71


「う……頭、痛い……」

ずきずきと内側から金槌で叩かれるような鈍痛に、思わずこめかみを押さえた。あまりの寒さに身を震わせて意識を浮上させれば、視界に飛び込んできたのは見慣れた自室の天井だった。
すっかり、朝になっている。

「あれ……?」

身体を起こそうとして、あまりの気怠さに一度断念する。
昨日の記憶を懸命に手繰り寄せてみる。宇髄さんのお屋敷にお邪魔して、奥様方と賑やかにお茶を飲んで。それから、そう。夕餉の席でお酒をいただいたところまでは覚えている。
けれど、その前後の記憶がひどく曖昧だ。どんな会話をしたのか、何を食べたのかさえ、霧がかかったようにぼやけてしまっている。
お酒を飲む前は、冨岡さんについての話をしていた。それは覚えているんだけど。
その後の記憶は、まさに虫食い状態だ。何にせよ、初めて口にしたお酒で早々に意識を飛ばしてしまったことだけは疑いようのない事実。

「……やらかした」

自分の体質を知らなかったとはいえ、宇髄さんや奥様方の目の前で酔い潰れて寝落ちるなんて。
失礼な振る舞いをしていなかっただろうか。変な絡み方をしていなかっただろうか。考えれば考えるほど、穴があったら入りたい気分になる。そこへ、部屋の障子が静かに開いた。

「あら、ようやくお目覚めですか?」

立っていたのは、いつもの穏やかな笑顔――ではない。どこか冷ややかな笑みを湛えたしのぶさん。
私の青ざめた顔と、記憶が定かでない様子を瞬時に察したのだろう。しのぶさんは小さく溜息を吐くと、枕元に腰を下ろした。

「しばらく、そこでお座りなさい」
「……はい」

それから、こんこんと、それはもう丁寧なお説教が始まった。
「お酒は自分の限界を知って飲むものです」
「女性が外で無防備に意識を失うことがどれほど危ないか」
しのぶさんは話の節々で「昨日も言いましたけれど」と何度か口にしていた。きっと、昨夜戻ってきたばかりの私にも、同じように言い聞かせてくれたのだろう。
私にとっては、これが二度目の、そして記憶に残る初めてのお説教というわけだ。本当に、恥ずかしい。

「それで……私は、どうやってここに戻ってきたんでしょうか。宇髄さんが送ってくださったんですか?」

おそるおそる尋ねてみるが、しのぶさんは「さあ、そうなんじゃないですか」と、はぐらかすように視線を逸らした。
そこが一番重要なのに。彼らが、鬼の出る夜に私を一人で帰すような無茶はしないはずだ。ましてや、足元もおぼつかないほど酔っ払っていた私を。
誰の手を煩わせたのか、どんな粗相をして迷惑をかけたのか。それすら分からないままでは、申し訳なさで身が縮んでしまう。
けれど結局、宇髄さんの屋敷からどうやって帰ってきたのか。一番肝心なところは、霧の中のまま。
とりあえず宇髄さんには、お詫びのお手紙を送ろう。本当に、ご迷惑をおかけしてしまった。
重い頭を抱えながら、私は一刻も早くこの二日酔いと羞恥心から解放されたいと、昨日入り損ねたお風呂へ向かって身体を洗った。





「うう……頭が、がんがんする……」

いつも通り、朝餉を作るお手伝いのために台所へ来てみたものの。今の私には、椅子に座って机に突っ伏していることしか出来なかった。
机の冷たさがこめかみに心地良い。けれど、胃の奥から込み上げる不快感と、割れるような頭痛は一向に収まる気配がない。
そんな私の情けない姿を見て、呆れたような溜息が聞こえてくる。

