69


…とは言ったものの。やっぱり、来るんじゃなかったかもしれない。
手にした小包の包み紙がきしむほど、ぎゅっと指先に力を込める。
茜色に沈みゆく夕暮れの下、私の前にそびえ立つ門構えは、蝶屋敷とはまったく異なる威圧感を放っていた。主の気質をそのまま映し出したかのように豪奢で、どこか浮世離れしている。
三人も奥さんがいると聞いた。どんな人たちなのだろう。宇髄さんのあの勢いに、奥様方まで加わったら、私のような人間は一瞬で消し飛ばされてしまうのではないか。
あの時、勢いに流されて手紙の誘いを受けてしまった自分を恨めしく思いながら、おそるおそる手を伸ばして門を叩いた。

「はーい!どなた……って、あ!もしかして!」

待つこと数秒、からりと扉を開けて顔を覗かせたのは、くりくりとした丸い瞳が印象的な、愛らしい女性だった。私の姿を認めるなり、彼女はぱっと笑みを浮かべる。

「天元様ー!雛鶴さーん!まきをさーん!いらっしゃいましたよぉ!例の蝶屋敷の子が!」
「ちょっ、須磨!うるさい、玄関先で騒ぐんじゃないわよ!リサちゃんが怯えてるでしょうが!」

奥から現れたもう一人の美女が、須磨さんと呼ばれた女性の頭を容赦なく小突く。きりりとした眉に意志の強そうな瞳、見惚れるほど凛とした佇まいだ。
さらにその背後から、落ち着いた足取りでもう一人の女性が歩み寄ってきた。泣きぼくろの浮かぶ瞳が、穏やかに細められる。
う、わぁ…。想像を遥かに超える美の競演に、言葉を失って立ち尽くしてしまった。あまりの眩しさに目が眩みそうになりながら、私は壊れたからくり人形のようにぎこちなく頭を下げた。

「は、はじめまして……!高月リサと申します……!」
「おー、よく来たな。待ってたぜ」

絞り出した挨拶に重なるように、奥から聞き慣れた声が響く。
顔を上げると、髪を下ろして着流しをさらりと羽織った宇髄さんが、大股で土間までやってくるところだった。

「あ、あの、本日はお招きいただき、本当にありがとうございます……!」
「ふふ、そんなに畏まらなくていいのよ。天元様からお話は聞いていたから、私たちも会えるのを本当に楽しみにしていたの」

雛鶴さんがふわりと微笑み、私の背中を撫でて中へと促してくれる。

「そうよ!天元様の誘いなんて、もっと気楽に乗っかっちゃえばいいんだからね!」

まきをさんが快活に笑い、須磨さんも横で「そうですそうですぅ!」と激しく頷いている。
あたたかな歓迎の空気に胸を撫で下ろしながら、私は抱えていた小包を両手で差し出した。

「あの、これ……つまらないものですが、皆さんでお召し上がりください。屋敷の近くで評判のお菓子で……」
「あら、気を遣わなくて良かったのに。ありがとう、みんなでいただくわね」

雛鶴さんが申し訳なさそうに受け取ってくれる。
身構えていた緊張が、三者三様の柔らかな優しさに触れて、するすると解けていくのが分かった。

「さあ、外は少し風が出てきましたし、中へ入りましょう」
「は、はい。お邪魔します」

雛鶴さんに背を支えられ、促されるまま式台へ上がった。
磨き上げられた板張りの廊下を歩きながら、前を行く三人の後ろ姿をつい目で追ってしまう。何度見ても息を呑むほどしなやかで、均整の取れた美しい身体つきだ。鬼殺隊に関わる女性は、どうしてこうも綺麗な人ばかりなのだろう。

