64
ひんやりとした朝の空気に、カサ、と乾いた木の葉の揺れる音。
私は布団の中で一度だけ小さく身を縮め、それから意を決して起き上がった。洗面台に向かい、溜めた水に両手を浸す。まだ眠気の残る体を律するように顔を洗い、乱れた髪に櫛を入れ、耳の上で一纏めにして結い上げる。それから着物の襟を合わせ、帯をきゅっと引き締めた。
「……よし」
鏡に映る自分に向かって一度だけ深く頷き、静かに部屋の戸を開ける。
「リサさん、おはようございます。今日も早いですね」
台所に向かうと、大きな釜を火にかけていたアオイさんが、もうもうと立ち昇る湯気の向こうから声をかけてくれた。
「おはようございます、アオイさん。……って、アオイさんこそ早すぎますよ。もうこんなに準備が終わっちゃってるなんて」
並べられた朝餉のお膳の数々を見て、私は思わず目を丸くする。相変わらず、彼女は一人で頑張りすぎるところがあると思う。
アオイさんは「これくらい普通ですよ」と素っ気なく返しながらも、甲斐甲斐しくしゃもじを動かしている。
「そんなに一人で抱え込まないでください。私だって、もうすっかり元気なんですから」
少しだけ拗ねたような口調で隣に並び、まだ温かいおひつの蓋に手をかける。
いつも皆に心配ばかりかけて、アオイさんに手を焼かせてばかりの私だから、頼りないのは自分でも否めないけれど。それでも、彼女が一人で背負おうとしているその重荷の、ほんの数片だけでもいいから私に預けてほしい。
「もっと手伝わせてください。このままだと私、蝶屋敷のただの居候になっちゃいそうです」
「ふふ、そんなこと誰も思いませんよ。いつも助かってます。…でも、そうですね…。じゃあその小鉢を盛り付けてもらえますか?」
「はい!もちろんです」
ふわりと笑う彼女の横顔に、少しだけ心が軽くなる。けれど、彼女が背負い込んでいるものの重さを思うと、ただ「無理しないで」なんて言葉で片付けてはいけないような気もする。
二ヶ月ほど前、音柱の宇髄さんに強引に連れ去られそうになったあの日以来、彼女の仕事ぶりはより何かに追われているように見えていた。
戦えない自分への不甲斐なさを振り払うように。こうして誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで立ち働き、この屋敷の日常を必死に繋ぎ止めようとしているのだろうか。
「アオイさん、盛り付け終わりました。私これを持って病棟の方を回ってきますね」
「ありがとうございます、リサさん。お任せします」
私は台車に完成したお膳を載せると、食堂まで来ることのできない重症の隊士たちが待つ病棟へと向かった。
渡り廊下を歩けば、庭の木々はすっかり秋の装いに色づき始めているのが見える。あんなに鮮やかだった緑は、今や落ち着いた朱や橙に染まり、風に吹かれては静かに土へと還っていく。
…あの夏から、どれくらい時間が経ったんだろう。季節は容赦なく移り変わる。私の心の中に深く沈んだままの感情を置き去りにして、景色だけが鮮やかに色づいていくのが、どこか他人事のように思えて少しだけ寂しかった。
「失礼します、朝餉を持ってきました」
ノックをしてから引き戸を静かに開け、皆の枕元にお膳を置いていく。包帯が痛々しい隊士は、重そうに瞼を持ち上げると消え入りそうな声で小さく笑った。
「リサさん、いつもありがとうございます。いい匂いですね」
「はい、アオイさんが腕によりをかけたお料理ですよ。温かいうちに召し上がってくださいね」
そう言って私が微笑むと、彼は「生き返ります」と少しだけ顔色を良くして箸を手に取った。
別の寝台では、まだ若い隊士が申し訳なさそうにこちらを見上げる。