「自業自得ですよ。今、酔い覚ましのお味噌汁を作っていますから少しだけ待ってくださいね」
「すみません、アオイさん……。申し訳ないです」

包丁がまな板を叩く規則正しい音さえ、頭に響く。
アオイさんはテキパキと手を動かしながら、具材を鍋に放り込んでいく。

「昨日、運ばれてきた時も相当ひどかったですけど、まさか今日まで引きずるなんて。宇髄様も、初めてだってわかってるなら、少し加減してくださればいいのに」
「えっ……運ばれてきた?」

思わず顔を上げて聞き返すと、アオイさんの手が少しだけ止まった。

「は、はい。まあ……。泥のように眠りこけてましたよ」

その言葉に、記憶の断片がほんの少しだけ揺れる。
夜の冷たい空気。規則的な足音。そして、お腹に伝わってきた、驚くほどがっしりとした、けれどどこか安心するような温もり。
宇髄さんが背負って送ってくれたのだろうか。それにしては、なんだかその背中はもう少し小さかったような。

「……思い出せません」
「無理もありませんね、あれだけ酔っていれば。……はい、これ。冷めないうちに飲んでください」

差し出されたお味噌汁から、湯気と共に香ばしい味噌の香りが立ち上る。
私はお礼を言って受け取ると、両手でお椀を包み込んだ。そっと口をつけると、温かな汁が喉を通っていく。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。
ようやく人心地ついた気がして、ふぅと息を吐き出した時。

「……リサさん、待って」
「ん?」

驚いて顔を上げると同時に、肩を掴まれて面食らう。
アオイさんは僅かに眉をしかめた表情で私の首元をじっと見つめていた。そのまま自分の懐を忙しなく漁ると、「あった」と小さく呟く。

「え?私、どこか怪我をしてましたか?」

思わず聞き返したのは、彼女が取り出したものが「貼り薬」だったからだ。現代で言うところの絆創膏のような、清潔な布を当てるためのものだ。

「昨日、どこかで転んだのかな……」

そう言って受け取ろうと手を伸ばしたが、それはするりと逃げていってしまう。
アオイさんは「そのまま前向いててください」とぶっきらぼうに言い放つと、迷いのない手つきで私の着物の襟元を触った。

「動かないで」

言われるがまま固まっていると、首筋にぴたりと粘着質のものが張り付く感覚がする。
こんなところに、傷なんてあっただろうか。昨日は確かに宇髄さんのお屋敷まで、緩めの山道を歩いた記憶はあるけれど、枝に引っ掛けた覚えもない。何より、さっき着替える時に鏡を見たはずなのに。

「ごめんなさい、ありがとうございます。全然、気づかなかったです。酔っていて感覚が麻痺していたのかも」

少しだけヒリつくような独特の違和感に触れながら、私は苦笑を浮かべた。正面ならまだしも、首の横側は死角になりやすい。

「……ええ、そうでしょうね」
「助かりました」

とりあえずお礼を述べると、アオイさんは何とも形容しがたい、複雑な色が混じった表情で視線を逸らした。その頬が、心なしか微かに赤らんでいるように見えて、私は首を傾げる。

「アオイさん……?」
「すみません、何でもないです。早くそのお味噌汁飲んじゃってください。今日、リサさんは門の前の掃き掃除をお願いできますか?」
「はい。分かりました」

アオイさんに押されるようにして、私は残りのお味噌汁を口に運んだ。
けれど、ふと、さっきアオイさんに言われた「すみません」という言葉が、なぜか脳裏にこびりついて離れなくなる。

――すまない。全部、やめる。

これは、何の記憶だろう。誰かにそんなこと言われたっけ。
私は首を傾げる。記憶の底から一瞬だけ何かが浮上しかけて、またすぐに消えてしまった。
低くて、掠れていて、とても辛そうだったあの声の主を、私はどこかで知っている気がしてならなかった。
けれど、引き出しの奥深くにしまい込んだそれを引っ張り出そうとするたび、胸の奥がきゅっと音を立てて竦んでしまう。
首筋に貼られた布の端を、指先でそっと押さえてみる。どうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。

