62


人混みの渦をようやく抜け出し、私たちは打ち上げ場所に近い川辺へと辿り着いた。視界が開けると、さっきまでとは打って変わり、川独特の水気と湿気が混じった空気が流れてくる。

「…わあ、素敵な場所ですね」

冨岡さんに促されるまま、私たちは土手の緩やかな斜面に足を止めた。
開けた場所とはいえ、やはり有名な花火だ。周囲にはすでに多くの見物客が腰を下ろし、今か今かと夜空を見上げている。

「もう、そろそろですかね?」
「ああ。刻限だ」
「楽しみです!……実はここに来てからは初めてなんです、花火を見るの」

私は両手を胸の前で握り直し、隣に立つ冨岡さんを見上げた。

「……初めてか」

冨岡さんは、私の言葉をなぞるように低く呟く。
こんなに夜遅くに出歩くなんて久しぶりだ。それに、冨岡さんと一緒に花火を見られるなんて。夢みたい。今日来てよかった。きっと、一生の思い出になるだろう。
隣に立つ冨岡さんを見上げると、彼はふと川の向こう岸から吹いてくる風に鼻先を向けていた。彼の瞳からは、何を考えているのかを読み取ることは難しい。けれど、こうして隣に並んでいると、纏う空気がいつもより少しだけ柔らかいような気がする。

「冨岡さん。今日はお忙しいのに付き合っていただいて、本当にありがとうございます」
「…気にするな。お前と来ることを選んだのは俺だ」
「……はい、嬉しいです」

彼も同じように、この瞬間を特別だと思ってくれているのだろうか。そんな淡い期待が胸をかすめる。
ふわりと風の向きが変わり、重く湿った空気が肌へとまとわりついた。ふと、冨岡さんが隣で目を細める。

「……降るな」
「ふる?」

どこか断定的な呟きに、頭を傾げる。視線の先を追いながら問い返してみたけれど、返事はない。
ふるって何が。まさかもう花火が?でも、花火にふるなんて日本語は使わない。
不思議に思って彼を見上げるも、冨岡さんは空一点を見つめたまま動かない。その横顔は水柱としての彼の顔に戻ったようで、どこか冷徹に見えた。

「冨岡さん…?何かあったんですか?」

不安になって、彼の羽織の裾に手を伸ばそうとしたその時。

ぽつり。

冷たい感触が、私の頬に一点。
続いて、鼻先、手の甲。
ぽつり、ぽつりと空から降ってきた透明な雫が、私の肌を叩いたかと思った瞬間。

ザァァァァァ───と空から一気に降り注いできた雫に、誰もがぎょっとした。
一瞬前まで穏やかだった夜風が、牙を剥いたような突風へと変わり、視界を遮るほどの激しい雨が私たちを容赦なく叩き始める。

「えっ、嘘……っ!?」
「雨だ、雨……!」

周囲からは悲鳴に似たどよめきが上がり、人々が慌てふためいて逃げ惑う。
あまりの急転直下に、私は思考が追いつかなかった。せっかくの浴衣が一瞬で重く、肌に張り付いていく。目の前が真っ白に霞むほどの豪雨の中で、私はただ、この最悪のタイミングを恨むことしかできなかった。
どうして今なのか。よりによって、今。これから上がるはずだった花火。彼と見るそれを、私は何よりも楽しみにしていたのに。

「こりゃあ、中止だね……」
「ひでえ雨だ、とりあえず軒下に……!」

町の人は声を上げて帰っていく中、子供達は泣き出してしまった。雨に打たれ、呆然と立ち尽くす私の足元では、泥水が激しく跳ねている。
私は、そういう星回りの運命にあるのかもしれない。いつも肝心な時にうまくいかない。だから、小さな子どを救って、この時代にまで落ちてきたんだ。
悲しくて、情けなくて。彼の非番まで台無しにしてしまった事実に、申し訳なささえ生まれる。

「高月、――るか」
「え?」

冨岡さんに呼ばれて見上げるが、雨粒がまつ毛に絡み視界が滲む。雨が強すぎて、あまりよく声も聞こえない。

「――れるか」
「え?」

「なんですか?」ともう一度聞き返そうとして、顔を近づけたその時。
ぎゅっと右手に温かな体温が重なった。指先を包み込むように、冨岡さんの大きな掌が私の手をしっかりと握り締める。