「すみません、こんなことまで……」
「気にしないでください。皆さんがたくさん食べて、早く元気になることが一番です」
無理に体を起こそうとする彼の肩を優しく制し、食べやすいようにお膳の位置を整える。
誰かの痛みに寄り添い、誰かの明日を繋ぐ手助けをする。あの激しい雨に流されそうになった私の心は、今、この穏やかな「ありがとう」の積み重ねによってなんとか繋ぎ止められていた。
そして、廊下の一番奥にある最後の部屋の引き戸を、音を立てないよう静かに開ける。
「……失礼します」
そこには、朝日が差し込む窓辺で、じっと寝台を見つめるカナヲさんの後ろ姿があった。私は台車を止め、視線を寝台の方へと移した。
白い敷布の上に横たわっているのは、かつての快活な面影を潜めた一人の少年の姿。その腕には透明な管が繋がれ、枕元に置かれた硝子瓶から一滴、また一滴と薬液が静かに送り込まれている。
「おはようございます、カナヲさん」
囁くような声で呼ぶと彼女はゆっくりとこちらを振り返り、小さく頷いてくれた。私は台車からお膳を取り出し、寝台の横にある小さな机へと静かに置く。
「一応置いておきますね。匂いで目を覚ますかも。…炭治郎くん様子はどうですか?」
私が寝台に横たわる炭治郎くんの名を呼ぶと、カナヲさんの視線がふたたび彼へと戻った。
上弦の鬼という強敵との死闘を制した炭治郎くんたち。けれどその勝利の代償はあまりにも大きく、遊郭での戦いを終えて蝶屋敷に担ぎ込まれてから、炭治郎くんと伊之助くんは一度もその目を開けていない。
視線を落とすと、真っ白な包帯が痛々しく体中を覆っている。時折、苦しげに波打つ胸元。いつも太陽のような明るさで周囲を照らしてくれた彼の面影は、今は感じられなかった。
「……変わらない。でも、昨日より少しだけ、呼吸が深くなった気がする」
カナヲさんは毎日、任務の合間や鍛錬の時間を縫っては、こうしてこの部屋に足を運んでいる。椅子に座るわけでもなく、ただじっと、彼がふたたび目覚める瞬間を待ち続けているのだ。
「そうですか……よかった。炭治郎くんなら大丈夫ですよね。きっとすぐに跳ね起きて、またみんなを驚かせてくれるはずです」
私は努めて明るい声でそう言い、お膳の上の水差しを新しく取り替えた。
戦えない私は、こうして祈ることしかできない。けれど、彼が命を懸けて守り抜いたこの日常を、私たちが途絶えさせてはいけないのだ。
「カナヲさんも少しは休んでくださいね。アオイさんが心配していましたよ」
「……うん。ありがとう」
カナヲさんは炭治郎くんの布団の端を、壊れ物を扱うような手つきで整えた。その優しい仕草を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
誰もが、何かを必死に繋ぎ止めようとしている。アオイさんが台所で火を焚くように。カナヲさんがこの部屋で祈りを捧げるように。
そして、あの夏の雨に打たれた私が、歪んだ景色を抱えながらも一歩ずつ秋の道を歩き出すように。
「じゃあ、失礼しますね。何かあったらすぐに呼んでください」
私はもう一度眠り続ける炭治郎くんの横顔を視界に焼き付け、静かに部屋を後にした。
渡り廊下に出ると秋の風がさあと吹き抜け、色づいた木の葉がさらに一枚、土へと還っていくのが見えた。
*
秋の陽光に照らされた麓の町は、収穫を祝う活気に満ち溢れている。軒先に吊るされた干し柿や、どこからか漂ってくる焼き栗の香ばしい匂い。
そんな賑わいの中に、ひと際鮮やかで、春の陽だまりをそのまま形にしたような女性の姿を見つけた。
「あ、リサちゃーん!こっちこっち!」
