64
「……はぁ、はぁっ、……っ……」
どこをどう走ったかはわからない。ただ私は冨岡さんに手を引かれるまま、足を必死に動かしただけだ。
どれくらいの間走っていたのかもわからないまま、気づけば、人里離れた古びたお堂の前までたどり着いていた。
軒下へ滑り込んだ瞬間、耐えきれず両腕を胸にあて、激しく息を吸い込む。肺がちぎれそうだ。
雨は先ほどと比べれば弱まったとはいえ、いまだ暗い夜の底でしとしとと降り続いている。
「……暑いな」
足を止めた冨岡さんはふぅと短く息を吐くと、隊服の詰襟に人差し指を滑り込ませた。そのままくい、と喉元を押し広げ、内に溜まった熱を逃がすように隙間を作る。
そして、肩で呼吸を繰り返す私に視線を向けた。
「大丈夫か」
掠れた声しか出ない私の様子を見て、冨岡さんは瞬時に眉を寄せる。
そりゃ、こんな息を乱している人を目前にしたらそんな表情にもなるだろう。
すみません、ろくに言葉も返せない状況で。小さく咳き込みながら、大丈夫という意思表示のために精一杯頷いて見せた。
「とみ、っ……とみおかさ、……なんでそんな……涼しい顔、して……っ!」
「これくらい体力がないと仕事にならない」
ぜぇぜぇと呼吸を乱す私とは対照的に、冨岡さんはほんの少し息が上がった程度で、乱れひとつ見せていない。
普段からの鍛え方が根本から違うことくらい分かっているけれど、あまりの差に少し運動しようと心に決める。
「……全力で走らせてしまって、すまない」
「い、いえ……!だ、いじょうぶ……です……っ」
柱としての日々を考えれば当然の脚力なのだろうけれど、こちらは下駄でぬかるみを全力疾走したのだ。
壁に背を預け、ようやく少しずつ酸素を肺へ巡らせていく。
重たく肌に張りつく浴衣。裾には泥が跳ね返り、手元を見れば、大事に持っていたはずの水飴はどこかで落としてきてしまったらしい。
きっとアオイさんが結ってくれた髪も、しのぶさんに塗ってもらった紅もお化粧も、全部流れ落ちているに違いない。
頬を手でぱたぱたと仰ぎ、こもった熱を逃がそうとする。
すると、一歩間合いを詰めてきた冨岡さんが、指先を伸ばし、雨で額に張りついていた私の前髪をそっと払ってくれた。水滴を拭うように、額からこめかみへ優しく手が滑る。
「……花火は、残念だったな」
…残念、だった。確かに楽しみにしていて、二人で見上げたかった。
けれど、花火なんて目じゃないくらい、息を呑むほど綺麗な景色を私はもう見てしまったのだ。
額に残る指先の熱を感じたまま、静かにその瞳を見上げる。
「……私、一生忘れません」
噛み締めるように言うと、冨岡さんは少しだけ目を丸くした。けれどすぐに何かを思い出すように目を細めると、私の浴衣――濡れて色濃くなった紫陽花の柄へ視線を落とす。
「……同じだな」
「え?」
「雨に濡れても、前を向いている」
紫陽花。いつそんな話をしたかと思い返せば、たしか梅雨の始まりの頃だった。
不吉な花だと眉をひそめる冨岡さんに、私は『雨の中でも凛と咲いていて綺麗だから好きだ』と言ったのだ。よくそんな他愛のない会話を覚えていてくれたと思う。
けれど、違う。あの時、紫陽花があれほど美しく見えたのも。泥まみれでずぶ濡れになった今を、こうして笑っていられるのも。
全部、この人なのだ。冨岡さんは私が前を向いていると言うけれど、そうじゃない。
全部この人が隣にいたから。ただそれだけで、台無しになったはずの出来事も、嫌いなはずの雨も、すべて特別な景色へと塗り替えられてしまう。
全部、あなたがいるからなのに。
ぶるり、と肩を震わせ、咄嗟に両腕を抱え込んだ瞬間。ふわりと肩に落とされたのは、まだ微かに温もりの残る冨岡さんの羽織だった。
驚いて見上げると、襟元を私の首元へ引き寄せながら、冨岡さんは口を開く。
「……さっき、何か言いかけていただろう」
豪雨にかき消され、すっかり流れてしまったと思っていたのに。あの土壇場の中、ちゃんと届いていたんだ。
こういうところだ、と思う。いつだって、私の零した言葉は決して取りこぼさずに拾い上げてくれる。
そういう誠実さが、塗り替えられた景色の中にまたひとつ、私の心を深く沈めていく。