「走るぞ」

その瞬間だった。冨岡さんが私の手を引き、ぬかるみ始めた土手を駆け出していた。

「……え、あっ……!」

驚きに目を見開いた拍子に、さらにぐっと手を引き寄せられる。容赦なく瞳に飛び込んでくる雨。
けれど、揺れる視界の中、私は初めての景色を見た。
足元でパシャパシャと跳ね返る水。土手に沿って並ぶ提灯の淡い光が、その跳ねた雨粒に反射して、きらきらと、まるで宝石のように輝いていたのだ。
……あ。……綺麗。雨に煙る世界。耳を貸せば豪雨の音しかしないはずなのに、彼に手を引かれているというただそれだけで、驚くほど幻想的な景色が映し出される。
その背中を見つめていると、肩越しにこちらを振り返った冨岡さんと目があった。そして、必死についてくる私を確かめるように見つめると――ふっと、優しく口角を上げて笑ったのだ。

「……あ」

瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。最悪だと思っていたこの景色が、一瞬で忘れられない景色に塗り替えられていく。
濡れて乱れた髪。逞しい背中。そして、私の手を決して離さないその熱い掌。
絶望なんてどこへ行ったんだろうというくらいに、もうどうでもよくなってしまう。

「冨岡、さん……」

震える声でその名を呼ぶと、彼は走る速度を緩めることなく、さらにぐっとその手を強く握り直してくれる。

「大丈夫だ」

冨岡さんにそう言われると、本当にすべてが大丈夫なのだと思えてしまうから不思議だ。
こんなに急いで走っても、もう最悪な事態は変わらないのに。楽しみだった花火は消え、せっかくの装いも台無しになってしまった。けれど今の私の瞳には、どんな大輪の花火よりも鮮やかで、一生消えることのない光が焼き付いてしまった。

ああ、そうか。花火なんて、もう上がらなくてもいい。
泥を跳ね上げ、雨の中を二人で駆けていく。彼が冷え切ったはずの私の体温を、いつまでもどこまでも熱く昂らせていた。









「……はぁ、はぁっ……」

やがて、小高い丘の縁にひっそりと佇む古いお堂が姿を現し、冨岡さんは迷うことなく私をその軒下へと引き入れ、ようやく二人の足音が止まった。
息が乱れに乱れた私とは違い、冨岡さんはほんの少しだけ呼吸が浅くなった程度。普段からの鍛え方が違うのは分かっているけど、あまりの差に少し運動しようと心に決める。

「……暑いな」

冨岡さんはふぅと小さく息を吐くと、隊服の詰襟にその綺麗な人差し指を滑り込ませた。そのままくい、と喉元を押し広げ溜まった熱を逃がすように隙間を作る。
雨は先程と比べて弱まったとはいえ、まだしとしととふり続けている。冨岡さんは辺りに視線を走らせると、胸を押さえて肩で呼吸を繰り返す私に向き直った。

「大丈夫か」

私の様子を見て瞬時に心配そうな表情になる。そりゃ、こんな息を乱している人を目前にしたらそんな表情にもなるだろう。
すみません、ろくに言葉も返せない状況で。小さく咳き込みながら、大丈夫という意思表示のために精一杯頷いて見せた。

「全力で走らせてしまってすまない」
「とみ、っ…とみおかさ、…なんでそんな、…涼しい顔して…!」
「これくらい体力がないと仕事にならない」

やっぱり鬼殺隊ってそれくらい体力がないとやっていけないのだな。
ぜはーぜはーと息を乱しながら呼吸を整えるの私の前に冨岡さんがやって来て、小さく笑いながら私の頭を撫でてくる。突然のことに一瞬呼吸の仕方さえ忘れた。

「…冷えただろう。これを着ていろ」

冨岡さんは濡れた指先で自らの羽織を脱ぐと、大きな翼を広げるようにして、その羽織を私の肩へと掛けた。

「あ、でも、冨岡さんだって……!」

言いかけた言葉は肩に乗せられた布地の重みと、そこに残っていた微かな体温に遮られる。
彼は私の濡れた肩を羽織越しにぐっと引き寄せると、もう片方の手で私の頬に触れた。指先が雨の雫を拭うようにゆっくりと動く。

「じっとしていろ」

雫を拭ったその指先をそのまま上へと滑らせ、水気を吸って額に張り付いた私の前髪を、丁寧に慈しむように一房ずつ掻き分けてくれる。
指先が額に触れるたび、そこから熱が伝わってくるようで、私は呼吸をすることさえ忘れて冨岡さんの蒼い瞳を見つめ返す。

「花火は、残念だったな」

独り言のように呟きながら、乱れた毛先を指先で整え耳の後ろへとそっと撫でつけた。
…ああ。だめだ。そのあまりに優しい仕草に、胸の奥がきゅうっと音を立てるように締め付けられた。さっきまで走っていた鼓動とは違う、もっと深くて、切ないくらいの熱が肺を満たしていく。
全然、残念なんかじゃない。びしょ濡れの浴衣も、冷え切った体も、この指先の温度に触れるための代償だったのならいくらでも払える。

