61
茜色に染まり始めた夕暮れの空。
庭の蝉の声も少しずつ静まり、代わりに涼やかな風が吹き抜けていく。
私は縁側に一人で腰を下ろし、素足をぷらぷらと揺らしながら、手にした西瓜をしゃく、とかじった。
口いっぱいに広がる冷たい甘み。みんなで賑やかに食べたあと、残りを一人でのんびり味わう時間は、驚くほど静かだ。
「お母さん、今なにしてるのかなあ」
こんなふうに、足を出して西瓜を食べていると、どうしても思い出してしまうな。昔のことを。
夕飯の支度をしながら、テレビのニュースでも見ている頃だろうか。
「……寂しい、な」
ぽつりと零れた言葉に、自分でも驚いた。すぐに西瓜の種を小皿へ吐き出し、小さく首を振る。
違う。最近たまたま色んなことが重なっていたから思い起こされるだけで。今の生活に、不満なんてなくて。
だめだめ、今のなし。湿っぽい感傷を無理やり押し込むように、私は西瓜の赤い実を急いで口に運んだ。
その時、光が差し込む庭を、一頭の青い蝶がひらひらと舞う。
…今なら、蝶になりたい。抱えきれない感情も全部捨て去って、ただただ風に乗って気の向くままに、どこか遠くへ飛んでいけたら。
「───高月」
蝶が、喋った。
…なんて。馬鹿みたいだ。私はとうとう、幻聴まで聞こえるようになってしまったらしい。
それも、会いたくて、聞きたくてたまらなかった声の、とてもおこがましい幻聴だ。
「どうした、その格好は」
声だけじゃなく、とうとう幻覚まで。
木漏れ日の中に立つ人影。逆光に滲むその輪郭は、私の都合のいい妄想が作り出したにしては、落ちる影があまりに鮮明すぎた。
いよいよ末期だ。願望もここまで煮詰まると、白昼夢に質感すら帯びてくるらしい。
「高月?」
硬質な低音が、もう一度鼓膜を震わせる。
え、と喉の奥で息が詰まった。幻にしては、重みがありすぎる。
ぎぎぎ、と錆びついたゼンマイ仕掛けの人形のように首を巡らせる。視界に飛び込んできた見慣れた羽織の半身に、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
本物だ。本物がそこに立っている。綺麗な青い瞳と目が合い、私は唇を震わせた。
「びっくりして……西瓜の種、飲み込んじゃいました」
冨岡さんはわずかに目を見開くと、無言のままこちらへ歩み寄ってきた。
縁側に座る私の真ん前に立つと、影がすっぽりと私を覆い隠す。見上げる間もなく、大きな両手が私の両頬を左右から挟み込んだ。
「……っ?」
「口を開けろ」
「ひゃ、ふ……?」
「息はできるか」
至近距離に迫った端正な顔に、驚いて目をまあるく見開く。両頬を指先でぐにっと持ち上げられ、私の唇は半開きに歪んだまま。
ただ種を数個飲み込んだだけなのに、なんだかすごく心配されている?
「口を開けろ。『あー』だ」
そう言って見下ろしてくる大真面目な瞳。
ただでさえ心臓が跳ね上がっているのに、こんな間抜けな顔を晒しながら口の中を見せるなんて、できるものか。
耳の先まで一気に血が上り、みるみるうちに顔が熱くなっていく。
「で、できません……」
恥ずかしさのあまり身を引いて、拒絶を示すようにふるふると首を振った。だが、そんなささやかな抵抗など意に介さないように、持ち上げられた親指の腹が、私の口元へと滑り落ちる。
「……んっ」
皮膚の薄い下唇を、冨岡さんの硬い指先がゆっくりとなぞった。かすかな摩擦に息が止まり、痺れのような熱がじんと全身へ広がっていく。
どうにかこの状況を脱そうと、伸ばした両手で彼のたくましい胸元を押し返そうと試みるが、冨岡さんは手を引くどころか、さらに深く私の顔を覗き込んでくる。
「息を吐け」
逆らえない重みを含んだその言葉の直後、唇に当てられていた親指に、ぐっと力が込められた。
押し広げられるようにして、強ばっていた私の唇が微かに開く。掠れた吐息が零れ、彼の親指の腹を温かく濡らした。
種を喉に詰まらせて死にかけたわけでもないのに、冨岡さんはどこまでも本気だ。妙な動悸を覚えている自分自身に居た堪れなさが募る。
「どこも苦しくないか」
わけもわからず、とりあえずこくこくと頷いておく。頼むから早く離してほしいと叫び出したいのに、唇を割る指の力強さと、間近にある澄んだ青い瞳に射すくめられ、声どころか身動き一つ取れない。
