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それから数日のうちに、炭治郎くんが里へ行く許可を得るための鴉が飛び、驚くほど早くお館様からの許しが降りた。
どこへ行くにも、まずはその方に伺いを立てなければならないらしい。鬼を斬るための組織だから、もっと殺伐とした実力主義の世界なのかと思っていたけれど、意外にも決まり事が多くて驚いてしまう。
顔も知らない、どんな声かも想像がつかないその人は、この広い屋敷の誰もが、名前を口にするだけで居住まいを正すような存在だ。炭治郎くんのような一隊士の行動まで把握して決断を下すなんて、なんだか気が遠くなるような話だけど、それだけ一人ひとりをちゃんと見ているということなのかもしれない。

「では皆さん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい〜!」

里への出発の朝、三人娘と一緒に炭治郎くんを門の前で見送った。
彼は禰󠄀豆子ちゃんの入った箱を背負い、清々しい笑顔で手を振り去って行く。その背中には迷いはない。
また一段と静かになった蝶屋敷の空を見上げると、秋の雲がゆっくりと流れていた。炭治郎くんが新しい刀と共に、無事に戻ってくることを。そして、この平穏な時間が、彼らが帰る場所としてあり続けることを私は心から願った。








「……一雨、来そうですね」

物干し場で敷布を広げていたアオイさんが、ふいに手を止めて北の空を見上げた。私もつられて顔を上げると、先ほどまで透き通るような秋晴れだったはずの空に、いつの間にか重苦しい鼠色の雲が低く垂れ込めている。風も、湿り気を帯びてひんやりとした匂いに変わっていた。
炭治郎くんが里へ向かってから、今日で五日。しのぶさんのいない蝶屋敷は、驚くほど静かに、けれど確実に時を刻んでいる。
ぽつり、ぽつりと運び込まれてくる隊士の看病や、怪我の経過観察、日々の診察…。しのぶさんの代わりを一身に引き受けているアオイさんは、ここ数日、まともに座る暇もないほど忙しそうだ。
最近薬学を学び始めたカナヲさんも、今は任務に出突っ張りで不在。屋敷を守る柱が一人欠けるだけで、残された者たちの肩にかかる重圧はこれほどまでに変わるのかと、私は自分の無力さを噛み締めながら彼女の背中を見守ることしかできなかった。

「早めに洗濯物を取り入れちゃいますね。これ、乾いている分から籠にまとめちゃいます」
「ありがとうございます、リサさん。助かります……本当は、お昼過ぎまで干しておきたかったんですけど」

アオイさんは少し焦ったように敷布を畳みながら、眉の間に寄った皺を深くした。

「それに、困りました…。今日中に薬屋へ行って、すり潰した薬草を補填する成分を買い足したかったのに。この空模様じゃ、間に合いそうにないですね……」

手元の作業を続けながらも、彼女の視線は何度も屋敷の奥――薬を待つ患者たちのいる方へと向いている。責任感の強い彼女のことだ、薬が切れることへの不安が手に取るように伝わってきた。

「あ、じゃあ私が行ってきましょうか?いつもの、町外れにある薬屋さんですよね?」

私の提案に、アオイさんは驚いたように顔を上げた。

「そうですけど……でも……」
「大丈夫ですよ、すぐそこですもん。傘も一応持って行きますし、本降りになる前には帰って来ます。それに、もし降ったとしても、雨宿りできる場所もたくさんありますから」

私は努めて明るく笑ってみせた。
いつもアオイさんや三人娘たちに守られてばかりの私だ。しのぶさんの言いつけは気にかかるけれど、これ以上、目の前で身を削るように働く彼女に無理をさせたくなかった。
アオイさんはしばらくの間、畳みかけの敷布を握ったまま激しい葛藤を繰り返しているようだった。けれど、薬箱の在庫状況と外の空を天秤にかけ、最後には観念したように小さく息を吐いた。

「……じゃあ、お願いしてもいい?」

申し訳なさそうに、自信なさげに言うアオイさんに、私は思わず笑ってしまいながら大きく頷いた。





アオイさんから買い物目録と銭を受け取ると、私は足早に屋敷を後にした。今はまだ昼間だけれど、雲のせいで辺りは薄暗く、冷たい。私は着物の合わせ目を少しだけ強く握りしめ、雨が本格的に降り始める前に町へと急いだ。
町外れにある薬屋へ辿り着いた頃には、空はいよいよ泣き出しそうな色に染まっていた。薬屋の引き戸を開けると乾燥した薬草の独特な香りが鼻をくすぐる。

「…こ、こんにちは。藤堂さん、いらっしゃいますか?」

恐る恐る声をかけると、奥から眼鏡をずらした店主の藤堂さんが顔をほころばせて出てきた。

「おや、蝶屋敷のリサさんじゃないか。こんな空模様の中、ご苦労さまだね。アオイちゃんは元気にしてるかい?」
「はい。今日はそのアオイさんに頼まれて、薬草の補填に来たんです」

私がアオイさんから預かった目録を差し出すと、藤堂さんは「どれどれ」と受け取り、慣れた手つきで棚から包みを取り出し始めた。
ここ、藤堂さんの薬屋には、蝶屋敷に身を寄せてから何度も足を運んでいる。
当初は薬の名前一つ覚えるのも必死だったけれど、今では「いつもの」で通じるものも増えた。しのぶさんやアオイさんの厳しいチェックを潜り抜ける品質の薬草を揃えているのは、町広しといえど、この実直な藤堂さんの店くらいなのだ。
薬の専門的な話だけでなく、町で流行っているお菓子のことや、季節の移ろいについて何気ない会話を交わす。

