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「いっ……!」
がんっ、と割と生々しい音を立てて、病室の扉に額をぶつけた。引き戸の溝に少し躓き、抱えていた大きな桶に気を取られたせいだ。
思わず壁に寄りかかり、数秒項垂れる。
結構痛かった…いやでも、コケてたんこぶできたとか情けなさすぎるし、今はそれどころでは…。
「だ、大丈夫ですか?」
じんじんと頭の中を駆け巡る痛みに耐えていると、背後から声が飛んできた。
私は額を押さえ、縋るような思いで顔を上げる。そこにいたのは、大きな敷布をたくさん抱えたすみちゃんだった。
「大丈夫……それより伊之助くんは……?」
「あ、今朝も病室を飛び出して行ったっきりで……」
「え、そ、そんなあ……」
がっくりと肩を落とし、深く溜息を吐く。
ついに昨日、伊之助くんが二ヶ月の眠りから目覚めた。遊郭での過酷な戦いを経て、ようやく、ようやくこちら側の世界へ帰ってきてくれたのだ。彼が息を吹き返したという喜びは、瞬く間に屋敷中に広がったのだが。
まだ彼には包帯が巻かれていて、お風呂には入れない。起きたばかりの身体を拭いてあげようと今朝も井戸へと走り、清潔な手拭いと水を桶に用意して飛んできたというのに、肝心の病室はもぬけの殻。
焦って戸に頭はぶつけるし、聞けば、彼は目覚めた瞬間に「腹が減った!」と叫んで窓から飛び出していったらしい。
「アオイさんも最初は探してたんですけど、途中で諦めて台所に戻っちゃいました」
「あはは……でも、それだけ元気なら一安心なのかな」
二ヶ月もの間、あんなに静かに眠っていたのが嘘みたいだ。目覚めた瞬間に屋敷中を引っかき回して、アオイさんをキレさせて、そのまま行方不明になるなんて。
でも、そんな姿が彼らしいと言えば彼らしいのだから、それでいいのかもしれない。あの静かすぎる寝顔を見守る夜はもう終わりだ。
「それより、リサさん頭大丈夫ですか?結構打ちましたよね」
「う、うん。たんこぶできたかも……」
私は赤くなっているであろう額を、用済みになってしまった手拭いでそっと冷やしながら答える。伊之助くんのために持ってきたのに、結局は自分のたんこぶに当てることになるなんて。
「…診察室にしのぶ様がいらっしゃいますから、冷やすものをもらったらどうですか?伊之助さんの捜索は私たちが続けます!」
「そうする、ありがとうすみちゃん」
「大丈夫ですよ」
すみちゃんに苦笑いされながら背中を押され、私は桶を抱え直して診察室へと歩き出した。
廊下を歩いて目的の場所に着いたところで、戸に手をかけた。診察室なんて普段あまり来ないから、ちょっと緊張する。
ノックして僅かに戸を開けた時、私はそのまま固まった。
「……いいですか。傷はまだ癒えていませんからね。勝手に動き回ったり、包帯を解いたりしたら駄目ですよ」
あれ、もしかして、誰かしのぶさんに怒られてる?
