68
「宇髄さん、もう傷の具合は大丈夫ですか?」
「ああ、なんとか片腕の生活にも慣れてきたよ。不便っちゃ不便だが、死に損なったおかげでこうして茶も飲めるしな」
「そうですか、良かった」
あれだけのことを成し遂げたという英雄はにこりと笑った。一歩間違えたら死んでいたかもしれないというのに、生命力が強い。きっとそれも才能なのだろう。
想像を絶する痛みだったはずだ。三人の奥様方もどこか痛ましい表情を浮かべている。
そんな少ししんみりとした空気を吹き飛ばすように、宇髄さんは残った右腕で豪快にお茶を啜ると、私を真っ直ぐに見据えた。
「ところで、竈門のガキはどうだ。もう目覚めたんだろう?」
「あ、はい!炭治郎くん、一週間ほど前に目を覚ましました。とっても賑やかな目覚めだったんですよ」
私が答えると、宇髄さんの口角がニヤリと上がる。
「そうか、あの野郎……。あいつのしぶとさは俺が一番よく知ってるからな」
「はい。まだ身体は思うように動かないみたいですけど、機能回復訓練を心待ちにしているくらい前向きで……。宇髄さんにも宜しく伝えてほしいと言っていました」
そう告げると、三人の奥様方も口々に、まるで自分の弟のことのように炭治郎くんへの感謝を述べる。その言葉の一つひとつに、死線を共にした者たちにしか分からない、深くそして固い絆の温度が宿っていた。
それにしても、私はなぜ今日このお屋敷によばれたのだろう。宇髄さんも奥様方も、目の前のお茶を啜り、私が持ってきた菓子折りを「美味しい」と言い合いながら、各々談笑している。賑やかで楽しい時間ではあるけれど、私に何か聞きたいことがあって呼ばれたのだと思っていた。
けれど、そんな気配はどこにもない。もしかして、本当にただの「お茶会」なのだろうか。それとも、私が何か粗相をしていないか様子を見られている…?
「リサちゃんは、いつから蝶屋敷にいるの?」
ふと、雛鶴さんが穏やかな声で私に問いかけた。その柔らかな眼差しに、私は背筋を伸ばして居住まいを正す。
「ええと……一年前の、雪が降り始めた頃からです。ですから、まだ一年弱といったところでしょうか」
「まあ、そうなのね。じゃあ、しのぶちゃんやアオイちゃんとも、少し長い付き合いになるのかしら」
雛鶴さんの問いを皮切りに、まきをさんと須磨さんも待ってましたと言わんばかりに身を乗り出してきた。
「ねえねえ、蝶屋敷での生活はどう?天元様ったら、あなたのこと『面白い奴がいる』なんて言うだけで、詳しいことは全然教えてくれなかったんだから!」
「そうですよぉ!私、もっとリサちゃんのこと知りたいです!」
「俺はだな、こいつよりもあいつとの関係を……」
宇髄さんが正面で呆れたように笑う。私はその勢いに圧倒されながらも、彼女たちの純粋な好奇心に少しだけ頬を緩めた。
「蝶屋敷の生活は、最初は戸惑うことも多かったですけど、今は……とても大切で、温かい場所だと思っています」
「へえ、そっかそっか。…じゃあ蝶屋敷に来る前は、どこにいたの?」
まきをさんが何気なく、けれど好奇心いっぱいの瞳で問いかけてきた。
…どう、答えるべきだろう。心臓が嫌な跳ね方をする。下手に実在する地名を言えば、より深い質問をされてボロが出るかもしれない。何より、こんなに温かく迎え入れてくれている彼らに、嘘をつくこもに胸が痛んだ。
けれど、本当のことを言えるはずもない。私がいた場所は、ここから気が遠くなるほど未来の、彼らが命を懸けて守ろうとしている平和が当たり前になった世界なのだから。
「ここじゃない……遠くの都会から」
私がそう答えると、宇髄さんも、三人の奥様方も、表情を少しも動かさずにじっと私を見つめ返してくる。
信じてもらえていないというか、納得されていないかな。元忍の彼らの前で、私の隠し事など透けて見えているのかもしれない。思わず苦笑が浮かぶ。
「身寄りがないところを、気づいたら冨岡さんに拾っていただいて」
「え?冨岡、さん…って、水柱の?」
「は、はい……」
「……信じらんねえな」
