63
しのぶさん、アオイさん、私は今どうすればいいですか。心の中で、屋敷に残してきた二人に泣きつくように問いかける。
あんなに背中を押してもらったのに、いざ二人きりになってみれば、一言目をどう切り出せばいいのかまったく分からない。
お化粧や浴衣のことばかりに気を取られて、肝心なことを聞いてこなかったことを、今さら猛烈に後悔していた。
数歩前を行く、冨岡さんの背中。いつも通りの隊服姿で、余計な言葉も発さず、淡々と山道を進んでいく。
怒っているわけではなさそうだけれど、何を考えているのかも読めない。
あれこれと考えては喉の奥で言葉を飲み込み、油断するとすぐに距離が開いてしまい、そのたびに小走りで追いつく。
そうして山道を下っていくうちに、道の先には色とりどりの提灯が灯り、華やかな浴衣姿の人々が現れ始めた。
前を歩いていた冨岡さんが、唐突に足を止めて振り返る。
「何か、食べたいものはあるか」
思いがけない問いかけに、私は目を丸くして立ち止まった。
「食べたいもの、ですか?」
「ああ。祭りに来たら、そういうものを食べるだろう」
冨岡さんは少し困ったように眉を寄せ、並び始めた露天の列へと視線を泳がせる。
漂う香ばしい醤油の匂い。焼きもろこし、焼き団子、湯気を上げる草餅。
立ち並ぶ暖簾を目で追っていき、ふと、人混みの少し奥に見えた赤い看板に目が留まる。
「……水飴、がいいです」
ぽつりと零すと、冨岡さんは視線を前に戻して「分かった」と頷いた。
再び前を向いて歩き出した彼の歩調は、先ほどよりもほんの少しだけ緩やかで、下駄を鳴らして小走りにならなくても、自然と追いつける速度になっていた。
…なんだろう。提灯の明かりに照らされた冨岡さんの背中を見上げながら、私は小さく息を吸い込む。
さっきまであんなに息苦しかったはずなのに。楽しい、のかもしれない。ううん、きっと――嬉しいのだ。
一度緊張がほどけると、今度は抑えきれない好奇心が顔を覗かせた。
通りを進むにつれ、両脇に並ぶ露店が目を楽しませてくれる。けれどそこに並ぶものは、私の知るお祭りの光景とはまるで違っていた。見たことのないものばかりが視界に飛び込んできて、思わず足を止め、彼の羽織の裾を引っ張る。
「冨岡さん、冨岡さん。あそこにぶら下がってる、あの真っ赤な丸いものは何ですか?」
「……
「へえ!見てもいいですか?」
言って、軒先へ駆け寄る。
赤く艶やかな実がいくつも揺れる前で、小さな子どもたちが口元に当ててぷうぷうと素朴な音を鳴らしていた。
中身を抜いて、こんなふうにして遊ぶんだと感心しながら顔を上げると、すぐ斜め向かいの店にまた不思議な光景を見つける。
「あっ、冨岡さん!あっちのお店の白くて長いものは何ですか?」
「……晒し飴だ」
「飴!見たいです」
今度はそちらへ小走りで向かう。
子どもたちに混じって覗き込むと、職人さんが白い飴の塊を器用に引っ張り、何度も宙で引き伸ばしていた。鮮やかな手捌きに目を奪われていると、ふと鼻先を香ばしい匂いがかすめる。
「冨岡さん!このいい匂いは何ですか?」
「……へらへら餅だ」
「へらへら……、名前も面白いですね。あ、あっちには見慣れないお面がいっぱい……!」
すごい。私の知っているお祭りとは、空気も色も何もかもが違う。
「あの、あっちにも少し行ってみてもいいですか?」
指さした先、竹細工の籠にぎっしり詰められた風車を見に行く。赤や黄色の薄紙が夜風をはらんでくるくると回り、見ているだけで楽しい。
横目に映った別の屋台の鮮やかさにも、すぐに目を奪われてしまう。
「あの、もし大丈夫だったら、あっちも……」
おずおずと伺いを立て、今度は硝子細工がちりんと涼やかな音を鳴らす露店へ足を伸ばす。硝子が提灯の光に透けて、息を呑むほど綺麗だ。
これも見たい、でもあっちも気になる。
「あの、向こうのも……」
立ち並ぶ張り子の虎を指さしてみるものの、だんだんと自分の声は小さくしぼんでいった。
あれもこれもと欲張って、今の私はまるで駄々をこねる子どもみたいだ。冨岡さんを連れ回して、さすがに呆れさせてしまったかもしれない。
