69


「お、さっき鴉飛ばしたばっかなのに早かったな。すっ飛んで来やがったか」
「……どうしてそうなった」

俺はあえてその言葉を無視し、目の前の惨状に視線を落とした。
屋敷の居間に足を踏み入れるなり、宇髄がニヤリと口角を上げる。その手には酒器があり、眼帯のない方の瞳には隠しきれない揶揄いの色が浮かんでいた。

「いやー、いける口かと思ったんだが、思いのほかすぐ潰れてしまってな」

この惨状は一体何なのか。
今夜の任務を手早に終え、月明かりの下で見回りを兼ねて帰路に就いていたというのに。静寂を切り裂くように、宇髄の鴉が羽音を立てて飛来し、なぜか俺の足元へ一通の文を落としていった。
夜分に鴉を飛ばすなど、何か緊急の事態でも起きたのか。嫌な予感を胸に、俺は急いでその文を紐解いた。
のだが。

『高月が俺の屋敷で酒を飲み、そのまま寝入ってしまった。夜も更けている。蝶屋敷に送り届ける必要があるが、一人で歩ける状態ではない。というわけで冨岡。今すぐこいつを回収しに来い。』

内容は至って淡々としていたが、一瞬、状況が掴めずその場に立ち尽くした。
…いや、なぜ。
なぜ、彼女が宇髄の屋敷にいる。なぜ、酒を飲んでいる。そしてなぜ、俺が呼ばれなければならない。
疑問が次々と頭を掠めるが、答えなど文のどこにも記されていない。蝶屋敷に繋ぎを取るか、あるいは隠の者を呼べば済む話ではないか。
だが、その後に続いた『放っておけば、酒の勢いで何をするか分からんぞ』という一文が、どうしても胸の奥で疼いた。
結局、放っておくことなどできず、こうしてのこのことやって来たわけだが。宇髄の口の端の吊り上がった表情を見て、やはり来なければ良かったとも思った。

「…こいつは一度眠るとなかなか起きない」
「へぇ、なんでそんなこと知ってるのかね、水柱さんよぉ。二人きりの夜でもあったのか?」
「……」

宇髄の粘つくような言葉を無視し、俺は畳の上に視線を移した。
そこには、座布団を愛おしそうに抱き抱え、幸せそうにくうくうと小さな寝息を立てている彼女の姿。
その周囲には、宇髄の伴侶だという三人の女たちも、同じように折り重なって眠っている。
どこまで飲ませればこうなるのか。宇髄も心なしかいつもより頬が赤く、酒の匂いが部屋中に充満している。
俺は静かに彼女の傍らに歩み寄り、その場に膝を突いた。

「ふぅ……」

重く、熱い吐息が口から漏れる。
彼女を起こさないよう、慎重にその身体を抱き起こした。驚くほどに軽く、腕の中に収まるその温もり。
…あの時から何も変わっていないが、少しだけ痩せただろうか。
乱れた髪が彼女の白い頬にかかっているのが目に留まり、無意識に指先が動いた。その柔らかな毛先に触れる直前で、俺は己の過ちに気づき辛うじて手を止める。

「……おぶって帰る。手伝ってくれ」
「ははっ、分かったよ」

宇髄の手を借りながら彼女を背中におぶると、背後から突き刺さる宇髄の視線がより一層鋭くなった。
何を言われてもこれ以上関わり合いたくない。俺は居た堪れなさを押し殺し、早足に廊下を進む。
玄関先で自分の草履を履きながら、背中の重みを感じる。俺は振り返らず、宇髄に向けて短く告げた。

「……次からは、こいつに酒を飲ませるな」
「ははっ、すまんな。初めて飲むと言っていたから少しは加減したんだが、俺が想定していたよりもずっと酒には弱かったようだ」

初めての酒だったのか。
俺は背負い直した彼女の膝の裏に力を込める。宇髄の言い方からすれば、無理強いはしていないのだろうが、最初から飛ばしすぎたのか、あるいは体質的に受け付けないのか。
初めての経験というものは、一度きりだ。それをこんな、本人の記憶に残らないような自失の形で捨てさせてしまう彼女に、言いようのない苛立ちと、それを上回る虚しささえ感じる。

