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「本当に、本当に送っていかなくて大丈夫?」
町を外れ、人通りも疎らになった街路樹のたもと。甘露寺さんは私の両手を握ったまま、眉を八の字に下げて何度も覗き込んできた。
「はい!甘露寺さんはこれから急ぎの任務が入ったんですから、早く行かないと。私ならもう本当に大丈夫です。ありがとうございました」
私は努めて明るい声で返し、彼女の手を優しく握り返した。
人目もはばからず、あんなに泣いたのは子供のとき以来かもしれない。でもたくさん泣けたおかげで、今は心がすうっと軽くなっている。
「本当に大丈夫……?」
「大丈夫です!」
「
甘露寺さんが肩に乗った鎹鴉に不安げに問いかけると、麗は翼をパタつかせ、どこかもじもじとした様子で嘴を寄せた。
「…チョット、心配。オメメ真っ赤ダカラ」
「そうよねえ…!」
麗は甘露寺さんの頬に頭を擦り寄せながら、気遣わしげに私をじっと見つめている。
「ありがとうございます。でも本当に、歩いて帰るくらいなんてことありませんから。……ね?」
一人と一羽の優しい心配を、私は精一杯の笑顔で受け止める。これ以上彼女たちの時間を奪うわけにはいかない。
振られてしまった事実は変わらないし、傷がすぐに消えるわけでもない。でも、彼女たちのおかげでやっと前を向ける気がするんだ。
それに、甘露寺さんの前で泣き顔を晒すのはこれで二度目だ。心配ばかりかけてしまうのも申し訳ない。
「そう…?何かあったら、すぐに大声を出してね。約束よ!」
「はい、約束します。いってらっしゃい、甘露寺さん。お気をつけて」
甘露寺さんは、最後まで名残惜しそうに何度も振り返りながら、やがて軽やかな足取りで夕闇が迫る街道の先へと消えていった。
一人取り残された宿場町。家の軒先からは夕飯の支度の匂いが漂い始め、賑やかだった市場も片付けの音を響かせている。
私は風で乱れた髪を指先で整え、深く一度深呼吸をした。
帰ったら、まずはアオイさんのお手伝いをしよう。うん。なんだか、今までよりもずっと、強く進んでいける気がする。
「よし」と小さく意気込むと、私は蝶屋敷の方向へとくるりと背を向け、一歩を踏み出した。
のだが。
「…お。お前もしかして胡蝶んとこの娘か。何してんだ、ここで」
「……………こんばんは。そしてさようなら」
「随分と嫌われてんな、俺も」
背後から聞こえてきたのは、呆れたような、けれどどこか楽しげな低い笑い声。
即座に踵を返したが、しれっと嫌味を言われてしまうとなんとなく立ち去り辛い。思わず足を止め、ゆっくりと振り返る。
彼は、私の素っ気ない態度を気にする風もなく隣に並んできた。なんというか、とても余裕だ。
「……何か御用でしょうか、宇髄さん」
元柱の人に、失礼な態度だったなと少しだけ反省して宇髄さんに向き直る。すると宇髄さんは少しだけ意外そうな顔をした。
「お。話に応じてくれるとはな」
「……話がないのであれば失礼します」
「まぁそう急くなよ」
話に応じるしかないと思って振り返ったというのに、さらりと流されてしまうとほんの少しの不愉快さに眉が寄る。宇髄さんは軽く肩を竦めた。
すらりと高く、見上げるほどの長身。深く、良く通る声。以前会ったときと違うのは、その身に纏うものが隊服ではなく派手な着流し姿になり、左目には鈍い光を放つ眼帯が付けられているということだ。
柱を引退されたとはいえ、その圧倒的な存在感は少しも衰えていない。