「ほう、今回はこの薬草かい。…最近はまた少し、物騒な噂も聞くからね。怪我人が増えているのかい?」
「そうですね……。でも、みんな一生懸命頑張っていますよ」

藤堂さんの問いに答えながら、ふとしのぶさんの不在を思い出す。主が不在の屋敷を守るというのは、私が想像する以上に、孤独で神経を削る作業なのかもしれない。

「感心だねぇ。アオイちゃんは、本当にあそこの屋敷を支えている立派な看板娘だ」
「はい。本当にそう思います」
「……そうそう、これを少し持っていきな。健康にいい煎じ薬だよ。しのぶさんや皆で飲んでおくれ」
「わあ、いいんですか!ありがとうございます!しのぶさんは今、少し遠出をされているので、帰ってきたらきっと喜びます」

藤堂さんの心遣いが、冷え込んできた身体にじんわりと染み渡る。
店内に漂う、乾燥した百合根や甘草の、どこか甘酸っぱい香りに包まれていると、外の不穏な空模様さえ一瞬忘れてしまいそうになる。
けれど、そんな他愛ない世間話を交わしている最中、いつの間にか外からパラパラ…と屋根を叩く乾いた音が聞こえ始めた。

「あ、雨……」

私が戸の外に目を向けると、藤堂さんも眼鏡を指で押し上げながら外の様子を伺った。

「これはすぐに止むような雨じゃなさそうだね。リサさん、傘は持っているかい?」
「はい。でも、これだけ降ってると視界が悪くなりそうですね……」

外はみるみるうちに白く霞み、軒先から滴る水音が激しさを増していく。
アオイさんが待っている。早く帰らなければという焦燥感はあるものの、この雨の中を駆け抜ける勇気がなかなか出ずに立ち尽くしていると、藤堂さんが棚の整理をしながら世間話の続きのように問いかけてきた。

「…そういえば。さっき、しのぶさんが遠出してるって言ってたけどいつ頃戻られるんだい?蝶屋敷もさぞかし心細いだろう」
「一週間の予定です。今日で五日目ですから、あと二、三日というところでしょうか」
「…ほう、あと数日か。…それはアオイちゃんも大変だ。今は屋敷に、他に腕の立つ隊士は残っているのかい」
「いえ、今は療養中の隊士の方々と私たちだけなんです」
「おや、それはますます物騒だ。女の子たちだけで屋敷を守るのは骨が折れるねぇ。……カナヲちゃんはどうだい?彼女なら頼りになるだろう」

藤堂さんは親身になって心配してくれる。その優しい問いかけに、私はついつい「そうなんです、カナヲさんも任務で不在で……」と、屋敷の現状を詳しく話してしまった。
本当なら、しのぶさんに「屋敷の内情をあまり外で話してはいけませんよ」と窘められる内容かもしれない。けれど、何度も顔を合わせ、私たちのことまで気遣ってくれる藤堂さん相手に、そこまで警戒する必要はないだろうという甘えが心の中にあった。
藤堂さんはカウンター越しに温和な笑みを浮かべ、手際よく薬を包み直している。
いつの間にか外の雨脚は強まり、風が格子戸をガタガタと揺らしていた。帰らなければ、と頭の片隅では分かっているのだけれど、藤堂さんの優しい声と、店内に満ちる薬草の香りが、雨の日の寂しさをそっと包み込んでくれるようで、ついつい長居をしてしまう。

「せっかく立ち寄ってくれたんだ。雨脚が少し落ち着くまで、ゆっくりしていきなさい。ちょうど今、体を温めるのにいいお茶が入ったところなんだよ。薬草の調合を待つ間、飲んで待っておきな」
「えっ……でも……」
「いいんだよ。こんな雨の中を無理に走って、あなたが風邪でも引いたらそれこそアオイちゃんに叱られてしまいそうだ」

藤堂さんの穏やかで、包み込むような声。私の心に、その言葉は甘い誘惑のように響いた。
確かに、温かいお茶の一杯くらいならすぐに帰れば大丈夫だろう。

「……すみません。お言葉に甘えてもいいですか?」
「そうこなくっちゃ。さあ、こちらへ。火鉢の近くが暖かいよ」

藤堂さんは店の奥にある小上がりを指差し、湯気の立つ茶碗を運んできた。
雨の音が次第に激しさを増し、外の世界が灰色のカーテンに包まれていく。私は藤堂さんと雨の日の思い出や、次の季節の楽しみについてポツリポツリと言葉を交わした。

「このお茶、少し独特な香りがしますね。でも、なんだかすごく落ち着く……」
「あぁ、私の秘伝の配合さ。疲れている人には特によく効くんだよ」

藤堂さんの温和な微笑みに見守られながら、私は二口、三口とお茶を啜った。
喉を通る熱が心地よくて、緊張していた身体がふわりと軽くなっていく。
でも。なんだろう。なんだか、急に……。さっきまでの肌寒さが嘘のように、体がぽかぽかと熱を帯び始めた。それと同時に、瞼が驚くほど重くなる。
藤堂さんの声が、雨の音と混ざり合って、遠い子守唄のように聞こえてくる。

「……藤堂、さん。なんだか、すごく……眠くなって……しまって……」
「あぁ、いいんだよ。ゆっくりおやすみなさい。目が覚める頃には、雨も止んでいるだろうからね」

眼鏡の奥の瞳が、いつになく優しく細められた。
私はその微笑みを最後に、抗いようのない深い闇の中へと、ゆっくりと沈んでいった。



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