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「う……頭、痛い……」
ずきずきと内側から金槌で叩かれるような鈍痛に、思わずこめかみを押さえた。あまりの寒さに身を震わせて意識を浮上させれば、視界に飛び込んできたのは見慣れた部屋の天井だった。
「あれ…?私、自分の部屋にいる…」
身体を起こそうとして、あまりの気怠さに一度断念する。
昨日の記憶を懸命に手繰り寄せてみる。…宇髄さんのお屋敷にお邪魔して、奥様方と賑やかにお茶を飲んで。それから、そう。夕餉の席でお酒をいただいたところまでは覚えている。
けれど、その前後の記憶がひどく曖昧だ。どんな会話をしたのか、何を食べたのかさえ、霧がかかったようにぼやけてしまっている。
お酒を飲む前は、冨岡さんについての話をしていた。それは覚えているんだけど。
その後の記憶は、まさに虫食い状態だ。何にせよ、初めて口にしたお酒で早々に意識を飛ばしてしまったことだけは疑いようのない事実だ。
「……やらかした」
自分の体質を知らなかったとはいえ、宇髄さんや奥様方の目の前で酔い潰れて寝落ちるなんて。考えるだけで顔から火が出そうだ。
失礼な振る舞いをしていなかっただろうか。変な絡み方をしていなかっただろうか。考えれば考えるほど、穴があったら入りたい気分になる。
そこへ、部屋の戸が静かに開いた。
「あら、ようやくお目覚めですか?」
立っていたのは、いつもの穏やかな笑顔――ではない、どこか冷ややかな微笑みを湛えたしのぶさん。
私の青ざめた顔と、記憶が定かでない様子を瞬時に察したのだろう。しのぶさんは小さく溜息を吐くと、枕元に腰を下ろした。
「しばらく、そこでお座りなさい」
「……はい」
それから、こんこんと、それはもう丁寧なお説教が始まった。
「お酒は自分の限界を知って飲むものです」「女性が外で無防備に意識を失うことがどれほど危ないか」……。
しのぶさんは話の節々で「昨日も言いましたけれど」と何度か口にしていた。きっと、昨夜戻ってきたばかりの私にも、同じように言い聞かせてくれたのだろう。
私にとっては、これが二度目の、そして記憶に残る初めてのお説教というわけだ。全く、お恥ずかしい話である。
「それで……私は、どうやって戻ってきたんでしょうか。宇髄さんが送ってくださったんですか?」
恐る恐る尋ねてみるが、しのぶさんは「さあ、そうなんじゃないですか」と、はぐらかすように視線を逸らした。
結局、宇髄さんの屋敷からどうやって帰ってきたのか。一番肝心なところだけは、霧の中のままだ。
宇髄さんには、必ずお詫びのお手紙を送らなければ…。本当に、ご迷惑をおかけしてしまった…。
重い頭を抱えながら、私は一刻も早くこの二日酔いと羞恥心から解放されたいと、洗面所に行って顔を洗った。
そのあと私は重い足取りで台所へと向かった。少しでも冷たい水を飲んで、火照った頭を鎮めたかったけれど、今の私には椅子に座って机に突っ伏すのが精一杯だった。
「うう……頭が、がんがんする……」
台の冷たさがこめかみに心地良い。けれど、胃の奥から込み上げる不快感と、割れるような頭痛は一向に収まる気配がない。
そんな私の情けない姿を見て、呆れたような溜息が聞こえてくる。
「自業自得ですよ。今、酔い覚ましのお味噌汁を作っていますから、少しだけ待ってくださいね」
「すみません、アオイさん……。本当、申し訳ないです……」
包丁がまな板を叩く規則正しい音さえ、今の私の頭には響く。
アオイさんはテキパキと手を動かしながら、具材を鍋に放り込んでいく。
「昨日、運ばれてきた時も相当ひどかったですけど、まさか今日まで引きずるなんて。宇髄様も、初めてだってわかってるなら、もう少し加減してくれればいいのに」