「お前が誘ったのか」
「誘いに乗ったのはその嬢ちゃんだ。…ま、いろいろと忘れたいこともあったんじゃねぇの?」
「……」

再び、宇髄の言葉に棘が混じる。
忘れたいこと。それが俺のことだと言いたいのだろうか。何も答えず、ただ無言で外の夜の闇を見つめる。

「んん……」

ふいに、背後で小さいうめき声が上がり、彼女が身じろぎをし身体がずるりと下へ滑った。俺は慌てて彼女の身体を上へ跳ね上げ、背負い直す。
耳元で触れる、熱を帯びた吐息。酒の香りが混じったその呼吸は、俺の心拍を無意味に早めていた。
一刻も早く、この場を去らねばならない。自分の内側に湧き上がる、説明のつかない焦燥から逃れるように。無言で背を向け、一歩を踏み出そうとしたその時だった。

「……惚れてる?」

背後から投げかけられたその言葉に、俺の足は地面に縫い付けられたかのように、ぴたりと止まってしまう。

「…………」

返すべき言葉が見つからない。いや、何を言っても今の状態では説得力を持たないことを、俺自身が一番よく理解していた。

「惚れてるんだな」

宇髄の声は、先ほどまでの揶揄いを含んだものとは違い、どこか確信に満ちていた。

「そうか、そうなんだな。…お前は本当に大切なものに"好き"って言えないタチか」

宇髄の言葉が、鋭い刃となって俺の背中を貫く。
…そうではない、が言えなかった。
そうだ、もう認める。
俺はこの娘に惚れているよ。
自分の意志で引いたはずの境界線を、鴉の一報だけであっさりと踏み越え、こうして居ても立ってもいられず飛んできてしまうほどには。
背中に感じる彼女の体温が、心の奥底に沈めていたはずの感情を、容赦なく引き摺り出していく。

「…言えない、じゃない。言わないだけだ」
「…へえ。あれか。大切なものを失いたくなくて、自分の懐には入れたくないってところか」

図星を突かれ、俺は奥歯を噛み締めた。
失うことの恐怖、奪われることへの絶望。それらを幾度も繰り返してきた俺にとって、誰かを「懐に入れる」という行為は、その者に死の影を背負わせるのと同義だ。

「つまんねぇ意地だな。明日生きてるかもわかんねぇのに」
「…お前に言われるまでもない。俺は……」

そこまで言いかけて、言葉を飲み込む。
余計なことを喋りすぎた。俺の覚悟も、彼女への歪な配慮も、宇髄に理解してもらう必要などない。

「…そうかい。まあ、お前がそう決めてんなら外野がとやかく言うことじゃねぇが」

宇髄は呆れたように肩をすくめ、手元の猪口を飲み干した。

「その嬢ちゃん、酔った勢いで少し気になることを口にしてたな。…"自分はこの時代の人間ではない"、とかなんとか。……派手な世迷い言だが、お前、何か知ってるか?」
「…………知らない」

短く、突き放すようにそれだけを言った。例え何を知っていたとしても、あるいは知らなかったとしても、今、俺が答えるべきことではない。宇髄が鼻で笑う音が聞こえたが俺は振り返らなかった。
背中の彼女は、そんな俺たちのやり取りなど露知らず、ただ安らかな寝息を立てている。

「帰る」
「おうおう、帰れ帰れ。精々、送り狼にだけはなるなよ派手にな」

背後に響くその軽口を俺は聞こえないふりをして、今度こそ暗い闇へと足を踏み出した。





屋敷から漏れていた灯りが遠ざかり、周囲を支配するのは冷ややかな月光だけになる。道は白く、どこまでも静かだ。
狼になんてもちろんなるつもりもない。そんな高潔な生き物でも、情欲に溺れるほど浅ましくなるつもりもなかった。
俺はただ、背中に伝わるこの小さく、あまりに脆い体温を守りたいだけだ。たとえ、彼女をこの背から降ろした瞬間に、再び他人という名の壁を築き上げることになったとしても。