大きく手を振って私を呼ぶのは、甘露寺さんだ。彼女の桜色の髪が風に揺れ、その場がぱあっと明るくなったような錯覚に陥る。
「甘露寺さん…!お待たせしてすみません。少し遅くなってしまいました」
「ううん、全然待ってないよお!私も今着いたところなの。今日のリサちゃん、その着物の色がとっても似合っていて可愛いわね!素敵!」
会った瞬間に溢れ出す、彼女の真っ直ぐな称賛。裏表のないその言葉に、私の頬は自然と緩んでしまう。
甘露寺さんは私の手をごく自然に取ると、弾むような足取りで歩き出した。
「甘露寺さんこそ、いつも本当に見惚れてしまうほどお綺麗です!」
「まあ!そんな、リサちゃんったら!」
本心からそう告げると、甘露寺さんは頬を赤く染めて身をよじらせた。彼女のこういう、感情が溢れ出してしまうような愛らしい反応が私は大好きだ。
甘露寺さんと私は、こうして時々、彼女の非番の日に待ち合わせて町へ甘味を食べに行くようになった。
「ねえねえ、今日のお店ね、お団子が絶品なのよ!蜜がたっぷりでお餅が信じられないくらい柔らかいの。楽しみね、リサちゃん!」
「はい、甘露寺さんが選んでくれるお店なら間違いありませんね!」
彼女の連れて行ってくれるお店は、どこも本当にほっぺが落ちるほど美味しいところばかり。
最初は"柱"という雲の上の存在に緊張し、失礼のないようにと肩に力が入りすぎていたけれど。同い年ということもあってか、いつの間にか気負わずに話せるようになってきた。
"花月屋"と書かれたお店の前の縁台に腰掛ける。運ばれてきた山盛りの桜餅と焼き団子を前に、甘露寺さんがお茶を一口啜って、ふと思い出したように顔を輝かせた。
「そうそう、リサちゃん。それでね、宇髄さんが柱を引退したでしょう?だから柱の担当地区の見直しがあって、私の担当する範囲も少し広くなったのよ」
「へえ、そうなんですか。…それは、柱の皆さんこれまで以上に大変になりますね」
私は運ばれてきたお団子の湯気を見つめながら、素直な感想を口にする。
ただでさえ広範囲を数人で分けて担当しているのに、さらに担当地区が広がるなんて一日が二十四時間では到底足りないはずだ。
最近のしのぶさんが忙しなく見えていたのは、そのせいだったのか。
「うん、大変なこともあるけれど、それだけたくさんの人を守れるって思うと、私はなんだかワクワクしちゃうかな。…それにね、新しい地区にはとっても美味しい和菓子屋さんがあるっていう噂も聞いたのよ。今度調査しに行かなくっちゃ!」
「ふふ、でもあまり無理はしないでくださいね?私、甘露寺さんが怪我をして蝶屋敷に運ばれてくるの、見たくないです」
「まああ!リサちゃん、そんなに心配してくれるなんて…!」
甘露寺さんはそう言って頬を赤らめると、桜餅をぱくっと嬉しそうに頬張った。
「ん、やっぱりここのお団子は世界一ね!」
「ふふ、桜餅が似合いますもんね甘露寺さん」
「だって、私って桜餅でできてると言っても過言ではないじゃない?…見て!このお餅のつやっつやな輝き!リサちゃんもそれ、早く食べてみて!」
促されるまま、甘露寺さんが「これだけは絶対に食べてほしい」と目を輝かせて勧めてくれた、蜜のたっぷりかかった焼き団子を口に運んだ。
香ばしい醤油の香りと、噛みしめるたびにお米の優しい甘みが口いっぱいに広がる。
「ん…!お、美味しいです!!」
「でしょう!?良かった!」
甘露寺さんは自分のことのように喜び、また桜餅を一口でぱくりと頬張った。その食べっぷりの良さは見ていて清々しいほど。
「ねえねえ、リサちゃん。最近、蝶屋敷の方はどう?炭治郎くんたちの様子は、しのぶちゃんから少し聞いたけれど……」
