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秋も深まり、肌を刺す風が冷たくなってきたある朝のこと。
蝶屋敷の重い門扉が開かれ、私たちはいつものように、任務へと赴くしのぶさんを見送りに集まっていた。
「…いいですか、皆さん。戸締まりは厳重に。私が不在の間、もし見知らぬ方が訪ねてきても、決して中へ入れてはいけませんよ。……居留守を使ってください。いいですね?」
しのぶさんは私たち全員の顔を見渡しながら、念を押すように言った。その声はいつになく真剣で、どこか切迫したような響きを孕んでいる。
けれど、居留守と言っても、蝶屋敷は普段からたくさんの人が絶え間なく出入りする救護の要だ。普段から人の気配が絶えることのないこの場所で、居留守を使うなんて現実的ではない気がする。
…でも、それくらい強い警戒心を持て、ということなのだろう。アオイさんはもちろん、なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんの三人も、神妙な面持ちで何度も頷いていた。
「…それからアオイ。棚の三番目にある青い小瓶の薬ですが、もし炭治郎くんの傷が化膿する兆しを見せたら、迷わず使ってください。あと、五番の病室の方が急変するようなことがあれば、書付の通りに対応を。食事は……お任せしますね」
「はい。承知いたしました、しのぶ様」
アオイさんはいつになく緊張した面持ちで、その指示を一つひとつ胸に刻むように答えた。
いつもなら、このあたりで冗談めかした軽口が誰かから飛び出すはずなのに、今日のしのぶさんはどこか慎重だ。アオイさんへの指示も、薬の調合から緊急時の対応まで、まるで数ヶ月も屋敷を空けるかのような細かさ。
私はしのぶさんのそんな姿を見つめながら、胸の奥に小さなざわつきを感じていた。
煉獄さんが亡くなり、宇髄さんが柱を引退してから、鬼殺隊の運営は大きく変わりつつある。担当地区の見直しが行われ、残された柱たちの負担は目に見えて増えている。今回のようにしのぶさんが遠方の任務に就くのも、その影響の一つなのだろう。
これまでも、しのぶさんが任務で屋敷を不在にすることは珍しくなかった。けれど、どんなに遠くても、しのぶさんなら一日二日、長くとも三日もあれば帰ってくれていた。他の柱と違って、彼女には診なければならない患者がいることによる配慮だったのかもしれない。
それが今回は、一週間。屋敷の主がこれほど長く不在にするのは、私がここへ来てから初めてのことだった。
「……ですが、心配には及びませんね。皆さんしっかりしていますし」
「はい!お任せください、しのぶ様!」
「戸締まりも、隊士の方の看病も、みんなで力を合わせて頑張ります!」
「しのぶ様が安心して任務に行けるように、ちゃんとしておきますね!」
三人娘が競い合うように元気よく声を上げる。その健気で力強い言葉に、しのぶさんは「頼もしいですね」と目を細めて微笑んだ。
その場に漂っていた不安の霧を、彼女たちの純粋なやる気が一気に吹き飛ばしてくれる。
「…しのぶさん、お気をつけて。一週間もいらっしゃらないなんてなんだか実感が湧かないですけど、どうかご無理はなさらないでくださいね」
一週間、長いなと思いながら正直に今の気持ちを伝えると、しのぶさんの瞳がわずかに和らいだ。
「ふふ、リサさんありがとうございます。私もこれほど長く屋敷を空けるのは本意ではありませんが、頼みましたよ」
「は、はい…!お任せください…!」
しのぶさんに"頼んだ"と言われたからには、私も頑張るしかない。いつも忙しそうな彼女だから、遠方の任務で少しでもリフレッシュできたらいいな。
「では、行ってまいります」としのぶさんはそう告げると、一度も振り返ることなく白み始めた空の下へと消えていった。
門の前に残された私たちは、彼女の姿が見えなくなってもしばらくの間、名残惜しさを分かち合うように立ち尽くした。