息は、今のところできている。むしろ、この距離のせいで、呼吸の仕方を忘れそうだった。
そのまま冨岡さんは、私の様子に異変がないと判断したのか、ようやく頬から両手を離してくれた。
「……その格好はどうしたんだ」
そのまま彼の視線が、白いワンピースと投げ出された素足へと滑り落ちる。
「……色々、あって……」
「色々?」
「洗濯中に、ちょっと水をかぶってしまって。着替えがなかったので、アオイさんにお借りしていて……」
「……そうか」
「珍しい、ですね。冨岡さん、最近蝶屋敷にはあまり来られないのに」
熱を冷ますように、なんとか平静を装って答える。
冨岡さんは引っ込めた自分の手を見つめたあと、いつも通り淡々とした声音で答えた。
「今夜、胡蝶と合同の任務がある」
…任務。そうだ。この人は柱で、命を懸けて鬼を狩る人だった。ここに立ち寄ったのも、ただの道すがらでしかない。
触れられた唇が、じくじくと熱い。いっそ本当に、あの青い蝶が喋っただけの幻聴だったならよかったかもしれない。さっきまで会いたいと願っていながら、あまりにも自分勝手だった。
でも、そうすれば、こんなにも心臓を掻き乱されなくて済んだ。自分の感情の重さに押し潰されそうにならなくて、済んだ。
「……風邪を引く」
「夏ですから大丈夫ですよ。それに、風が通って涼しいです」
「膝を出すな」
「膝くらい、いいじゃないですか」
なんだが、語気が強くなってしまった。
いつもならもっと素直に頷けるはずなのに、自分を振り回すこの人へのやり場のないもどかしさが、反抗的な言葉になって口をついて出てしまったのだ。
「子どもじゃないんですから、自分の体調くらい自分で分かります」
「お前はなにも分かってない」
「分かってますよ、ちゃんと」
今、自分が冷静さを欠いている自覚はある。
でも、どうしても納得がいかなかった。ただ足が出ているとか、風邪を引くとか、そんな表面上のことじゃない。
この人はいつだって私を庇護の対象としてしか見ていなくて、そのくせさっきみたいに残酷に踏み込んでくる。そうやって綺麗に守られるだけなのは嫌だ。
「せめて羽織を着ろ」
「着ません」
「……お前は、いつも警戒心が足りない」
低く落とされたその言葉に、頭の奥でぷつりと何かが切れる音がした。
「私、冨岡さんが言う程か弱くないです!!」
感情のままに声を張り上げ、身を乗り出すようにして彼の硬い胸板をぐっと突き押した。
「私を、そんな守られるだけの存在にしないでください……!」
苦しかった。そうやって庇護の枠で囲おうとするくせに、その囲いはいつだって中途半端に隙間だらけだから。
そこまで言うなら、いっそ閉じ込めてしまえばいいじゃないか。どこへも行けないよう、頑丈な檻の中に、私を囲ってしまって欲しい。
そうすれば、私だって冨岡さんから逃げようなんてしないから。無理にでも線を引こうなんて、しないから。
「………」
途端に静まり返った辺りに、意図せず体が強ばった。
彼の顔を見たくない。傷つけただろうか。もしそうだったら私は、自分で言い出した癖に泣きたくなってしまう。
「……すまない」
違う。謝らせたいんじゃない。これじゃあ、結局私がただ喚いて迷惑をかけただけじゃないか。
「お前の言う通りだ」
酷く気落ちしたような声色が降ってくる。
もう、わからない。どうしてみんなして、私をそうやって置き去りにするの。冨岡さんも、雪くんも。
腫れ物に触るように一歩引いて、勝手に納得して、ひとりで納得のいく場所へ行ってしまう。
私はただ、対等な場所で隣に立ちたかっただけだ。守られるだけじゃなくて、同じ地平を見つめて、あなたの痛みを知りたかっただけ。それなのに、冨岡さんは誰とも交わらない場所へひとり戻ってしまう。
…ああ、そうか。私は腹が立ってしまったんだ。それをどうして分かってくれないのって、子供みたいに請いてる。これは、ただの八つ当たりだ。
「っ……えっ、と」
突き出したままの手のひらが、今さらになって震え出した。
怒鳴りたいわけじゃなかった。この人を責めたかったわけでもない。
ただ、好きすぎて苦しかった。触れられるたびに心臓が壊れそうになって、守られるたびに自分との距離に絶望して、溢れかえりそうな感情を持て余して破裂してしまっただけ。
「あの、ごめんなさ……」
「あら?冨岡さん。来られてたんですか」