「はい。炭治郎くんはまだ眠っていますが、昨日より少しだけ顔色が良くなった気がします。カナヲさんも毎日付き添っていますし、きっと大丈夫です。……他の隊士の方も、皆さん少しずつ良くなってきていますよ」
「そう…。みんな一生懸命なのね。素敵だわ」
…不思議だ。彼女の明るさと天真爛漫なお話は、いつも私の心に光を灯してくれる。
こうして人の心のひだに寄り添い、冷え固まった場所を優しく解きほぐしてくれる春の日差しのような。
「…リサちゃんは最近、どう?」
甘露寺さんが首を少し傾げ、桜餅を運ぶ手を止めて私をじっと見つめた。
「私ですか?私も先ほどお話しした通り、お手伝いも順調ですし……」
「ううん、そうじゃなくて。あの殿方とは上手くいってるの?」
茶目っ気たっぷりに問いかけられ、私は次のお団子を口に運ぼうとしていた手をぴたりと止める。味覚も、思考も、一瞬でどこか遠くへ吹き飛んでしまう。
「それ、は……」
否定も肯定もすることができず、私はただ固まったまま視線を泳がせた。
急に静まり返ってしまった私を見て、甘露寺さんの形の良い眉が心配そうに寄せられる。
「ごめんなさい、私、変なこと聞いちゃったかしら……」
「い、いえ!そういうわけではないんです。ただ……」
私は力なくお団子をお皿に戻し、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
淡々と答えないと。彼女が心配してしまう。
けれどあの夏の雨の日から、私の時間は止まったまま。季節が移ろい、木の葉が色づいても、彼に対する想いだけは行き場を失って胸の奥で
「その、振られて、しまって……。思い切って想いを伝えたんですけど」
冷静に答えたつもりが、少し声が震えてしまった。
もちろん、甘露寺さんはその相手が冨岡さんだとは知らない。けれど、以前のやり取りを思い出しこうして私に近況を尋ねてくれたのだろう。だから、正直に答えたかった。
積もり積もった想いに耐えかねて、心中をすべて打ち明けたあの夜。しかし、返ってきたのは私が焦がれた温もりではなく、決定的な拒絶。あの時の感情は、今も私の胸を鋭く刺し続けている。
甘露寺さんは言葉を失ったように、片手で自身の口元を覆った。瞳が大きく見開かれ、痛ましげに揺れる。
「あ、で、でも!もう夏の頃のお話ですし、ずいぶん時間も経っていますから。今はもう、こうして甘味を美味しくいただけるくらいには落ち着いているんです。変な空気にしてしまってごめんなさい」
「……リサちゃん」
重くなりかけた空気を無理に剥がそうと、私はあえて声を弾ませて笑みを浮かべた。
けれど、甘露寺さんはその無理な笑顔に合わせることなく、静かに私の目を見つめ返す。
「もともと、私の一方的な想いだったし、こうなることも最初から分かっていたんです。だから……」
でも。じゃあ、どうして。あの日、どうして冨岡さんは、あんなにも優しく私に口づけたんだろう。
考えなかったわけじゃない。何度も、何度も、夜の静寂の中でその唇の感触を思い出しては、答えの出ない問いを繰り返してきた。
あれは、ただの気まぐれだったのか。それとも、行き場を失った
拒絶された今となっては、その温もりさえも私を縛り付ける呪いのようになっている。
「だから私、もう………」
「えらいっ!!」
「え、?」
驚いて顔を上げると、そこには私の両手をぎゅっと握りしめ、瞳に涙を溜めながらも笑顔を浮かべた甘露寺さんがいた。
「えらいわ、リサちゃん!本当に、本当にえらいわよっ!!」
「あ、あの、甘露寺さん……?」
褒められるようなことなんて、何一つした覚えはない。頭の中ではてなが浮かび上がり、パチパチと瞬きを繰り返す。