「…んぅ……あいす食べる……」

ふいに、耳元でふにゃふにゃとした、ひどく間の抜けた声がした。彼女は俺の背中で幸せそうに身じろぎをすると、小さな子供のように「うぅん…」と声を漏らし、俺の肩口にぐりぐりと顔を埋める。

「……あいす?」

あいすくりんのことだろうか。
随分と呑気なことだ。こんなになるまで飲むなんて。いや、面白がって飲ませたであろう宇髄に非があるのは明白だが、それにしても高月は相変わらず警戒心が足りない。
もし、宇髄のような信頼に値する男の屋敷ではなかったら。もし、道端で一人、こうなっていたら。
最悪の事態を想像するだけで、彼女を抱える腕が、怒りとも恐怖ともつかぬ微かな震えを帯びる。

「…何かあったらどうするつもりなんだ」

返ってくるのは、健やかな寝息だけ。
静寂に満ちた夜道。彼女の体温が背中から心臓へと伝わり、俺の理性をじわじわと侵食していく。

「俺がどんな気持ちで迎えに行ったのか、お前は少しも知らないのだろうな」

今、このままこの道をどこまでも歩き続けていたいと願ってしまう、己の醜い執着。
彼女は知らない。俺がどれほど必死に、彼女への想いを壁の向こう側に押し殺しているかを。

「…ん、…きもちわるぃ……おりる…」

刹那、背後から湿り気を帯びた声が聞こえ、俺はぴたりと歩いていた足を止めた。
思わず、深い深い溜息を吐く。

「起きたか」

首だけを動かし、背後へ問いかける。
しかし、肩越しに映った彼女の瞳は、確かに開いてはいたが、虚空を彷徨うように焦点が定まっていない。瞳の奥には深い霧が立ち込めているようで、俺の姿すら正しく捉えていないように見えた。

「まだ寝ぼけているな」

いや、正確には泥酔して意識が混濁しているのだろう。だが、本人が「気持ち悪い」と言っている以上、無理に運び続けるわけにもいかない。
俺は近くの林へと続く、古びた石畳の階段に目を止めた。慎重に彼女の身体を降ろし、冷たい石の上に座らせる。その石の感触が、彼女の意識を少しでも引き戻してくれればいいが。
俺は彼女の正面に膝をつき、そのぐったりとした身体を支える。月明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか高揚して見え、俺の胸を激しく掻き乱す。
突き放したはずなのに、その手を離せない自分が一番滑稽だった。

「…とりあえず、水を飲め。少しは楽になるはずだ」

俺は腰の竹筒を手に取り、蓋を開けて彼女の唇へと寄せた。ぐったりと力なく揺れていた身体を片腕で支え、零さないように慎重に傾ける。
冷たい水が喉を潤すと、彼女は「こくん、こくん」と小さな音を立てて、それを必死に飲み下した。
水を飲み終え、一息ついた彼女は、何度か瞬きを繰り返す。水の冷たさが効いたのか、虚空を彷徨っていた瞳に、少しずつ光が戻ってくる。
瞳の焦点が、目の前にいる俺の姿をゆっくりと捉え始めた。

「……とみ、おか、さん……?」

夢でも見ているかのように、彼女は弱々しく頭を傾げた。

「…そうだ。俺だ」

短く答えると、彼女の瞳は驚いたように見開かれる。
それから、俺が答えたことを確認するようにじっと見つめられ、その瞳にみるみるうちに涙が溜まっていった。

「……会い、たかったです、ずっと……会いたかった…」

絞り出すような震える声と共に、彼女の目尻から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
次の瞬間、支えていた俺の胸に、彼女はしがみつくようにして顔を埋めてきた。

「……っ」

咄嗟のことに、避けられずに身体が硬直する。
彼女の指先が、俺の隊服をぎゅっと握りしめる感覚が伝わり、心臓が警鐘を鳴らすように激しく跳ねた。動揺を悟られまいと奥歯を噛み締めるが、呼吸が上手くできない。