「えっ……運ばれてきた?」
思わず顔を上げて聞き返すと、アオイさんの手が少しだけ止まった。
「は、はい、まあ……泥のように眠りこけてましたよ」
その言葉に、記憶の断片がほんの少しだけ揺れる。
夜の冷たい空気。規則的な足音。そして、お腹に伝わってきた、驚くほどがっしりとした、けれどどこか安心するような温もり。
宇髄さんが送ってくれたんだろうか。それにしては、なんだかその背中は、もっと……。
「……思い出せません」
「無理もありませんね、あれだけ酔っていれば。…はい、これ。熱いうちに飲んでください」
差し出されたお味噌汁から、湯気と共に香ばしい味噌の香りが立ち上る。
私はお礼を言って、震える手で汁椀を包み込んだ。温かな汁が喉を通るたび、少しずつ身体の強張りが解けていく。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。ようやく人心地ついた気がして、ふぅと息を吐き出した時。
「……リサさん、待って」
「ん?」
驚いて顔を上げると同時に、肩を掴まれて面食らう。アオイさんは僅かに眉をしかめた表情で私の首元をじっと見つめていた。そのまま自分の懐を忙しなく漁ると、「あった」と小さく呟いて深い溜息をつく。
「え?私、どこか怪我をしてましたか…?」
思わず聞き返したのは、彼女が取り出したものが「貼り薬」だったからだ。現代で言うところの絆創膏のような、清潔な布を当てるためのもの。
「昨日、どこかで転んだのかな……」
そう言って、恐る恐る受け取ろうと手を伸ばしたが、それはするりと逃げていってしまう。
アオイさんは「そのまま前向いててください」とぶっきらぼうに言い放つと、迷いのない手つきで私の髪を避けた。
「動かないで」
言われるがまま固まっていると、首筋にぴたりと粘着質のものが張り付く感覚がした。
こんなところに、傷なんてあったんだろうか。昨日は確かに宇髄さんのお屋敷まで、緩めの山道を歩いた記憶はあるけれど、枝に引っ掛けた覚えもない。何より、さっき着替える時に鏡を見たはずなのに。
「ごめんなさい、ありがとうございます。…全然、気付かなかったです。酔っていて感覚が麻痺していたのかも」
少しだけヒリつくような独特の違和感に触れながら、私は苦笑いを浮かべた。
正面ならまだしも、首の横側は死角になりやすい。私が気付かなくても仕方がなかったのだろう。
「……ええ、そうでしょうね」
とりあえずお礼を述べると、アオイさんは何とも形容しがたい、複雑な色が混じった表情で視線を逸らした。その頬が、心なしか微かに赤らんでいるように見えて、私は首を傾げる。
「アオイさん……?」
「早くそのお味噌汁飲んじゃってください。今日、リサさんは門の前の掃き掃除をお願いします」
「は、はい。分かりました……」
アオイさんに押されるようにして、私は残りの味噌汁を口に運んだ。
けれど、ふとした瞬間に、さっきアオイさんに言われた「動かないで」という言葉の残響が、脳裏で妙に歪んで再生される。
……"動くな"。
誰かに、そんなこと言われたっけ。私は首を傾げる。記憶の底の濁った深い場所から、一瞬だけ何かが浮上しかけて、またすぐに消えてしまった。思い出そうとすると、頭の芯がずきりと痛む。
やはり相当酔っていたのだろう。普段の私なら、そんな命令口調で誰かに指示されることなんて、しのぶさんのお説教の時くらいしかない。
「……どうかしましたか?」
不審そうにこちらを覗き込んでいるアオイさんの視線に気づき、私は慌てて首を振った。
「いえ、なんでもないです!掃除、すぐに行きますね」
首筋に貼られた布の違和感を指先でなぞりながら、私は立ち上がった。歩くたびに、昨日誰かに背負われていたような、心地よい揺れがふわりと蘇る。
