62


洗濯や掃除、片付けを手伝っているうちに、気づけば時間はあっという間に進んでいた。
夕暮れ時の台所で、私は夕餉の支度に使った小鉢をせっせと洗い流す。
花火が上がるまであと少しかな、と心地よい疲労感のなか手を動かしていると、入口の引き戸がことりと音を立て開いた。
ふと顔を上げると、アオイさんが戸の隙間からひょっこりと顔を出している。

「アオイさん?」

目が合うなり、彼女は真剣な面持ちでちょいちょいと私に手招きをしてきた。
手を止め、首を傾げてみる。けれど彼女は何も言ってはくれず、引き締まった顔のままもう一度手招きを繰り返した。

「どうしたんですか?」

急いで泡を洗い流し、手ぬぐいで水気を拭き取る。結んでいた襷を解きながら小走りで近寄ると、アオイさんは硬い口調で言った。

「少しいいですか?」
「は、はい……?」

改まって一体どうしたんだろう。私は足早に歩き出した彼女の背中を追う。
何か特別な頼まれ事でもあったのかと思いながら長い廊下を進み、やがてアオイさんが足を止めたのは見慣れた部屋の前だった。

「しのぶ様」

アオイさんが低く声をかけ、障子を引く。
開かれた部屋の中、畳の真ん中に立っていたしのぶさんが振り返った。目が合った瞬間、彼女はふわりと笑みを浮かべる。

「待ってましたよ、リサさん」
「えっ……?」

待っていた、とは一体どういうことだろう。
呆気にとられる私の手を、アオイさんが取った。そのまま促されるように部屋の中へ足を踏み入れると、部屋の隅に置かれた立派な鏡の前へと案内される。

「さ、こちらへどうぞ」
「あの、しのぶさん?アオイさん?これは一体……」

わけも分からず問いかける私をよそに、二人は顔を見合わせて意味深に頷き合った。
返事の代わりに背中を優しく押され、私は言われるがまま鏡の前の座布団へと腰を下ろす。
目の前の台の上には、普段は見かけないような化粧道具の小箱や、綺麗な髪飾りがいくつも並べられていた。

「すみません、取りますね」

背後からアオイさんの声がした直後、頭の後ろで金属音が鳴った。留めていたかんざしが抜かれ、束ねられていた髪がばさりと肩から背中へ散らばる。

「わっ」

戸惑う私をよそに、正面に回り込んだしのぶさんが、小箱から化粧用の筆を手に取り微笑んだ。

「さ、こちらを向いていてくださいね」
「動かないでくださいね。梳かしますから」

背後ではアオイさんが手慣れた手つきで柘植つげの櫛を構え、私の髪にすっと通してくる。
お化粧?髪結い?頭に疑問符ばかりが浮かんで、されるがままに固まるしかない。
楽しげなしのぶさんの笑顔を見つめていると、壁際にある衣桁いこうにふと目が留まった。
そこに掛けられていたのは、涼やかな白地に、淡く透き通るような水色の紫陽花が描かれた浴衣。

「リサさんはお肌が綺麗ですから、白粉はほとんどいりませんね」

筆先を私の頬に優しく滑らせながら、しのぶさんが目を細めて微笑む。

「あ、あの……これ、一体何をされてるんですか?」

筆先がくすぐったく触れるたび、居たたまれなくなっておそるおそる尋ねてみる。すると、しのぶさんは紅筆を手に取り、楽しそうに目を細めた。

「花火ですよ」
「花火?……って今夜上がるっていう、あの?」
「はい。麓の町で昔から続いている、とても有名な花火なんです」
「せっかくのお祭りなんですから、おめかししないともったいないでしょう?」

私の髪を後ろで器用に編み込みながら、アオイさんも鏡越しに柔らかく微笑みかけてくる。
今朝、台所の片付けの合間に、アオイさんに「ここからでも花火は見えますか」と尋ねたのだが、そのことを言ってるのだろうか。
たしかにアオイさんは「裏手の高台からなら綺麗に見えますよ」と教えてくれたから、今夜見るのを楽しみにしているのだけれど。

