66


廊下を吹き抜ける風が、肌寒く感じるようになってきた。窓の外を見れば、庭の木々の葉がいつの間にか黄色や赤に色づいている。
変わらず朝から晩まで蝶屋敷のお手伝いに走り回る毎日。荷物を運び、掃除をして、洗濯板と格闘する。それなりに元気に、慌ただしく日々をこなしていた。
…つもりでも、体はすっかり気を抜いていたらしい。

「いっ……!」

がんっ、とわりと生々しい音を立てて、病室の引き戸に額をぶつけた。
足元の溝に少し躓き、両手に抱えていたお膳を落とすまいと必死にかばったせいだ。
思わず壁に寄りかかり、その場に数秒ほど項垂れる。
…痛い。お膳をひっくり返さずに済んだのは不幸中の幸いだけれど、こんなところでたんこぶを作ったなんて、情けなさすぎるし恥ずかしすぎるかもしれない。

「大丈夫?」

じんじんと熱を持つ額を片手でさすっていると、背後から声が飛んできた。

「あ、カナヲさん」
「結構すごい音したけど……」
「……恥ずかしいところを見られちゃいましたね」
「たんこぶ、できてる」
「うそ、もうですか?」

痛む額を指先でそっと押さえれば、確かに小さく腫れ上がっている感触がある。カナヲさんは心配そうに目を丸くしたあと、ふっと柔らかく細めた。
以前は自分の意思で話すことの少なかった彼女だけれど、最近はこうして自然に声をかけてくれることが増えている。手には季節の花が挿された花瓶が抱えられていて、誰のためにかなんて一目瞭然だった。

「冷やすもの、持ってくる?」
「あ、いえ!これを運んだら自分で冷やすので大丈夫です。それより、炭治郎くんは……」
「………まだ」

カナヲさんは小さく首を横に振った。微笑んでいた表情を引き結んで、そっと引き戸を開ける。
薄暗い病室の寝台には、全身に包帯を巻かれた炭治郎くんが静かに眠っていた。
遊郭での激しい戦いを終えて蝶屋敷へ運び込まれてから、彼は一度も目を覚まさないまま、もうずいぶんと長い時間が経っている。

「そうですか……」

先日、この蝶屋敷に鬼殺隊の当主であるお館様がいらっしゃったことを思い出す。
私は遠くからそのお姿を拝見しただけだったけれど、眠り続ける炭治郎くんの枕元に寄り添い、優しく語りかけるその横顔はとても温かかった。
隊士たちを我が子のように慈しむ、本当に心のお優しい方なのだと思う。
そうやってみんなが心配している。炭治郎くんのことを。

「でも、昨日より少しだけ呼吸が深くなった気がする」
「本当ですか?じゃあ、これ一応置いておきますね。匂いで目を覚ましてくれるかもしれないですし」

花瓶を枕元の棚へ置きながらカナヲさんが言うので、私も抱えていた湯気の立つお膳をその棚の上へと一緒に置いた。

「ふふ、炭治郎、鼻がいいから……」
「ですよね。匂いにつられるかも」
「うん。早く起きて、食べてほしい」

カナヲさんは生けたばかりの薄紫の花びらを指先でそっと撫でる。伏せられた長い睫毛の奥にある瞳はどこまでも優しく、炭治郎くんを見つめる横顔はほんのりと赤らんでいた。その可愛らしい表情がいじらしい。

「カナヲさんも、少しは休んでくださいね。アオイさんが心配していましたよ」
「……うん。ありがとう」

カナヲさんは小さく頷き、微笑みを返してくれた。

「じゃあ、私はこれで失礼しますね。起きるといいですね、炭治郎くん」
「うん」

炭治郎くんを見つめる彼女を横目に、そっと病室の引き戸を閉め、静かな廊下へと出る。
じんじんと脈打つ額に手を当てると、先ほどよりも熱を帯びて腫れてきている気がした。
このままにしておくわけにもいかない。私は額を冷やすための氷を分けてもらおうと、しのぶさんのいる診察室へと足を向けた。









廊下の角を曲がり、突き当たりにある診察室の前で足を止める。
軽く木戸を叩くと、中から「どうぞ」と落ち着いた声が返ってきた。引き戸に手をかけ、隙間を開ける。

「……いいですか。傷はまだ癒えていませんからね。勝手に動き回ったり、包帯を解いたりしたら駄目ですよ」
「俺様はもうピンピンしてんだよ!腹が減って力が出ねぇだけだ!」
「そのピンピンが一番危ないと言っているんです。伊之助くんは薬が効きにくい体質なんですから、油断は大敵ですよ」

