り、あいつに顔を見せること。それが今日お前に課せられた唯一の仕事だった。……違うか?」
仕事。無事に帰ること。
――暗くなる前には帰ってくるんですよ。寄り道はせずに。
――迷子になったら、とりあえず女性に場所を聞いてくださいね。
――くれぐれも気をつけてくださいねー!
薬を無事に買ってくることなんて、きっと彼女にとっては二の次で。本当は私が傷つくことなく、迷うことなく、笑って玄関をくぐることだけを願っていてくれたんだ。
「おつかい」という名目で私を外へ送り出したのも、きっと屋敷にこもりきりの私を気遣ってのことだったのかもしれない。
「……はい。その通り、です」
でも、私はどうすれば良かったんだろう。迷ったら女性に聞く、蝶屋敷の者だと言う。教わったはずの知識も、あの恐怖の前では何の役にも立たなかった。
心構えが足りなかったのか、それともこの世界で生きていくための強さが、私には根本的に欠けているのか。
どれだけ反省しても、どれだけ次は気をつけようと誓っても、また同じような理不尽に直面したとき、私は今日より上手く振る舞える自信がない。
「……冨岡さん。私は、どうすれば良かったんでしょうか」
でも、この人は私とは違う。刀一本で鬼と戦えてしまうような、圧倒的に強い人だ。
そんな彼なら、どうしようもない恐怖に直面したとき、何を道標にして足を前に進めるのだろう。
だからこそ、彼に教えてほしかった。この世界で私が生きていくための答えを。
「頼れ」
「……頼る、ですか?」
「そうだ。次からはもっと早くに人を頼れ」
「でも皆さんはお忙しいですし、私のために手を止めてもらうのも申し訳ないですし……。自分一人で解決できないなんて、それは……」
「高月。人に頼ることは弱さではない」
はじめて彼に名を呼ばれ、私は小さく息を呑んだ。
「お前の問題点が分かった」
「もんだい、てん……?」
「一人で抱え込みすぎるところがある。それに、人に頼るのが致命的に下手だ。警戒心もまるで足りない」
下手。あまりにも直球すぎやしないだろうか。
でも、なんだろう。迷惑をかけちゃいけないって、ずっと一人で意地を張っていた心の奥が、ぎゅっと締めつけられるように響く。
「少しくらい我儘を言っても誰も怒りはしない」
この人は私がどれだけ無力でも、どれだけ不甲斐なくても、そんなところは見てなかった。
あの雪の日から、ずっと。彼は、私を見捨てたりしないと決めてくれていたのだ。
「あ………」
迷惑をかけたくなかった。足手まといになりたくなかった。
ずっと一人で平気なふりをして抱え込んできたものが、彼の優しい言葉で全部ほどけてしまったみたいだった。
ぽろり、こぼれ落ちた涙が石畳に小さな染みを作る。それを歯切りに、溢れ出した感情が両目からぼろぼろと止まらなくなってしまった。
突然声も出さずに泣き出した私を見て、冨岡さんはぎょっと目を見開く。
みっともないし、恥ずかしいのに、零れ落ちる熱をもう自分では止められなかった。
「ふ、ふぇっ……」
しゃくり上げるような声が漏れて、両手で顔を覆う。
――そうか。私はずっと、緊張していたんだ。
知らない世界、知らない常識、知らない言葉。その全てを当たり前に受け入れて、平気なふりをして、必死に笑って。限界まで背伸びをしていたのだと、今になってようやく気づいた。
本当はずっと怖かった。家族も友人もいなくて、昨日までの常識が何一つ通じなくて、鬼なんてよく分からないの生き物がここには存在していて。
でも、一人じゃなかったんだ。私は一人じゃなかった。私を見捨てないでいてくれる人が、いた。
「ひぐっ、う……っ、ごめ、んなさ……」
喉の閉塞感が苦しくて小さくしゃくり上げれば、冨岡さんは困ったように眉を下げる。
「す、すまない言い過ぎたか」
「ち、ちが……っ、ひぐ……っ、ちがいます……!」
あなたのせいじゃない。そう言いたいのに。
そうじゃない、そうじゃないのに。
「……っ、う、わあああああんっ!」
とうとう子供のように大声を上げて泣いてしまった。もう、何もかもを取り繕うことなんてできない。
「ねえ、お母ちゃん。あそこでかっこいい兄ちゃんが女の子を泣かせてるよ」
「こら。あまり見ないの」
「さては痴話喧嘩か?」
「ひどいねぇ、あんなに泣かせちまって」
晩御飯の買い出し時。祭りで人がさらに多くなった通りを歩く人々が、足を止めてこちらを伺い始める。