背後から掛けられた声に、喉の奥で言葉が凍りついた。反射的に突き出していた両手を胸元へと引っ込める。
まるで悪事の現場を取り押さえられた子どもだ。庭先に現れたしのぶさんは、ふわりと羽織をなびかせる。
「来たなら来たと、一言おっしゃっていただけないと困りますよ。準備を整えて待っていたんですから」
「……すまない。今行く」
冨岡さんは首だけを巡らせて短く答える。
至近距離で立ち尽くす私たちの不自然な距離感に、しのぶさんはふっと紫の瞳を細めた。
「何か、あったんですか?」
「……いや。何もない」
冨岡さんは感情を削ぎ落とした声でそう遮ると、私に視線を戻すこともなく、静かに踵を返した。
その無機質とも言える引き際が、胸を鋭くえぐる。
何もない、だなんて。全部最初から存在しなかったみたいに。
「行くぞ、胡蝶」
「……ええ。……リサさん、夕方といえどまだまだ太陽は暑いですから、はやく屋敷の中に入ってくださいね」
「……はい、しのぶさん」
しのぶさんの優しい声かけに、私は引きつった笑みを浮かべて小さく頷くのが精一杯だった。
喉まで出かかった叫びは、押し殺すしかない。謝ることも、引き止めることもできない。
「では、行きましょうか」
去っていく二人の背中を見つめる。並んで歩く羽織の揺れが、私と冨岡さんの間にある埋めようのない境界線をこれでもかと見せつけてくる。
ぽつんと取り残された縁側で、私は冷え切った自分の指先をぎゅっと握りしめた。
ああもう――本当に、情けない。
*
何を、やってるんだろう私は。
自分の部屋の布団に身を投げ出して、障子越しに朝日の差し込む天井を眺める。
とにかく自己嫌悪だ。冨岡さんを戸惑わせてしまったこともそうだし、みんなに心配をかけたこともそうだし。
あのあと、放心状態で台所に戻った私の顔は、相当ひどい色をしていたのだろう。心配そうに駆け寄ってきたアオイさんたちに、何も話せなかった。
ただ「なんでもないです」と引きつった笑みを浮かべるのが精一杯で、明らかに動揺している私に、みんなが気を遣ってそれ以上何も聞いてこないのが痛いほど伝わってきた。
どうしていいか分からず、逃げるように自室へ戻ってきてしまったけれど、随分と余計な心配をかけてしまったと思う。
そのままほとんど眠れず、朝を迎えてしまった。
「……はあ」
どうして声を荒げてしまったのかも今となってはよく思い出せない。ただ漠然と大きな孤独が胸を突いて、すごく悲しかったのだ。
彼は、何も悪くない。私の片想いも、胸が張り裂けそうな苦しさも、彼が知るはずもないのだ。それなのに、勝手に意識して、勝手に息を詰まらせて、あげくの果てに「守られるだけの存在にするな」なんて。
彼からすれば、突然わけの分からない怒りをぶつけられたようなものだ。謝りたい。今すぐにでも。
障子から差し込む光は、私の沈んだ気持ちを嘲笑うかのように、あまりにも澄み切った快晴を告げている。
しのぶさんももう昨夜の任務から戻ってきたようで、さっきなほちゃんたちと会話をしてる声が廊下から聞こえていた。
「なあ。今夜、麓の町で花火が上がるらしいぜ」
「花火?」
両手で顔を覆って深いため息をついていると、庭の方からも賑やかな隊士たちの話し声が聞こえてくる。
「ああ。結構な数が上がるらしい」
「こっからでも見えるかな」
「どうだろうな。あっちの山側なら見えるかもな」
「へえ、せっかくだし見たいよなあ。夏らしいことあんまりできてないし」
「だよなあ」
からからと笑い合う声。楽しげなその会話を聞きながら、私も「花火か…」と小さく呟いた。
ここから見えるのなら、少し見てみたいかもしれない。昨日の今日で、心の中はぐちゃぐちゃに散らかったままだから、何か綺麗なものでも眺めていないとやっていけない気がした。
夜空いっぱいに広がる光を見上げれば、少しは頭を冷やすことができるだろうか。
アオイさんやカナヲさん、なほちゃんたちはみんなで見たりするのかな。
しのぶさんも任務明けで疲れているかもしれないけれど、もし少しでも時間が合えば、みんなで縁側に並んで眺められたらいいな、なんて思う。
あとで台所へ手伝いに行くついでに、それとなく聞いてみよう。
「……よし」
小さく気合を入れるように呟き、私は重たい身体を起こした。
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