「何だ」
穏やかに促す声が降ってくる。けれど、私はただふるふると小さく首を横に振った。
喉の奥がきゅうと詰まって、言葉がちっとも出てこない。
こんなにも大切にされて、こんなにも体温を分け与えられて、感情が限界まで満ちてしまった心は、もう謝罪の言葉なんて受けつけない。
きゅっと眉を寄せ、泣き出しそうになりながら、私は羽織を握りしめて冨岡さんを見つめ続けた。
「……寒いか」
見当違いの心配をするその瞳を前に、もう一度首を振る。
言葉をなくした私に、冨岡さんはどうしていいか分からないといった風に眉を寄せた。そして追及するのを諦めたように、ふっと雨降る夜空へ視線を逃がす。
「……まだ、引く気配はないな」
軒先からしとしとと響く雨垂れの音。
どうか、止まないでほしいと願ってしまう。明けるなと叫びたくなるほど、ずっと、ずっとこのままでいたい。
けれど、そんな私の勝手な願いを知る由もない冨岡さんは、前を向いたまま告げる。
「ここで待っていろ。傘を探してくる」
背を向け、雨の中へ踏み出そうとする足。
行かないで。思考より先に身体が動き、伸ばした指先が隊服の背を掴んでいた。
「……っ、待ってください……」
勢い余って強く引き止められた布地。
足を止め、冨岡さんが訝しげに肩越しに振り返る。
「……どうした。一人では不安か」
切れ長の目が優しく緩む。
ああ――私、もう、本当に好きだ。多分、もうどうしようもないくらい彼のことが好きだ。
鼻の奥がつんとして、吸い込んだ空気が震える。
一度蓋が外れてしまった感情は、もう押し戻せない。踏みとどまるための言い訳も、もう探せなかった。
落ちそうになる涙と一緒に、奥底に沈めていた想いが一気にせり上がり、胸をぎゅうと締めつける。
「……好きです」
ああ。
溢れてしまった。
「冨岡さん、好きです」
今度はまっすぐその瞳を見つめて告げる。
一度口にしてしまえば、もうどうにでもなれという気持ちだった。踏み越えてはいけないはずの境界線を、自らの足で踏み抜いてしまった。戻れない恐怖よりも、伝えたい衝動が勝っていた。
冨岡さんは息を呑み、見開かれた深い青の瞳で私を射抜くように見つめ返している。
「あなたを、お慕いしています」
ぽろぽろと、止めどなく涙が頬を伝い落ちていく。
ああ、苦しい。どうして人を好きになると、こんなにも呼吸が浅く痛むのだろう。
隠しても、押し込めても、積もっていく想いは減るどころか深くなるばかりで。
見つめる瞳の静けさも、触れた手のひらの熱も、私に向けられるそのすべてが、どうしようもないほど愛おしくて、大切で、苦しかった。
この人の前でだけ、私はいつも自分を保てなくなってしまう。
これ以上、何を望むわけでもない。ただ、胸が破裂しそうなほどに、目の前のあなたが好きなのだと、それだけだった。
「分かっています、困らせるつもりなんてなかったんです。お返事が欲しいわけでも、何かを求めているわけでもなくて……ただ、誰よりも温かくて優しいあなたのことが私、す」
き、まで言うことは出来なかった。
後頭部を強く引き寄せられて唇を彼のそれで塞がれて、私の声は喉の奥に消える。
激しい雨音の中、もう片方の大きな手が冷えた私の頬を包み、離さないとばかりに引き寄せた。
驚きで見開いた視界いっぱいに、強く目を閉じた彼の端正な顔だけが広がっている。
「と、とみお……んぅ……」
漏らした声さえも、彼の唇によって強引に絡めとられた。
反射的に胸元の衣を掴み、すがるように指を食い込ませると、微かな抵抗を察したのかふっと唇が離れる。
濡れたまつ毛の隙間から、至近距離で青い双眸と視線がぶつかった。息を呑む間さえ与えられず、再び重なる唇。
吸い寄せられる力に抗えず、よろめく足取りで後ずさると、ことん、と音を立ててお堂の壁に背中がぶつかった。
逃げ道を完全に失った身体を閉じ込めるように、彼の影が覆いかぶさり、先ほどよりも深く口づけられる。
じんと痺れるような甘い痺れが全身を駆け巡り、意識がとろけてしまいそうだった。
どうしようもなく満たされて、胸が張り裂けそうなくらいなのに。