「俺がお前になんかしたか?初対面じゃねぇはずだが、えらく刺々しいじゃねぇか」
「………忘れたとは言わせませんが」
私は一歩引いて、冷ややかな視線を向けた。
わずか二ヶ月ほど前のことだ。突如として蝶屋敷に現れたこの人が、有無を言わさずアオイさんとなほちゃんを小脇に抱え、無理やり任務へ連れ去ろうとしたのだ。
泣き叫ぶなほちゃんをぽいっと投げ捨て、アオイさんに対しても傲慢な振る舞いをしたこの人を、私は未だに許してなどいなかった。いや、蝶屋敷の誰も許してなどいない。しのぶさんだって、カンカンだったんだから。
「あー……。あの時のことまだ根に持ってんのかよ。地味に執念深いな、お前」
「いえ、事実をお伝えしているだけです。宇髄さんは他人に対してあまりに横柄だと思います」
「はッ、任務に私情を持ち込む暇はねぇんだよ。…まぁ、結局はあの竈門のガキどもが代わりに来やがったがな」
宇髄さんはケロッとした顔で、耳元の飾りを揺らしながら鼻で笑った。その反省の色が全く見えない態度に、私の胸の奥でふつふつと、先ほど甘露寺さんに溶かしてもらった苛立ちが再燃しそうになる。
「とにかく、私はあの子たちを泣かせるような人とは関わりませんし、たとえ元柱であっても信用しません。…失礼します」
「まあ、待てって。そうツンツンすんな。泣き腫らした顔で怒ると余計派手に目が腫れるぞ」
「……っな!」
今は誰かに、ましてやこの人に、泣き顔の残骸を詮索されるような気分ではない。乙女の泣き顔を「派手」だの「腫れる」だのと、こうも明け透けに口にするなんて。この人には、人の心の機微というものが備わっていないのだろうか。
「…で、誰に泣かされたんだ?」
宇髄さんは、私の抗議などどこ吹く風で受け流し、不敵な笑みを崩さない。その眼光は、眼帯越しであっても私の心の奥底を見透かそうとするかのように鋭い。
「宇髄さんには関係ないです」
「関わりならあんだろ」
「……もう、お話がないのでしたら失礼します」
踵を返し、今度こそ立ち去ろうと足早に歩き出す。背後でジャラリと、彼が身につけている装飾品が鳴る音がした。
「わーった、悪かったよ。待てって」
足を止め、思わず怪訝な視線を向ける。振り返った先にいた宇髄さんは、そんな私にふっと鼻で笑うと、どこか真剣な面持ちで私を見つめていた。
「……竈門の様子はどうだ。少しはマシになったか」
思わずぽかんとして言葉を失う。
…意外にも、この人にも人の心があったらしい。不敬なことを考えてしまったと、すぐに心の内で頭を振る。けれど、あの一件以来、宇髄さんが一度も蝶屋敷に顔を出さないものだから、私は勝手に「なんて薄情な人なのだろう」と思い込んでいたのだ。
任務のためなら仲間の少女たちを強引に連れ去ろうとし、終われば見向きもしない。そんな冷徹な人だと決めつけていた。
けれど、今、眼帯の奥に宿る真剣な眼差しを見て、抱いていた嫌悪感がするりと解けていくのを感じた。この人はただ自分は引退した身だからと、あえて一線を引きながらも、遠くからずっと彼らの無事を願っていたのかもしれないと。
「…はい。炭治郎くんと伊之助くんはまだ眠っていますが、昨日より少しだけ顔色が良くなりました。善逸くんはもう任務に復帰しています」
私が努めて穏やかに答えると、宇髄さんは「そうか」と深く息を吐き出すように呟いた。
「あいつらがしっかり立ち上がるまで、屋敷の連中で支えてやってくれ。頼んだぞ」
そう言って私の頭に大きな掌を置くと、子供扱いするように乱暴にわしわしと撫でる。
「わっ……!か、髪が乱れますっ!」