「……冨岡、さん」

震える声でその名を呼ぶと、彼は前髪を整え終えた手を止めることなく、そのままそっと私の肩へとおろされた。
雨の滴るお堂の軒下。世界中が激しい水音に包まれているはずなのに、私の耳には冨岡さんの静かな吐息と、自分の騒がしい心音しか聞こえてこない。

「……私、一生忘れません」

言いながら、また胸がぎゅっと締め付けられる。
冨岡さんは私の言葉を聞いて、少しだけ驚いたように目を見開いた。それから困ったように視線を泳がせると、再び私の濡れた耳元にそっと手を伸ばす。

「…お前は、変わっているな」

呆れたような、けれどこの上なく愛おしそうな響き。冨岡さんはもう一度だけ耳朶に手を滑らせてから、はっとしたように離した。
至近距離で重なっていた熱が急に遠のき、彼は少し決まり悪そうに視線を泳がせると、一歩距離を置いて私の隣に並び空を見上げる。
……あ。行かないで欲しい。伸ばしかけた指先が、空を切る。冨岡さんの体温が消えた場所が、急に夜風に晒されて冷たくなった気がして、私の胸には静かな寂しさが溜まっていく。
隣に立つ冨岡さんの肩は私に羽織を貸してくれたせいで、隊服が雨を吸って重そうに張り付いている。さっきまでのあの夢のような甘い時間は、雨音にかき消されて幻になってしまったのだろうか。

「しばらく止みそうにないな」

冨岡さんは前を見据えたまま、凪いだ声でそう告げた。

「…はい。そう、ですね…」
「ここで待っていろ。傘を買ってくる」

その、あまりに守るべき対象として私を扱う事務的な優しさに、私の胸は悲鳴を上げた。
彼が雨の中に消えてしまう。一人取り残される不安よりも、この特別な時間が、ただの不運な思い出として完結してしまうことがたまらなく怖かった。

「……っ、待ってください……!」

考えるより先に、体が動いていた。私は冨岡さんの隊服の袖を震える指先でぎゅっと握りしめた。濡れた布地の感触と、その奥にある逞しい腕の熱。

「…なんだ。一人では不安か」

冨岡さんは足を止め、振り返る。その声はどこまでも優しく、私をあやすような響きを孕んでいる。
けれど、私は何も答えられなかった。ただ下を向き、溢れ出しそうな感情を堪えるようにきゅっと手に力を込める。
…不安なのは、雨のせいじゃないんです、冨岡さん。今日、彼と一緒に歩いた。お団子を分け合い、店主に夫婦と間違われ、彼に「守るのが役目だ」と言われた。
そして、あの雨の中。世界が最悪な色に染まった瞬間、冨岡さんが手を引いて笑ってくれた。その景色を見て、分かってしまったのだ。
こうして冨岡さんと隣にいられることは、決して当然なんかではないと。明日にはまた、彼は死と隣り合わせの戦場へ向かう。私はただ、その背中を見送るだけの存在。この幸せは奇跡のような確率で、今、この瞬間にだけ許された借り物なのだ。
そう思ったら、もう駄目だった。視界が急激に熱を帯び、雨粒とは違う温かな雫が、頬を伝って地面に落ちる。胸の奥で、せき止めていた想いの堤防が決壊する。

「……好きです」

ああ。溢れてしまった。
激しい雨音に、今の小さな声は消されてしまったと思った。けれど冨岡さんは大きく見開いた瞳で、私を真っ直ぐに捉える。

「冨岡さん、好きです……」

まっすぐと目を見て告げる。勢い任せに口に出したら、そこからはもうどうにでもなれという気持ちだった。正解なんて分からない。こんな時に、こんな場所で、ずぶ濡れの姿で伝えるなんて、何一つ正しくないことは分かっている。
でも、今言わないと。次にいつ会えるか分からないこの世界で、この想いを隠したまま明日を迎えたら、私はきっと一生後悔する。

「あなたを、お慕いしています……」

ぽろぽろと、涙が止まらない。しゃくり上げるたびに、肺がひりひりと焼けるように痛い。
ああ、苦しい。どうして人を好きになると、こんなに呼吸がしにくくなるんだろう。

「もちろん……私は、あなたに好きになって貰えるような、立派な女性じゃないことは分かっています……。でも、この想いだけは、どうしても伝えたくて……。私、口下手で、人から誤解されやすいけれど、本当は誰よりも優しくて温かいあなたのことが、す……」

き、まで言うことは出来なかった。
後頭部を強く引き寄せられて唇を彼のそれで塞がれて、私の声は喉の奥に消える。
何が起きたのか、一瞬、脳が理解を拒んだ。視界が白く爆ぜ、鼻先に触れる冨岡さんの体温と、雨に濡れた彼の凛とした匂いだけが、私の理性をバラバラに解いていく。

