8
数日が過ぎた頃には体調はすっかり万全に戻り、屋敷のお手伝いにもまた本格的に参加できるようになっていた。
肝心の冨岡さんにはあれから一度も会うことはなく、最初は「どうやって伝えよう」と心臓をバクバクさせていたあの妙な伝言も、日が経つにつれて私の記憶の隅っこへと追いやられ、今ではすっかり忘れかけようとしていた。
けれど、その日の蝶屋敷は、そんな悠長なことを言っていられないほど朝からひときわ慌ただしかった。
「痛っ、痛いってば、やめてくれ!」
「暴れないでください!動くと余計に傷が開きますよ!」
病室から聞こえてくるのは訓練の活気…ではなく、阿鼻叫喚の治療風景。
今日は朝から、任務帰りの隊士たちが数人運び込まれてきていた。
「すぐに終わりますから、じっとなさってください!そんなんじゃいつまで経っても治りませんよ!悪化しても知りませんからね……!」
「痛いもんは痛いんだよお!アオイちゃんの処置、容赦ないんだもん!」
「まったく……子どもじゃないんですから、少しくらい我慢してください!」
アオイさんは眉を吊り上げながらも、包帯を巻く手を決して止めない。その様子を、少し離れた場所で胡蝶さんが穏やかな微笑みを浮かべて見守っている。
…微笑んでいるけれど、背後からは「静かにしなさい」と言っている気がして、私の方がヒヤヒヤしてしまう。
「リサさん、こっちは大丈夫です。次の部屋をお願いしてもいいですか?」
「あ、はい!すぐに行きます」
私は手元の桶を抱え直し、胡蝶さんに指示された隣の部屋へ急いだ。
医療の知識なんてゼロに近い私にできるのは、汚れた布を洗ったり、お湯を運んだり、処置が終わった後の隊士の顔を拭いたりするくらいだ。
それでも、一人でも多くの手が欲しいと言わんばかりの忙しさに、私は必死で食らいついていた。
「失礼します…」
きよちゃんらがいる隣の部屋では、一人の青年が肩から血を滲ませて横たわっていた。
アオイさんのところのような騒がしさはなく、そこには重い静寂が落ちている。私は震える手でタオルを絞り、彼の額に浮いた汗をそっと拭った。
「……俺、やりました。あいつの、首……ちゃんと、斬れたんです」
掠れた声。向けられた視線は焦点が定まっていないけれど、どこか誇らしげで。
「えらいですよ。よく頑張りました」
そう言ってなほちゃんが、少年の手の上にそっと自分の手を重ねた。
その穏やかな肯定を聞くと、青年は糸が切れたように安心した顔をして、吸い込まれるように深い眠りへと落ちていく。
…すごいな、みんな。本当に、命を懸けてるんだ。
その瞬間、鼻の奥がツンとして視界が滲んだ。
今まで「鬼」という存在を、どこか物語の遠い出来事のように思っていたのかもしれない。けれど、これは現実だ。この人たちは、本当にそれと戦っている。
彼らをこんなボロボロにしてしまう鬼が怖い。この屋敷の温かな空気の中でさえ、一歩間違えれば「死」が隣り合わせなのだと、初めて肌で理解した。
でも、私がここでメソメソしていても、隊士の傷が塞がるわけじゃない。この瞬間、この人たちのために動けるのは私たちだけなんだ。
「急がないと……」
自分に言い聞かせるように呟き、私は廊下に出た。不器用でもいい。知識がなくてもいい。この場所の一員として、今の自分にできることを全部やる。
私は重い桶をぐっと持ち直し、次の病室へ足を踏み出した。そんな時だった。忙しなく走り回る私の視界に、長い影が落ちたのは。
「わっ……!」
目の前に現れた人影に気づくのが遅れ、勢いでぶつかってしまった。
そのまま後ろにひっくり返り、床に尻もちをつく。手の中の桶を必死で死守したおかげで水を全被りする最悪の事態は免れたけれど、波打った水面から溢れた水が床に少しだけ散らばる。
「す、すみません……っ!」
「ごめんなさい!大丈夫ですか?」
慌てて謝罪の言葉を口にすると同時に、頭上からも凛とした声が降ってきた。
「いえ、私は全く…!それよりもあなたは……」
痛む腰をさすりながら顔を上げると、そこにはすらりと背の高い女性が立っていた。
詰め襟の隊服を着こなしている彼女の姿に、私は一瞬圧倒されて言葉を失う。女性の鬼殺隊士を見るのは、胡蝶さん以外に初めてだったからだ。