「まだ、酔っているな」

突き放さなければならない。そう自分に言い聞かせるが、彼女は首を振って俺の胸にさらに深く顔を押し付け、子供のように声をあげて泣き始めた。
俺の腕は、行き場を失ったまま宙を彷徨い、彼女の背中に触れることもできない。

「高月」
「…ふぇ、…ぐす…」
「…高月」

幾度その名を呼んでも、彼女の嗚咽は止まらない。俺の隊服を掴む指先には、爪が食い込むほど力がこもっている。
…降参だ。このまま無理に引き剥がすことも、今の俺には到底できそうにない。
俺はただ重い溜息を一つ吐き、行き場を失っていた両腕を静かに彼女の背に下ろした。こうなれば、気が済むまで泣かせるのが最善だろう。
…それにしても、これほどまでに彼女を思い悩ませていたとは、俺は未熟だ。
大事にしまって傷をつけないように、鍵をかけておくようにそうやって守るべきものだと思っていた。俺に関わらなければ、彼女は穏やかな日々を送れるはずだと。
けれど、鍵をかけた箱の中で、彼女がこんなにも息を詰まらせて泣いていたことに、俺は今の今まで気づけなかった。

「……すまない」

誰にも聞こえないほどの囁きが、彼女の頭上に落ちる。
縋りつくようなその体温に触れていると、どうしてもあの夏の夜を思い出さずにはいられなかった。


『好きです』
『冨岡さん、好きです』

彼女が言う。あの日、土砂降りの雨の中で。瞳に涙をいっぱいに溜めて、俺の目を真っ直ぐ見据えながら。
確かに彼女自身の声で放たれたその言葉に、心臓がどっと激しく震えた。
…やめてくれ。心の中で、情けない悲鳴が上がる。そんな瞳で見るな。そんな言葉を向けるな。
俺は、お前が想うような立派な男ではない。欠落し、摩耗し、ただ死に場所を探しているだけの抜け殻なのだ。
だが、どれだけ自己嫌悪を積み上げようとしても、鼓動の熱だけは嘘をつけなかった。
彼女の涙が、顎の先から滴り落ちる。その瞬間、俺の中にあった理屈や負い目が、ガラガラと音を立てて崩壊した。
瞬間に全身が熱くなって、気がついたときには彼女に口づけていた。理性も、矜持も、すべてが吹き飛んでいた。
雨に濡れた彼女の頬に、思わず何度も触れてしまったというのに。これ以上大切なものになってはいけないと、固い壁を作ったはずだったのに。
泣き顔に欲情するような性癖など、俺にはなかったはずだ。自分はおかしくなってしまったのだろうか。
けれど、出会った頃からそうだ。彼女の泣き顔には、どうしようもなく胸を締め付ける、形容しがたい何かが宿っている。
そこまで考えて、あの時、俺はようやく自覚したのだ。この胸を焼く鈍い痛みの正体が、何であるのかを。
…子供じゃあるまいし、と誰か盛大に笑って欲しい。

守りたい。いや、違う。そんな高潔な理由ではない。
ただ、この熱を。この、俺を生身の人間として引き戻してしまった少女を、どこにも行かせたくない。
言葉で説明することなど諦め、俺の不器用な心は、今この瞬間に溢れ出した感情を口づけでしか形にする術を知らなかった。

この衝動は、今この瞬間に生まれたものではない。
いつからだ。任務の合間、ふとした瞬間に彼女の笑い声を探してしまったのは。並んで歩く道すがら、わずかに触れそうになる肩の距離に息を止めたのは。
死と隣り合わせの戦場にあって、ふと「生きて帰らねばならない」と、自分以外の理由で生に固執し始めたのは。
一朝一夕の迷いではない。それは、長い時間をかけて静かに、けれど確実に俺の骨身に浸透していた重みだった。
冷たい雨を吸って重くなった羽織と同じように、自覚せぬまま積み重なっていた彼女への執着。