聞こえてきた鋭い声に、思わず私はそろっと本当にわずかだけ引き戸の隙間から中を覗き込んだ。
そこには、診察台にどっかと座り込んでいる、見覚えのある逞しい背中が見える。
「俺様はもうピンピンしてんだよ!腹が減って力が出ねぇだけだ!」
「そのピンピンが一番危ないと言っているんです。伊之助くんは薬が効きにくいんですから」
ピシャリと言い放つしのぶさんの背後には、何やら恐ろしいオーラが見える気がする。
あんなに皆で探し回っていた本人が、あろうことかしのぶさんの目の前で、借りてきた猫のように座らされている。被り物はしていないようで、ボサボサの髪が揺れているけれど、その身体にはまだ痛々しいほどの包帯が巻かれたままだ。
「……し、失礼します」
私が意を決して声をかけると、しのぶさんの視線がこちらに向き、すぐにいつもの柔らかな微笑みを浮かべてくれた。隙間から覗いていたのがバレていたのかと思うと少し気まずいけれど、たぶん入っても大丈夫そうだ。
「…ケッ、これ堅苦しいんだよ」
伊之助くんは私の登場にも構わず、不満げに包帯の端を指で弄ろうとする。しのぶさんはその手をそっと、拒絶を許さない優しさで包み込んだ。
「伊之助くん、駄目です。これは大切なものなんですよ」
しのぶさんは診察台の前に屈み込み、目線を合わせるようにして彼を真っ直ぐに見つめる。
「……あ?」
「約束してください。勝手にここからいなくならないこと。アオイの言うことを聞くこと。……そして、自分の身体を一番に大切にすること」
しのぶさんはそう言うと、小さな手をそっと差し出した。
「さあ、指切りをしましょう。約束を破ったら、私の特別に苦いお薬を、毎日三食後に飲んでもらいますからね」
「指切り……?なんだ、その妙な儀式は」
伊之助くんは怪訝そうに眉を寄せながらも、しのぶさんの放つ不思議な温かさに毒気を抜かれたのか、おずおずと自分の小指を差し出した。
小さなしのぶさんの指と、無骨で傷だらけの伊之助くんの指が、静かな室内で絡まり合う。
「ゆびきりげんまん。嘘を吐いたら針千本、飲ませますよ」
歌うように、けれどどこか祈るような慈しみを込めて。しのぶさんは子供をあやす母親のような眼差しで、彼の指をそっと包み込んだ。
あんなに荒ぶっていた伊之助くんが、まるで魔法をかけられたように静かになり、じっと絡められた指を見つめている。
「……よし。約束ですよ」
しのぶさんが満足そうに微笑み、その手を離した瞬間。伊之助くんがふいっと顔を向けて、どこか照れたような表情を浮かべた。
「…お、おう。わかった」
伊之助くんは、なんだか胸のあたりをむず痒そうに押さえながら、見たこともないほど大人しい足取りで診察室を後にしていく。周囲に漂う空気が心なしか、薄紅色に染まっているような気がする。
しのぶさんは彼が消えていった廊下の先を、笑みを浮かべたまま見つめていた。
「…もし次に見つけたら、今度は本当に麻酔なしで腕を縫ってあげようかしら」
ぽつりと漏らされた物騒な独り言に、私は引きつった笑いを浮かべるしかなかった。しのぶさんの言葉は、時として本気なのか冗談なのか判別がつかないから恐ろしい。
しのぶさんはクルリとこちらを振り返ると、何事もなかったかのように可憐に首を傾げた。そして私の顔を見るなり、その瞳が細められる。
「あら、リサさん。…そのおでこ、派手にやりましたね?」
もうバレている。というか、隠しようがない。
伊之助くんがあんなにほわほわと幸せそうに出ていった直後なだけに、このマヌケな負傷が余計に際立って感じられる。
「冷やすものをあげましょうね。そこに座ってください」
しのぶさんはいつもの穏やかな微笑みを絶やさず、診察台を指差した。
「す、すみません。こんなことで……」
私は申し訳なさで身を縮めながら、診察台の端に腰を下ろす。
ここへ来るのは、さっきの伊之助くんのように壮絶な戦いで重傷を負った人ばかりだ。それなのに、焦って扉に激突してたんこぶを作っただなんて。なんだか、本当にやるせない。
大人しく座って待っていると、しのぶさんは手際良く
「はい、これを当てておきましょう。リサさんは案外おてんばさんですね?」
「うっ……」
「以前もぶつけて鼻から血を出していましたが、今回はたんこぶですか」
「し、しのぶさん……」
傷口に塩を塗りこまないで欲しい。わざわざ過去の失態まで持ち出され、私は恨めしげに呟いた。
けれど流石と言うべきか、しのぶさんの手当ては非常に無駄がなく、冷たい氷が患部に触れると痛みがスッと引いていく。
そして多分、私をそれとなく励まそうとしているのも何となく感じ取れた。普段通り明るく振るまうしのぶさんは、近くの椅子に腰を下ろす。
「リサさん、元気ですか?」