*
「イテテテテ、イテテッ!」
朝の慌ただしい用事をひと通り終えたお昼時。
道場の片隅で炭治郎くんが機能回復訓練の仕上げとして行っている柔軟に、なほちゃんが容赦なく加勢していた。
ぐいぐいと体重をかけて背中を押すなほちゃんと、顔を真っ赤にして畳に張り付く炭治郎くん。見ているだけで、こちらまで身体が強張ってしまいそうなその様子に心の中で応援をする。
「炭治郎さん、もっと力を抜いてください!まだまだ身体が硬いですよ」
「な、なほちゃん……分かっているんだけど、これが限界なんだ……イテテ!」
ぐいぐいと背中を押される炭治郎くんを横目に、私はきよちゃんと一緒に使い古された薬湯の入った器を回収し、新しいものへと入れ替える作業を進めていた。
「ふふ、炭治郎くん、頑張って。そこを乗り越えればまた一歩任務に近づけるよ」
「そうですよ炭治郎さん、応援してます!」
きよちゃんがにこにこと声をかけると、炭治郎くんはようやく解放されたのか、畳の上に大の字になって「ふぅー……」と深く息を吐き出した。額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「んー、悔しい……。やっぱり、なかなか体力が戻らないなあ。前ならこれくらい、なんてことなかったはずなのに……」
「はい、炭治郎さん。お疲れ様の糖分補給です!」
「え、わあ!美味しそう!ありがとう」
炭治郎くんはむくりと起き上がると、いつもの穏やかな笑顔を見せた。そこへ、なほちゃんがどこからか持ってきた大きなお煎餅を差し出す。
さっそく炭治郎くんが齧り付き、ぱりっ、と小気味よい音が道場に響く。炭治郎くんが幸せそうに頬張る姿を見て、私たちも自然と顔がほころんだ。
しのぶさんが任務に発ち、今朝もいつも通りに朝一番の掃除や庭の掃き清め、それからアオイさんの指示を受けながら各病室を回り、患者さんの包帯を替えを終えた。
幸いなことに、今日は急患が運び込まれてくることもなく、屋敷の中にはどこかゆったりとした空気が流れている。
いつもなら、慌ただしい足音が絶えない蝶屋敷だけれど、今日は遠くで鳥が鳴く声や、風が木々を揺らす音さえはっきりと聞こえるほどに穏やかだ。
「今日はなんだか、静かですね」
きよちゃんがふと漏らした言葉に、私も深く頷いた。
切羽詰まった空気がないというだけで、心に少しだけ余裕が生まれる。病室を回った時にも、療養中の隊士といつもより少しだけ長く世間話をしたり、窓の外に見える紅葉の色づきについて言葉を交わしたりすることができた。
大きな事件も、急ぎの対応もない。そんな当たり前で、けれど贅沢な平穏を噛み締めながら、私たちは道場の隅で少しだけ長めの休息を取っていた。
あとで私も一枚お煎餅をいただこうかな。
「あっ、そうだ!俺が眠ってるあいだに刀、届いてないかな?前の戦いで刃こぼれさせてしまったやつなんだけど……」
炭治郎くんが最後の一欠片を口に放り込み、指先についたお煎餅の粉を払いながら期待に満ちた瞳で二人を見上げた。
しかし、その問いにきよちゃんとなほちゃんの表情が瞬時に凍りつく。
「か、刀、ですか……?」
「刀……その……」
明らかに狼狽えだし、視線を彷徨わせる二人に、私は急須からお茶を注ぎながら不思議に思って首を傾げた。
そういえば、炭治郎くんの刀は修理に出していたんだっけ……。
鬼殺隊士にとって、命の次に大切な日輪刀。それを手入れし、打ち直すのは刀鍛冶の役割だ。炭治郎くんの担当は、確か鋼鐵塚さんという方だったはず。
「な、なほちゃん……。あれ、お渡しした方がいいかな」
「……そうだね。隠し通せるものでもないし」
二人はひそひそと顔を見合わせたあと、きよちゃんが意を決したように炭治郎くんを振り返った。
「鋼鐵塚さんからお手紙は届いています。ご覧になります……?」
その、どこか「覚悟してください」と言わんばかりの声音に、今度は炭治郎くんと私が同時に、鏡合わせのように首を傾げた。
