61
「あ……」
声にもならなかった。数メートル先で待ち構える冨岡さんと正面から目が合ってしまう。
逃げ場なんてどこにもない。背後で気配を消した善逸くんに心の中で「ひどいよ!」と叫んでみるけれど、私の足は地面に張り付いて動かなかった。
冨岡さんは受け取った小包を持ったまま、じっとこちらを見つめている。複雑な気持ちもありながら、それよりも今は気合を入れて着飾ったこの浴衣が、全部自惚れみたいで急に恥ずかしくなってくる。
ぜ、善逸くん。どうしよう。大丈夫って言ってたけど、全然大丈夫じゃないよ。こういう時、どんな顔をすればいい?「こんばんは」って、いつも通りにさえ言えない気がするよ。
冨岡さんはふっと肩の力を抜くと、ゆっくりとした足取りでこちらへ歩み寄ってくる。
「遅かったな」
「あ、えっと……その、下駄、が慣れなくて。お待たせして、すみません……」
しどろもどろに言葉を紡ぐ。至近距離で彼に見下ろされ、肩をすくめて息を止めた。
冨岡さんは私の頭の先からつま先までを、ゆっくりと視線でなぞっていく。
「あ、あの、何か……?」
「………」
見つめられると、なんだか肩身が狭くなってくる。いつも通り、そんな彼から感情を読み取れるはずもなく。
私だけこんなに浮かれて、張り切って。やっぱり、いつも通りの装いで来るべきだったかも。
「浴衣を着てきたのか」
「あ、はい……その、せっかくなので……。変、ですか?」
「いや……」
「…よ、良かった………」
「それほど空色が似合うとは、盲点だった」
どう、してそういうことをさらりと言ってしまうのか。帯留めのときは何も言ってくれなかったのに。
じわじわと、足先から頭のてっぺんまで熱が駆け上がっていく。
「あ、ありがとう、ございます……」
顔が火照って仕方がない。せっかくアオイさんが薄く引いてくれた頬紅なんて、もう意味をなしていないだろう。
何でもいいから、この甘苦しくて心臓を直接掴まれているような緊張をどこか遠くへ追いやりたい。
「あ、アオイさんが貸してくれたんです。あ、冨岡さんにいただいた帯留めも、この浴衣によく合うので、一緒につけてもらって……」
「そうか」
意味もなく、なぜか説明せずにはいられない。
「空色が似合う」なんて、あの時の「桜色」を覚えているような言い方、反則だ。
「行くか」
「えっと、その……はい」
消え入りそうな声で、私は短く応じる。真っ赤に火照った頬は、いくら手で煽ったところで冷めてはくれない。冨岡さんは一度だけこちらへ顔を向けると、手に持った小包をとりあえず屋敷の郵便受けに入れた。
カラン、コロン。彼を追うように私の足音も響く。隣なんて、とてもじゃないけれど歩けない。
だめだ。全然、いつも通りになんてなれない。これじゃあ、花火を見る前に私の心臓が先に弾けてしまいそうだ。
*
山道を下り、賑やかな町へと差し掛かると、昼間とはまた違った賑やかさが広がっていた。
見渡す限りの提灯。赤や橙の灯りが夜の闇を照らし出し、立ち並ぶ屋台からは香ばしい匂いが流れてくる。
行く前にしのぶさんが少しだけ教えてくれたけれど、この花火は江戸時代から続く由緒あるものだそうで。私の想像を遥かに超える規模だった。きっと他の町や村からも、この一夜の輝きを求めて大勢の人が集まっているのだろう。SNSも何もない時代なのに、すごいな。
ふと、前を行く冨岡さんの背中に目を向ける。彼は今日も相変わらずの隊服姿に、あの羽織を纏い、腰には日輪刀を差していた。非番だといっても、これほどの人混みだ。いつ、どこから鬼が紛れ込んでもおかしくないのかもしれない。
少しだけ寂しいと思いながらも、仕方ないと理解はしている。けれど、今の私にとって最大の問題はそんなことではなかった。
……人、多すぎない!?