黒髪をきっちりとオールバックにまとめたその顔立ちは、驚くほど整っていて。
彼女はすぐさま膝をつくと、呆然としている私の指先をしっかりと握り、力強く引き上げてくれる。
「怪我はありませんか?痛むところは?」
「は、はい!大丈夫です……!私の方こそ、前をよく見ていなくて……本当にすみません!」
「いえ、私こそ不注意でした。少し考え事をしていて……」
お互いに何度も、折れんばかりに頭を下げて謝り合う。彼女の腰には、隊士の証である日輪刀が差されていた。
「あの、これ……床、すぐに拭きますね!」
私が溢れた水を拭こうと袖をまくると、彼女は「いえ、私が」と制するように手をかざした。
「私がぶつかったせいです。それよりも貴女は帯が……」
彼女が視線を落とした先を見て、私は凍りついた。
ぶつかった衝撃のせいか、それとも朝から無理に動き回っていたせいか、着物の帯がずるりと緩み無惨に解けかかっていたのだ。
「あ……」
慌てて手で押さえたけれど、一度崩れた着付けは私の手に負えるものではなかった。
私はこの時代の着物の扱いにまだ慣れていない。いつもは胡蝶さんやアオイさんが見かねて手伝ってくれて、ようやく形にできているような状態なのだ。
どうしよう。今すぐ直さなきゃいけないのに…。
けれど、廊下の向こうからは今も隊士たちのうめき声と、必死に立ち働くアオイさんたちの声が聞こえてくる。あんな忙しさの中にいる二人のところへ、「帯が解けたので直してください」なんて言いにいけるはずがなかった。
情けなさと、自分の役立たずぶりに鼻の奥がツンとしてくる。視界がじわりと滲み始めたその時、目の前の彼女が私の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫ですよ。私に任せてください」
その落ち着いた声に、弾かれたように顔を上げる。
彼女は素早い動作で懐から手拭いを取り出すと、床の水を拭き取った。そして、流れるような動作で私の手首を優しく取る。
「少しお部屋を借りましょう」
彼女は近くにあった空き部屋の障子を静かに開け、私を中へと促した。
西日が差し込む静かな部屋。外の喧騒が少しだけ遠のく。
「さ、背筋を伸ばしていてください。すぐに直しますから」
彼女は私の前に膝をつくと、手際よく解けた布を整え始めた。布をたぐり寄せ、結び目を引き締める指先に一切の無駄がない。
「…あの、すごく慣れていらっしゃるんですね」
「ええ。昔、母に厳しく仕込まれましたから」
「すみません……私、着物の扱いがどうにも下手で……いつも胡蝶さんやアオイさんのお手を煩わせてしまってて」
「いいえ、誰だって最初はそうです」
彼女は最後に帯の結び目を整えると、ふっと満足そうに息を吐いて立ち上がった。
鏡もない部屋だけれど、その手触りだけで先ほどまでの乱れが嘘のようにピシッとしているのが分かる。
「はい、これで大丈夫です」
「わ、すごい。本当にありがとうございます…!」
「それならよかった」
ふっと和らぐように向けられた微笑み。
本当に優しい人だ…。西日に照らされたその横顔があまりに綺麗で見惚れてしまい、私は一瞬言葉を失って立ち尽くした。
けれどこのままお別れしてしまうのは、なんだかとても勿体無い気がする。
「あの……!もしよろしければ、お名前を伺ってもいいですか?」
私の思い切った言葉に、彼女は少し意外そうに瞬きをした。けれどもすぐにあたたかい笑みを浮かべてくれる。
「もちろんです。尾崎、といいます。鬼殺隊の隊士です」
「尾崎さん……」
「貴女は?」
「あっ…私は高月リサと申します。最近、こちらの蝶屋敷でお世話になり始めたばかりで……」
名乗る声が心許なく震えたのは、自分の未熟さへの照れと、こんなに素敵な人の前でもっとしっかりした人間に見られたい、という背伸びしたい気持ちの表れだったのかもしれない。
これが、私と尾崎さんとの最初の出会いだった。
名前を教え合ったときは、どこか遠巻きに様子を伺うような関係だったのに。気づけば驚くほど自然に打ち解けていた。
歳が近かったこともあるけれど、何より彼女の纏う優しい空気が、唯一私を普通の女の子に戻してくれたからだと思う。
いつの間にか会話から敬語が消え、私にとって彼女は、この異世界で初めてできた「友達」のような存在になっていた。