宇髄さんが驚いたように声を上げるのを聞いて、私は少しだけ不思議な気持ちになった。やっぱり、冨岡さんがそんな風に誰かを助けるというのは、周囲から見れば滅多にない不思議なことなのだろうか。
でも、あの時あそこにいたのが私じゃなくても…。きっと、優しいあの人なら誰も見捨てたりしなかったはず。
「そっか……ごめんね、辛い話をさせてしまって。色々と思い出させてしまったわね」
雛鶴さんが申し訳なさそうに、眉を下げて私を見つめる。まきをさんも須磨さんも、どこか痛ましいものを見るような、優しいけれど少し沈んだ表情を浮かべていた。
「え?あ、全然……!辛いなんてこと、ありません」
私は慌てて首を振る。
彼女たちが私の過去を悲劇として受け止めようとしてくれているのが分かったからこそ、今の自分の本当の気持ちを伝えたかった。
「むしろ、私にとっては……すごく温かい記憶としての印象が強いというか」
たとえそれが、彼にとっては義務感に近いものだったとしても、私にとっては凍てついた世界で初めて触れた救いの光だった。黙って手を引いてくれたあの温もりを知っているのは私だけだ。
あのときのことを思い出しながら、私はお茶を口に運ぶ。少しぬるくなってるけど味は落ちていない。これ、もしかしてすごく良い茶葉なのかもしれない。
「リサちゃんって冨岡さんと恋仲なの?」
「ゴフッ」
噎せた。せっかくの美味しい煎茶が変なところに入った。
雛鶴さんがすかさずちり紙を目の前に差し出してくれるけれど、質問をした当の須磨さんはどこか顔を赤く染めて身を乗り出している。
とりあえず有難くちり紙を受け取って口元を拭う。
「げほっ、…す、すみません。聞き捨てならない単語が」
「え、恋仲じゃないの?」
「違います!!!!」
そこだけははっきり否定しておかねばならない。このやり取りも何度目かと思いながら、失恋したあとだとなんだかこう、くるものがある。
「えぇー、嘘だ!もっと詳しく聞かせてくださいよお!だってあの冨岡さんが女性を助けるなんて、どう考えたって訳ありじゃないですかぁ!」
「そうだよ、ねえ、本当は何かあるんじゃないの?」
「まきをさんまで……!本当に、そんな関係じゃないんです!」
雛鶴さんまでもが、お茶を注ぎ足しながら「でも、彼はあなたのことをどう思っているのかしらね」と、どこか楽しそうに微笑んでいる。
…待って。もしかして。三者三様の角度から飛んでくる質問の礫。そして、その様子を正面でニヤニヤと眺めている宇髄さん。
さては今日は、この話を聞くために私をここに呼んだな?元柱という立場でありながら、その実、ただの好奇心で私をこのお茶会に招いたのではないだろうか。
「……宇髄さん」
私が恨めしげな視線を向けると、宇髄さんは豪快に笑い飛ばした。
「なんだよ!柱を引退して暇なんだよ。冨岡みたいな堅物が、女にどんなツラして接してんのか派手に暴いてやろうと思っただけだ」
「天元様、失礼ですよぉ!……で、リサちゃんは冨岡さんのどこが好きなんですか!?」
否定したはずなのに、いつの間にか好きな前提になってる。けれどあそこだけはっきりと否定してしまった以上、好きという部分に関して否定をすることが出来なくなる。…まあ、間違いではないけれど。
「す、好き…なのは否定しませんが、本当に何もありませんよ。夏頃に、振られてしまいましたし」
「えっ、振られた?」
須磨さんが信じられないものを見たというように目を見開き、まきをさんと雛鶴さんも動きを止めた
「は、はい。思い切って想いを伝えたんですけど…」
「リサちゃんが振ったんじゃなくて?」
「は、はい。拒絶されてしまいました」
改めて口にすると、やっぱり胸の奥が少しだけ、きゅっと窄まるような感覚がある。
一度自分の中で整理をつけたつもりでも、こうして誰かに言葉として放つと、あの日の雨の匂いや、彼の突き放すような静かな瞳が鮮明に蘇ってしまう。
ずー、と音を立てて目の前の煎茶を飲み下した。喉を通る温かさが、強張った胸を少しだけ解してくれる。