一歩進むごとに、誰かの肩と触れ合いそうになる。慣れない下駄は、砂利道や人混みの中では思うように進んでくれない。彼の背中を見失わないようにと必死に足を動かすけれど、浴衣の裾が足に絡まり、歩幅がどうしても狭くなってしまう。
どんどん離されていく距離。もしここで、彼の姿を見失ってしまったら。この広い場所で、私は迷子になってしまうんじゃないか。
そんな根拠のない焦りが、じわりと背中を伝っていったその時だった。
「…高月」
冨岡さんが肩越しに視線をこちらへ向けると、右の腕を少しだけ後ろへと動かす。
「俺の羽織を掴んでいろ」
「え……?」
「見失う」
「あ、えっと……はい」
おそるおそる手を伸ばし、その布地を指先でぎゅっと握りしめる。冨岡さんは私がしっかりと掴んだのを確認すると、再びゆっくりと歩き出した。
…これじゃあ、さっきよりもずっと心臓に悪い気がする。カランコロンと、私は必死にその広い背中にしがみつくようにして歩いた。
人の波に揉まれながら歩いていると、次第と周囲の喧騒にも慣れてくる。ふと視線を外し辺りを眺めていると、冨岡さんはふいに行進を止めた。
「何か、食べたいものはあるか」
「た、食べたいもの、ですか?」
「ああ。祭りに来たら、そういうものを食べるだろう」
冨岡さんは少しだけ困ったように、視線を周囲の屋台へと泳がせる。
焼きもろこし、焼き団子、草餅、水飴。色とりどりの食べ物が並ぶ光景を私も一通り眺める。
「そうですね……」
焼き団子は…絶対に大きな口で頬張ることになるし、草餅も同じだ。焼きもろこしなんて論外で、齧った瞬間に何かが歯に付く未来しか見えない。
「水飴がいいです」
「…水飴か。分かった」
冨岡さんは短く頷くと、人混みを縫うようにして屋台の方へと歩き出した。私もその背中に遅れまいと、羽織を握る手に力を込める。
「冨岡さん、冨岡さん。あそこにぶら下がっている、あの真っ赤な丸いものは何ですか?」
「…
「へぇ……。あ、じゃあ、あっちの桶に入っている白くて長いものは?」
「…晒し飴だ。職人が手で引き伸ばして作る」
一歩進むごとに、私の目には新しい発見が飛び込んでくる。未来の記憶にある「お祭り」とは少し違う、大正の夜を彩るどこか素朴で力強い色彩。
冨岡さんは私の止まらない質問に、ひとつひとつ突き放すことなく答えてくれた。
「冨岡さん、あれはお餅ですか?」
「…へらへら、だ。薄く焼いた餅だ」
「へらへら……、名前も面白いですね。あ、あっちにはお面がいっぱい……!」
きょろきょろと首を動かす私を見て、冨岡さんはわずかに歩みを緩めてくれた。
竹細工の玩具や、丁寧に細工された飴細工。便利で煌びやかな未来もいいけれど、こうして誰かの手仕事が息づいているお祭りも胸が温かくなって素敵だ。
「お祭りって、なんだかわくわくしちゃいますね!こんなに賑やかで、みんな楽しそうで」
「……そうだな」
「はい!気になるのがたくさんあって困ります!」
「急がずとも、ゆっくり見ればいい」
振り返った冨岡さんの優しい目に見つめられて、はく、と空気を飲んだ。ぎゅうと羽織を握る手に熱が上がる。
「水飴だったな、ここで待っていろ」
「は、はい……ありがとうございます」
冨岡さんはそう言うと、すぐに近くの屋台へと向かっていった。自然と羽織から手が離れ、彼が人混みの向こうへと消えていくのをつま先立ちで見守る。冨岡さんはこの時代にしては背が高めたがら、どこにいるのか分かりやすくて有り難い。
それにしても本当にすごい人だ。いいポジションで花火を見るのは難しそうかな。…でもまぁ、冨岡さんと一緒に来れたっていうことが嬉しいから、何でも良いんだけど。
ふと横に顔を向けると、少し離れた街灯の下で一組の若い男女が睦まじく寄り添っているのが見えた。浴衣を着た女の子が、男の子の袖をはにかみながら引き、男の子はそれに優しく応えるように笑う。素敵な恋人同士に見える。
…私たちは、側から見たらどのよに見えているのだろう。彼が花火に誘ってはくれたけれど、その真意を確かめる勇気なんてこれっぽっちもない。
「高月、待たせた」
「え…わ!早い。ありがとうございます」
少しして、冨岡さんが練られた水飴を手に戻ってきた。
「そうだお代、おいくらでしたか…?」
差し出されたそれを受け取りながら、ふと思い当たって懐に手を伸ばす。
そういえば、しのぶさんにお小遣いをいただいたのだった。いつもしてもらってばかりだから、これくらいは私が払わないと。というか、冨岡さんにも何か食べてもらおう。