呆然と立ち尽くす冨岡さんと、人目をはばからず号泣する私。その構図は端から見ればどう考えても冨岡さんが私を泣かせているものでしかない。
「ごめっ、ごめんなさっ……すぐになきやみます……っ」
冨岡さんは何も悪くないのに。彼は私を助けてくれて、飴までくれようとして、優しい言葉をかけてくれただけなのに。好奇の目に晒される彼を庇いたいのに、体が言うことを聞かない。
これまでずっと張り詰めていた緊張が弾けて、私の涙腺はすっかり壊れてしまったみたいだった。
「な、泣き止まなくていいから、一旦落ち着け」
「ふぇ……っ、……ぅぐすっ……」
狼狽えた冨岡さんの声が聞こえてくる。
泣き止まなくていいのに落ち着けとは、一体どうすればいいのだろう。涙が止まらない場合に、どうやって「落ち着き」だけを取り戻せばいいのか。そんな高度な技術を私に求めないで欲しい。
「高月、ここでは目立つ。場所を変えるぞ」
見かねた冨岡さんが私の腕をそっと引いた。人混みのど真ん中で泣きじゃくっていた私を、彼は促すようにして通りの端、建物の影になっている場所へと連れて行ってくれる。
そのまま、冨岡さんは私を壁際に隠すようにして、その広い背中で外からの視線を遮るようにして立った。
はからずも彼の胸に顔を埋めるような形になってしまい、私の視界はその羽織の柄でいっぱいになる。
「……ず、みま……せん……っ、うう……」
「泣きたいだけ泣けばいい」
冨岡さんがそう言ってくれたから、私はもう一度子供みたいに泣きじゃくった。
これまで独りで抱えてきた不安も、死ぬほど怖かった孤独も。
彼の羽織をぎゅっと握りしめて、その不器用な優しさに甘えるように。
*
泣き止んだときには、すっかり日が沈んでしまっていた。
冷静になると、色々あったとはいえ、顔の整った人の前でみっともない泣き顔を晒していた事実が大分しんどい。あまりにも無様に泣きすぎた。
今の私の顔は、きっととても酷いことになっているだろう。腫れ上がった瞼が重くて、視界がさっきよりもずっと狭い。
けれど、不思議と気持ちはすっきりしている。思いっきり泣いたことで何かが吹っ切れたのだと思う。
こらえきれずにズビ、と鼻を啜ると、私の二歩前を歩いてた冨岡さんが足を止めた。そのまま目の前にすっと小さな布が差し出される。
「使うか」
「すみません、ありがとうございます……」
青色の手拭い。いかにも冨岡さんらしい色だな、と受け取って顔を隠すようにして目元を押さえる。
胡蝶さん、怒るだろうなあ。すっかり暗くなってしまってるのだもの。冨岡さんと一緒でも、これは言いつけを破ったことになるのだろうか。
怒ってる胡蝶さんの姿が容易に想像できてしまって、胃のあたりが痛くなる。
「冨岡さん。……胡蝶さん、やっぱり怒りますよね?」
「……怒るだろうな」
「そうですよね……門限過ぎてますし」
「規律を破ったのなら仕方がない」
ど正論をあまりぶつけないでいただきたく。
分かっているけれど、もう少しだけ「俺が一緒にいるから大丈夫だ」的な、根拠のない気休めでもいいから欲しかった。
目に当てていた手拭いを折りたたんでため息を落としていると、冨岡さんがすっとまた手を差し出してくる。
「あ、いえ。洗ってからお返しします」
「構わない」
「よ、汚れてますから!後日綺麗にしてから必ずお返しします」
軽く手を振った私に、彼は「何を言ってるんだ」とため息をついた。そのまま手拭いを手の中から奪われ、彼は懐へと仕舞う。
行くぞ、と歩き出した冨岡さんを、私は急いで追いかけた。
「冨岡さん、ありがとうございます」
山道を歩く背中に、私は投げかける。
今日助けてくれたことも、手拭いを貸してくれたことも、今まで向けられてきたすべての気遣いに感謝を込めて。
彼は、優しい人だと思う。
私の歩幅に合わせるように、前を行く足取りをそっと緩めてくれるところとか。涙で汚れた手拭いを嫌な顔ひとつせず懐にしまうところとか。
まだ出会って二度目。言葉を交わした回数だって片手で数えられるくらいしかない。何を考えているのか正直ほとんど分からないけれど、それでも、きっと根は優しい人なのだと思う。
そんな頼もしい背中を見つめながら、私は自然に頬を緩めていた。
*
「おかえりなさい。まずはそこに座っていただけますか?」
「は、はい!」
怒っている。彼女は、とても怒っている。
目の前で腕を組み、仁王立ちをしてこちらを見下ろす胡蝶さん。ものすごい威圧感だ。正直怖い。今、彼女に逆らってはいけないと本能で悟り、言われた通り玄関の板張りの上にちょこんと正座をする。
