68
すっかり暮れなずんだ空の下、蝶屋敷の格子戸をくぐる。
「ただいま戻りました……」
今日はいろいろなことがあった。泣いて、怒って、感情をぜんぶ使い果たした気がする。突然力が抜けてきて、玄関の板張りに思わず腰掛けると、やっぱりここが私の帰る場所なんだと安心する。
草履を脱いで、上り
「リサさん!!おかえりなさい!!」
「すみちゃん……?どうしたの、そんなに急いで」
飛び出してきたすみちゃんは、息を切らしながら私の前に立ち止まるなり、満面の笑みを咲かせた。
「早く来てください!みんな待ってます!」
「えっ、待ってるって、誰が……?」
返事もそこそこに、きゅっと袖口を引かれる。
わけも分からぬまま、玄関を上がった。いつもはおっとりしているすみちゃんが、こんなに慌てて駆け寄ってくるなんて珍しい。炭治郎くんたちの容態が悪化したとか、そういう不穏な空気ではなさそうだけれど、何かあったのではと心配になる。
小走りで進む小さな背中を追いかけながら、廊下を渡っていく。やがてすみちゃんが立ち止まり、勢いよく障子を開けたのは、しのぶさんの部屋の前だった。
「お連れしました!」
部屋の中には、すでに蝶屋敷のみんなが顔を揃えていた。
しのぶさん、アオイさん、カナヲさん、きよちゃんになほちゃん。
そして中央の低い座卓の上には、金平糖や落雁、かりんとうに色鮮やかな練り切りまで、溢れんばかりのお菓子が所狭しと並べられている。甘い匂いが部屋いっぱいに満ちていた。
「あ、主役の登場ですね」
腕組みを解いたアオイさんが、どこか誇らしげに笑う。
「おかえりなさい!リサさん!」
「待ってたんですよ!」
きよちゃんとなほちゃんが口々に声を弾ませ、身を乗り出す。
主役…?何のことだかさっぱり分からず、ぱちくりと瞬きを繰り返しながら立ち尽くしていると、座卓の奥に座っていたしのぶさんが目を細めて微笑んだ。カナヲさんも、三人娘たちも、なぜかみんなとびきりの笑顔で私を迎えてくれる。
「リサさんに、みんなから贈り物があるんです!」
「そうなんです、ずっと準備してたんですよ!」
「贈り物……?」
思いがけない言葉に、首を傾げることしかできない。
今日は私の誕生日ではないし、何か特別な手柄を立てた覚えもない。
「本当は、リサさんがここに来てちょうど一年になる日に渡そうとみんなで話していたんですけど」
固まったままの私に、座卓の向こうからきよちゃんが嬉しそうに教えてくれる。
「でも、一日でも早く渡したほうがいいんじゃないかって、みんなで相談して。どうせなら、リサさんの好きな甘いものもたくさん囲んでお祝いしようってことになったんです」
私の頭の上には、相変わらず疑問符が浮かんだままだ。
きよちゃん、なほちゃん、すみちゃんが小走りで部屋の隅へ向かい、大切そうに小さな桐箱を抱えて戻ってきた。私を見上げると、ふたを開けてそれを差し出してくる。
「はい、リサさん!」
視線を落とした瞬間、息が止まった。
箱の中に収められていたのは、見事な細工が施された、薄紅色の蝶の髪飾りだった。
「これ……」
声が震えて、うまく言葉にならない。
蝶の髪飾り。それは、しのぶさんやカナヲさん、アオイさんたち、蝶屋敷で暮らすみんなが髪に挿しているものだった。
「リサさんだけ、まだ持っていなかったでしょう?」
しのぶさんが微笑みながら、そっと言葉を添える。
「渡すのが少し遅くなってしまいましたね」
「い、いいんですか……?私が、こんなもの……」
震える声で尋ねると、しのぶさんは何を当たり前のことを、と呆れたように眉を下げて笑った。
「いいも何も、リサさんはもう私たちの家族なんですから」
家族。血の繋がりなんてない。ただ生き延びて、ここに転がり込んだだけの私を、この人たちは家族だと言ってくれる。
「はい!どうぞ!」
三人の手から、薄紅色の蝶が私の手へと移される。
ひんやりとした滑らかな感触。瞬間、喉の奥がきゅうっと締まり、視界が滲んだ。
もう、声も出ない。止めどなく、ぽろぽろと涙が零れて、畳の目を濡らしていく。
甘露寺さんの前であれだけ泣いたのに、私の涙腺はどうやら完全に壊れてしまったらしい。次から次へと溢れ出して、まったく止まる気配がなかった。
「わっわっ!リサさんが泣いちゃいました!ど、どうしましょう!」
「……いいのよこれで」
すみちゃんの慌てる声に、アオイさんが落ち着いた声で言う。
ぐすぐすと鼻を鳴らせば、しのぶさんは立ち上がり、苦笑を浮かべてこちらに歩み寄ってきた。
そして、涙を流し続ける私の目尻を優しく拭いながら、心底ほっとしたようにこう言ったのだ。
「良かった。ようやく、私たちの前で泣いてくれましたね」
…と。