案内された居間でおずおずと畳に正座すると、宇髄さんは座卓を挟んだ正面にどっかと胡坐をかいた。隻眼の瞳を僅かに和らげ、私を見据えてくる。

「道には迷わなかったか?」
「は、はい……大丈夫でした。丁寧に地図を書いていただいたおかげで、迷わず来られました」

答えながら、私はきょろきょろと部屋を見渡す。

「案外、ふつうのお屋敷ですね……」
「お前は何を想像してたんだよ」

宇髄さんが怪訝そうに片眉を吊り上げる。そこへ、お盆に乗せた湯呑みを運びながら須磨さんがくすくすと笑いを漏らした。

「なになにー?隠し扉とか、床に武器でも仕込んであると思ったんですかぁ?」
「あ、ありがとうございます……」

お茶を受け取りつつ、私はいたたまれなくなって小さな声で白状した。

「はい。こう、なんていうか……忍の方が住んでいるお家なので、隠し扉や回転扉がたくさんあるような仕掛け屋敷を想像してしまって……」
「阿保か。いつの時代の話をしてんだ。そんな疲れる仕掛け、いちいち家に作ってられるか」
「そ、そうですよね……すみません……」

変な思い込みを口にしてしまった自分が恥ずかしい。
もっと殺風景な場所を勝手に思い描いていたのだ。障子越しに夕暮れの柔らかな光が差し込むこの部屋は、想像していたよりもずっと穏やかで、心地のいい温もりに満ちていた。

「あ、そうだ、宇髄さん。しのぶさんからの伝言を預かってきました。……ええと、『連れ去りの件はまだ許していない』とのことです」
「そうかい」
「あと、『次に何か失礼があれば、藤の毒を薄めてお茶に混ぜて差し上げますね』とも仰っていました」

なるべくしのぶさんのあの冷ややかな笑みを脳裏に浮かべ、声の抑揚まで真似て伝える。私だってまだ完全に許したわけじゃない。自然と声に実感がこもる。
宇髄さんがわずかに顔を引き攣らせた。

「……あいつ、まだそんなことをネチネチ言ってやがんのか」
「当たり前です。しのぶさんは女の子の涙には容赦ないですから。宇髄さんも気をつけてくださいね」

すまし顔で言い添えると、宇髄さんの隣へ腰掛けた奥様方が待ってましたとばかりに声を上げる。

「本当ですよ天元様!蝶屋敷の可愛い女の子たちを力づくで拐おうとするなんて」
「いくら私たちのためだったからって、やり方が乱暴すぎます!」
「私も聞いたときは肝を冷やしました。しのぶちゃんが怒るのも当然です」

三人から一斉に畳みかけられ、あの百戦錬磨の元柱が「…悪かったって言ってんだろ」と珍しく気まずそうに視線を逸らす。
宇髄さんが女性陣にやり込められているそんな姿を見て、私は小さく吹き出してしまった。

「宇髄さん、もう傷の具合は大丈夫なんですか?」
「ああ、なんとか片腕の生活にも慣れてきたよ。不便っちゃ不便だが、死に損なったおかげでこうして茶も飲めるしな」

あれだけのことを成し遂げたという英雄はにこりと笑った。一歩間違えたら死んでいたかもしれないというのに、生命力が強い。きっとそれも才能なのだろう。

「そうですか、良かった」
「ところで、竈門のガキはどうだ」
「あ、はい!毎日着実に回復しています。今は機能回復訓練を頑張っていて……まだ身体は思うように動かないみたいですけれど、前を向いて必死に励んでますよ。宇髄さんにもよろしく伝えてほしいと言っていました」
「そうか。あいつのしぶとさは俺が一番よく知ってるからな」

満足そうに鼻を鳴らす宇髄さんを見つめながら、私は湯呑みを両手で包み込んだ。
それにしても、私はなぜ今日この屋敷に呼ばれたのだろう。
宇髄さんも奥様方も、差し入れた菓子折りを「美味しい」とつまみ合いながら、思い思いに談笑している。賑やかで楽しい時間ではあるけれど、何か重要な用件でもあって呼び出されたのだとばかり思っていた。

「リサちゃんは、いつから蝶屋敷にいるの?」

ふと、雛鶴さんが柔らかな声で問いかけてくる。

「ええと……一年前の、雪が降り始めた頃からです。ですから、まだ一年弱くらいなんですけど」
「まあ、そうなのね」

雛鶴さんの相槌を皮切りに、まきをさんと須磨さんが待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。

「ねえねえ、蝶屋敷での生活はどう?天元様ったら、あなたのこと『面白い奴がいる』なんて言うだけで、詳しいこと全然教えてくれなかったんだから!」
「そうですよぉ!私、もっとリサちゃんのこと知りたいです!」
「俺はだな、こいつよりもあいつとの関係を……」
「天元様は黙っててください!」