「でも、どうしてそこまで?みんなで見るにしても、こんな立派に着飾るなんて……」

恐縮しながら尋ねると、しのぶさんは紅を指先でなじませながらこともなげに微笑んだ。

「冨岡さんを呼んでるんです」
「とみ、……え?」

聞き間違いだろうか。
今、彼女は何と言ったのだろう。

「あの、すみません。今なんと?」
「冨岡さんを呼んでるんです」

鈴を転がすような声で、しのぶさんは至極当然のように繰り返した。
…話がまったく見えない。花火を見ることと、浴衣を着て、化粧までしてもらうことに、あの人と一体何の関係があるというのだろう。理解が追いつかない思考が、頭の中でぐるぐると空回りしていく。
ぽかんと固まる私を鏡越しに見つめ、しのぶさんはふふ、と悪戯っぽく口元を緩めた。

「実は昨日の、リサさんと冨岡さんの会話を聞いてしまいまして」
「えっ!?昨日!?きっ、聞いたって……どこから……」
「そうですね。『膝を出すな』あたりからですかね」

さらりと言ってのけたしのぶさんに、頭のてっぺんまで一気に血が上った。

「あ、あれは、その……っ違うんです!私の八つ当たりなんです!」
「リサさんの主張は何ひとつ間違っていませんよ。勝手に枠にはめられたら、誰だって腹が立ちます。冨岡さんは言葉が足りなさすぎますしね」

苦笑交じりに言ったあと、しのぶさんはじっと私の瞳を覗き込んだ。そして、「目張りを入れるので、目を瞑っていてくださいね」と言われる。

「今朝アオイに聞けばリサさんは心ここにあらずの様子だったそうですし、冨岡さんも昨夜の任務中どこかぼーっとしていて使い物になりませんでしたしね。あんな様子を見せられては、お節介も焼きたくなりますよ」
「お節介……」

浴衣に、お化粧に、そして冨岡さんを呼んでいるという事実。点と点が、頭の中でやっと一本の線に繋がった。
恥ずかしさと申し訳なさ、そして心のどこかで小さく跳ねる淡い期待がない交ぜになり、ぎゅっと閉じた目の裏が熱く震えた。
ここまでお膳立てされたら、私だって分かる。ここで断る言葉が出せないのも、隠しようもない私の本心だ。本当は、行きたいのだ。
それと同時に分かってしまった。しのぶさんは、私に逃げ場をなくすためにこれをしてくれているんじゃない。ちゃんと向き合って、仲直りしておいでと、背中を押してくれているんだ。
そして、きっとアオイさんも、私の気持ちに気づいている。

「……はい。目を開けても大丈夫ですよ」

しのぶさんの優しい声に、きゅっと身体が強ばる。

「お化粧は完成です」

おそるおそる瞼を開けると、目の前の鏡の中に、見慣れない自分の姿が映っていた。
あくまで素肌を活かした薄化粧なのに、頬に入ったほんのりとした赤みと、唇に引かれた薄紅が血色をよく見せてくれる。
しのぶさんの手にかかると、こんなふうに人を変えてしまえるなんて。

「あの、冨岡さんは……なんて?」

彼はここへ来ることを了承したのだろうか。私と花火を見に行ってもいいと、承知したのだろうか。
不安交じりに尋ねる私に、しのぶさんは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「昨夜の任務に関する事後報告、という名目で呼び出しました」

思わず引きつった笑みが漏れる。
しのぶさんの手腕には舌を巻くけれど、騙し討ちのように呼び出された冨岡さんが、屋敷に着いてこの状況を知ったら一体どう思うだろう。
怒るだろうか、それとも呆れて踵を返してしまうだろうか。
けれど、鏡の中に映る自分を見つめていると、膝の上で握りしめた拳に自然と力がこもった。
もう、逃げちゃ駄目だ。いつだって寸前で逃げて、境界線を引いて、勝手に傷ついていたのは私の方だ。騙し討ちみたいな形になってしまったとしても、これはしのぶさんが作ってくれた、千載一遇の好機なのだから。

「私、ちゃんと話せるでしょうか……」
「大丈夫ですよ。リサさんはそのままでいいんです」

今度は、背後から温かい声が降ってくる。アオイさんは鏡越しに私の目をとらえると、優しく微笑んだ。

「いつだって周りのことを一生懸命考えて、素直で、誰に対しても真っ直ぐなところがリサさんの素敵なところなんですから。気負わずに、思っていることをそのままお話しすれば絶対に伝わります」

