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それから一週間後、炭治郎くんが目を覚ました。
伊之助くんに引き続き、それは蝶屋敷にとってこれ以上ないほど嬉しい知らせだった。
隠の後藤さんの、屋敷の端まで届くような叫び声によってその報せはもたらされ、私たちは手にしていたものを放り出し、吸い寄せられるように炭治郎くんの病室へと集まった。
皆で彼の寝台を囲み、ただただ泣いた。けれど、誰よりも激しく泣いていたのはアオイさんだったと思う。その小さな背中には、どれほど大きな不安がのしかかっていたことだろう。
わっと声をあげて泣き崩れる彼女の姿を見て、彼女の心の重荷がようやく一つ、降りたのだと思った。それが何より嬉しくて、私の視界も一気に歪んだ。
そのあとは天井の梁から逆さまに吊り下がった伊之助くんが現れ、てんやわんやにはなったけれど。ようやく、蝶屋敷の日常が戻ってきてくれた。涙を拭いながら、私はこの騒がしくも愛おしい光景を、しっかりと胸に刻み込んだ。
それから数日が経ち、私は三人娘と一緒に炭治郎くんの病室を訪れていた。
扉を開けると、そこには寝台の上にしっかりと身体を起こし、穏やかな顔でこちらを見やる炭治郎くんの姿があった。
「あ!皆さん、おはようございます」
「おはようございます、炭治郎さん」
「炭治郎くん、おはよう。体調はどう?」
すごい。二ヶ月も眠り続けていたのに、もう自分の力で起き上がれるなんて。伊之助くんと言い、炭治郎くんと言い、すごい回復力だ。
三人と一緒に炭治郎くんの座る寝台に寄るが、当の炭治郎くんは自分の現状に満足しきっているわけではないようだった。
「やっぱり、まだ思うように力が入らなくて……。指先も少し震えるし、身体が自分のものじゃないみたいです」
炭治郎くんは、膝の上で自分の掌をじっと見つめながら、困ったように眉を下げる。
私はそんな彼を見つめながら、手に持った重湯の乗ったお膳を近くの机の上に置いた。
「炭治郎さん、無理は禁物ですよ。二ヶ月もお休みされていたんですから」
「そうですよ!まずはたくさん食べて、ゆっくり体力を戻さないと」
三人娘が寝台を囲いながら口々に炭治郎くんを諭す。
私だったら、まず起き上がることすらできないだろうに…。もし自分が二ヶ月も寝たきりだったら、きっと筋肉は落ち、重力に逆らうことすら億劫になってしまうはずだ。
それなのに、目覚めて数日でこれほどしっかりと姿勢を保ち、次の一歩を見据えている。やっぱり、死線を幾度も越えてきた剣士は、私たち一般の人間とは根本から違うのだと痛感させられる。
「あはは、みんなありがとう。でも、早く治して動けるようになりたいんだ。……それと、禰󠄀豆子のことなんだけど……」
「あ、禰󠄀豆子ちゃんならお昼間はいつも、彼女の部屋でゆっくりお休みしてるよ」
私がそう告げると、炭治郎くんの少しこわばっていた表情がふんわりと和いだ。
「そうか……。よかった、ありがとうございます」
「うん。炭治郎くんが眠っている間、夜はきよちゃんたちとずっと遊んでたんだよね?」
私が三人たちに視線を向けると、三人は揃って元気よく「はい!」と声を弾ませる。
「炭治郎さんの分まで、私たちが禰󠄀豆子さんとたくさん遊びました!」
「すごろくをしたり、折り紙をしたり……。禰󠄀豆子さん、とってもお上手なんですよ」
三人が競い合うようにして禰󠄀豆子ちゃんの様子を報告する姿に、炭治郎くんは愛おしそうに目を細めている。
今はまだ太陽が高いから、禰󠄀豆子ちゃんは外には出られないけれど、彼女も炭治郎くんが目を覚ますのをずっと待っていたはずだ。
炭治郎くんは一度意識が戻ってからも、夜は眠ってしまっていることが多かったから、まだ二人は再会できていない。早く二人を会わせてあげて欲しいなと思う。
「心配かけたな、禰󠄀豆子にも……」
炭治郎くんはそう言って、私が運んできたお膳の重湯を一口ずつ大切に口へと運び始めた。
心配もなにも、禰󠄀豆子ちゃんも炭治郎くんが目覚めてくれて嬉しいだろう。
「あ、美味しいです、リサさん。身体の芯まで温まります」
「よかった。…実はそれ、カナヲさんが作ったんだよ」
私がそう付け加えると、炭治郎くんは手元の椀を見つめたままなんだか照れくさそうに目を細めた。どこか甘酸っぱい空気に、私までなんだかくすぐったいような気持ちになってくる。
…なるほど。若いって素晴らしい。いや、私とそんなに大きく年が離れているわけではないけれど。ふふ、と心の中で小さく笑いながら、私は二人の間に流れる純粋な空気を眩しく見つめる。
「そうだ、しのぶ様が機能回復訓練、一週間後くらいには始められそうだって。炭治郎さんの回復が想像以上に早いからって驚いていらっしゃいましたよ」