「重そうだね、ひとつ貸して」
その日も、廊下で私が大きな木箱をいくつも重ねて運んでいると、ふいに横から頼もしい手が伸びてきた。
「あ、尾崎さん……!来てたんだ」
「うん。胡蝶さんの検診の帰り」
「そうなの?怪我の具合、大丈夫だった?」
「もちろん。もう任務に戻っても大丈夫だって」
「良かった……!」
隣に並んだ尾崎さんが、私の腕から一番上の箱をひょいっと奪い取る。
「うわ、これ結構重たいね。よく一人で運んでたよ」
「そ、そうかな?」
木箱を軽々と抱え直した尾崎さんが、驚いたように目を丸くする。
言われてみれば、確かに一回で運ぶような量ではなかったかもしれない。二往復するのが面倒で、ついつい一度に済ませようと横着してしまう。
「リサってさ、本当に頑張り屋さんだよね」
「え、違うよ?往復するのが面倒なだけだよ?」
照れ隠しでそう返したけれど、尾崎さんは「ううん、違うよ」とくすりと笑って、私の言葉を優しく遮った。
「一人でどうにかしようとしてたでしょ?普通はね、一人で持てないと思ったら誰かに『手伝って』って頼むものなんだよ。…もっと、誰かに甘えてもいいのに」
「あ、それ……胡蝶さんにも言われたかも」
尾崎さんは「やっぱりね」と可笑しそうに笑い、私の不器用な足取りに合わせて歩き出す。
屋敷に来たばかりの頃や、熱を出して寝込んだ時、胡蝶さんにも同じようなことを言われた。でも、私にはそれが一番難しい注文だった。
なんど違うよ、と諭すように言われても、すぐに自分の考えを曲げることはできはい。
「私はここに置いてもらってるだけだから。みんな自分の仕事で手一杯なのに、私まで手を借りるなんてそんなの申し訳なくて……」
私は足元を見つめ、腕に残った木箱の角を指先でなぞった。
与えられた食事、清潔な布団。それらを受け取るたびに、私の心には借金のような負い目が積み重なっていく。
何も知らない私を救ってくれた人たちに、これ以上何を求めればいいというのだろう。
「頼ることも、ぜんぜん悪いことじゃないと思うけどなあ」
「でも、迷惑だと思われたくないの。みんな、私とは背負ってるものが違うから」
「迷惑じゃないよ」
尾崎さんの声は、驚くほどきっぱりとしていた。
彼女の横顔を盗み見ると、凛とした瞳には一切の迷いがなくて、私はそれ以上言い訳ができなくなる。
「誰かに頼られるって、それだけで嬉しい時もあるんだよ。だからひとつだけ約束してほしいな?」
「……うん?」
「次、限界だと思ったら私に一番に言ってほしい。……『手伝って』って」
それは、今の私にとってどんな救いの言葉よりも重みがあった。
家族も、友達も、慣れ親しんだ街もすべて失って。どこに立っても足元がふわふわと浮いているような不安の中で、彼女は「甘える」という名の居場所をくれたのだ。
「うん……尾崎さん。ありがとう」
少し泣きそうになり泣き笑いのような声を上げると、尾崎さんは「よし!」と満足げに声を上げ、わざと軽く肩をぶつけてきた。
コツン、と伝わってきた彼女の体温が、驚くほど温かくて心強い。
尾崎さんは任務でこの近くを通ると必ず蝶屋敷に顔を出してくれるようになったし、困っている私を見つけると当たり前のように手を貸してくれるようになった。疲れて座り込んでいたら、何も言わず飴玉を差し出してくれることもあった。
そうやって少しずつ、互いのことを知っていった。
人懐こさと芯の強さを併せ持った人だ。明るくて、でも表情の奥にほんの小さな翳りを抱えていて――それでも前を向こうとする姿が、私にはとてもまぶしく見えた。
彼女と出会ってから、蝶屋敷で過ごす日々がより心強いものになった気がする。
「はい、これ」
荷物を運び終わったあと、庭に面した縁側に尾崎さんと並んで腰を下ろした。
目の前には風に揺れる梅の枝があり、まだ花は芽吹いていないけれど、ほのかに良い香りが漂ってくる気がする。
「いただきものなんだ、二人で食べよう」
そう言って尾崎さんが差し出してくれたのは、竹皮に包まれた色鮮やかな三色団子。甘いものなんて、この世界に来てからほとんど口にしていなかった。
「いいの?」と聞き返しながら、私は子供みたいに目を輝かせてしまう。尾崎さんはくすくすと笑いながら、ひとつを手渡してくれた。
