72
木々の枝は少しずつ寂しくなり、朝晩は随分と冷え込むようになってきた。掃いても掃いてもきりがない落ち葉は、今朝もまた地面を覆い尽くすように降り積もっている。
秋はもの思う季節だと、昔の人はよく言ったものだ。本当にその通りかもしれない。
日差しが柔らかくなり、吹き抜ける風が肌寒さを帯びてくると、人はどうしてこうも余計なことばかり考えてしまうのだろう。
夏の間はほとんど必要のなかった掃き掃除が、ここ最近は毎日の日課になっていた。
集めた落ち葉を前にして、私はふうと小さく息を吐き出す。両手でしっかりと握った竹箒の柄の頭に、そっと顎を乗せた。
庭の向こうでは、怪我の癒えた隊士たちが木刀を振るい、懸命に鍛錬へ励んでいる。鋭い気合の声と、空気を切り裂く素振りの風切り音。
「はあ……」
今日何度目かのため息だ。何もかもが平和だ。私だけを置き去りにして。
悲しい――そんな感情は、とっくに飛び越えた。痛みも、絶望も、時間が経つにつれて輪郭を失って、今はもう、ただひたすらに虚しいだけだ。
あの夜のことが、本当にあったことなのか、それとも酔った私が見た都合のいい夢だったのか。正直なところ、もうどちらでもよかった。
仮に夢だったとしても、彼の温もりを幻視してしまうほど自分が浅ましかったというだけの話だし、もしも現実だったとしたら、彼は私に二度と消えないような痕を残して、その上で「全部やめる」と背を向けたのだ。
どちらに転んだところで、救いなどありはしない。答え合わせをしたところで、彼が私を受け入れてくれる未来が訪れるわけでもない。
「リサさーん!」
その時、屋敷の縁側のほうから声が聞こえてくる。顔を上げれば、袖をまくり上げたアオイさんがこちらへ向かって手を振っていた。
「そろそろお昼の支度をお願いしたいんですけど、手伝ってもらえますかー?」
「はーい!すぐ行きます!」
箒を片付け、駆け出す。吹き抜ける風に背中を押されながら、私はいつもの日常へと足を踏み出していった。
*
「……あ」
「あ」
町で買い物籠を腕に下げ、人混みを縫うように歩いていた時だった。すれ違いざま、正面から歩いてきた女性とばっちり視線が合う。
雑踏の中でも目を見張るほどの綺麗な容姿。忘れるわけがない。できれば、二度と会いたくなかった相手だ。気まずさとばつの悪さで思わず視線を彷徨わせる。
けれど、なんとなくこのまま無視をして通り過ぎるのも違うなと、私は足を止めてしまった。向こうも一応、立ち止まってはくれたみたいだ。
「その……お元気、ですか……」
絞り出すように口にした途端、フエコさんは眉を顰め、心底呆れたような目を向けた。
出だしを間違えたのだと瞬時に悟る。けれど、久しぶりに顔を合わせた相手にかける言葉として、これ以上に何があると言うんだ。
「その……お芝居、大人気みたいですね……」
「……」
「変わらず、お綺麗で……」
「……」
何を言っても、何の返答もない。冷ややかな視線が、私の頭の先から買い物籠までを撫でていくだけ。
話す気がないのなら、いっそ無視をして立ち去ってくれたらいいのに。
「……あなた」
「は、はい」
ようやく口を開く気になってくれたらしい。沈黙のから解放された安堵と、これから何を言われるのかという緊張が同時に押し寄せて、喉が引き攣る。
「最近、冨岡様のお屋敷には行ってないみたいね」
「えっと……その、はい……」
「ようやく、身の程が分かったのかしら」
投げられた言葉に、思わず乾いた苦笑が漏れた。相変わらずの言い回しだ。棘だらけで容赦がない。けれど、かつてのように胸を抉られるような痛みはなかった。
図星だからだろうか。あの人にとっての私は、最初から保護すべき子供の域を出ていなかったのだから、何も言い返せない自分がいる。
「……フエコさんは、その、どうですか」
「上手くいっていたら、こんなところであなたと話なんてしてないわよ」
「そう、ですよね……」
「そうですね?」
「あっ、いえ!そういう意味じゃなくて!」
まずい、完全に地雷を踏み抜いた。慌てて両手を振って弁解する私を、フエコさんはすっと目を細めて見下ろした。