須磨さんに一喝され、宇髄さんが呆れたように肩をすくめる。彼女たちの勢いに圧倒されつつも、私は照れくさくなって笑みを浮かべた。

「最初は戸惑うことも多かったですけど、今はとても大切であたたかい場所だと思っています」
「へえ、そっかそっか。じゃあ蝶屋敷に来る前はどこにいたの?」

…どう、答えるべきだろう。下手に実在する地名を言えば、より深い質問をされてボロが出るかもしれない。何より、こんなに温かく迎え入れてくれている彼らに、嘘をつくことにも胸が痛んだ。

「ここじゃない……遠くの都会から、です」

濁した私の答えに、宇髄さんも三人の奥様方も、微動だにせずじっと私を見つめていた。その真剣な沈黙に耐えかねて、私はぽつりと事実を付け足す。

「身寄りがないところを、気づいたら冨岡さんに拾っていただいて」
「え?冨岡、さん……って、水柱の?」
「は、はい……」
「……信じらんねえな」

宇髄さんのあからさまに驚いた声を聞いて、私は少し不思議な気持ちになった。やはりあの人が誰かを拾い上げ、居場所を与えるなど、周囲から見れば信じがたい奇行に映るのだろうか。

「そっか……ごめんね。辛い話をさせてしまったわね。色々と思い出させてしまったんじゃない?」

雛鶴さんが申し訳なさそうに眉を下げ、私を労るように覗き込んでくる。

「え?あ、全然……!辛いなんてことありません。むしろ、私にとってはすごくあたたかい記憶としての印象が強いというか」

たとえ彼にとっては義務感に過ぎなかったとしても、私にとってはこの世界で初めて触れた救いの光だった。雪道の中、無言で手を引いてくれたあの手の温もりを知っているのは、世界中で私一人だけだ。
湯呑みに口をつけ、少しぬるくなったお茶を飲み下す。

「リサちゃんって冨岡さんと恋仲なの?」
「ゴフッ」

噎せた。せっかくの美味しいお茶が変なところに入った。
雛鶴さんがすかさずちり紙を目の前に差し出してくれるけれど、質問をした当の須磨さんはどこか顔を赤く染めて身を乗り出している。
とりあえず有難くちり紙を受け取って口元を拭う。

「げほっ、……す、すみません。聞き捨てならない単語が」
「え、恋仲じゃないの?」
「違います!!!!」

そこだけは全力で否定しなければならない。このやり取りをするのも何度目だろう。失恋した直後の身には、あまりにも毒が強すぎる。

「えぇー、嘘だ!もっと詳しく聞かせてくださいよぉ!」
「ねえ、本当は何かあるんじゃないの?」
「まきをさんまで……!本当に、そんな関係じゃないんです!」
「でも、彼はあなたのことをどう思っているのかしらね」

雛鶴さんまでお茶を注ぎ足しながら、どこか楽しそうに微笑んでいる。
…待ってほしい。三方向から矢継ぎ早に飛んでくる質問。そして、その様子を正面でニヤニヤと眺めている宇髄さん。
さては今日、この話を聞き出すためだけに私を呼び出したのではなかろうか。ただの好奇心で、退屈しのぎに私をこの場に据えたのではないか。

「……宇髄さん」

恨めしげに睨みつけると、宇髄さんは悪びれもせず豪快に吹き飛ばした。

「なんだよ!柱を引退して暇なんだよ。いいだろ、聞かせろよ」
「天元様、失礼ですよぉ!……で、リサちゃんは冨岡さんのどこが好きなんですか!?」

否定したはずなのに、いつの間にか好意を持っている前提で話が進んでいる。

「す、好き……なのは否定しませんが、本当に何もありませんよ。夏頃に振られてしまいましたし」
「えっ、振られた?」

須磨さんが信じられないものを見たように目を丸くし、まきをさんと雛鶴さんの手もぴたりと止まった。

「は、はい。思い切って想いを伝えたんですけど……」
「リサちゃんが振ったんじゃなくて?」
「は、はい。振られてしまいました」

改めて口にすると、やはり胸の奥がちくりと痛む。こうして言葉にしてしまうと、まだ完全に吹っ切れてなどいないのだと突きつけられる。
ずーとお茶を啜り、視線を上げた。途端、先ほどまであれほど賑やかだった空間が、何やらしんみりとした空気に包まれている。私は慌てて目を瞬かせた。