「どうかしましたか?」

不審そうにこちらを覗き込んでいるアオイさんの視線に気づき、私は慌てて首を振った。

「いえ、なんでもないです!掃除、すぐに行きますね」

首筋に貼られた布の違和感を指先でなぞりながら、私は立ち上がった。そのまま飲み終えたお椀を急いで洗って、廊下へ出て玄関へ向かう。

「……ばかみたい」

一度立ち止まり、一方の肩を壁に預け深く息を吐き出した。
何を都合のいい妄想をしているのか。酔い潰れて記憶を無くした挙句、夢と現実の境目すら見失うなんて、本当に救いようがない。

そう、夢を見たのだ。おぼろげながらも、それだけは覚えている。
ずっとずっと会いたくて、けれどもう二度と会えないと諦めていた人に、暗い夜道で偶然巡り会えた夢。
嬉しくて、寂しくて、溢れ出る涙をどうしても止めることができなくて。子供みたいにしがみついて、ただひたすらに泣きじゃくっていた。
お酒の力を借りてまで忘れようとしたはずなのに、無意識ではまだあの人を求めて縋りついている。

冷たい土間の空気を吸い込み、私は竹箒を手に取った。
今はただ体を動かしていたかった。朝の冷たい風に当たれば、この首筋の妙な熱も、頭の奥で木霊するあの声も、すべて綺麗に消えてくれると信じて。









この季節の掃き掃除は、やってもやってもキリがない。けれど、今の私にはこの終わりの見えない単純作業が、かえって有り難かった。無心で手を動かしていれば、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっている考えを隅っこに追いやることができるからだ。
サッサッ、と箒で地面を撫でる。楓、銀杏、名前も知らない広葉樹。それらを一箇所にまとめる作業に没頭する。
右から左へ。外側から内側へ。最初は広がっていた落ち葉が、徐々に大きな円を描き、厚みを増していった。

しばらくして、ふと、自分の足元を見て動きが止まる。

「……いや、何してるんだろう私」

無心になるどころか、頭のどこかでずっと考え続けている証拠じゃないか。
無意識に集めていたはずの落ち葉の山が、どういうわけか綺麗なハート型を描いている。
誰かに見られたら恥ずかしすぎる。私は慌てて竹箒を振り上げ、せっかく綺麗に作ったハートを一気に崩そうとした。

「へぇ、可愛い!なんですか、それ」

背後から掛けられた屈託のない声に、少しだけ驚いてしまった。
慌てて振り返ると、そこには珍しく隊服を着た炭治郎くんが、目を丸くして落ち葉の山を見つめている。その背中には、見慣れた木箱がしっかりと背負われていた。

「た、炭治郎くん!まさか、もう任務に復帰するの?」

まだ体だって万全ではないはずなのに。思わず箒を握りしめて詰め寄ると、炭治郎くんは慌てたように両手を振った。

「違います違います!俺の日輪刀がなかなか届かないので。少し、刀鍛冶の里まで直接見に行ってこようかと」
「刀鍛冶の里?」

聞き慣れない言葉に、瞬きを繰り返す。初めて聞く場所だなと考えて、次に思い出したのは、炭治郎くんが眠り続けていた頃に鋼鐵塚さんとう刀鍛冶から届いたあの手紙だった。
一応急ぎの用件かもしれないと、意識の戻らない隊士宛ての手紙は屋敷のみんなで確認することになっている。けれど、なほちゃんたちとおそるおそる開けたあの封書には、思わず悲鳴を上げてしまった。
紙面を埋め尽くすように書き殴られていたのは、『絶対に許さない』『八つ裂きにしてやる』という血文字まがいの呪詛。あまりの気迫に、あの子たちと肩を寄せ合って震え上がったのだ。
確かに、あのような手紙のやり取りを続けていても、事態が好転するとは思えない。直接会って話をするのが、彼にとっても一番の解決策なのだろう。