「だって、そんなに勇気を出して、自分の大切な想いをちゃんと伝えたんでしょう!?それって、とってもとっても凄いことだと思う!自分の心に嘘をつかずに、真っ直ぐにぶつかったんだもの」
甘露寺さんは縁台から身を乗り出すようにして、私の手をさらにぎゅっと包み込んだ。
「結果がどうであれ、リサちゃんが差し出したその真心は何物にも代えがたい宝物だわ。…そんなに一生懸命に恋をした自分をどうか誇ってあげて!私、リサちゃんのそういう真っ直ぐなところ、本当に大好きよ!」
「……甘露寺、さん……」
なぜか彼女の言葉が、今の私にはとても響いてしまった。
視界がじわじわ遮られ、温かい雫が頬を伝ってお皿の上にぽたぽたと落ちる。泣くつもりなんてさらさらなかったのに、一度溢れ出した涙はもう私の意志では止まってくれない。
「あれっ、…なん、で涙……」
もう泣きつくしたと思ったのに。なぜ涙が出るのだろう。
全然、大丈夫じゃなかった。時間が経てば、いつかこの痛みも淡い思い出に変わるのだと自分に言い聞かせてきた。季節が巡り、冬の風が吹く頃には、彼の面影も少しずつ遠ざかっているはずだと信じていた。
けれど、そんなのはただの自分勝手な誤魔化しでしかなかったんだ。
「ごめ、んなさい、私……っ」
しゃくり上げる声が、静かな空気に溶けていく。人を想うことは苦しくて切なくて、こんなにも私をボロボロにする。
…正解だよ、尾崎さん。ふいに、今はもう隣にいない、かつての親友の穏やかな笑みが脳裏をよぎった。誰かを想い続けることは、時に自分を削り、形を変えてしまうほどに苦しい。あの日彼女がどんな気持ちでその言葉を紡いでいたのか、今の私には痛いほどによく分かってしまう。
視界が涙で歪む中、目の前には、私を励まそうと一生懸命に言葉を紡いでくれる甘露寺さんの姿。その温かな眼差しと、幸せそうに桜餅を頬張っていた愛らしい仕草。それが、かつて桜餅が大好きだった尾崎さんの面影と、残酷なほど鮮明に重なってしまった。
「う、うあ……っ、……すみません、っわたし……」
もういない彼女に会いたいと願う寂しさと、彼に拒絶された悲しみ。
そして甘露寺さんが与えてくれる温もりが混ざり合い、私はもう声を殺すことさえできなくなってしまう。
「よく頑張ったね、リサちゃん。本当によく頑張ったわ」
ふわりと、甘い香りに包まれる。甘露寺さんが縁台を移動して、私の隣でその温かな腕をそっと回してくれた。彼女が震える私の背中をゆっくりと撫でる。
「たくさん、たくさん一人で抱えてきたんだね……。辛かったわね。悲しかったね」
一定のリズムで繰り返されるその優しい掌の感触が、あまりに心地よくて。私は彼女の肩に顔を埋め、子供のように声をあげて泣いた。
「その人のことが、本当に、本当に大好きだったのよね。胸が張り裂けそうなくらい、大切に思っていたのよね」
甘露寺さんの声が、耳元で切なく震える。
「自分の気持ちを一生懸命伝えられるなんて、とってもすごいことよ」
誰もが前を向き、誰かを守るために強くいなければならないこの世界で。ただ一人、私の弱さを、私の涙を、そのまま受け止めてくれる彼女の腕の中で。
私はようやく、自分がどれほど傷ついていたのかを認めることができた。
「もっと泣いていいのよ。私がついているから、大丈夫」
「……あり、がとう……ござい、ます……っ」
言葉にならない感謝を漏らすたびに、彼女の撫でる手はさらに優しさを増していく。
けれど私の心に深く沈んだままの感情は、消え去ることはなかった。
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