「すみません、なんだか変な空気にしてしまって……」
「いや……まさかこんなところでリサちゃんの失恋の話になるとは思っていなくて。こちらこそ、無理に聞き出そうとしてごめんなさいね」

雛鶴さんが心底申し訳なさそうに眉を八の字にし、須磨さんに至っては今にも泣き出しそうな顔で私を見つめている。

「……あの、冨岡とかいう男、本当に見る目がないですぅ!こんなに可愛いリサちゃんを振るなんて、信じられません!」
「須磨の言う通りだわ。そこまで分からず屋だったなんてね」

まきをさんまで憤然と腕を組み、宇髄さんへ食ってかかるように詰め寄った。

「天元様からも何か言ってやってください!あんまりじゃないですか!」

三人から激しい剣幕で迫られながらも、宇髄さんは静かに座卓の向こうから私を見据えているだけ。

「あの、本当に大丈夫なんです!」

居たたまれなくなって両手を振ると、雛鶴さんはふっと目尻を下げる。

「リサちゃんは強いのね。……でも、今日くらいは甘えてもいいのよ。天元様、今日はとびきり派手な夕餉にしましょう?」
「おう、そうだな。今夜は派手に呑んで騒いで、嫌なこと全部吹き飛ばせ!」

宇髄さんが太ももを叩いて豪快に立ち上がる。
あ、やっぱりそうなるんだ…。
慌ただしく立ち上がった三人の後を追い、手伝おうと腰を浮かすけれど、まきをさんに肩を押さえられて座布団へと押し戻された。

「お客さんは座ってなさい!……で、リサちゃん、お酒は呑むの?」

戸棚から鮮やかな朱塗りの酒器を取り出しながら、まきをさんが振り返った。

「年齢的には飲めるんですけど、実はまだ一度も飲んだことがなくて……」

この世界に来てから、早くも一年。
こちらの暦で数えても、元の世界の「成人」に相当する年齢には達していたけれど、今までお酒を口にする機会なんて一度もなかった。蝶屋敷は医療の場だから、しのぶさんもアオイさんもお酒は嗜まないし、三人娘はまだ子供だ。
そもそも、この時代に飲酒の厳密な決まりがあるのかもよく分からず、私は言葉を濁してしまう。

「じゃあ、無理にお酒じゃなくてもいいわね。冷たいラムネでも開けようか」

雛鶴さんの優しい気遣いに甘えようとして、ふと、記憶の片隅にある光景が頭をかすめた。

「……あの、お酒って美味しいんですか?」

遠い昔、父が晩酌のたびに「酒は裏切らない」と上機嫌に笑っていた姿を思い出す。
当時は「大人はいいな」と他人事のように眺めていただけだったけれど、どこかでずっと興味はあったのだ。いつか大人になったら、自分もあんなふうに呑むのかなと。

「俺は好きだぜ?女は……まあ、物と呑み方次第だな」

正面に座り直した宇髄さんが、ニヤリと笑う。
お酒を飲むことで、この胸に居座り続けるもやもやとした痛みが、少しでも晴れてくれるなら。失恋の傷も、一時でもいいから頭から消し去ってしまえるのなら、それはそれで悪くないんじゃないだろうか。
…そう考え始めた途端、なんだか無性に試してみたくなってきた。

「あの、少しだけ飲んでみてもいいですか」
「お、酒初挑戦か!いいねぇ、派手な門出じゃねぇか!」

意を決して告げると、宇髄さんは面白そうに口角を上げた。

「初めてなら、あんまり強くないお酒を用意するね!甘くて飲みやすいやつがあるから!」

須磨さんが「任せてくださぁい!」と弾んだ足取りで台所の奥へ引っ込み、私の前には小ぶりで可愛らしいお猪口が一つ、ことりと置かれた。
ほんの少し舐める程度なら、きっと大丈夫だろう。未知の味への好奇心と、失恋の痛みを紛らわせたいという、ほんの少しの現実逃避。
なんて考えが甘かった。



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