場所は変わり、蝶屋敷の畳の一室。
きよちゃんが持ってきた「鋼鐵塚さんからの手紙」を広げた瞬間、私たちは思わず顔を寄せ合い息を呑んだ。
「ひぃ……!」
炭治郎くんと私の声が、見事に重なる。
そこに並んでいたのは、およそ「手紙」と呼ぶにはあまりに物々しい言葉の羅列。
『お前にやる刀はない』『呪ってやる』……紙面を埋め尽くす不穏な文字の数々は、まるでそれ自体がどす黒い執念を放っているかのようで、見るだけで背筋が凍りつく。
「こ、これは……まずいぞ……」
炭治郎くんは目を白黒させながら、震える手で呪詛の滲む手紙を握りしめていた。
私はと言えば、あまりの衝撃に言葉を失い、ただただその紙面を見つめることしかできない。こんなにも殺意に満ちた手紙を、私はこれまでの人生で見たことがなかった。
「ですよね……。二ヶ月あったんですけど、刀は届いてなくて……代わりにこのお手紙が届いたんです」
なほちゃんが申し訳なさそうに添える。
「う、うーん……。今回は刃こぼれだけだったんだけどなあ……。前に折ってしまっているからなぁ……」
炭治郎くんが冷や汗を拭いながら唸っていると、ちょうど洗濯を終えて合流したすみちゃんが、私たちの様子を不思議そうに覗き込んだ。
「うーん、刀が破損するのはよくあることなんですけど……。鋼鐵塚さんは、ちょっと気難しい方ですね」
すみちゃんは首を傾げながらさらりと言ったが、私はその言葉を素直に受け止めることができなかった。
気難しい……どころではないのでは?確かに、職人が自らの打った刀に並々ならぬ愛着と誇りを持っているのは理解できる。けれど、この手紙の内容はもはや怨念に近い。
以前、彼が包丁を手に炭治郎くんを追い回していたという話を思い出し、私は目の前の少年へ同情の眼差しを向けた。でも、それだけ鋼鐵塚さんの刀は、彼にとって魂そのものなのかもしれない。
「…どうにかならないかなあ。このままだと、炭治郎くんが任務に復帰する時に刀がないなんてことになっちゃう」
私が腕を組んで唸ると、なほちゃんやすみちゃんも「うーん……」と一緒になって眉を寄せた。呪詛の紙片を囲んで、五人で深いため息をつく。
沈黙が流れる中、きよちゃんが何かを思い出したようにパッと顔を上げた。
「そうだ、里の方に行ってみてはどうですか?直接会ってお話ししたほうが、きっといいかと……」
「里?」
思わず、私は頭を傾げた。里とは一体どこのことだろう。
確かに、この呪いのような手紙のやり取りを続けていても、事態が好転するとは思えない。直接会って、誠心誠意お詫びをして事情を話すのが一番の解決策なのは間違いないだろうけれど。
私が不思議そうにしていると、きよちゃんが補足するように教えてくれた。
「刀鍛冶の皆さんの里です」
「えっ、行っていいの!?」
炭治郎くんが驚いたように身を乗り出した。
どうやら、刀を作る人たちが集まって住んでいる場所があるらしい。
「場所は極秘だって聞いていたけど…。俺みたいな一隊士が、そんな大切な場所にお邪魔してもいいのかな」
「はい。しのぶ様からも、もし鋼鐵塚さんがどうしても首を縦に振らないようなら、里の長に相談するようにと言われていましたから」
きよちゃんの言葉に、私は「なるほど」と納得した。しのぶさんは、こうなることまで見越していたのかもしれない。だからこそ、今朝あんなに細かく指示を出していたのだろう。
きよちゃんたちの説明によれば、そこは鬼に襲撃されることを防ぐため、場所は厳重に隠されているらしい。隠が何人も交代して目隠しをし、さらには鴉さえも入れ替えながら運ぶという徹底ぶりだ。
炭治郎くんは、その重みを噛み締めるように一度目を閉じ、それから迷いのない瞳を上げた。
「……行きます。俺、里へ行ってきます! 」
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