触れ合うところから伝わってくる切迫した体温が、なぜだか泣きたくなるほど痛くて、少しだけ苦しい。
彼の手が濡れた髪をかき抱く。耐えられなくなった足からは力が抜け、ずるずると壁を背に崩れ落ちた。
腰を抜かしてその場にへたり込んだのに、冨岡さんも同じように低く膝をつき、そのまま距離を詰めてくる。親指で輪郭をなぞられながら、幾度となく唇を重ねられる。
「ん、んぅ……っ」
頭の中が真っ白になって、もう何も考えられない。限界を迎えて、思わず彼の硬い胸板叩くとようやく唇が離された。
間近で見下ろす瞳が、乱れた私の口元をじっと見つめている。
「甘い」
掠れた響きに、耳の奥までじんと痺れた。
「あ……みず飴……食べた、から……」
途切れ途切れにそう答えると、冨岡さんは「そうか」とだけ呟き、また吸い寄せられるように唇を重ねた。
「んっ……ぅ」
もう何が何だか分からない。これはなに。どうして。聞くのが怖い。すべてが夢のようで現実が追いつかない。
気づけば、目頭からまた涙がこぼれ落ちていた。頬を伝った雫が、触れ合う肌の隙間をぽろりと濡らす。
その感触に触れた瞬間、冨岡さんは息を呑み、はっと我に返ったように顔を離した。
「とみおか、さん……?」
掠れた声で呼びかける。けれど、返ってきたのは言葉ではなく、どこか居心地が悪そうに引き結ばれた眉間。
さっきまでの切迫した熱はどこへ消えたのか、嫌な予感が急速に膨れ上がっていく。
あぁ、歪んでいく。目の前の冨岡さんの顔も、自分の強張る表情も、ぐらりと狂うように歪んで。
その歪みに呑まれてしまわないよう、必死に指先で衣を掴み、消え入りそうな理性を手繰り寄せる。
胸が痛い。痛くてたまらない。これから落とされる言葉の答えによって、私はきっと、息もできないほど苦しくなるのだと本能が察していた。
「……すまない」
…ほら、苦しくなった。
ぎゅうと心臓を鷲掴みにされ、冷たい氷水を流し込まれたような痛みが走る。
「すまない、高月」
繰り返される謝罪。頬を伝う涙なんて、さっきの土砂降りの雨みたいに跡形もなく弾け飛んでしまえばいいのに。
謝罪なんて聞きたくなかった。そんなふうに後悔で眉を寄せる冨岡さんなんて、見たくなかった。
けれど、それがこの人の導き出した答え。あまりにも残酷で、けれど彼らしい正解。
「……高月、すまなかった」
三度目の謝罪が静かに落ちる。
責められるはずがない。恨むことなんてできるわけがない。最初から、期待なんてしていなかった。返事なんていらないと、自分からそう言って想いを押しつけたのだ。彼をこんな顔にさせてしまったのは、他でもない私だ。
冨岡さんはゆっくりと私から身体を離すと、地面から立ち上がった。
見下ろす瞳にはもう、さっきの熱のかけらも残っていない。
「……送る」
ただ短くそれだけを告げ、彼は雨降る夜の中へ背を向けて歩き出した。私は震える足に無理やり力を込め、ふらつく身体を起こしてその背中を追う。
軒下を出ると、再び冷たい雨が容赦なく降り注いだ。
けれど彼は傘を探すこともなく、ただ前だけを見据えて進んでいく。私も何も言えず、借りた羽織の重みにすがりつくようにして、一歩、また一歩と泥を踏みしめた。
「……歩きにくい」
ぽつりと漏れた弱音は、しとしとと続く雨音に吸い込まれて消える。
鼻緒の緩んだ下駄のせいじゃない。水を吸って重くなった浴衣のせいでも、降り続く雨のせいでもない。
私の目の前に広がる帰り道が、涙で滲んで、あまりにも歪んでいるからだ。
歪んだ道、歪んだ町、歪んだ景色。遠くで揺れる提灯の灯りが、私を嘲笑うかのように揺れている。
並んで歩くことすら許されない距離。冨岡さんは蝶屋敷の門前に私を送り届けるまで、ただの一度も振り返らなかった。
「……入れ」
門の前で立ち止まり、背を向けたまま落ちた冷淡な声。
お礼も、さようならも言えなかった。そのまま闇の中へ、足音を響かせて遠ざかっていく背中を見送る。
…ああ。終わったんだ。
私の、初めての恋。一度も空を見上げることの叶わなかった、短くて、あまりにも冷たい夏だった。
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