診察台の上でふんすと鼻息を荒げる猪頭の少年と、その前に仁王立ちして笑顔で圧をかけるしのぶさん。
どうやら少し入るタイミングを間違えてしまったらしい。

「……し、失礼します」

引き戸を少しだけ開けたまま、なんとなく気まずさに身を縮めて声をかける。
すると、しのぶさんがくるりとこちらを振り返り、いつもの微笑みを浮かべてくれた。怒っているわけではなさそうだ。
その笑顔に少しだけ肩の力を抜き、私は中へおずおずと足を踏み入れる。二人の邪魔をしてしまわないよう、できるだけ気配を消して壁際に身を寄せた。

「これ堅苦しいんだよ」

私の乱入など気にもとめずに、伊之助くんは不満げに胸元の包帯を指で弄ろうとする。しのぶさんはその荒っぽい手を両手で包み込むように制止した。

「伊之助くん、駄目です」
「あ?」
「約束してください。勝手にお部屋から抜け出さないこと。アオイの言うことをちゃんと聞くこと。……そして、自分の身体を一番に大切にすること」

しのぶさんも診察台の前に屈み込み、目線を合わせるようにして彼を真っ直ぐに見つめる。そして、そっと右手の小指を立て、彼の目の前に差し出した。

「さあ、指切りをしておきましょう。今日から伊之助くんは自分の身体を大切にする、と」
「指切り……?なんだ、その妙な儀式は」

伊之助くんは怪訝そうに唸りながらも、しのぶさんの持つ不思議な温かさに毒気を抜かれたらしい。
おずおずと差し出されたのは、傷だらけで無骨な彼の小指。白く小さなしのぶさんの指と、少年の指がゆっくりと絡まり合う。

「ゆびきりげんまん。嘘を吐いたら針千本、飲ませますよ」

ふわりと咲くような笑顔で歌うしのぶさんと、言われるがままぎこちなく指を揺らす伊之助くん。
そのとてもハートフルな空間に目にして、なんだか見ているこちらまで浄化されてしまうようだった。
普段は誰の手にも負えない暴れん坊の彼が、しのぶさんの前ではまるですっかり手懐けられた雛鳥のようだ。
炭治郎くんと同じように、重傷を負って運ばれてきた伊之助くんも、少し前まではずっと目を覚まさずに眠り続けていたのだ。先日ようやく意識を取り戻してくれたばかりで、こうして元気いっぱいに文句を言えるまでになった姿を見られるのは、本当に喜ばしいことだった。
ただ、元気があり余って安静にしてくれないのは困りものだけれど。

「よし、約束ですよ」

満足そうに小指を解いたしのぶさんに頭を撫でられると、伊之助くんの周りには目に見えるようなほわほわとした空気が漂い始めた。
すっかり毒気を抜かれ、ぽかんとしたまま診察台から降りると、足音も立てずにふらふらと部屋を出ていく。
その背中が見えなくなると同時に、しのぶさんはすっと笑みを消し小さく息を吐き出した。

「まったく、目が覚めた途端これなんですから」
「苦労が絶えませんね。でも、しばらくは大人しくしてくれそうですよ」

私が苦笑を浮かべると、しのぶさんはいつもの柔らかな表情に戻ってこちらへと向き直った。

「そう願いたいところですね。……それで、リサさんはどうされたのですか?」
「あ、それが……」

気まずさに縮こまりなが額に手を当てて事情を説明すると、しのぶさんはきょとんとした顔をしてから、声を荒げて笑った。




「はい、これで冷やしてください」

私にこしらえた氷嚢を手渡すなり、しのぶさんは背中を向けてくつくつと肩を揺らす。

「ふふっ……敷居に躓いて戸に頭をぶつけてたんこぶだなんて……まるで小さな子どもですね」
「しのぶさん!」

痛む額に氷嚢を当てながら、思わず抗議の声を上げる。
傷口に塩を塗りこまないでほしい。ただでさえカナヲさんに見られて恥ずかしかったというのに。しのぶさんにまでしっかり笑い者にされてしまった。
事情を聞いて早々、彼女は手際よく手当てをしてくれた。それは非常に有難い。そして多分、私をそれとなく励まそうとしているのも、何となく感じ取れた。
普段通り明るく振る舞うしのぶさんは、近くの椅子に腰を下ろす。