「ハハッ、いいじゃねぇか。泣き腫らしたツラよりは、怒ってる方がまだマシだぜ」
宇髄さんは豪快に笑い飛ばすと、腰に手を当てて満足げに胸を張った。今度こそ立ち去るのかと思いきや、その場にどかっと居座ったまま、眼帯のない方の瞳で私を検分するように見つめてくる。
「……あの、まだ何か?」
ようやく落ち着きを取り戻し始めたというのに、こうも至近距離で見つめられると落ち着かない。私は乱れた後れ毛を耳にかけながら、一歩身を引いて尋ねた。
すると宇髄さんは、ニヤリと不敵な笑みを深くして、私の顔を覗き込んでくる。
「お前、名は?」
「え?…高月、リサ…ですけど…」
「そうか高月、派手に気に入ったわ。どうだ、今度うちに遊びに来ねぇか?歓迎してやるぜ?」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中にあった関心の芽は一瞬で枯れ果て、代わりに冷ややかな警戒心でいっぱいになる。
…遊びに来い?うちに?何を言っているんだ、この人は。
私は一歩、また一歩と後ずさり、これ以上ないほど蔑んだ目を宇髄さんに向ける。
「なるほど。警戒心の強い嬢ちゃんだ」
「…いえ、警戒心を持てとよく怒られてましたから……」
冨岡さんに。ぼそりと付け足して言うと、宇髄さんは目を一度驚いたように瞬かせた。
警戒心を持てと言われる自分の行動をよくよく振り返ってみれば、見ず知らずの男性であった冨岡さんに簡単に着いて行ったのは確かに警戒心にかける行動だったと今ならわかる。
なんだろう、強く引かれた何かがあったのかもしれない。あの時はそうするのが正しいと思ったし、それは今でも変わらない。
ちら、と宇髄さんを見上げるとなぜか意外そうにこちらを見つめていた。
「…なるほど。あの冨岡がねぇ…」
「え?あ、はい。まあ、最近はお会いしてませんけど…」
「ほぉー」
宇髄さんは顎に手を当て、何やら深く納得したように口角を上げた。その含みのある、何とも意味深な笑みに背筋がゾクリとする。
な、何だろう。その笑い方、すごく嫌だ。でも、これだけはわかる。彼に絶対について行っては駄目だということは。
「まあ、安心しろ。お前を取って食おうなんて考えてねぇよ。言ったって、俺には嫁が三人もいるんだ。間に合ってんだよ」
逃げようとした私の背中に、さらりと信じがたい言葉が投げかけられた。私は思わず足を止め、耳を疑って振り返る。
「……よ、嫁が三人!?三人もいらっしゃるんですか!?」
「ああ、そうだ。雛鶴、まきを、須磨。どいつも派手でいい女だぜ。三人ともな」
絶句した。一人でも手に余りそうなこの人に、奥様が三人。
も、もっと怪しくなった。というか、本格的に不潔…いや、不届き者じゃないか。
「…あの、失礼を承知で申し上げますが、ますます怪しくなりました。というか、むしろ信じられません」
「はぁ?なんでだよ」
心底不思議そうに眉を寄せる宇髄さんに、私はこみ上げる憤りをそのままぶつける。
「三人だなんて……そんな、誰彼構わずいいって言ってるもんじゃないですか!普通にお一人だけを誠心誠意、愛し抜くことはできないんですか!?三人もいらっしゃるなんて、不誠実にも程があります!」
「ああ!?お前、今なんつった!?」
宇髄さんの額にピキリと青筋が浮かんだ。先ほどまでの余裕はどこへやら、彼はイラついたように私の前に立ち塞がる。
「俺はな!忍一族の家系なんだよ!一夫多妻が当たり前なの!三人が三人とも、俺にとっては一番なんだよ!それがわかんねぇのかよ、この地味な堅物女が!」
「わ、わかりません!一番が三人もいるなんて、道理が通りません!」