アオイさんは私の後頭部にそっと手を添え、最後に指先で形を整えると、満足そうにぱっと手を離した。

「はい、髪も出来上がりましたよ」

促されて横を向くと、低い位置でゆるくまとめられた可愛らしいお団子が、耳のすぐ横に綺麗に収まっていた。
結び目には、深い青色の大きなリボンが結ばれている。揺れる後れ毛が、ほんの少しこそばゆい。

二人に促されるがまま立ち上がると、紫陽花が舞う浴衣が私の肩へ羽織らされた。
少し苦しいくらいに帯が締められたかと思えば、指一本分の遊びを作るように、すっと空気を通す隙間を作られて。迷いのない手つきで布が整えられ、余った生地が綺麗に折り込まれていく。

「あの、この素敵な浴衣はどこから?」
「私のです」
「アオイさんの?」
「ただ持っているだけじゃ箪笥の肥やしになるだけですし、大丈夫ですよ。着てください」

思わず遠慮しそうになった私を見越して、アオイさんがそう言ってくれる。
普段は、機能性重視の隊服や割烹着ばかり着ているアオイさん。そんな彼女が、きっといつか着ようと大切にしまっていた浴衣だったはずだ。それを、惜しげもなく私に貸してくれている。
…これだけの想いを受け取っておいて、もう逃げるわけにはいかない。昨日言えなかった「ごめんなさい」を、今度こそ自分の口から伝えたい。

「とてもお似合いですよ、リサさん」

満足そうに微笑むしのぶさんと、後ろから嬉しそうに頷くアオイさん。
鏡越しに並ぶ二人の優しい笑顔を見ていたら、胸の奥がきゅうっと温かくなった。










「やっぱり無理です!アオイさん、無理かも!」
「ここまで来て何を言ってるんですか!」
「だって、急に心臓が痛くなってきて……!」
「花火見たいんじゃないんですか!」
「それはそうなんですけど!いざとなったらやっぱり足がすくむというか!」
「しのぶ様はもう玄関へ向かわれましたよ。置いていかれます!」
「ひ、引っ張らないでください〜っ!」

やだやだと廊下にあった大きな柱にしがみつこうとするものの、アオイさんに手を引かれて連行されてしまう。それはさながら散歩途中で歩くのをやめた犬と飼い主。滑稽だろうと、無理なものは無理だ。
覚悟を決めたはずだったのに、いざ現実が迫ってくると途端に臆病風に吹かれる。
一体どんな顔をして立っていればいいのか、まず目が合ったらどんな言葉を出せばいいのか。

「もう冨岡さんはいらしてますからね!」
「ひえっ、もういるんですか!?」
「ええ、とっくに!だから背筋を伸ばして!」

呆れたような顔をしたアオイさんに溜息を吐かれてしまうが、こちらだってそれどころではない。
ただの任務の事後報告だと思ってやってきた冨岡さんからすれば、ばっちりお化粧までして着飾った私が現れるなんて、意味が分からなすぎるはずだ。『花火に行く気満々で張り切っている』みたいに思われたらどうしよう。

「せめて、やっぱりいつもの着物に着替えてきます!」
「わけの分からないこと言わないでください!」
「でも……っ!」
「でももへちまもありません!せっかくしのぶ様と二人がかりで仕上げたんですから!」

問答無用で腕をぐいぐい引かれ、すり足で必死に踏ん張るが彼女には敵わない。掴み方は優しいのに力が強い。さすがは隊士だ。

「せめて!せめて一度、深呼吸させてください!」

玄関の一歩手前でようやく足を止めてくれたアオイさんの前で、私は胸に手を当て乱れた息を整えた。
こんなにも必死になっている自分がとて情けないが、でもそれくらい切羽詰まっている。
目を閉じて深呼吸を繰り返す。覚悟を決めなさい、私。大丈夫、ただ花火を見るだけ、昨日のお詫びをするだけ――。

「そうでした。これも持っていってください」
「えっ?」

目を開けると、アオイさんがすっと私の浴衣のたもとに手を滑り込ませていた。ずっしりとした重みが底に沈み、微かに金属の擦れる音が響く。

「しのぶ様からです。お小遣い、だそうです」
「ええっ?お小遣いって、そんな……!」
「屋台で何か買いなさいとのことです。返そうとしても受け取りませんからね」

きっぱりと言い放ち、アオイさんは私が暴れて乱れかけた帯の端を、手際よくきゅっと直してくれた。
お化粧も、浴衣も、果てにはお小遣いまで。どこまで手厚く世話を焼いてくれるのだろう。彼女たちの優しさが胸に染みて、思わずアオイさんの顔をじっと見つめていると。