…宇髄さん、なのかな。やっぱり。そう自分に言い聞かせながら、私は箒を手に取り、門の前へと向かった。
*
門の前に出ると、ひんやりとした朝の空気が二日酔いの身体には心地よかった。
空は高く、冬の気配がすぐそこまで迫っている。その証拠に、足元には色鮮やかな乾燥した落ち葉が所狭しと敷き詰められていた。
「……よし」
私は気合を入れ直すように箒を握った。
この季節の掃き掃除は、やってもやってもキリがない。けれど、今の私にはこの終わりの見えない単純作業が、かえって有り難かった。無心で手を動かしていれば、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まった二日酔いの羞恥心を隅っこに追いやることができるからだ。
サッ、サッ、という竹箒が地面を撫でる音だけが響く。楓、銀杏、名前も知らない広葉樹。それらを一箇所にまとめる作業に没頭する。
右から左へ。外側から内側へ。最初は広がっていた落ち葉が、徐々に大きな円を描き、厚みを増していく。
しばらくして、ふと、自分の足元を見て動きが止まった。
無意識に、本当に無意識に集めていたはずの落ち葉の山が、どういうわけか綺麗なハート型を描いていたのだ。
「……いや、何してるんだろう私」
思わず独り言が漏れる。
誰に見せるわけでもないのに、いい大人が道端で落ち葉をハート型に整えているなんて。誰かに浮かれていると思われても文句は言えない。
全然そんなつもりはないのだけれど。やっぱり、まだ酔ってるのかな。
「…へぇ、可愛い!なんですか、それ」
背後から掛けられた屈託のない声に、少しだけ驚いてしまった。慌てて振り返ると、そこには入院服を着た炭治郎くんが、目を丸くして落ち葉の山を見つめていた。
「た、炭治郎くん!お疲れさま、走り込み中?」
「はい、今屋敷の周りを三十週してきたところです。……それにしても、その形。まるっていうかなんていうか、不思議な形ですね」
「こ、これ?」
病み上がりにもう三十週も。息がほとんど上がっていないが、回復の速度が異常に速すぎるのではないか。炭治郎くんは、純粋な瞳でハート型の落ち葉を覗き込んでいる。
どうやらこの時代の人にとっては、この形は一般的ではないらしい。私は顔が熱くなるのを感じながら、誤魔化すように箒を動かした。
「あ、ええと……。異国の紋様?で"はあと"って言うんだけど、つい無意識に手が動いちゃって……」
「へぇ、"はあと"か。心臓みたいな形ですね」
「そう、なのかも…」
ハートってたしかそこから来てるんだっけ。
昨日のお酒の席で冨岡さんの話をしていたから、深層心理でこんな形を作ってしまったのだろうか。それが今の私にはどこか気恥ずかしく、そして罪悪感を抱かせた。
「そ、そういえば伊之助くん、今朝から任務に復帰したんだね。さっき鴉が飛んでいくのが見えたから」
私はあえて落ち葉の山から視線を外し、炭治郎くんに問いかけた。話題を逸らそうとする私の意図に気づくはずもなく、炭治郎くんは「そうみたいですね」と顔を輝かせる。
「……炭治郎くんも回復がすごく早いから、あっという間に任務に戻っちゃうんだろうな」
「そうですね。俺も、一日も早くみんなの力になりたいので!」
力強く拳を握る彼の姿は眩しい。けれど、その眩しさが今の私には少しだけ切ない。去りゆく背中を何度も見送ってきたこの屋敷で、また一つ灯りが遠ざかるような、そんな感覚。
「……リサさん。もしかして、寂しいって思ってくれてますか?」
ふいに、炭治郎くんがひょいと顔を覗き込んできた。その真っ直ぐな眼差しに、私は思わず言葉を詰まらせる。
「え、あ……やっぱり匂いでわかる?」
