63
「38度1分……。夏風邪ですね」
翌日、私は見事に風邪を引いた。当然と言えば当然だろう。あんな激しい雨の中、傘も差さずにずぶ濡れで帰ってきたのだから。
「すみません……。お手を煩わせてしまって……」
熱に浮かされた喉が、自分でも驚くほど熱く枯れた声を出す。布団の中に身体を丸めたまま見上げると、しのぶさんは測り終えた体温計から視線を外すと、いつものようにふわりと微笑んでくれた。
「謝らなくていいのですよ。今は、薬を飲んでゆっくり休むことがあなたのお仕事です」
その慈しむような声が、かえって胸の奥をチクリと刺す。
昨日、泥だらけで、今にも消えてしまいそうな顔をして帰ってきた私を、しのぶさんもアオイさんも誰も咎めなかった。
むしろ、その惨状を見た瞬間の彼女たちの目には深い困惑と隠しきれない同情の色が浮かんでいた気がする。よっぽど、酷い顔をしていたんだろうな、私。
熱のせいか、頭の芯がずっと重く痺れている。
せっかくアオイさんが貸してくれた、あの綺麗な空色の浴衣。帰宅してすぐ、意識が朦朧とする中で必死に洗ったから、幸い泥のシミは残らなかったけれど。もっと大切に扱うべきだった。浴衣も。私の心も。
目を閉じると、昨日の雨音が鼓膜の裏で蘇る。パシャパシャと跳ねる水飛沫。提灯の光。そして、ふいに振り返って笑った、彼のあの笑顔。
あれは本当に、現実だったのだろうか。それともこの熱が見せている、都合のいい白昼夢だったのではないか。
頬を伝う熱が、涙なのか汗なのかも分からない。期待なんて、しなきゃよかった。ただの守るべき対象のままで、笑っていればよかったのに。
彼の羽織は、アオイさんが綺麗に乾かして今は机の上に畳んで置いてある。それを視界に入れるのも辛くて、私は深く布団を被り、現実から逃げるように意識を闇へと沈めた。
*
数日が経ち、熱はようやく引いていった。けれど、胸の奥にはぽっかりと冷たい空洞が広がっているのは変わらなかった。体調が回復するにつれ、私は無理にでも身体を動かすようにした。
…あれから一度も、掠りもしない。蝶屋敷の廊下を歩いていても、町に降りても、帳簿の手伝いに呼ばれることも、これっぽっちもなくなってしまった。
当然だ。あんな取り返しのつかない言葉をぶつけてしまったのだから。彼はそれを受け入れられなかった。それだけの話だ。
けれど、その当然の結果が意外なほどに私の心を削り取っていた。こんなに、こたえるなんて思わなかったな。
「リサさん、またぼんやりして。薬湯が冷めますよ」
アオイさんの温かい声に引き戻され、私は慌てて手元の湯呑みを握りしめる。
「…すみません」
あの夜、彼が貸してくれた羽織はもう手元にはない。熱にうなされている間に、任務で冨岡さんと一緒になるという炭治郎くんが、返してくれたらしい。小耳に挟んだ情報によれば、あの羽織は冨岡さんにとって命と同じくらい大切なものなのだそう。そんな彼の大切なそのものを、彼は迷いもなく私に着せてくれたのだ。自分が冷えるのも厭わずに。
知らなければよかった。ただの衣類だと思っていれば、少しは楽だったのかもしれないのに。
…壊したかったわけじゃない。ただ、好きだって言いたかっただけ。
「……苦い」
冷めた薬湯を一口啜ると、鼻の奥がツンと熱くなった。あんなに幻想的だった夏が、今はもう手の届かない遠い彼方へと流されてしまった。
それから、驚くほどあっけなく月日は流れ。
私の初めての恋は、誰にも語られることのないまま枯れ葉が舞い落ちるように、静かに、静かに、胸の奥底へと積もっていき……。
そして。
気づけば、秋になっていた。
前へ 次へ
目次へ戻る