口に含むと、もちもちとした食感素朴で優しい甘さが口の中に広がり、それだけでさっきまでの疲れがどこかへ飛んでいく気がする。
「おいしい……!」
「でしょう?頑張った後の甘いものは格別だよ」
隣で尾崎さんが楽しそうに笑う。
冬の終わり、少しだけ春の気配を孕んだ風が、私たちの間を通り抜けていく。
…今なら、聞けるかな。私は串に残った最後の一つを見つめながら、ずっと気になっていたことを口にしてみた。
「ねえ尾崎さん」
「ん、なあに?」
「その……冨岡さん、って人を知ってる?鬼殺隊の人なんだけど……」
もし、この鬼殺隊という組織が何千人もいるような大きなものだったら、一人の名前を出したところで分からないかもしれない。
けれど、私の問いに尾崎さんは団子を食べる手を止めて、少しだけ意外そうに目を見開いた。
「……冨岡さん?それって、もしかして水柱様のこと?」
「あ、たぶんその人……。アオイさんたちもそう呼んでた気がする」
「そりゃ、知らない人はいないよ。リサが言ってるのは冨岡義勇様のことだね」
――義勇、さん。
そうか。冨岡さんのお名前は、"義勇"さんというのか。なぜだか胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、不思議な感覚に襲われる。ただの名前なのに、急にその人の存在が輪郭を持って私の中に踏み込んできたみたいだ。
「会ったことあるの?」
「うん。私を助けてここに連れてきてくれたのがその人だったから……」
「へえ。水柱様が……」
「ねえ、尾崎さん。その"水柱"ってなに?」
尾崎さんは三色団子の串をくるりと回しながら、私の問いに小さく瞬きをした。
あ、皆が知ってる当たり前だったのかな。不思議に思わせてしまったのもしれない。
でも"柱"といえば建物にある柱くらいしか知らない。普通は、人につけられる呼び名だなんて思わないだろう。
「柱っていうのはね、鬼殺隊の中で最高位の剣士たちのことだよ。今いる九人の内の一人が冨岡さん。で、ここの胡蝶さんは蟲柱」
「え、そんなにすごい人だったの……!」
確かに、あの二人が纏っている空気は他の隊士の人たちとは何かが決定的に違うとは感じていた。でも、まさか組織のトップに立つような人たちだったなんて。
「冨岡さんは"水の呼吸"を極めた人。……正直、私たちみたいな一般隊士とは、住んでいる世界が違うっていうか、雲の上の存在なんだけどね」
雲の上の存在。
尾崎さんの言葉を聞いて、私は手の中の空になった串を見つめた。
何度か冨岡さんと会話を交わす機会はあったけれど、それも本当はあまりないことだったのかな。この間も熱でふらふらの私を部屋まで運ばせてしまって。
命の恩人。ただそれだけだと思っていたのに。なんだか、急に遠くに感じてしまう。
「ふふ、急にどうしてそんなこと聞くの?」
尾崎さんが、急にいたずらっぽく私の顔を覗き込んできた。女子特有の鋭い好奇心が透けて見えて、私は慌てて視線を泳がせる。
「え?えっと、その、お礼もまともに言えてなかったから、どんな人なのかなって気になっただけで……」
「ふうん、そっか」
全然、納得してない。尾崎さんはニヤニヤしながら、わざとらしく深く頷いてみせる。
「…あ、そういえば村田先輩が冨岡さんと同期だって言ってた気がする。今度こっそり詳しく聞いてきてあげようか?」
「いい!大丈夫!本当に、ただの好奇心だから!」
「そう?本当にいいの?」
「うっ……」
そう言われると言葉に詰まる。尾崎さんの面白がるような視線が、私の本心を的確に突き刺してくる。
そう、否定なんてできなかった。本当は知りたいと思っている。それが事実だったから。
あの夜、高熱で苦しくてたまらなかった私に寄り添ってくれてた、あの不器用な優しさがずっと心に残って離れない。あの日以来、ふとした瞬間に彼のことを考えてしまう。
それに、尾崎さんから名前を聞いて、すごい人だと知って、ますます彼がどんな人なのか知りたくなってしまった。
私が真っ赤な顔をして黙り込むと、尾崎さんは「あはは!」と愉快そうに笑って、空になった竹皮をぱたぱたと片付け始める。
「わかった。今度村田先輩に会った時、さりげなく、あくまでさりげなーく聞いてきてあげるから」