「前は見事に鼻血を出していましたしね」
「し、しのぶさん……!」
「ふふ」

さらに昔の不名誉な出来事まで掘り返される始末。けれど、少し意地悪な言葉の端々に、気遣いがちゃんと滲んでいるから怒るに怒れない。
ふと、しのぶさんは笑みを収めると、首を傾げてこちらを見つめてきた。

「……リサさん、元気ですか?」
「元気ですよ?」

少し、返答が早すぎただろうか。見透かされるのを恐れるように氷嚢を強く額へと押し当てるが、しのぶさんは穏やかな笑みをたたえたまま頷くだけだった。

「あら、それなら良かったです」

すべてを察しながらも、それ以上は踏み込まずにいてくれる。その優しさが有り難く、申し訳ない。

「そういえば、リサさんがこのお屋敷に来てから、もうすぐで一年ですね」
「え……。ああ、そういえば、もうそんなになりますか」

言われて初めて気づき、目を瞬かせる。
凍てつくような冬のさなか、行き場を失って震えていたあの日。雪の冷たさと、差し伸べられた温かい手のひらの記憶がぼんやりと蘇る。

「時の流れは本当に早いものですね」
「本当ですね……あっという間でした」
「ふふ、懐かしいですね」
「あの頃の私、しのぶさんの目にはどう映っていましたか?」
「そうですね……まるで、今にも折れてしまいそうな小枝のようでしたよ。いつ消えてしまってもおかしくないくらい、頼りなくて」
「ふふ、そんなに酷かったですか」

思わず零れた笑い声に、しのぶさんもつられるように口元を緩める。

「はい、本当に。それが今ではずいぶんと逞しくなられて」
「ふふ、たんこぶまで作ってますもんね」

あの凍えるような冬の日に拾われたことが、私の新しい人生の始まりだった。
今はまだ秋の柔らかな日差しがあって実感は薄いけれど、きっとすぐにあの厳しい寒さが巡ってきて、当時の感覚を呼び覚ますのだろう。
一年。長かったような、短かったような。過ぎ去った月日の重さに、ほんの少し感傷に浸っていると、しのぶさんがふいに姿勢を正した。

「リサさん。何か欲しいものはありますか?」
「欲しいもの、ですか?」
「はい。私、リサさんのお誕生日を知らないでしょう?だから、あなたがこの屋敷に来て一年になるその日をお祝いしようと思いまして」

思いがけない言葉に、目を丸くする。
そういえば、自分の誕生日なんて誰にも話したことがなかった。というか、日々の暮らしに追われるあまり、自分自身の生まれた日という存在さえ綺麗さっぱり忘れていた気がする。
祝ってもらえるなんて思いもよらなかったけれど、すぐに首を横に振った。

「お気持ちだけで十分嬉しいです。もう、いただきすぎていますから。温かいお部屋も、綺麗な着物も、美味しいご飯も……。みんなの側にいられるだけで私は幸せです」
「……欲のない人ですね」
「えへへ」

困ったように微笑むしのぶさんに、へらりと笑い返す。
額に当てていた氷嚢をそっと離してみると、ずきずきとした脈打つ痛みは引いて、ひんやりとした感覚だけが残っていた。

「あ、もう熱も引いて大丈夫みたいです。氷、ありがとうございました」
「そうですか?また痛むようなら無理をせず言ってくださいね」
「はい。お仕事に戻りますね、しのぶさんもあまり根を詰めすぎないでください」

軽く頭を下げ、診察室の引き戸を閉める。パタンと吸い付くように閉まった扉を背に、冷たい秋の風が通る廊下へ一人歩き出した。
…逃げるように飛び出してきてしまったな。不審に思われただろうか。
でも、これ以上あの優しい空間にいたら、我慢できなくなる。

欲がない、だなんて。そんなことないんです、しのぶさん。
自分でも分かっていたはずだ。このまま距離を保っているのが正解なんだって。でも、私は。それじゃ耐えられなくなってしまった。
隣にいたいと願って、声を聞きたいと望んで、それ以上を求めてしまった。
壊したのは、まぎれもなく私の欲だ。踏み込んではいけない場所に足を踏み入れ、身の程知らずに手を伸ばした。
その報いが、この広大な海に取り残されたような孤独なのだとしても、誰のせいにもできはしない。



前へ   次へ


目次へ戻る

Back to top

78030 views