「と、とみお……んぅ……」

縋るように漏らした声さえも、彼の唇によって優しく、けれど強引に絡めとられる。
驚きに震える私の体は、吸い寄せられるように後ずさり、冷たいお堂の壁に背中を打ちつけられた。逃げ場を失った私の両頬を、彼は大きな掌で包み込み、まるで私のすべてを飲み干そうとするかのように、何度も何度も角度を変えて重なり合った。
湿った音を立てて唇が離された瞬間、膝の力が一気に抜け、視界がぐらりと揺れる。ずるずると地面に崩れ落ちそうになった私の腰を冨岡さんは強い力で抱き寄せ、その逞しい腕で私を支え持った。

……あ。
至近距離で見つめ合う、その蒼い瞳。いつもは凪いだ湖面のように静かなはずのその奥に、熱い熱が渦巻いているのが見て取れた。
あれほど激しく鳴り響いていた雨の音も、もう何も聞こえない。ただ、重なり合う二人の熱い吐息と、耳元で暴れる心臓の音だけが、この狭い空間を支配している。
こんな冨岡さん、知らない。こんな熱を持った人だったなんて、知らない。いつだったか、穏やかに見える川ほど流れが速いって言葉。誰が言っていたんだっけ。
ああ、そうだ。しのぶさんだ。そう言って笑っていた彼女の言葉を思い出し、私は今、その本当の意味を身をもって知らされていた。
この人の、あの無表情な仮面の裏側で。あの、静寂を絵に描いたような瞳の奥底で。一度決壊してしまえば、もう誰にも止められない。私を飲み込み、さらっていく、あまりにも熱くて激しい水の流れ。

「とみ、岡さ……どう、して……」

震える声で問いかけると、私の腰を支えていた冨岡さんの腕にぴくりと硬い力が入る。彼は弾かれたように視線を逸らした。どこかバツの悪そうな歪な表情。その横顔を見た瞬間、私の胸の奥で警鐘が鳴り響いた。
さっきまで私を焦がしていた熱が、急速に引いていく。代わりに込み上げてきたのは、喉の奥を焼くような苦い後悔。
やはり、伝えるべきではなかった。こんな身勝手な想い、勢いに任せて伝えるべきものではなかったのに。
視界が急激に歪んで、お堂の軒下を叩く雨の音も、冨岡さんの顔も、私の心も。すべてがぐにゃりと歪みに歪んで。
その底知れない歪みに飲み込まれてしまわないように、私は必死に、震える唇で言葉を手繰り寄せた。
聞きたくない。その答えを聞けば、私は二度と立ち上がれなくなるかもしれない。けれど、聞かなければ、この歪みの中で私は一生息ができない。

「……冨岡、さん……?」

私の縋るような呼びかけに、彼は唇を噛み締め、消え入るような声で決定的な言葉を口にした。

「…すまない」

ほら、苦しくなった。心臓が真っ二つに割れたような衝撃。
この頬を伝う涙だって、さっきの雨みたいに弾けて、跡形もなく消えてしまえばいいのに。

「すまない、高月」

辛そうに眉を寄せる冨岡さんの顔なんて、見たくなかった。彼に、そんな悲しい顔をさせるつもりなんてなかったのに。
でもそれが彼が導き出した、あまりにも残酷で、けれど彼らしい正解。

「高月……、すまなかった」

責められるはずがない。恨めるはずもない。
期待なんてせずに、ただ隣にいられるだけでいいと自分に言い聞かせて生きてきたはずなのに。いつから私は、こんなにも多くを望むようになってしまったんだろう。
ふっと、体を支えていた熱が消えた。彼は一度もこちらを振り返ることなく、雨の中へと逃げるように駆け出していく。
それが傘を買いに行くためではないことくらい、今の私には痛いほど分かってしまった。
一人残された軒下には、彼の羽織の重みだけが皮肉なほど温かく残される。



「……歩き難い」

ポツリと溢れた言葉は、雨音に吸い込まれて消えた。下駄のせいじゃない。濡れた浴衣のせいでも、降り続く雨のせいでもない。私の目の前に広がる帰り道が、あまりにも歪んでいるからだ。
歪んだ道、歪んだ町、歪んだ景色。提灯の光が水たまりに反射して、まるであざ笑うように揺れている。
……ああ。終わったんだ。私の、初めての恋。花火さえ見ることの叶わなかった、短くて、激しくて、冷たい夏。
私は冨岡さんの羽織をぎゅっと抱きしめ、二度と戻らないあの笑顔を胸の奥に閉じ込めて、歪んだ夜の中を一歩ずつ、あてどなく歩いた。




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