でも、見たことのないものばかりが溢れていて、今見逃したら二度と見られないかもしれないと思うと、どうしても諦めきれない。
「あのぅ……」
「見たいんだろう。気が済むまで見ればいい」
おそるおそる窺うように見上げた私に、冨岡さんは息をつくようにそう言ってくれた。
「いいんですか!あ、あっちです……っ!」
許しをもらえた嬉しさに弾かれ、私は冨岡さんの羽織の袖を引いて人混みをかき分けた。
向かった先は、甘い香りを漂わせる小さな屋台。
大きな平鍋の蜜の中で、照りのある丸い団子がいくつも湯気を立てている。
「おや、お嬢ちゃんも食べるかい?揚げたての芋団子、美味いよ」
気風のいい店主のおじさんに笑いかけられ、艶やかな黄金色の串を一本差し出される。
美味しそう、と喉が鳴った。これは食べるべきだ。アオイさんに持たせてもらった小遣いを使おうと、慌てて袂の巾着に手を伸ばした、その時。
横からすっと伸びた腕が、硬貨を店先の台へと置く。
「これで足りるか」
「毎度!兄ちゃん男前だね、ほらよ!」
あっという間に手渡された串を、私は両手で受け取ってしまう。ほかほかと温かい団子に、たっぷりと蜜が絡んでいる。
「と、冨岡さん!いくらでしたか、私、お金持ってるので払います!」
慌てて巾着を取り出そうと顔を上げた瞬間、こつん、と頭に軽い衝撃が落ちた。
「たわけ」
痛くもない力加減で、握り拳の側面をとん、と当てられていた。見上げると、冨岡さんは少し呆れたようにこちらを見下ろしている。
「小遣いは取っておけ」
「あ……で、でも」
「お前は何も気にしなくていい」
「……えっと、ありがとう、ございます」
さらりと格好のいいことをするからずるい。熱を持った頬を隠すように、私は小さく俯いた。
これが、大人の余裕というものなのだろうか。炭治郎くんやみんなといる時には感じない、成人男性らしい落ち着きを肌で感じてしまう。
鬼殺隊の給金事情なんてまるで分からないけれど、やっぱり柱ともなればたくさん貰っているのかな。そんな俗っぽい疑問を頭の隅に浮かべながら、手元の団子を見つめた。
冷めないうちに、と湯気の立つ端から小さく齧りつく。かりっと揚がった衣の中から、もっちりとした甘みが広がり、絡んだ蜜の香ばしさに思わず目を見張った。
「ん……!美味しいです!」
「そうか」
顔を上げて伝えると、冨岡さんは口元をわずかに緩め、瞳をふっと和らげた。
あ…。滅多に見せないその微かな表情の柔らかさに、また頬の熱が上がりそうになる。
「と、冨岡さんも食べます……?」
動揺を誤魔化すように、私は持っていた串を少しだけ彼の方へと差し出した。
「……………、いや」
ほんの少しの間を置いて、どこか気まずそうに視線を逸らされる。
そりゃそうだ、一口かじったものを差し出すなんて、一体何を考えているんだろう。また余計なことをしてしまったと固まっていると、鉄板の向こうからからからと陽気な笑い声が降ってくる。
「おやおや、逢引きかい?初々しくてごちそうさまだねえ」
「逢……!ち、違いますっ!!滅相もありません!」
私は串を持ったまま両手をぶんぶんと横に振った。けれど、おじさんは楽しそうに目尻の皺を深めるだけで、信じるどころかますます面白がる始末だ。
「照れなくていいって!こんなに可愛らしいおなごを連れてたら、兄ちゃんだって心配で夜道も離せやしないだろうに」
「いっ、いえ!そんなんじゃないです!!」
必死に首を横に振る私を、おじさんは「はいはい」とからかうように受け流す。まったく信じてもらえない。
困り果てて助けを求めようとした矢先、おじさんが今度は冨岡さんへと視線を向けた。
「な、兄ちゃんそう思うだろ?」
話を振られた冨岡さんは、いつも通りの静かな表情ですっと私を見つめ返してきた。動揺すら見せないその涼やかな瞳に息を呑んだ、その瞬間。
伸ばされた大きな手の親指が、私の口の端をちりりと掠める。
「え……」
冨岡さんは私の口元についていた蜜を指先で拭い落とすと、真っ直ぐに私の瞳を見つめながら口を開いた。
「……目が離せないのは確かだ」
ぼっ、と全身の血液が沸騰したような熱さが駆け巡る。