「そ、そっか。それなら気をつけて行ってきてね」
「ありがとうございます。……それにしても、その形」

ほっと息をついたのも束の間、炭治郎くんの視線がふたたび私の足元へと落ちた。首をこてんと傾げ、純粋な好奇心で目を輝かせている。

「丸っていうか何ていうか、不思議な形ですね」
「こ、これ?」

どうやらこの時代の人たちは、これが恋情を象徴するものだと知らないらしい。猪目いのめ文様という似た形はあるはずだけれど、落ち葉で描かれたこれはよく見る建物にあるそれとは結びつかないのだろう。
私はなんとなく誤魔化すように箒の先で葉を払う。

「あ、異国の紋様……で、はあとって言うんだけど」
「へぇ、はあと。なんだか心臓みたいな形ですね」
「そう、なのかも」

心臓。たしかハートの語源も、そこから来ていたはずだ。胸をなで下ろしつつ、平静を装って笑みを向ける。

「炭治郎くんがどれだけ回復が早いからって、もう任務に行くのかと思って私びっくりしちゃった」
「あはは、さすがにまだそこまでは無茶できませんよ。でも、早く任務に戻りたいのは本当です」

前を真っ直ぐ見据える瞳はどこまでも澄んでいて、眩しいくらいにひたむきだ。
せっかく屋敷の中が賑やかだったのに、善逸くんも伊之助くんも、そして炭治郎くんまでいなくなったら、また静かになってしまうのだろうな。

「寂しくなるね」
「刀を打ってもらえたら、またすぐ戻ってくる予定なので。それにしても……リサさん」

ふと、彼の表情から笑みがすっと引いた。赤茶色の瞳が何かを確かめるように細められる。
す、と炭治郎くんが半歩踏み込んでくると、なぜか私の首筋のあたりへと顔を寄せてきた。そして、くんくん、と鼻を鳴らす仕草を見せる。
驚きで私が身をこわばらせていると、彼は顔を上げ不思議そうに首を傾げた。

「ど、どうしたの。炭治郎くん」
「あ、いえ。もしかしてリサさん、昨日か今日、冨岡さんと一緒にいました?」
「…………うん?」

あまりにも脈絡のない名前に、思わずたじろぐ。心臓が縮み上がるのを感じながら、私は炭治郎くんの顔を見つめ返した。
彼が誰かを揶揄ったり、下らない冗談を口にしたりするような子でないことくらい知っている。だからこそ、その言葉を単なる勘違いだと笑い飛ばすことができなかった。

「な、なんで……そう思うの?」

動揺を悟られまいと声を整えたつもりだったが、僅かに震えてしまった。炭治郎くんは純粋に疑問を抱いた表情のまま、私の首元へ視線を戻す。

「リサさんから、冨岡さんの匂いがした気がして。微かですけど……」
「匂い……?」

炭治郎くんの鼻が並外れて利くことは、もちろん知っている。人の感情の揺らぎさえ匂いで嗅ぎ分けるのだと、私の恋心も当てられたくらいだ。
けれど、どうして。昨日は宇髄さんのお屋敷で潰れて、送ってくれたのも宇髄さんのはずなのに。

『すまない。もう、全部やめる』

頭の奥で、霧の向こうに霞んでいた声が、急に輪郭を持ち始める。
夜の冷たい空気。がっしりとした背中の温もり。耳元で落ちた、あの切ない謝罪の響き。
あれは、夢じゃなかった?夢なんかじゃなくて、本当に――。

「あの、リサさん?大丈夫ですか?顔色が、すごく悪いです」

心配そうに覗き込んでくる炭治郎くんの声が、どこか遠くで聞こえていた。
私は反射的に手を伸ばし、アオイさんが貼ってくれた首筋の布を、指先で呆然となぞっていた。




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