私が声を荒らげて言い返すと、宇髄さんはさらに眉間のしわを深くし、心底呆れたように鼻で笑った。
「はッ!道理だあ?そんな地味な理屈、俺に通用すると思ってんのか。いいか、お前みたいな色気もねぇちんちくりん、こっちから願い下げなんだよ!安心してろ!」
「なっ…!失礼ですね…!私だって宇髄さんみたいな……その、誰彼構わず愛を振りまくような方はお断りです!私は、私だけを真っ直ぐに見てくれる人と一緒になりたいので、こっちから願い下げですっ!!」
「はッ、強情な女だな!だったら話は早いじゃねぇか。お互い様だな!!」
「そうですね!!!お互い様です!!!」
最後に叫んだ自分の声が、静かな街路にわんわんと反響した。そこから数秒。私たちの間に、奇妙な沈黙が降りる。
…なんだか、ものすごく失礼なことを言ってしまった気がする。どうしよう。これ、不敬?もしかして不敬罪になる?元柱相手でも、やっぱり呼び出し案件だったりするのだろうか。
あまりの恐れ多さに、背中に冷や汗が流れる。さっきまでの勢いはどこへやら、私は握りしめた拳を震わせながら、恐る恐る彼を見上げた。
宇髄さんは黙り込んだまま、眼帯のない方の瞳でじろりと私を見下ろしている。
「ひぇ、」
至近距離で射抜くような視線を浴びせられ、私は喉を鳴らして咄嗟に目を逸らした。
完全に負けだ。今はただ、蛇に睨まれた蛙のように縮こまることしかできない。
「…ふ、」
頭上から、小馬鹿にしたような鼻で笑う音が聞こえた。
見なくてもわかる。宇髄さんは今、これ以上ないほど不敵で余裕たっぷりな笑みを浮かべて、私の無様な動揺を眺めているのだ。
「……たく、派手に喚きやがって」
私はぷくりと頬を膨らませ、そっぽを向いたまま頑なに宇髄さんと視線を合わせるのを拒んだ。
宇髄さんはそんな私に呆れたように笑う。
「わかったよ、俺も少し大人気なかったな。…おい、こっち向け」
「……」
「無視すんじゃねぇよ。いいか、また嫁どもがいる時にでも改めて呼んでやる。お前、甘露寺とも仲が良いんだろ?気が向いたら遊びに来い」
「え……?」
意外な言葉に、私は思わず弾かれたように顔を上げた。
「嫁がいる時に」という言葉に、先ほどまでの不信感が少しだけ和らぐ。彼一人ではなく、奥様方が一緒なら、あんなに警戒する必要もなかったのかもしれない。
「本当、ですか?」
「ああ。あいつらもお前みたいな奴は嫌いじゃねぇはずだ。派手に歓迎してやるよ」
宇髄さんはそう言うと、再び私の頭に大きな掌を置いた。今度は先ほどよりもずっと優しく、けれど髪が乱れるのも構わずにわしゃわしゃと撫でる。
「なっ、また…!宇髄さんっ!」
「ハハッ!気をつけて帰れよ、もうすぐ完全に陽が落ちるぞ。夜道は危ねぇからな」
手を離した宇髄さんは満足げに一度だけ頷くと、今度こそ背を向けた。
夕闇が濃くなり始めた街道を、彼は悠然とした足取りで歩いていく。ジャラリ、ジャラリと装飾品が鳴る音が次第に遠ざかっていく。
一人残された道で、私は乱された髪を指先で整えながら、彼が消えた暗がりをじっと見つめた。
「……変な人」
けれど、不思議と胸のうちは温かかった。
私はもう一度、深く、深く深呼吸をする。肺を満たした秋の空気はどこまでも澄んでいて、私の背中を優しく押してくれているようだった。
「帰ろう。アオイさんが心配する」
私は前を向き、蝶屋敷へと続く坂道をしっかりと踏みしめた。
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