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翌朝、それは色んな人に心配をかけた。
目が覚めた瞬間から、蝶屋敷の中はちょっとした騒ぎになっていたのだ。両手首に包帯を巻いた状態の私の姿は、お屋敷のみんなにとっては衝撃だったらしい。
「もう!本当に馬鹿なんじゃないですか、リサさんは!」
開口一番、そう言ってすごい剣幕で私を怒鳴りつけてきたのはアオイさんだった。
両手を腰に当て、私を睨みつける。けれど、その瞳の奥がうっすらと涙で潤んでいるのを私は見逃さなかった。
「ただの買い出しですよ!?どうしてそんな怪我をして帰ってくるんですか!」
「は、はい!ごめんなさいアオイさん……」
「謝って済む問題じゃありません!」
彼女の声は、お屋敷にわんわんと響き渡る。
そして、三人娘に至っては泣かれた。
「ひぐっ、え、ええぇぇん!ご無事でよかったですぅ……!」
小さな体を震わせながら、しゃくり上げて泣きじゃくる三人。
こんなに私のことを大切に想い、心配してくれる温かい人たちがいるのに。守るべき日常が、ここにこんなにも溢れているのに、私は一体なんて不甲斐ないことをしてしまったのだろう。
自分のしてしまった事の重大さを、私はようやく本当に理解した。
そして、これほど温かい場所にいながら、「心細さ」にばかりに目を向けていた自分の浅はかさを、心の底からより一層深く猛省したのだった。
*
茜色に染まった空を眺めながら、洗い物の籠を抱えて中庭を横切った時。池のすぐそばで、ぽつんと二つの影が並んで座っているのが見える。
あれは、カナヲさんと小さな猫、だろうか。
カナヲさんはよくこの中庭で、一人静かにシャボン玉を吹いている。透明な球体が空へ溶けていく様子を、彼女はただ黙って見つめているのだ。
まだふわふわとした三毛の子猫が、宙を舞うシャボン玉を夢中で追いかけている。カナヲさんが息を吹き込むたび、それを子猫が短い前足でぱしりと叩き、手応えなく消えるそれに不思議そうに首を傾げていた。
「隣、お邪魔してもいいですか?」
声をかけると、カナヲさんは小さく瞬きをしてこちらを見上げた。
私はそっと隣に腰を下ろし、子猫の背中を撫でてみる。
「可愛い……」
この子はどこから来たのだろう。
首輪がないから、野良猫なのかな。まだ小さいのに、母猫はどこに行ったのだろう。
「カナヲさんはこの子と仲良しなんですね」
カナヲさんは新しく作ったシャボン玉を一つだけ子猫の鼻先に飛ばして見せる。その仕草が答えの代わりなのかもしれない。
私は小さく笑って、もう一度子猫の背中をそっと撫でた。
『最終選別……ですか?』
数日前、門の前で掃き掃除をしていたときのことだ。一緒に掃除をしていたアオイさんが、遠くの山並みを見つめたまま静かに教えてくれた。
『はい。鬼殺隊に入るには、誰もが必ず試験を受けなければならないんです。藤襲山という山で、七日間生き延びることができた者だけが、鬼殺隊として認められます』
『一週間……』
『はい。そこには隊士によって生け捕りにされた鬼が放たれていて、命を賭けて戦うんです』
鬼殺隊には、なりたいと思って誰でもなれるわけではないらしい。
死と隣り合わせの山で七日間。想像しただけで足がすくむような、過酷な試練だ。
選別に行くまでにも、きっと気が遠くなるほどの鍛錬を積んでいるはずだ。けれど、その試験に受かってこそようやくそのスタートラインに立てる。
そこまでしても、生き残れるのはほんの僅かな人たちだけなんて。
本来ならこんな年端もいかない年齢で、鬼狩りになりたいだなんて考えることもないはずだ。
彼らの笑顔は、本来はもっとのんびりと日々の
学校の帰り道に寄り道をしたり、好きな服を選んだり、何でもないことでお腹を抱えて笑ったり――そういう普通のことをまだこれからしていいはずの年齢なのに。
そんな「当たり前」が許されない時代。ひとつ生まれる時代が異なると、こうも違うなんて。
鬼の存在を、私はまだよく知らない。姿を見たわけでも、戦いを目の当たりにしたわけでもない。
けれど、こうして幼い子たちや年若い少年少女までもが日常を奪われ、刀を手にする世界を作り出しているのだとしたら。
それだけで、胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
…憎い。理由も理屈もいらなかった。ただ、この子たちにそんな生活を強いているものが鬼だというのなら、私は心の底から鬼を憎まずにはいられなかった。
「……痛い、ですか?」
ぽつりと掠れるような声が降ってきて、私は顔を上げた。
いつも指示がなければ話さないカナヲさんが、自ら言葉を紡いでくれたことに驚いて、私は思わず目を丸くする。
「大丈夫、ですよ。冨岡さんが助けてくれましたし、胡蝶さんにも手当てしてもらいましたから」
心配をかけたくなくて、なるべく明るい声で笑ってみせる。
けれどカナヲさんは、まだ少し痛ましそうに眉を下げたまま、そっと私の手首を包み込むように撫でてくれた。
「……無理、しないでください」
「はい。ありがとうございます」
手首をそっと包んでくれていたカナヲさんの温もりに、張り詰めていたものがじんわりとほどけていく。
足元では、三毛の子猫が私の裾に鼻先をすり寄せて甘えた声を上げていた。
「この子、名前はあるんですか?」
「……まだ」
「そっか。じゃあ、これから名前を決めてもらえるんだね」
しゃがみ直して子猫の喉元をくすぐると、喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細める。
「名前をつけてもらえたら、もう立派な家族の一員だね」
「……名前、家族……?」
ぽつりと呟いたカナヲさんが、不思議そうに瞳を瞬かせた。
その純粋な問いかけに、私は嬉しくなって笑顔を返す。
「はい。名前を呼ぶって、その人の存在をちゃんと大切に受け止めることだと思うんです。だから、誰かが心を込めて名前をつけてくれた瞬間から、その人はもう呼んでくれた人たちの大切な家族になるんじゃないかなって」
名前って、ただの呼び名じゃない。誰かが自分のために悩んで、祈るように選んでくれた、世界でたった一つの宝物だ。
カナヲさんは私の言葉をじっと噛みしめるように、胸元に手を当てている。その大きな瞳がかすかに揺れて、子猫を見つめ直した。
「カナヲさんが名前をつけてあげたら、この子も喜ぶかも」
「わたし、が……?」
驚いたように瞬きを繰り返すカナヲさんに、私はこくりと頷いてみせる。
「はい。ぜひつけてあげてください」
カナヲさんは困ったように唇を引き結び、懐からいつもの銅貨を取り出そうと指先を動かした。
けれど、指先が硬貨に触れる直前で、ふと動きが止まる。
足元では、子猫がカナヲさんの指に自分の小さな額をごしごしと擦り付けていた。
「ふふ、ゆっくりでいいんじゃないですか?」
夕暮れが、子猫の背中を優しく包んでいく。
カナヲさんは硬貨から手を離すと、壊れ物に触れるような手つきで、子猫の柔らかな頭をそっと撫でた。
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