「さ、息は整いましたね?行きますよ」

アオイさんは微笑むと、今度は引くのではなく私の背中をトンと優しく押した。

「えっ、ちょっと待っ……」

勢いよく押し出され、前のめりにたたらを踏みながら土間へと転がり出る。
足元に用意されていた下駄へとなんとか足先を滑り込ませた瞬間、アオイさんが容赦なく引き戸を開け放った。
なんてことを、と思ったのも束の間。逃げ場を失いおそるおそる顔を上げる。夕日の柔らかな光が差し込む中、正面に立っていたしのぶさんと視線がぶつかった。

「来られましたね」

しのぶさんのその声に導かれるように、瞳をほんの少し横へずらす。
そこにいたのは、羽織の袖口に両手を収め、腕組みをしたまま静かに佇む冨岡さん。その涼やかな瞳と真正面から目が合ってしまい、カッと頬に熱が集まった。
恥ずかしさと気まずさに耐えきれず、思わず視線を地面へ落とす。

「そうだ、冨岡さん。ちょうどいいところにお願いがありまして。リサさんを、麓の花火へ連れて行ってあげてはくれませんか?」

唐突に投げられた頼み事に、冨岡さんは何を言われたのか理解が追いつかない様子で、ぱちりと目を瞬かせた。
その沈黙を逃さず、しのぶさんが淀みなく言葉を重ねる。

「本当は私やアオイが付き添う予定だったのですが、急ぎで調合しなければならない薬の依頼が入ってしまいまして。困っていたところなんです」

いかにもそれらしい理由を並べ立てるけれど、もちろん真っ赤な嘘だ。
二人の策略を目の当たりにしながら、私は俯いたままぎゅっと浴衣の袖を握りしめるしかない。

「俺は……」
「どうせ継子もいらっしゃいませんし、今夜はお暇でしょう?」

暇だと言い切るしのぶさんも大概だけれど、たしかに継子がいて、たくさんの隊士を診察して、薬を調合して、鬼を狩る。誰よりも忙しいしのぶさんにそんなことを言われたら誰も否定できない。
冨岡さんが戸惑ったような雰囲気を醸し出しているのが、下を向いていても伝わってきた。
私の背中を押すためにここまで強引に仕向けてくれていると分かっているだけに、なおさら居たたまれなさが募っていく。

「まさか夜に女性を一人で外出させるつもりではありませんよね?彼女が暴漢に絡まれたことがある、あの町に?」

それを言われてしまったら、冨岡さんはもう何も断れないんじゃ…。と思うけれど、しのぶさんはそれも全て分かった上で言っている。
私はもう、どんな顔をして前を向けばいいのか分からなかった。土間に漂う気まずい沈黙に、冷や汗が背中を伝う。
冨岡さんは今、どんな顔をしているのだろう。呆れて眉をひそめているのか、それとも無理やり押し付けられた役目に不満を滲ませているのか。
顔を上げられないまま、足先に落ちる影をじっと見つめ、ただ息を詰めて次の言葉を待った。
静まり返った玄関に、ひときわ長い沈黙が落ちる。やがて、小さく息を吐き出す気配のあと、冨岡さんは口を開いた。

「……分かった」

その一言に、きゅっと縮こまっていた肩が小さく跳ねる。

「まあ、良かったです!ね、アオイ」
「はい。リサさん、花火を今日一日ずっと楽しみにしてましたから」
「では、日が暮れてしまいますから今すぐにでも出発しましょう。いってらっしゃい、冨岡さん、リサさん。帰りも必ず、屋敷まで送り届けてくださいね」

しのぶさんは満面の笑みを浮かべ、送り出しの言葉を並べる。背後ではアオイさんも笑顔で私たちを見送る気配を感じた。
すべてが二人の筋書き通りに進み、呆気にとられる私の前で、冨岡さんがすっと土間を踏み越えていく。

「……行くぞ」

短く落とされた声に弾かれたように顔を上げると、すでに彼は背を向け、夕闇に染まりゆく夜道へと歩き出していた。
まだ戸惑いと緊張で胸が騒がしいまま、私は慌てて慣れない下駄を鳴らし、その背中を追いかけた。




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