「いつも、泣きそうなのに泣かないことが気がかりだったんです」
目を冷やす氷嚢を私に手当しながら、しのぶさんが言った。
アオイさんや、すみちゃんたちはあの後、その場にしゃがみ込んで涙が止まらなくなってしまった私を、嫌がったり疎んだりせずに根気よく慰めてくれた。
大丈夫、大丈夫。まるで子供に言い聞かせるように、私の背中を撫で続けてくれた。
優しくされると余計に涙が止まらなくなる。でもきっと、そういうこともみんなは全部わかった上だったんだろう。
「そうでした、っけ……?」
正座のまま座卓に肘をついて、目元に当てた氷の冷たさに身を竦めながら問い返す。
「ええ。泣いた形跡はあるのに、私たちの前では決して涙など見せませんでした。それどころか無理に笑ってさえいるから、いつか壊れてしまうんじゃないかとずっと心配だったんですよ」
しのぶさんは隣から私の前髪を整えながら、困ったように眉を下げた。
そうだっただろうか、とこれまでの日々を辿る。言われてみれば、確かにそうかもしれない。涙を流すのはいつも決まって一人の時か、あるいは…冨岡さんの前だけだった。
屋敷ではみんな忙しく立ち回っているから、私のくだらない感傷で余計な心配をかけたくなくて。
「でも、良かった。私たちもようやく、信用してもらえたみたいですから」
「あっ、えっ!そんな、信用してないだなんて、そんなつもりじゃ……!」
慌てて氷嚢を目から外し身を乗り出すと、しのぶさんは声を立てて笑った。
「分かっていますよ。ただ、これからはもっと頼ってほしいということです」
向かいの座卓のほうへ目を向けると、アオイさんやカナヲさん、三人娘たちが賑やかにお菓子をつまんでいる。
「これ甘くて美味しい!」「カナヲさん、こっちの練り切りも美味しいですよ!」と、楽しそうにはしゃいでいた。
『あなたは、もう少し与えられることに慣れた方がいいですね』
この屋敷に来たばかりの頃に、しのぶさんが掛けてくれた言葉だ。
遠慮して、引け目を感じて、心のどこかで身構えていた私に、この人たちは最初からずっと温かい手を差し伸べ続けてくれていた。
その優しさを、私はどれだけ真っ直ぐに受け取れていただろうか。
氷嚢を膝の上に下ろし、座卓の隅に置かれた桐箱を覗き込む。薄紅色の羽を広げた蝶が、光を浴びて輝いて見えた。
「本当に、ありがとうございます。大切にします。一生の宝物にしますね」
溢れる気持ちのままに伝えると、お煎餅をぱきりと二つに割ったアオイさんが口を開いた。
「でも、リサさん。その泣き顔は他の誰にも見せない方がいいですよ」
「……え?」
はて、と首を傾げる。
宇髄さんに「器量落ちする」とからかわれたことを思い出し、やっぱりそんなに酷い顔だっただろうかと不安になる。
すると、私の隣に座り直したしのぶさんが、お茶をすすりながら目を細めた。
「ええ、そうですね。悪い虫がついてしまいますから。これからは私たちの前だけで泣いてくださいね」
意味を測りかねて目を白黒させていると、ふたりがあまりに真面目な顔で見つめてくるものだから、なんだか気恥ずかしくなってへらりと曖昧な笑みを返してしまう。
私の頼りない反応に、しのぶさんとアオイさんも顔を見合わせ、ふっと柔らかく
「あっ、あの……!さっそく、つけてみてもいいですか?」
桐箱を両手で抱え直しながらおそるおそる尋ねると、なほちゃんたちが「わぁ、ぜひ!」「つけてください!」と一斉に飛び跳ねた。
蓋を外し、大切に蝶の髪飾りをつまみ上げる。
壊してしまわないよう慎重に手を後ろへ回し、結い上げた髪のすぐ上、大きいの薄紅色の蝶をそっと挿し込んだ。髪に柔らかな重みが加わる。
「わあ……!着物の色と一緒ですごくお似合いです、リサさん!」
「良かった!すっごく可愛いです!」
きよちゃんとなほちゃんが手を叩いて喜び、すみちゃんが小さな姿見を持って駆け寄ってきてくれる。
鏡を覗き込むと、髪の後ろに留まった薄紅色の蝶が、羽を休めるように優美に揺れていた。
照れくさくて耳まで熱くなり、どう反応していいか分からずもじもじしていると、カナヲさんがまで「素敵」と褒めてくれる。
「うう、また泣きそうです……」
「泣いてもいいんです!」
「気が済むまで、いくらでも泣いてください!」
「私が胸を貸しましょうか?」
情けなく眉を下げて零すと、三人娘たちがすかさず腰に手を当てて胸を張った。
誇らしげなその言い草がおかしくて、滲みかけた涙を指先でそっと拭う。
「……私、みんなのことが大好きです」
「私たちも、リサさんのことが大好きですよ」
しのぶさんがふわりと目を細めて真っ先に返してくれた。
「私も大好きです!」と三人娘も声を弾ませ、アオイさんもカナヲさんも、顔を赤らめながら「…私もです」と小さく返してくれる。