『冨岡さん、最近は眠れてますか?』

そう言って向けられる、太陽のように屈託のない微笑み。俺のような、深い泥沼に沈んでいる男には、その光はあまりに眩しすぎた。
ひたすら鬼を斬るのが自分の宿命だと信じていた俺に、彼女は「あなたは独りではない」と、その瞳で語りかけていたのだ。
他愛のない話をして笑う顔も、叱られて小さくなっている姿も、俺を気遣ってそっと差し出された物の温かさも。
何者にも染まっていない彼女の心が、この殺伐とした世界で必死に生きようとする姿が、たまらなく愛おしいと思ってしまった。

だが、その熱を知ると同時に、俺のような人間が彼女の隣に立つのは、やはり相応しくないのだと思い知らされた。
高月は太陽の下で、眩い光に包まれて笑っているのが一番似合う。俺はせいぜい、真夜中にひっそりと月明かりを探し、独り彷徨っているくらいがちょうどいい。
分かっている、全部。手を伸ばしたくても伸ばせない。伸ばしたって届かない。また失うことを恐れている自分は酷く臆病で、空っぽだと。
いつか彼女が誰かのものになる日が来たとして、その隣にいるべきなのは決して俺ではない。
だからこそ、あの日も何度も「すまない」と繰り返し、俺は彼女の前から去った。


「とみ、岡さん……?」

…はずだったのに。
どうして俺はまた、衝動的に彼女の頬に触れているのか。理解ができない。

「どう、したんですか…?」

たった一言で、俺の心の埃を取り去ってしまう。
…ああ、その声だ。俺はずっと、高月に名を呼んで欲しかった。心配そうに見つめるその瞳も、温かいこの体温も。
乾き切っていた心に水を注がれて、俺は"満たされる"という感覚を知ってしまった。だからもう、乾いたままでは辛い。他でもなく、彼女に満たされたいと願ってしまったんだ。

潤んだ瞳が俺を真っ直ぐに捉える。俺は親指で、彼女の頬を伝う涙をゆっくりと拭った。指先に伝わる柔らかな肌の感触が、頭の芯を痺れさせる。

「…動くな」

彼女の頬を包み込むように手を滑らせ、そのまま首筋へと指を這わせる。驚いたように肩を震わせる彼女の、熱を帯びた首の頸動脈に指先を当てた。ドクドクと、俺と同じように速い鼓動が伝わってくる。
逃がさないようにその細い首を軽く固定すると、俺は彼女の鎖骨の窪みへと顔を埋めた。

「とみ、おかさ……っ」

かすかな悲鳴のような吐息が、夜の林に溶ける。
そのまま、吸い付くように彼女の白い肌に唇を押し当てた。酒と、彼女の体温が混じり合った甘い香りが、俺の執着を激しく煽る。
唇で吸い上げ、そこに消えない痕を刻みつけるように。明日になれば忘れてしまうのだとしても。俺が相応しくない男だとしても。
せめて、この熱だけは。誰の目にも触れぬこの場所で、この柔らかな肌に刻み込みたい。

「……っ、ん……」

抗う力も残っていないのか、彼女は俺の腕の中で小さく身を震わせた後、すとんと力抜いて俺の肩に頭を預けた。聞こえてくるのは、あまりに無防備な寝息だけ。
俺はゆっくりと身体を離し、月光に照らされた彼女の首筋を見つめた。赤紫のその背徳的な色に、俺は己の浅ましさを自覚しながらも、このまま奪い去りたいという渇望をどうにかして抑え込む。

「はぁ……」

肺の底にある熱をすべて吐き出すように、深い、深い溜息を闇に落とす。
一度自覚してしまえば、この感情に蓋をすることなど到底できない。だが、今の俺に許されているのは、彼女を他人として守り続けることだけだ。
俺は乱れた彼女の衣類を、指先を震わせながら丁寧に整えた。それから、再びその身体を背中に負う。

「…ごめん、高月」

もう届かない謝罪を一度だけ口にし、俺は再び石畳の階段を降り始めた。



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