「えっ……い、いいってば!」
「いいのいいの。同期しか知らない意外な一面があるかもしれないしね」
尾崎さんはウィンクをして、悪戯っぽく笑う。
私が止めようとするのも聞かず、彼女はそのまま軽やかな足取りで屋敷の方へと歩き出してしまう。
「楽しみにしてて。じゃあ、私もそろそろ行くね!」
「あ、待って尾崎さん……!」
呼び止める声も虚しく、彼女はひらひらと手を振って去っていった。
一人残された縁側で、私は火照った頬を手で押さえた。村田さんという人が何を話すのか、怖いような、でもやっぱり知りたいような…。
「意外な一面、か」
ぽつりと呟いて、私はまだ蕾のままの梅の枝を眺めた。
***
「リサさん、最近変わりましたよね」
夕餉の支度が始まる前の、少しだけ慌ただしい廊下。取り込んだ洗濯物を抱えたきよが、ふと足を止めてそう言った。
「前はなんだか、いつも困ったような顔をしていたのに」
「そうそう!笑顔がすごく柔らかくなったよね!」
「この前なんて、アオイさんが敷布を頭から被ってしまったのを見て、一番に笑い転げていたんですよ」
はしゃぐように口々に話す三人娘の声は、春の陽だまりのように温かい。私は小さく微笑んで、彼女たちの視線の先を追った。
庭の隅で、洗濯籠を抱えたリサさんが、こちらに気づいて小さく手を振り返している。西日に照らされたその頬はうっすらと赤らんでいて、初めて会ったあの夜の、凍りついたような表情が嘘のようだった。
「…そうですね。とても良い顔をするようになりました」
私は三人に頷き、心の中で静かに同意をする。
彼女を変えたのは、きっとあの女性隊士、尾崎さんの存在が大きいだろう。
孤独に震えていたリサさんにとって、同じ目線で笑い合える「友人」という灯火は、私やアオイが差し出す救いとはまた違う温かさを持っていたはずだ。
人は、人との出会いで変わると、姉さんもよく言っていた。私たちがいくら薬を処方しても届かない心の傷を、ほんの一握りの共感が癒やしてしまうことがあるのだと。
最初、冨岡さんに連れられてきた時の彼女は、ひどく危うげな佇まいをしていた。自分をもう死んだのだと言って、見たこともない素材の服を纏い、私たちが当たり前だと思っている常識を何一つ知らない。まるでどこか遠い異国…いや、この世界ではないどこかから、間違えて落ちてきてしまったかのような。
そして何より私の目を引いたのは、彼女の拒絶の仕方だった。この屋敷に来る人たちは、泣き喚くか、あるいは絶望に沈むかのどちらかが多い。
けれど彼女は違った。自分が一番辛いはずなのに、誰かに手を差し伸べられると、申し訳なさそうに一歩下がってしまう。
「迷惑をかけてはいけない」という強迫観念に近いほど、誰かに頼ることを極端に恐れていた。その危ういほどの慎ましさが、きっとあの冨岡さんの「放っておけない」という不器用な正義感に触れたのだろう。
彼女の瞳を見ていると、時折胸がざわつくことがある。誰に教わったわけでもないのに、ふとした瞬間に、彼女の瞳は私たちの知らない光を宿すからだ。
これまで、きっと大切に大切に育てられてきたのだろう。鬼のいない、血の匂いもしない、穏やかな世界で。
そんな世界から切り離され、孤独を独りきりで抱え、この過酷な場所で必死に居場所を探している。
まるで、そんなふうに見える姿があまりに健気で――そして、残酷なまでに儚く思えた。
けれど、もう大丈夫。今の彼女の瞳には、しっかりとこの屋敷の土を踏みしめている力強さがある。迷いながらも、不器用ながらも、彼女は自分の足で前を向こうとしている。
「…さあ、皆さんも手を動かしてくださいね。夕餉の支度が遅れてしまいますよ」
私の声に、三人娘は「はーい!」と元気よく返事をして、パタパタと廊下を走っていった。
静かになった縁側で、私はもう一度だけ庭に立つ彼女の背中を見つめなおす。
どこから来たのか、何を知っているのか、それはまだ分からない。
けれど、彼女がここで笑いたいと願うのなら。私はその願いを、全力で守ってあげたいと思うのだ。
「頑張ってくださいね、リサさん」
私は誰に聞かせるでもなくそう呟き、優しくなった風を感じながら、仕事の待つ奥の部屋へと歩き出した。
前へ 次へ
目次へ戻る