何、それ。固まる私を他所に、冨岡さんは私の背中にそっと手を添えた。
「行くぞ。どんどん水飴の店から離れてる」
「ははっ、お二人さん仲良くなー!」
おじさんの陽気な声と笑い声に見送られながら、背中を押されるまま前に進む。
…これも、大人の余裕というやつなのだろうか。隣を歩くこの人は動揺するどころか、涼しい顔をしてあの場を収めてしまった。
「目が離せない」なんて、要するに私がキョロキョロとよそ見ばかりして、今にも迷子になりそうだから手がかかるとそういう意味なのだろう。口元を汚して食べていたことも含めて、彼からすれば私は世話の焼ける子どもでしかない。
ああするしか、あの場は収められなかったんだ。なんだか無性に悔しくなって、手に持った団子をやけっぱちに齧る。
…美味しい。悔しいくらいに美味しい。
ごくりと飲み込み、ちらりと隣を盗み見た。無駄のない端正な顔立ちに、提灯の影が落ちる。
さっきから薄々気づいてはいた。すれ違う町娘たちが、赤くなった頬を袖で隠しながら、ちらちらと彼を目で追っていることに。
隊服の異質さを差し引いても、この人はどこにいたって人目を引く。これだけ整った顔をしていて、いざとなればあんな格好のいいことまで平気でするのだ。
…やっぱり、モテるんだ。よく分からない苛立ちと焦りが胸の奥で渦巻く。私は残っていた最後のお団子を、勢い任せに一気に口の中へ放り込んだ。
もぐもぐと頬を膨らませたまま、空になった串を紙に包んで袂へと押し込む。口の中の団子を必死に飲み下すと同時に、人の波を器用にすり抜けて、ようやく目的の屋台の前へと滑り込んだ。
氷の上に並べられた、色鮮やかな杏や蜜柑。その上からたっぷりと透明な水飴がとろりと絡められている。
「ふぅ……!やっと辿り着きましたね、水飴!」
息をついて達成感たっぷりに振り返ると、隣に立った冨岡さんは一瞬鋭い視線で私を見つめた。
そんなものには気づかないふりをして、何食わぬ顔で屋台の店主へと向き直る。
「すみません、水飴をひとつください!」
涼しげな氷の上に並ぶ果物の中から迷わず一番艶やかな杏を選び、声を張る。
今度こそ自分で払おうと、そっと袂の巾着を握りしめる。けれど、店主が飴を絡めた杏を差し出すより先に、またしても横から長い指が小銭を置いた。
「……え」
「ほい、水飴ね!まいど!」
店主から手渡された竹串の先で、琥珀色の杏が艶やかに光っている。手元を見つめ、それから隣の冨岡さんを見上げた。
今度は声をかける隙すら与えてもらえなかった。差し出された優しさを無下にもできず、私は小さく唇を噛んだあと、「…ごちそうさまです」と蚊の鳴くような声で呟いた。
「そろそろ花火が上がる。……川辺へ行くぞ」
冨岡さんは私の背を押して再び前を向いて歩き出す。その歩調が、やっぱり先ほどと同じように、私に合わせて少しだけ緩められていることに気づいてしまう。
手の中の水飴が、提灯の明かりを吸ってやけに甘くきらめいて見えた。
*
灯りが遠のき、露店のざわめきが川のせせらぎにかき消されていく。
土手を下りた先の川辺は、屋台通りの熱気とは打って変わって涼しい夜風が吹き抜けていた。
暗い水面には、夜空の薄明かりと遠くの町明かりが揺れて溶けている。
「ここなら、よく見える」
冨岡さんは川沿いの開けた場所へ歩み寄ると、腰の刀の鞘が当たらないよう注意深く腰を下ろした。
私も少しだけ間を空け、浴衣の裾を整えて隣に座る。手の中の水飴は夜風に冷やされて、口に含むと表面がほんの少し硬くなっていた。
視線を巡らせると、少し離れた土手の上には、花火を待つ家族連れや小さな子どもたちの姿がちらほらと見える。
「冨岡さん、今日は……一緒に来てくださってありがとうございました。急に誘ってしまって迷惑じゃなかったですか?」
「……迷惑なら最初から断ってる」
その飾り気のなさが、少しだけ不安だった私の心をすっと解きほぐしてくれる。
「冨岡さんも、花火を見るのは久しぶりですか?」
「祭り自体、来るのは何年ぶりか分からない」
「じゃあ、私と同じですね。少しは楽しめてますか?」