「たわけ」
コツリ、と軽い衝撃。冨岡さんが軽く握った拳で私の額を優しく小突いた。
驚いて顔を上げると、「何を言っているんだ」と言いたげな眼差しがある。
「お前は何も気にするな」
「……でも、これじゃあ私、甘えてばかりで……」
「構わない。甘えていればいい」
ぶっきらぼうに紡がれたその言葉が、信じられないほど甘やかに私の鼓動を跳ねさせる。
彼は私の遠慮を見透かしているのか、大きな掌をもう一度だけ私の頭に乗せると、子供をあやすような手つきでくしゃりと撫でた。
「他に食べたいものはないか」
「……な、ないです……」
咄嗟にそう答えていた。恥ずかしくて、胸がいっぱいで。もう何も胃に入りそうにない。
私は俯いたまま、熱を持った額をそっと指先で押さえる。
「と、冨岡さんは……何か食べたいものはないですか?」
冨岡さんこそせっかくの非番なんだから、美味しいものを食べてもらいたい。
冨岡さんは私の問いかけに、一度だけ周囲の屋台に視線を巡らせた。けれど、すぐに興味を失ったかのようにまたその蒼い瞳を私へと戻す。
「俺はいい」
「え……嘘です。だめですよ、私だけじゃなくて冨岡さんだって楽しまないと!…そうですね。やっぱり私、焼き団子も食べたいです!半分こしましょう!」
少しだけ勇気を出して、彼の羽織の袖を指先でちょんと引いてみると、冨岡さんは困ったように瞬きをした。
「……」
「焼き団子、食べたくないですか?ね、行きましょうよ」
「……ああ」
また何か「たわけ」と小突かれるかと思ったけれど、彼は私の歩幅に合わせてゆっくりと屋台の方へ歩き出してくれる。
私は満足して、その隣で大切に持っていた水飴をパクリと口に含んだ。
「ん……!」
思っていたより、ずっと美味しい。すごく甘い。
でも、その甘さよりも、今この瞬間に感じている幸福の方が私の胸をいっぱいにしていた。
冨岡さんは顔を傾け、私の様子を観察するようにこちらを伺う。
「どうだ」
「美味しいです!すごく……甘くて、」
口の中に残る甘さに声を震わせながら答えると、彼は短く「そうか」とだけ応じた。
私は水飴を転がしながら、隣を歩く冨岡さんの横顔を盗み見る。すっと通った鼻梁と、きゅっと結ばれた唇。無駄のない余白。なんて綺麗な造形美だろう。その後頭部で束ねられた長い髪が、時折夜風に揺れてその横顔を隠してしまうのさえもったいない。もっと、ずっと見ていたいのに。
そう思って視線を巡らせれば、すれ違う町娘たちが、頬を染めてちらちらと彼を振り返っているのが分かった。
……やっぱり。みんな、見ちゃうよね。鬼殺隊の女隊士の間でも、口には出さずとも彼を遠巻きに眺めている人は多いはずだ。口下手で、少し浮世離れしたところがあるけれど、その圧倒的な強さとこの美貌だもの。放っておかれるはずがない。
こんなに綺麗な人の隣に、私なんかが並んで歩いていていいのだろうか。急に不安になってくる。
「……焼き団子、あそこだな」
冨岡さんは視線を前方に向け、煙が立ち上る屋台を指差した。香ばしい醤油の匂いが、夜風に乗ってふわりと漂ってくる。
「あ……いい匂い。冨岡さん、湯気が立ってますよ。早く行かないと、なくなっちゃうかもしれません。すぐに行きましょう」
気づけば、いつもの気後れもどこへやら。私は匂いに誘われるように自然と手を伸ばし、彼の羽織の裾を掴んで引いていた。
胸がいっぱいだと言ったが、訂正する。今なら何でも食べられそうな気がする。
「……無くなりはしないだろう」
冨岡さんが少しだけ可笑しそうにそう言いながらも、私が引く力に逆らわずその歩幅を広げてくれた。
人混みを縫うようにして、私たちは煙と匂いの中心地の焼き団子の屋台へとたどり着いた。網の上でパチパチと音を立てながら焼かれるお団子。
「いらっしゃい!焼きたてだよ!」
威勢のいい店主の声に、私の胸はさらに高鳴る。私は期待に満ちた目で冨岡さんを見上げた。
「……一本でいいんだな」
「え、」
「半分こだと言っただろう」
冨岡さんが懐からお財布を取り出しながら、念を押すように問いかけてくる。途端に、私の頭の中で葛藤が巻き起こった。
目の前の、この熱々の四つ付きのお団子が、たったの二粒。……足りない。絶対的に、足りない気がする。一人だったら本当は二本は平らげていた。
けれど、これは冨岡さんにもお祭りの味を楽しんでほしいという名目でお誘いしたものだ。それに一本を二人で分けるのって、すごく特別な感じがするし…!