ふと顔を上げると、先ほどまであれほど賑やかだった居間が、何やら少ししんみりとした空気に包まれていて、私は慌てて目を瞬かせた。
「すみません、なんだか変な空気に」
「いや……まさかこんなところでリサちゃんの失恋の話になるとは思っていなくて。こちらこそ、無理に聞き出そうとしてごめんなさいね」
雛鶴さんが本当に申し訳なさそうに眉を下げ、須磨さんに至っては今にも泣き出しそうな顔で私を見つめている。
「……あの、冨岡とかいう男、本当に見る目がないですぅ!こんなに可愛いリサちゃんを振るなんて、信じられません!」
「須磨の言う通りだわ。あの言葉足らずが、そこまで分からず屋だったなんてね」
まきをさんまで憤慨したように腕を組み、宇髄さんの方を向いて「天元様からも何か言ってやってください!」と詰め寄っている。
当の宇髄さんはというと、腕を組んだままじっと私を見つめていた。
「……拒絶、か。あいつらしいっちゃあらしいが、面白くねぇな」
宇髄さんの言葉はぶっきらぼうだったけれど、そこには私を憐れむのとは違う、何かを疑うような奇妙な空気が流れている。
「あの、本当に大丈夫なんです。今はこうして、皆さんと笑い合えるくらいには吹っ切れてますから」
私が努めて明るく笑うと、雛鶴さんが座卓越しに私の手をそっと握りしめてくれた。
「リサちゃんは強いのね。…でも、今日くらいは甘えてもいいのよ。天元様、今日はとびきり派手な夕餉にしましょう?この子の心が少しでも晴れるように」
「おう、当たり前だ!湿っぽい話はここで切り上げだ。おい須磨、まきを!泣いてる暇があったら、次は酒だ!派手に宴を始めるぞ!」
あ、やっぱりそうなるんだ…。
宇髄さんの強引な切り替えに圧倒されながらも、私はこの温かな家族の輪に迎え入れられたことに、どこか安堵を覚える。
「リサちゃん、お酒は飲むの?」
まきをさんが、棚から朱塗りの酒器を取り出しながら、いたずらっぽく片目を細めて聞いてきた。
「年齢的には飲めるんですけど、実はまだ一度も飲んだことがなくて」
この世界に来てから、早くも一年。
いつの間にか私は未来の時代の「成人」に相当する年齢になっていたけれど、お酒を飲もうなんて考えたこともなかった。蝶屋敷は医療の場ということもあって、しのぶさんもアオイさんもお酒は嗜まないし、三人娘はまだ子供だ。
そもそも、この大正時代でも二十歳にならないと飲めないのだろうか。その辺りの決まりがよくわからず、私はつい言葉を濁してしまう。
「年齢?じゃあ、無理にお酒じゃなくてもラムネとかの方がいいかな」
雛鶴さんの気遣いに、私はふと記憶の片隅にある光景を思い出した。
「……あの、お酒って、美味しいんですか?」
未来にいた頃、父が酔うたびに「酒は裏切らない」とご機嫌に笑っていたこと。母と「あそこのカクテルが美味しかった」と楽しそうに話していたこと。
当時は「大人はいいなぁ」なんて他人事のように見ていたけれど、どこかでずっと興味はあったのだ。機会があれば、一度くらいは飲んでみたい。そう、ずっと思っていた。
「俺は好きだぜ?女には…まあ、好みがあるだろうがな」
宇髄さんの答えを聞きながら、私は自分の胸の内を見つめる。
お酒を飲むことで、この胸に居座り続けるモヤモヤとしたストレスが少しでも晴れるなら、それはそれで"あり"なんじゃないだろうか。
…そう考え始めたら、なんだか無性に飲みたくなってきた。
「あの……少しだけ飲んでみてもいいですか」
「お、酒初挑戦か!いいねぇ、派手な門出じゃねぇか」
私が意を決して告げると、宇髄さんは面白そうに口角を上げた。
「初めてなら、あんまり強くないお酒を用意するね。甘くて飲みやすいやつがあるから」
須磨さんが「任せて」とばかりに奥へ引っ込み、私の前には小ぶりで可愛らしいお猪口が置かれた。
少しだけ飲む分には、そこまで酔うこともないだろう。ちょっとした好奇心と、失恋の傷を紛らわせたいという小さな現実逃避。
なんて考えが甘かった。
前へ 次へ
目次へ戻る