その横で、冨岡さんが平然とした顔で立っているのがなんだか少しだけ恨めしい。
「お使いを頼んだのはほんの少しの距離だったはずですが」
「……は、はい」
「今、何時だかわかりますか?」
「え……っと、外が真っ暗な、時間……です」
「そうです。とっくに日が落ちてることなんか見て分かりますよね?」
「……はい」
蚊の鳴くような声しか出ない。
どんな事情があったにせよ、約束の時間を大幅に過ぎて戻ってきたのは紛れもない事実。
早く帰らなきゃいけなかったのに、町の真ん中で大泣きして時間を食ってしまった自分の情けなさに、穴があったら入りたくなる。
「暗くなる前には帰ってくるよう言ったはずですが、どこで道草を食っていたのですか?」
「そういうわけでは……その、ちょっとしたトラブルがありまして……」
「とらぶる?」
「も、問題が……」
しかし、焦れば焦るほど言葉が出てこない。カタカナ混じりの不適切な語彙ばかりが、ぐるぐると頭を回る。
「えっと、その、つまり、アクシデントというか……」
「あくしでんと?」
「あ、いえ……!不慮の、その、事故のような出来事が重なりまして……っ」
弁解しようにも、舌がもつれてまともな日本語すら組み立てられない。なんとなく冨岡さんに助けを求めるように視線を送るけれど、彼は変わらずの石のような佇まいで一向に口を開く気配がない。
「それで?その"あくしでんと"とやらのせいで、泣き腫らしたようなお顔で帰ってきたわけですね?」
「そう、です……」
「どんな問題が起きて、こんなに真っ暗になるまで外にいたのか、詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
言えない。門限を破っただけでもこんなに怒っているのに、そんな余計なトラブルまで起こしたと知られたら、この後どれほど恐ろしいお説教が待っているのか想像もつかない。
冷たく細められた胡蝶さんの瞳が、じっとこちらを射抜いている。
怖い。恐ろしくてたまらない。
「と、途中で……その………」
「途中で?」
すごく笑ってる。にこにこしてる。いや、笑ってるのに怖いってどういうことだろう。
何を言っても怒られるのは、もう目に見えてる。完全に追い詰められた私は、すがるような思いで隣に立つ冨岡さんへと視線を向けた。
「頼れ」って言ったのはあなたですよね。今です。今こそ、この場をいい感じに収めてください。お願いします、冨岡さん。
私の必死な視線にようやく気づいてくれたのか、冨岡さんが短く息を吐き出した。
「路地裏で男二人に絡まれていた。腰を抜かして動けなくなっていたところに俺が間に入ったまでだ。怪我は手首だけで、大事には至っていない」
「と、冨岡さん?」
そうじゃない。そんなことを求めていたんじゃない。あまりにもストレートすぎる言い回しに、私は口をあんぐりと開けてしまった。
ぼかすとか、オブラートに包むとか、そういう概念はこの人にはないのか。腰を抜かしたことまで律儀に言う必要はあっただろうか。
少し考えれば、余計に事態が悪化することくらい分かりそうなのに。
「男二人に、絡まれていた……?」
案の定、胡蝶さんの笑顔がピキリと凍りついた。
纏う空気が怒りから、もっと別の、絶対零度の殺気へと切り替わる。
「リサさん」
「ひぇ……」
そのあとの流れは想像できるだろう。
それはもうこっ酷く叱られた。
「まったく。なぜ路地裏なんかに入ったんですか」
「おっしゃる通りです」
「何かあれば『蝶屋敷の者だと言いなさい』と、何度も申し上げましたよね?」
「……はい」
「それなのに、何が『何かあったら走れる』ですか。言っていたことと全然違いますよ」
「……すみません」
「心配が現実になるとは思いませんでした。あれほど念を押したのに」
「ごもっともです……本当に、申し訳ありません……」
ぐうの音も出ないほど正論すぎて、何も言い訳できない。顔を上げることができないまま、私は何度も何度も頭を下げる。
床板にめり込む勢いで正座をしていて、そろそろ足の感覚も怪しくなってきた。このお説教がこれ以上続けば、私は立ち上がる瞬間に転ぶことになるだろう。
真横でこの状況を黙って見ている冨岡さんは、一体どういう心境なのか。そもそもこうなった原因の半分は冨岡さんのせいなのだから、ただの傍観者でいないで少しは助けてほしい。