「い、一本で大丈夫です……」
必死に自分に言い聞かせるように、ブンブンと首を横に振って答えた。
冨岡さんはふっと鼻で笑いながら「わかった」と応じると、店主に代金を支払い、その熱々の串を受け取る。
「ほら」
差し出された一本の串。ごくりと喉が鳴る。
…二つ。…大事に、食べなきゃ…。
私は最後の一欠片になった水飴をパクリと飲み込むと、覚悟を決めて、彼が持つ串の先へとそっと顔を近づけた。
冨岡さんは驚きつつも、私がお団子を落とさないよう口元でじっと支えてくれる。
口の中に広がる甘辛い醤油の風味と、もちもちとした食感。
「ん……っ!お、美味しいです!冨岡さんも早く食べてみてください!」
「ははは!嬢ちゃん、いい食べっぷりだねぇ。こっちまで嬉しくなっちまうよ」
焼き台の向こう側で団子をひっくり返していた店主のおじさんが、ニカッと歯を見せて笑った。
「はい!外はカリッとしてるのに、中は信じられないくらい柔らかくて…!とっても美味しいです!」
「嬉しいねえ。そっちの旦那も、こんなにべっぴんさんの奥さんに美味しそうに食べてもらえたら、連れてきた甲斐があるってもんだろ?」
「げほっ、ごほっ……!!」
喉を通ろうとしていたお団子が変なところに入りそうになり、私はむせ返った。
…奥さん?一体どこをどう見てそう思ったのか。咳き込んでしまったせいで否定もできず胸を押さえる私に、冨岡さんは少しだけ驚いた様子で私の背に手を添えてくれる。
「……だ、大丈夫か。ゆっくり食べろ」
とんとん、と規則正しいリズムで撫でられる背中。その掌から伝わる体温が、余計に私の心拍数を跳ね上げる。
けれど、店主のおじさんはそんな私の動揺にこれっぽっちも気づいていない様子で、網の上で団子をひっくり返しながらさらに追い打ちをかけてきた。
「はっはっは!照れるこたぁねえよ。これだけ仲が良いんだ、きっと家でも旦那さんがしっかり守ってやってるんだろ?幸せもんの奥さんだねぇ!」
「んぐっ……!」
だめ、これ以上は。否定したいのに、咳き込んだ喉は言葉を押し出してくれない。
視線を少し落としたまま、私は残りのお団子をどうにか口に押し込む。
「……口元」
ふいに低い声が落ちて、冨岡さんの指がほんの一瞬だけ私の唇の端に触れた。そして、何事もなかったみたいにすぐに離れる。
「付いてた」
それだけ言って、視線を逸らす。
「す、すみません…」
これは、何に対しての謝罪なのだろう。
「はっはっは!若いねえ!」
「……こいつが危なっかしくて目が離せないのは確かだ」
「ははっ!やっぱりか!」
何だ、結局子供扱いですか。夫婦に間違えられたことなんて、彼はちっとも気にしてない。
恥ずかしがってしまった自分が急に恥ずかしくなってくる。
「先刻も、人混みに流されそうになっていただろう」
「それは……っ、そうですけど」
確かに私はいつも警戒心が足りないと言われるけれど、今の文脈でそれを肯定してしまったら、おじさんの勘違いに拍車をかけてしまうのに。それも彼が私を意識していないからなのか。
けれど案の定、店主は「ほら見ろ!」と言わんばかりに膝を叩いて笑う。
「がはは!全くだ、こんなに可愛い奥さんなんだ。他の奴にさらわれちまわないよう、旦那がしっかり手ぇ引いてなきゃいけねえな!」
おじさんの冗談めかした言葉に、私は顔から火が出そうなほど熱くなる。
「いえ、私たちは決してそうではなくてですね、」
「……ああ。守るのが俺の役目だ」
事も無げに言ってのけたそんな彼に驚いて、私は目を見開いた。
…ああ、そうだ。この人はそういう人だった。彼にとって、この誤解を解くことは、自らの信念を否定することと同義なのかもしれない。だからこそ、彼はわざわざ訂正などしないのだ。
目の前の命を零さないこと。弱き人を助け、盾となること。たとえ相手が私でなくても、この人はきっと同じようにその大きな背中で誰かを守り抜こうとするだろう。
鬼という理不尽な恐怖から、人々の穏やかな暮らしを守るために、孤独に刀を振り続けてきた人。
たとえそれが、勘違いから生まれたやり取りだったとしても。彼の口から出た「守る」という響きが、あまりに甘美で、残酷なほどに私の心を震わせた。
「おっ、頼もしいねぇ!末永くお幸せにな、お二人さん!」
店主の威勢のいい笑い声が夜空に溶け、冨岡さんは小さく一度だけ頷くと、私の背中を促すようにぽんと押した。
「……行くぞ。花火が始まる」
私は熱を持った顔を隠すように俯きながら、彼の隣を一歩、また一歩と、震える足取りで踏みしめた。
前へ 次へ
目次へ戻る