あたたかな甘い香りとみんなの笑い声に包まれながら、私は何度も、何度もその幸せを噛みしめるのだった。
*
「イテテテテ、イテテッ!」
道場の中に、炭治郎くんの悲痛な叫び声が響き渡る。
その片隅で、機能回復訓練の仕上げとして柔軟に励む炭治郎くんの姿を、私は少し離れた板間から見守っていた。
開脚した彼の背中を、容赦のない手つきできよちゃんが上からぐいぐいと押し込んでいる。
「はい、おしまいです!お疲れ様でした!」
きよちゃんがぱっと手を離すと、炭治郎くんはその場にぐにゃりと倒れ込み、畳に額をこすりつけて荒い息を吐いた。
「んー、悔しい……。やっぱり、なかなか体力戻らないなあ。前ならこれくらい、なんてことなかったはずなのに……」
炭治郎くんはむくりと起き上がると、悔しそうに眉を八の字にして、まだ思うように動かない自分の両脚を見つめた。
「伊之助ももう任務に復帰したのに……」
「炭治郎さんは二ヶ月も眠っていたんですよ?起きてからまだ数週間も経ってないのに、ここまで動けるだけで十分すごいです!」
「しのぶ様も、炭治郎さんの回復力に感心してました!」
三人娘の一生懸命な励ましに、炭治郎くんは困ったように眉を下げつつも、ふっと表情を緩めた。
焦る気持ちは痛いほどよく分かる。けれど、あれだけの深手を負ったのだ。無理に急く必要もないだろう。
「焦らなくて大丈夫だよ、炭治郎くん。起き上がれるようになっただけでも凄いことなんだから」
すみちゃんが冷たい手ぬぐいを差し出し、私も用意していたお茶を湯呑みに注いで手渡す。
「ありがとう。みんな」
炭治郎くんは笑顔でそれら受け取ると、ごくごくと喉を鳴らしてお茶を飲み干した。
息を整え、手ぬぐいで額の汗を拭ったところで、彼の赤褐色の瞳がふと私の頭元で止まる。
鼻先を微かにひくつかせたかと思うと、炭治郎くんの表情が一瞬でぱぁっと明るくなった。
「そういえば、リサさん!その髪飾り……すごくお似合いです」
「えっ……あ、ありがとう」
思わず頬に熱が集まり、後頭部に手をやると、滑らかな羽の感触が触れた。数日前にみんなに貰ってから、毎日つけている。気づいてくれるなんて、さすが炭治郎くんだ。
隣にいた三人娘が「えへへ、私たちが選んだんですよ!」「リサさんに一番似合う色にしたんです!」と誇らしげに胸を張るものだから、ますます気恥ずかしくなってしまう。
「でも、本当に無理は禁物だよ。少しずつ戻していけばいいと思うよ?」
「はい!でも、早く戻らないと、なんだか取り残されちゃうような気がして……」
「そういえばね、炭治郎くん。この前、町で宇髄さんに会ったの」
「えっ!宇髄さんに!?」
炭治郎くんが弾かれたように目を丸くし、身を乗り出した。
「うん。炭治郎くんたちの様子を聞かれたよ。『あいつらがしっかり立ち上がるまで支えてやってくれ』って、すごく気にかけてたよ」
「宇髄さんが……!」
あの大怪我を負わせてしまった責任を感じていたのだろうか。宇髄さんが自分たちを案じてくれていたという事実だけで、彼の胸のつかえが大きく取れたようだった。
「お元気そうでしたか?」
「うん、もうすっかり元の生活に戻っているみたいだったよ。一人で堂々と歩いていたし……ぴんぴんしてた」
「あはは、やっぱり凄い人だなあ。あれだけの怪我だったのに、もう一人で出歩いてるなんて……さすがですね」
ね、と私が相槌を打つと、三人娘もつられて顔を見合わせ、くすくすと笑い声を上げる。
あんなに場を圧倒するような輝きを放っていた人が一線を退いてしまうのは、やはりどこか寂しくて残念だと思う。でも、十分世のために尽くしてきた人だから、三人のお嫁さんたちとゆっくり余生を過ごして欲しい。
「……あ、そうだ炭治郎くん。今度、私、宇髄さんのお屋敷に行く予定があるから、また炭治郎くんのことも伝えておくね」
「本当ですか?宇髄さんのところに」
炭治郎くんは湯呑みを置き、嬉しそうに目を細めた。
あの後、鎹鴉経由で本当に手紙が届いたのだ。『嫁どもが待ってるから顔を出せ』と、いかにも尊大な筆跡で書かれていた。
しのぶさんにおそるおそる見せると、「息抜きにいいじゃないですか、行ってらっしゃい」とあっさり許可を出してくれたのだった。
「ぜひよろしくお伝えください。宇髄さんに安心してもらえるように、俺も早く身体を治して復帰します!」
ぐっと拳を握りしめる炭治郎くん。
髪の後ろでそっと揺れる蝶に指先で触れながら、私は頼もしいその笑顔に、静かに笑い返した。
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