怒鳴られるか、あるいはこのまま睨み倒されるのではないかと身構えたけれど、彼女の口から出たのは深い深いため息だった。
「……はぁ。もういいわ、みっともない」
呆れ果てたように吐き捨てると、フエコさんは私の腕をきゅっと掴んだ。
「立ち話で恥を晒す気もないわ。お茶代くらい出しなさいよ」
「えっ、あ、ちょっ……」
戸惑う私の返事など待たず、彼女は高いブーツの音を鳴らして歩き出す。
引きずられるようにして連れてこられたのは、大通りから一本入ったところにある、見るからに敷居の高そうな茶屋だった。上品な格子戸をくぐり、中庭の見える奥の座敷へと通される。
促されるがまま、黒塗りの丸机を挟んで向かい合って座らされた。
いったい何、この状況は。
フエコさんは品書きを一瞥するや否や、給仕の女性に慣れた様子で注文を告げた。私は膝の上で買い物籠を抱えたまま、小さく縮こまってそれを見守るしかない。
夕餉の支度がある。葱も豆腐もまだ買えていない。一刻も早く逃げ帰りたいのに、目の前の美貌と迫力に呑まれ、席を立つ勇気すら湧かない。
「――まったく、やってられないわ」
運ばれてきたお冷に一口もつけないまま、フエコさんが吐き捨てるように言った。
「あの男、石地蔵か何かじゃないの?せっかく手料理を届けても『不要だ』の一言。文を送ったところで返事一つ寄こさない」
「は、あ……」
「私に靡かない男なんて、生まれてこのかた初めてよ。面目丸つぶれだわ」
もしかして私は今、彼女の失恋話を聞かされているのだろうか。かつて恋敵として牽制し合っていた相手に、わざわざ高価なお茶を囲んでまで愚痴を零す意味が分からない。
けれど、怒りを滲ませながらも、その口調はどこか毒気が抜けて聞こえた。以前町で鉢合わせた時の、あの剥き出しの敵意に比べれば、ずいぶんと棘が小さくなったように感じる。彼女も私と同じように彼の拒絶をまともに喰らって、すっかり熱が冷めてしまったのだろうか。
そこへ店員がやって来て、湯気の立つ湯呑みと草餅を卓に並べた。フエコさんは竹串を手に取ると、こちらへ流し目を向けてくる。
「何よ。人がこれだけ無下な扱いを受けたって話をしているのに、気味の悪い顔で黙りこくって。何か言いたいことでもあるわけ?」
…いや。毒気が抜けたなんて、とんでもない思い違いだった。少しでも気を抜けば容赦なく噛みついてくるあたり、やっぱりこの人は苦手だ。
「……いえ。フエコさんでも、駄目だったんだなと思って」
おそるおそる口にすると、フエコさんは竹串を止め眉をピクリと跳ね上げた。
「何よそれ。私が振られるはずがないって、慰めてるつもり?」
「違います、そうじゃなくて……フエコさんはとても綺麗で華やかですし、誰が見ても目を奪われるような方ですから。そんな人でも届かないなら、あの人は本当に誰のことも受け入れる気がないんだなって」
誰に対しても平等に、厚く冷たい氷の壁を張り巡らせている。
私だけが特別に突き放されたわけではないという安堵と、だからこそあの心の奥底には誰も触れられないのだという切なさが、胸をちくりと刺す。
「当たり前じゃない。私が駄目だったんだから、他の女なんて論外よ」
ふんと鼻を鳴らしたフエコさんは、草餅を一口かじるとじっと私を見据えた。舞台の上で培われた鋭い観察眼が、私の顔をじりじりと射抜く。
「……で?あなたも彼の屋敷に通わなくなったってことは、何かあったんでしょ」
「えっ……」
「とぼけないでよ。あれだけ熱心について回っていたのに、ここ最近まったく姿を見ないじゃないの」
「その……ただ、身を引いただけです」
曖昧に言葉を濁し、私は視線を卓の上の木目に落とした。
けれど、そんな誤魔化しが、人の感情を演じる女優に通じるはずもなかった。フエコさんは目を細め、乾いた笑みを漏らす。
「へえ、振られたのね。それもそうね」
この人の辞書には、遠慮という言葉が存在しないらしい。
「ま、いい面の皮よね。私たち」
「……フエコさん」
「私ほどの女でも落とせなくて、あなたみたいな一途な娘でも踏み込めない。あの男、心なんて最初から持ってないんじゃないの?」
「……私はいいですけど、冨岡さんのことは悪く言わないでください」
思わず口をついて出た言葉に、フエコさんは驚いたように目を見開いた。