「本当?それは嬉しいな……!」
すみちゃんの言葉に炭治郎くんはパッと表情を明るくし、重湯を運ぶ手も先ほどより少しだけ力強くなったように見える。
「でも炭治郎さん、まずは焦らないことですよ!アオイさんも伊之助さんに『最初から無理をしたら、また寝込むことになるわよ』って、すごく怖い顔で怒ってましたから」
なほちゃんが腰に手を当てて、アオイさんの真似をするように少し語気を強めると、病室に小さな笑い声が広がった。
炭治郎くんも「ははは、目に浮かぶよ」と苦笑いしている。
アオイさんはもういつもの調子に戻り、忙しなく屋敷を切り盛りしている。彼女の厳しい言葉の裏にある優しさが、こうしてまた屋敷に活気を与えるようになっていた。
「善逸と……宇髄さんは、どうしていますか?」
ふと、炭治郎くんが問いかけてきた。重湯を半分ほど平らげた彼の表情には、共に戦場を駆け抜けた仲間への切実な案じが滲んでいる。
「善逸くんは遠くの任務に出突っ張りで、なかなか屋敷には戻ってこれないみたい」
「そうか。善逸、頑張っているんだな……」
「うん。それと、宇髄さん、は……」
炭治郎くんは少しだけ安心したように頬を緩めた。けれど、続く名前に私が一瞬言葉を詰まらせると、彼の表情がわずかに曇る。
私は少しだけどもってから、彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「宇髄さんは柱を引退されました」
「……引退。そう……ですか」
私の代わりに答えてくれたきよちゃんの言葉に、炭治郎くんは視線を落とし小さく呟いた。
彼がもう前線に立つことがないという事実は、鬼殺の隊士とって、どこか心に穴が空いたような寂しさをもたらしていた。
みんな、何も言わないけれど。柱でも上弦に勝つにはそれほどに命懸けなのだと、隊士たちの士気が若干落ちているのも感じている。
正直なところ、あの派手好きな振る舞いは、いまだにどこか信用ならない人だと思ってしまう部分もあるけれど。
命懸けでボロボロになりながらも最後まで戦い抜いたあの姿や、以前町中でした会話を思い出せば、決して悪い人ではないことも、私なりに理解しているつもりだ。
あんなに場を圧倒するような輝きを放っていた人が一線を退いてしまうのは、やはりどこか寂しくて残念だと思う。
「……あ、そうだ炭治郎くん。今度私宇髄さんのお屋敷に行く予定があるから、また炭治郎くんの無事も伝えておくね」
私が努めて明るくそう言うと、炭治郎くんはハッとしたように顔を上げ、それから静かに微笑んだ。
「え、リサさん、音柱様のお屋敷に行かれるんですか!?」
なほちゃんが身を乗り出して驚きの声を上げると、きよちゃんとすみちゃんも「どうしてどうして!」「何か御用があるんですか?」と興味津々に目を輝かせ始める。
あ、余計なことを言ってしまったかもしれない。突然の食いつきに少し圧倒されながらも、私は苦笑いを浮かべて答える。
「あ、ええと……色々ありまして……」
年頃の女の子らしい純粋な追及に冷や汗をかきつつも、賑やかな彼女たちのおかげで、炭治郎くんの瞳に宿っていた寂しさが少しだけ和らいだように見えて、私はホッと胸を撫で下ろした。
*
…とは言ったものの。
やっぱり、来るんじゃなかったかも。ぎゅっと、持参した小包の紐を握りしめる。
日の落ちかけた夕暮れ時。蝶屋敷も立派だけれど、目の前に広がるお屋敷は、主の気質を映したかのように豪奢で、どこか凛とした空気が漂っている。
三人も奥さんがいると聞いた。どんな人たちなのだろう。宇髄さんのあの勢いに、奥様方まで加わったら、私のような地味な人間は一瞬で消し飛ばされてしまうのではないか。
炭治郎くんが目を覚ましてから数日。慌しかった蝶屋敷も落ち着いてきたそんなタイミングで、宇髄さんからお手紙が届いた。
曰く、「竈門も意識が戻ったようだし、良ければ屋敷に来ないか」とのこと。断る理由もなく、折角だしとお邪魔することにしたのだが。
誘われるがまま、安易に頷いてしまった先日の自分を恨めしく思いながら、私は震える手で門を叩いた。
「はーい!どなた……って、あ!もしかして!」
数秒待って現れたのは、くりくりとした大きな瞳が印象的な、とても可愛らしい女性。彼女は私の顔を見るなり、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「天元様ー!雛鶴さーん!まきをさーん!いらっしゃいましたよぉ!例の、蝶屋敷の可愛い子が!」
「ちょっ、須磨!騒がしいわよ、驚かせてるじゃないの!」
