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「三十八度 一分……。夏風邪ですね」
障子越しに差し込む朝日。しのぶさんの穏やかな声が耳に届く。
畳の上に敷かれた布団の中、私は重たい瞼をわずかに持ち上げた。
当然といえば当然だろう。あんな激しい雨の中、傘も差さずに全身ずぶ濡れで帰ってきたのだから。熱が出ない方がおかしいくらいだ。
「すみません……。お手を煩わせて、しまって……」
頭の芯がずんと重く、吐き出す息さえも熱い。
横たわったまま見上げると、しのぶさんは測り終えた体温計から視線を外し、いつものように柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「謝らなくていいのですよ。薬を飲んで、今日はゆっくり休んでください」
その優しさが、今の私には少しだけ痛い。しのぶさんは私の額に手をやると、そのまま部屋を出て行った。
一人になった部屋で、大きく息を吐き出す。
昨夜、泥と雨にまみれて蝶屋敷へ帰り着いた私を、しのぶさんもアオイさんも、誰も咎めなかった。
怒られるどころか、ずぶ濡れの惨状を目にした彼女たちの瞳には困惑が浮かんでいた。
私はよっぽど、酷い顔をしていたのだろう。泣き腫らした目も、抜け殻のような佇まいも、何一つ隠せていなかったに違いない。
せっかくお膳立てしてくれた彼女たちの優しさに報いるどころか、すべてを台無しにしてしまった。けれど、何があったのかを打ち明ける勇気まではなかった。
せっかくアオイさんが貸してくれた、あの綺麗な紫陽花柄の浴衣。帰宅してすぐ、意識が朦朧とする中で必死に洗ったおかげで幸い泥の染みは残らずに済んだ。けれど、もっと大切に扱うべきだったと胸が痛む。
――紫陽花は不吉な花だ。初夏に聞いたあの言葉を、じんと疼く頭の奥でぼんやりと思い出す。
あながち、間違いではなかったのかもしれない。雨の中で咲き誇る姿に浮かれ、綺麗だと微笑んでいた私の恋は、咲き誇ったその日のうちに、冷たい雨に打たれて散ってしまったのだから。
*
数日も経てば、熱はすっかり引いていた。
何事もなかったかのように朝が来て、敷布を洗い、薬草を煎じ、隊士たちの世話をする。
日常は何も変わらない。世界は何ひとつ狂うことなく、淡々と私の目の前を通り過ぎていく。
「ごほっ、……げほっ」
「あっリサさん。もう、無理は禁物ですよ。まだ完治じゃないんですから、少し座っていてください。ちゃんと薬も飲んでくださいね」
「すみません。ありがとうございます、アオイさん」
ちょうど昼餉の片付けが終わった頃、台所で少し咳き込んでしまうと、アオイさんが心配そうにこちらを見やった。小言を言う彼女から手渡された湯呑みを受け取り、眉をひそめながら煎じ薬を一気に喉へ流し込む。
平熱に戻ったからと身体を動かしてはみたものの、体力の消耗は誤魔化せないみたいだ。少し歩くだけで、完治にはまだほど遠いことを突きつけられる。
空になった湯飲みを盆に戻すと、私は大人しく近くの縁側へと向かった。隊士に風邪を移してしまうのも悪いし、アオイさんの言うことを聞いていたほうがいいと思った。
板張りの端に腰を下ろし、ふぅと小さく息を吐き出す。
「……にがい」
舌の上に残る強烈な苦味。アオイさんやしのぶさんが煎じる薬は、どれも信じられないほど苦い。良薬口に苦しとは言うけれど、もう少し手心を加えてくれてもいいのではないかと恨めしく思ってしまうほどだ。
善逸くんがあんなにも薬を飲みたがらないのも、今となっては理解できる。もう少し彼に優しくしてあげようと思った。
けれど、胸の奥底にこびりついた鈍い痛みに比べれば、こんな苦さなんて何でもなかった。
あれから、冨岡さんとは一度も会っていない。定期的に声をかけられていた出納帳の手伝いも、これっぽっちも呼ばれなくなった。
あの夜、貸してくれた羽織は、熱にうなされていた間、任務で冨岡さんと一緒になるという炭治郎くんが気を利かせて届けてくれたらしい。
これで顔を合わせる口実も、綺麗さっぱり失われてしまった。
冨岡さんに拒絶されたのだと、理解したくなくても頭が勝手に突きつけてくる。彼にとって私は、もう顔を合わせるのも億劫な、面倒な存在になってしまったのだろうか。
「リサさん!お薬飲みましたか?」
「あ、なほちゃん。うん、飲んだよ」
「アオイさんがリサさんはまだ体調が悪いから無理をさせたら駄目だって。私たちが干してる敷布、全部取り込むので心配せずにゆっくりしていてくださいね」
「うん、ごめんね。ありがとう助かる」
「今日の空は風が気持ちいいですね。もうすぐ秋だからですかね」
「本当だね、蝉もほとんど鳴いてないね」
駆け寄ってきたなほちゃんたちと、いつものように他愛もない言葉を交わす。
大丈夫、私はいつも通りだ。けれど、笑い返す頬の筋肉が強張っていくのが自分でも分かる。平静を装うだけで精一杯だった。
『……高月、すまなかった』
辛い。苦しい。いっそ憎い。
やっぱり言うべきじゃなかった。「好き」だなんて、彼を困らせるだけだ。もう二度と今まで通りには戻れない。ただ隣で笑えていた日常が懐かしい。
私はもうどうしたらいい。後にも先にも行けず、こんな地獄の中をさまよい続けなければいけないのか。それが気持ちを伝えてしまった私の報いなのか。
好きになって欲しいなんて、望まない。だからせめて、避けられるようなことは。
『リサさんの方がうっかり足を取られてしまわないか、そこが心配ですね。例えて言うなら、穏やかな川は見た目よりも流れが速いのですよ』
…そう。穏やかだと思って飛び込んだ川は、想像以上に流れが速かった。一度流されてしまったのなら、もがきながらでも向こう岸まで泳ぎ切るしかないのだと、必死に腕をかき続けた。けれど、そうして息も絶え絶えにたどり着いた先は、果てのない広大な海だった。
足の届く浅瀬も、掴まるべき岸辺も見当たらない。ただ冷たい水の中に一人放り出され、どこへ向かえばいいのかも分からず、沈んでいくのを待つことしかできない。
「……忠告、してくれてたのに」
飛び込んだ私が悪い。足を取られた私が愚かだった。彼を責める権利なんて、最初からどこにもない。
それから、驚くほどあっけなく月日は流れ。
顔を合わせることも、言葉を交わすこともないまま、日差しは少しずつその熱を失っていった。
私の初めての恋は、誰にも語られることのないまま。木々から舞い落ちる枯れ葉のように、静かに、静かに、胸の奥底へと積もっていき。
気づけば、秋になっていた。
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