ふいに、しのぶさんはいつもの変わらぬトーンで問いかけてきた。私は氷嚢を額に当てたまま、目を瞬かせて首を傾げる。
「え?…はい。元気ですよ?」
「あら、それなら良かった」
しのぶさんはそれ以上深く追求することなく、ただ花が綻ぶような微笑みを私に向ける。
…しのぶさんは、やっぱりお見通しなのかな。私が何も言わなくても大体のことを察してくれているような気がする。あれほど頻繁に続いていた、冨岡さんによる帳簿のお手伝いという名目の呼び出し。それが、ある日を境にぴたりと止まったのだ。毎日同じ屋敷で過ごしていれば、その極端な変化に違和感を抱かないはずがない。
でも、最近は本当に元気なんだ。甘露寺さんに泣き顔を受け止めてもらい、宇髄さんに毒気を抜かれ、そして今日、伊之助くんの騒がしいほどの快復を目の当たりにした。心の傷が消えたわけではないけれど、このまま時が流れれば、きっといつか笑って思い出せる日が来ると信じている。
「そういえば」
しのぶさんがふと思い出したように、話題を変えるべく口を開いた。
「機能回復訓練ですが、伊之助くんが加わればまた賑やかになりますね。貴方も、無理のない範囲でお手伝いをお願いできますか?」
「はい、もちろんです!私にできることなら何でも言ってください」
「ふふ、頼もしいですね。でも、次はおでこをぶつけないように気をつけてくださいね?」
「もう、しのぶさん……!」
小さく笑い合いながら、ふと先ほどしのぶさんに言われた言葉が脳裏をかすめた。
以前、鼻血を出したときは、冨岡さんが冷やしてくれたんだっけ。あんなに優しかった人が、今は私の存在そのものを避けるように気配さえ遠ざけている。
…やっぱり、納得いかない部分もある。どれほど考えても、私をこうまで避けなければならない明確な理由が見当たらない。嫌いになったのなら、そう言ってくれればいい。それさえもせず、ただ一方的に心を閉ざしてしまうなんて。あまりに、あんまりだ。
「それと、リサさんがこのお屋敷に来てからもうすぐで一年ですね」
「え……。ああ、そういえば、もうそんなになりますか」
言われてみれば、風は鋭く冷たく、凍てつくような冬のさなかのあの日。着るもの一つ、帰る場所一つなかった私を、冨岡さんがこの場所へ連れてきてくれた。
…あの時は、雪が降りそうなくらい寒かったっけ。
「あっという間でしたね。最初はあんなにおどおどして、私の後ろを三歩下がって歩いていたのに」
「そんなこともありましたね。今は三歩どころか、こうしておでこをぶつけて騒がしくしていますけれど」
しのぶさんは目を細め、どこか懐かしむような眼差しを私に向けてくれた。あの凍えるような寒さの中で触れた彼や彼女の温もりが、私の新しい人生の始まりだった。
今はまだ暖かいから実感がないけれど、すぐに寒くなってあのときの感覚が戻ってくるのだろう。一年。長かったような、短かったような。
そんな感傷に浸っていると、しのぶさんがふっと立ち上がった。
「リサさん。何か欲しいものはありますか?」
「え……?欲しいもの、ですか?」
唐突な問いかけに、私は氷嚢で額を押さえたまま目を丸くした。
「ええ。私、リサさんのお誕生日を知らないでしょう?だから、あなたがこの屋敷に来て一年になるその日をお祝いしようと思いまして」
しのぶさんは、穏やかな声でとんでもなく優しいことを口にした。
そういえば、誕生日なんてここに来てから考えたこともなかった。というか、存在さえ忘れていた気がする。
「いえ、そんな十分ですよ…しのぶさん」
視界が熱を帯び、じわりと涙が滲んでくる。慌てて瞬きをして堪えようと、彼女を見つめ返す。
「……ここに、皆さんの側にいられるだけで、私はもう十分なんです。幸せなんです……」
震える声で精一杯伝えると、しのぶさんは少しだけ困ったように眉を下げた。そして、私に一歩近づくと、細い指先で私の頬をそっと、壊れ物を扱うような手つきで優しく撫でてくれる。
「…欲のない子ですね」
一年前、行き場を失くした私を拾い上げてくれたのが冨岡さんなら、ここで生きていく強さを、居場所を、そして温もりという幸せを分け与えてくれたのは、しのぶさんや皆なのだ。
「えへへ。しのぶさん、大好きです」
私は潤んだ瞳のまま、照れ隠しに少しだけ顔を綻ばせる。
しのぶさんは一瞬だけ驚いたように目を丸くした後、さっきよりもずっと慈愛に満ちた表情でふふっと笑った。
「あら」
そう言いながらも、しのぶさんは私の頭を優しくゆっくりと撫でてくれる。その手の動きが心地よくて私は目を細めた。
「私も大好きですよ」
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