奥からもう一人、凛とした雰囲気の美女が顔を出し、須磨さんと呼ばれた女性の頭を軽く小突いた。その背後からは、さらに落ち着いた、美しい瞳の女性が穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
う、わぁ…。本当に、皆さんとっても綺麗…。
想像を絶する美貌の競演に、私は圧倒されて言葉を失う。須磨さん、まきをさん、雛鶴さんだっけ。
あまりの眩しさにクラクラしながら、私は壊れた人形のようにぎこちなく腰を折った。
「は、はじめまして…!高月、リサと申します…!」
「おー、よく来たな!派手に待ってたぜ!」
ようやくそれだけを口にすると、屋敷の廊下の先から、あの聞き慣れた豪快な声が降ってくる。
顔を上げると、着流しをゆったりと羽織った宇髄さんがこちらまでやって来ていた。
「あ、あの、本日はお招きいただき、本当にありがとうございます……!」
「ふふ、そんなに畏まらなくていいのに。天元様からお話は聞いていたから、私たちも会えるのを本当に楽しみにしていたの」
雛鶴さんが優しく私の背中を叩いて中へ促してくれる。その温かな感触に、緊張が少しだけ解けるのを感じた。
「そうよ!天元様の誘いなんて、もっと気楽に乗っちゃっていいんだからね!」
「まあ、お肌がとっても綺麗!なんの白粉を使っているんですか?」
「白粉…はその、使ってなくて……。あ、あの、これ。つまらないものですが、皆さんで召し上がってください」
私は慌てて、持ってきた小包を彼女らに差し出した。
「気を遣わなくて良かったのに。手ぶらで来ればよかったのよ?」
雛鶴さんが申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに受け取ってくれる。三人の奥様たちの、三者三様の優しさに包まれて、私はようやく一息つくことができた。
…よかった。身構えていたけれど、とっても素敵な人たちばかりだ。
彼女たちが向けてくれる眼差しはどれも柔らかく、私を心から歓迎してくれているのが伝わってくる。
「さあ、外は少し風が出てきましたし、中へ入りましょう」
「は、はい。お邪魔します……」
雛鶴さんに優しく背中に手を添えられ、私は促されるまま玄関へと上がった。磨き上げられた廊下を歩きながら、ふと前を行く三人の背中を見つめて、私は改めて溜息をつきそうになる。
それにしても……三人とも、何度見ても見惚れるくらいスタイルが抜群で美しい。しのぶさんやカナヲさん、それに甘露寺さんもそうだけれど、鬼殺隊に関わる女性は綺麗な人しかいないのだろうか。
居間に案内されるがまま、おずおずと畳の上に腰を下ろす。宇髄さんは座卓越しに目の前でどっかと胡坐をかくと、眼帯の奥の瞳を僅かに和らげて問いかけてきた。
「道には迷わなかったか?」
「は、はい…大丈夫でした。丁寧に地図を書いていただいたおかげで迷わず来られました」
答えながら、私はきょろきょろと辺りを見渡す。
「案外ふつうのお屋敷ですね……」
「…お前は何を想像してたんだ」
宇髄さんが怪訝そうに眉を寄せると、須磨さんが横から「何々、隠し武器とかあると思ったんですかぁ?」とお茶を運びながらクスクス笑う。
私はお礼を言いつつ、顔を赤くして小さな声で白状した。
「はい。こう、なんていうか……忍が住んでいるお家なんだから、隠し扉や回転扉がたくさんあるような仕掛け屋敷を……」
「阿保か、いつの時代の話をしてんだ。そんな疲れる仕掛け、いちいち作ってられるか」
「そ、そうですよね。すみません……」
変な期待をしてしまった自分が恥ずかしい。
けれど、もっと暗くて殺風景な場所だと思っていたから、陽光が差し込むこの穏やかで豪華なお屋敷は、少し意外だった。忍という過酷な世界を生き抜いた彼らが選んだのは、こんなにも真っ当で美しい場所なのかと。
「あ、そうだ、宇髄さん。しのぶさんからの伝言を預かってきました。……ええと、連れ去りの件はまだ許していない、とのことです」
「…そうかい」
「あと、次に何か失礼があれば麻酔なしで縫合しますからね、とも仰っていました」
私がなるべくしのぶさんの冷ややかな微笑みを再現するようにして伝えると、宇髄さんの顔が僅かに引きつった。私だってまだ許していないから、気持ちをより込めて伝えたつもりだ。
「……あいつ、まだそんな昔のことをチクチク言ってやがんのか」
「しのぶさんは女の子の涙には厳しいですから。気をつけてくださいね」
私の言葉に、まきをさんたちが宇髄さんの周りに腰掛け、口々にそのときの文句を畳みかける。
宇髄さんが女性陣にやり込められている姿を見て、私もようやく心からの笑みをこぼすことができた。
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