まさか反論されるとは思っていなかったのだろう。伏目がちな瞳が丸くなり、私を凝視する。
けれど、気まずい沈黙はほんの一瞬だった。フエコさんはすぐにいつもの不遜な笑みを口元に戻すと、ふんと鼻を鳴らした。
「……何よ。振られた女の悪態に決まってるじゃない。本当に、冗談の通じない子ね」
「すみません……」
「あなた、すぐ謝る癖直したほうがいいわよ」
「すみま……、」
「また言おうとしたでしょう」
「いえ、言ってません」
口元を手で押さえて言葉を呑み込むと、フエコさんは少しだけ可笑しそうに笑った。
…笑顔は、とても可愛らしい。それを見せていたら、彼でも少しは靡いたかも。
容赦のない言葉ばかりを投げてくるくせに、不思議と憎めない。このやり取りのおかげで、掻き乱された心が少しだけ軽くなっているような気さえする。
「何よ、人の顔じろじろ見て」
「あ、いえ……真顔は綺麗なのに、笑うと可愛らしいんだなと思って」
正直に口にすると、フエコさんは虚を突かれたように目を見張り、頬を薄く染めた。けれど、すぐに咳払いをひとつして、何事もなかったかのように顎を引く。
「ま、いい勉強になったわ。男なんて他にいくらでもいるしね」
堂々と胸を張る彼女の眩しさに、小さく見惚れてしまう。傷ついても、プライドを折られても、この人は決して立ち止まらない。前を向いて歩いていく力がある。
「で、どうするの。あなたはまだ、あの石地蔵に未練たらたらなわけ?」
「私は……もう、あそこへ行くこともありませんから」
もう会えない。関わることもできない。そうやって自分に言い聞かせることだけが、今の私を辛うじて立たせている。
「……こんなこと言うの、すごく癪なんだけど」
私が下を向いてぎゅっと唇を噛んでいると、フエコさんが湯呑みを卓に置き、腕を組んで私を見据えてきた。
「実際はどうなわけ。私は吹っ切れたけれど、あなたのは本音なのか、それとも――建前なのか」
そう言って、彼女は僅かに首を傾げる。冷え切った湯呑みにもう一度視線を落とし、私は黙り込んだ。
本音なのか、建前なのか。そう問われたなら、答えは建前だ。
諦められるはずがない。忘れられるはずもない。心の中にはいつだって彼の姿があって、あの夜の痛いほどの温もりが、へばりついて離れないのだから。
けれど、そんな未練を本音だと認めてしまったら、私はもう二度と息ができなくなってしまう。建前を使って平気な顔をして日常をこなすことしか、自分を守る術を知らない。
「……諦めるのが、一番正しいんです」
私の回答に、フエコさんは何も言わず、ただじっと見つめてくるだけだった。どこか責められているようなその息苦しさに耐えきれず、私は急くように言葉を重ねる。
「だって、フエコさん、前に言ってくれましたよね。冨岡さんは誰にでも優しいって。でも、その優しさを自分に向けられた特別なものだって勘違いしているなら、あまりにも滑稽だって」
そう述べた途端、フエコさんが目を見開いた。
自分が投げたはずの棘を、そのまま大事に胸に抱え込んでいた私に言葉を失ったのかもしれない。
けれど、本当にその通りなのだ。あの人は優しい。底抜けに不器用で、誤解されやすくて、それでも誰よりも情が深い。その瞳を見れば分かる。触れられれば、もっとわかる。
「それ、は……」
「私のこと、心配してくれたんですよね?」
フエコさんの言葉を遮るように、私は無理やり口角を持ち上げて笑ってみせた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。本当に、大丈夫ですから」
ちゃんと、身の程はわきまえてるよ。
彼の優しさに甘えて寄りかかろうとした罰は、もう十分に受けた。だから、もう二度と勘違いなんてしない。二度と彼の重荷にはならない。
自分を納得させるように、膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。白くなるほど力を込める私を、フエコさんはどこか痛々しい目で見つめていた。
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