「はい!リサさんは特にわかりやすいです」
「…やっぱり、炭治郎くんには隠し事はできないなあ。みんながいなくなると、いつも寂しいんだ」
正直に白状すると、炭治郎くんはどこか照れくさそうに温かい笑顔を見せた。
決して、今の生活に不満があるわけじゃない。しのぶさんやアオイさん、三人娘たちと過ごす時間は、私にとってかけがえのない宝物だ。
けれど、炭治郎くんたちのように嵐のようにやってきては屋敷中を賑やかにし、そしてまた嵐のように戦場へと消えていく背中を見送るたび、心のどこかにぽっかりと小さな隙間風が吹くような感覚がある。
初めてこの屋敷に身を寄せた頃の私は、「寂しい」と言われても、その感情がどこから来て、何を指すのか、いまいち実感が伴っていなかったのだと思う。
「寂しいってなんでしょう」としのぶさんに聞いたくらいだったから。
けれど、今はわかる。大切な人の不在を惜しみ、温かな記憶が残る場所でその人の影を追いかけてしまう。こうした胸の疼きを、人は「寂しい」と呼ぶのだ。
「でも、みんなが頑張っている姿を見ると、私もここでしっかりしなきゃって思えるの。だから、寂しいのはそれだけみんなが好きだって証拠かな」
私が笑って付け加えると、炭治郎くんは「そうですね!」と力強く頷いた。
「俺たちもここを出る時はいつも寂しいですよ。でも、皆さんがここで待っていてくれると思うといつも心強いというか…」
「……そう言ってもらえると私も嬉しい」
嘘偽りのない、素直な気持ちだった。
必要とされている。誰かの心の拠り所になれているという実感は、この不確かな世界で迷い子のようだった私の足元を優しく、しっかりと固めてくれるような喜びがあった。
そんな風に会話を交わし、少しだけしんみりした空気が和らいだ時。ふとした拍子に、炭治郎くんが鼻をくんくんと動かした。そして何かを不思議に思うような、探るような仕草を見せる。
「…?どうしたの、炭治郎くん」
「あ、いえ。少し気になる匂いが……。もしかしてリサさん今日……、冨岡さんと一緒にいました?」
「…………はい?」
なにを言っているのか。
予想だにしない名前を挙げられ、心臓が跳ねた。
冨岡さんも何も、あの夏の雨の日以来、私たちは一度も顔を合わせていない。もう数ヶ月も、彼の姿さえ見ていないのだ。
なのに、どうしてここで彼の名前が出てくるのか。
「…と、冨岡さん?会ってないけど……どうして?」
動揺を悟られないよう、私は努めて穏やかに問い返した。
「あ、本当ですか?すみません……。リサさんから今一瞬だけ、冨岡さんの匂いがしたので……てっきり……」
炭治郎くんはもう一度鼻を鳴らしたが、すぐに首を傾げて眉を下げる。
「…あれ。でも、もうしないな。おかしいな……風に乗ってどこからか流れてきたのかな……。変なことを聞いてすみませんでした」
「う、ううん。大丈夫。炭治郎くんの鼻は凄く利くもんね。きっと気のせいじゃない?」
私は笑ってそう答えたが、首筋に貼られた布の下が急に熱を帯びたように疼き出した。
冨岡さんの、匂い…?記憶にはない。けれど、炭治郎くんが嘘を吐く理由もない。
もし、昨夜私をここまで運んでくれたのが宇髄さんではなく、彼だったとしたら――。
いや、そんなはずはない。一度は浮上しかけた淡い期待を、私は即座に打ち消す。
あの日以来、私を避けるようにして一度も姿を見せない彼が、わざわざ宇髄さんの屋敷まで私を迎えに来てくれるなんて。
「……はぁ。やっぱり、まだ酔ってるのかな」
また走りに行くと言う炭治郎くんを見送った後、私は自嘲気味に笑い、せっかく作った可愛らしい形を一息に掃き崩した。
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