「……悪くはない」
短く返しながら、冨岡さんは川面へ視線を落とす。
ぶっきらぼうな響きの中に、ほんのりとした柔らかさが混ざっていて、私は「ふふ」と小さく口元を綻ばせた。
「でも、花火が綺麗に見える場所、よくご存知でしたね。迷わずここまで連れてきてくださったので」
「……お前が露店に気を取られている間に、屋台の店主に聞いた」
「えっ、そうだったんですか?全然気づきませんでした……」
私が珍しいものに目を奪われてはしゃいでいた間、この人はただ黙ってついてきてくれていただけじゃなく、ちゃんと次の行き先まで考えてくれていたなんて。
「……俺で良かったのか」
「え?」
「胡蝶と来る予定だったのだろう」
「えっと、それは……はい。まあ……」
そういえば、そんな設定だった。けれど、決して「冨岡さんで妥協した」なんてわけじゃない。
言葉を選びあぐねて俯きそうになるけれど、このまま流してしまっては、彼がただの代役だと思われてしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。膝の上で、きゅっと浴衣の布地を握りしめる。
「……冨岡さん。それより私、言いたいことがあって」
昨日の無礼を、どうしてもちゃんと謝りたかった。気まずい空気にしてしまったことも、迷惑をかけたことも。
今なら、静かに二人きりで話せる。息を吸い、意を決して口を開きかけた、その時だった。
冨岡さんがふと夜空を見上げる。
「……降るな」
「え?」
降る?何が、と首を傾げた刹那。
冷たい塊が鼻先を叩いたかと思うと、間髪を入れず、頭上からざああっと猛烈な雨が降ってきた。
ぽつぽつとした前触れすらなく、バケツをひっくり返したような土砂降り。一斉に降り出した豪雨に、川辺にいた誰もがぎょっとして息を呑む。
「うわっ、なんだこの雨!」
「とりあえず軒下に……!」
突然のことに怯えた子どもたちの泣き声があちこちで上がり、親たちが慌てて抱きかかえて走り出す。さっきまでの穏やかな空気は一瞬で散り、辺りは大混乱に包まれていく。
私は急転直下の事態に思考が追いつかず、ただ呆然と座り尽くしていた。雨粒が容赦なく顔を打ち、せっかく着せてもらった浴衣があっという間に水を吸って重くなっていく。
「こりゃあ、花火は中止だなあ」
誰かがそう呟く。
…ああ、あと少しだったのに。謝りたかった。ちゃんと伝えて、一緒に花火を見たかった。
けれど、もう全部台無しだ。私は昔から、肝心な時に限ってこうなる。間が悪くて、幸運の星回りに見放されているのだ。
冷たい雫が頬を伝い、雨なのか分からないものが視界を滲ませる。胸の奥に冷たい諦めが広がりかけた、その時だった。
「高月、――るか」
「え?」
すぐ近くで名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。けれど激しい雨音にかき消され、声が判別できない。
「――れるか」
「えっ?」
「なんですか?」と顔を近づけようとした、その瞬間。
ぎゅっ、と右手に熱い体温が重なった。冷え切った指先を包み込むように、冨岡さんの大きな手のひらが私の手をしっかりと握り締める。
「走るぞ」
短く落ちた声と同時に、ぐっと腕を引かれた。引き上げられるようにして立ち上がり、私たちはぬかるみ始めた土手を一気に駆け出していた。
引かれる力に身を任せ、夢中で下駄を鳴らす。揺れる視界の中、私は初めての景色を見た。
足元でぱしゃぱしゃと跳ね上がる水。白く煙る視界の先、遠くの屋台の灯りが雨粒の一粒一粒に乱反射して、きらきらと輝いて見えた。
その光景はどこか幻想的で、息を呑むほどに綺麗で。
土砂降りの雨も、台無しになった浴衣も、さっきまでの沈んだ気持ちすら置き去りにするほど胸がいっぱいに満たされて。
この人がいれば、どんな嵐の中だってどこまでも行けてしまうんじゃないか――そんな錯覚すら覚えるほど、私の視界にはもう目の前のその人しか映っていなかった。
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