「何もなくて良かったものの、もし冨岡さんが行ってなかったら、あなた今ごろどうなっていたかわかりますか?」
「はい……すみません……」
「無事で帰れたからこそ、今こうして話せているんです。けれどそれはたまたまです。運が良かっただけ。次は同じように助けてもらえるとは限りませんよ」
「ごめんなさい……」
「あなたが世間に疎いのは理解していますが、もう少し警戒心を持たれてはいかがです?」
本当におっしゃる通りです。この時代の治安を甘く見ていた。未来の感覚でふらふら生きていると危ないということだ。
もう絶対に一人で変な道には入らないし、寄り道もしない。本当に反省してます。もうしませんから許してください。
心の中で必死にそう叫びながら、私はすがるように冨岡さんを見上げる。
「胡蝶の言う通りだ。お前はもう少し警戒心を持った方がいい」
しかし、便乗して冨岡さんにも一緒に怒られる始末。
これはもうどうにもならないと察した今の私にできることは、ただひたすらに小さくなってこの嵐が過ぎ去るのを待つことだけだった。
「本当に、なんともないのですね?」
「だ、だいじょうぶです……!」
「本当に、怪我は手首だけなんでしょうね」
「はい!ちょっとだけです!かすり傷みたいなもので……!」
「ちょっとでも怪我は怪我です」
「はい。すみません……」
本当に大したことのない傷だったからそう言っただけなのに、どうやらまた彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。
口を開くたびに墓穴を掘っている気がして、もうこれ以上は何も言わないのが一番だと慌てて口を噤んだ。
「……分かりました。これ以上は反省しているあなたの様子に免じて許しましょう」
ようやく胡蝶さんから解放を宣言されたのは、お説教が始まってから三十分後のことだった。
助かった、と心の中で息を吐き出す。言われたことは痛いほど胸に刻んだし、自分の警戒心のなさも、どれだけ危険なことをしたかも、もう十分すぎるほど理解した。二度と同じ過ちは繰り返さない。
「手首を手当てしますから、このまま診察室にいらしてください。……それから、冨岡さんもありがとうございました」
とりあえず立ち上がって、胡蝶さんと冨岡さんにもう一度ちゃんと謝罪を…。そう思って腰を上げようとした時だった。
「いっ……」
ぴりりとした強烈な電気がふくらはぎを走り、すとんと元の正座の格好に戻ってしまう。
痛い。感覚がない。想像以上に痺れた足の感覚に、思わず泣きそうになりながら助けを求めて視線を上げる。
「俺はこれで失礼する。次の任務地が遠方で、夜明けまでには着いておきたい」
「そうですか、道中お気をつけて」
けれど二人は大人の会話を続けていて、床で行き倒れそうになっている私には気づいていない。
私はもぞもぞとせめて正座の姿勢だけでも崩そうと試みた。足を横に崩そうとした瞬間、今度は太ももの裏までビリビリとした衝撃が突き抜ける。
「薬が必要であればまた連絡をください。ちゃんと睡眠は摂っていますか?」
「……善処はしてる」
痛い。本当に痛い。
姿勢を崩すことすらできず、床に突っ伏し完全に固まってしまう。
「善処ではなく行動に移していただきたいのですが……」
「夜の行動には慣れてる」
「少しは私の苦労も考えてくださいね」
必死の抵抗も虚しくびりびりとした痺れはついに腰のあたりにまで到達しようとしていた。あまりの情けなさと痛みに耐えかねて、小さく「うぅ…」と声を漏らした、まさにその時。
冨岡さんが何も言わずにすっと私の二の腕に手を回し、そのまま真上に引き抜くように引き上げてくれた。
「お前は、次から一人で町に出るな」
短く、淡々と。
私が「あ……はい」と小さく頷くのを見届けると、冨岡さんはそのまま振り返ることなく夜の闇へと消えていった。
結局、最後は優しいのだ。
胡蝶さんのお説教が終わるまで、そばにいてくれだから。
…次の任務地、遠方って言っていたな。休む間もなく、もう次の場所へ向かうなんて。あの人はいつ眠っているのだろう。
「リサさん、行きますよ。手首の手当てをしましょう」
「あ、はい……!」
廊下の先から私を呼ぶ胡蝶さんの声に、私はびりびりと震える足を宥めながら彼女の背中を追った。
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