73


屋敷の裏庭の薪棚から、炊事用の薪を数本腕に抱え上げる。ずっしりとした木の重みに、思わず身体が小さくふらついた。
今日はお風呂を沸かす分も合わせて、あと二往復はしないといけない。夕餉の仕込みに火の管理。日が暮れる前に終わらせたいことは山積みだ。
日が落ちるのが本当に早くなった。ちょっと油断しているとあっという間に薄暗くなるから、買い出しも手早く済ませて戻ってこなければならない。

「ね、にゃー吉。君にも手伝ってもらえると有り難いんだけど」

足元にすり寄ってきた白い頭を見下ろし、苦笑交じりに声をかける。
草むらからひょっこり顔を出した居候猫は、私の足首に身体を擦り付けながら、間の抜けた声で「にゃあ」と喉を鳴らした。もちろん手伝ってくれるはずもないけれど、返事をしてくれただけで自然と頬が緩む。
猫の手も借りたいほど慌ただしいのは確かだけれど、苦痛どころかむしろ気合いが入っていた。今朝、アオイさんに「随分と手際が良くなったんじゃないですか」と珍しく褒められたのが、思った以上に効いているらしい。あんな風に言われたら、張り切らないわけにはいかない。
さっそく薪を台所へ運ぼうと縁側へ向けて歩き出したその時、頭上でパサパサと、頼りない羽音が響いた。

「ヨッコイセッ」

それとほぼ同時、縁側に黒い影が舞い降る。また鎹鴉から誰かへのお手紙かな、と思って顔を上げた私は思わず目を瞬かせた。
艶を失って少し乱れた黒い羽。細められた瞳と、おじいさんのように覚束ない足取り。
もしかして、と視線を送っていると、その鴉は首を傾げ、ちろりとこちらを見つめてきた。

「……寛三郎さんですか?」
「カァ……オォ、リサカ」

やっぱりそうだ。また顔を合わせられるなんて。
久しぶりに会えたことが純粋に嬉しくて、私は腕で薪を抱え直し、縁側へと小走りで駆け寄る。

「お久しぶりです!お元気でしたか?」

怪我ひとつなく無事に飛んでいる姿を見られただけで、どうしてだか泣きそうなくらい安堵してしまう。
寛三郎さんは羽を震わせて一度小さく身震いすると、板張りの上をちょこちょこと不器用に歩いた。

「元気、元気ジャ」
「よかった」
「リサハ、ドウジャ。元気カ?」
「はい、私も元気ですよ。毎日忙しくしてます」
「ソウカ、ソウカ」

寛三郎さんは満足そうに小さく喉を鳴らす。
さっきまで足首にすり寄っていたにゃー吉が、寛三郎さんに飛びかかろうとしているのを見かけて、私はその胴体に慌てて腕を滑り込ませて抱え上げた。

「だめだよ、にゃー吉。失礼でしょ」

腕の中で不満げに身をよじる重みをぎゅっと抱え込み、抱えていた薪を板間へ下ろす。
そのまま私も、にゃー吉を膝に乗せた格好で縁側の端に腰を下ろした。寛三郎さんはまったく気にも留めていない様子で、器用に首を動かして羽繕いを始めている。

「そうだ、寛三郎さん。その……冨岡さんはお元気ですか?」
「義勇カ?アノ子ナラ、元気ニシトル」
「そうですか。良かった」

元気なら、それでいい。こうして近況を聞くだけでほっとしている自分がいる。

「義勇ニ、何カ伝言カ?」
「い、いえ……!全然!何もないです!それより、寛三郎さんはどうしてこちらに?」
「手紙ヲ、届ケニ来タゾ」

寛三郎さんはそう言って、板張りの上で片足を持ち上げてみせる。その細い足首に、小さな紙が括りつけられているのを見て私は息を呑んだ。

「だ、誰に……ですか?」

どくどくと心臓が嫌にうるさい。頭では分かっているのに、差し出されたその小さな足元から、どうしても目が離せない。

「しのぶニ、ジャ」

…うん。ほら、やっぱりそうだ。
良かった。変な期待をして、勝手に舞い上がってしまわなくて。ちゃんと現実を見れている自分に安堵する。

「珍しい、ですね。冨岡さんからお手紙なんて」
「ドウヤラ、急ギのヨウジャ」
「急ぎ……?」

その言葉に、余計な感傷が一気に吹き飛ぶ。

「それなら、すぐにしのぶさんに渡さないと。たぶん、もうすぐ任務に出てしまいます。案内しましょうか?」
「イヤ、お前サンが渡シテオクレ」
「えっ」

思いがけない言葉に、思わず目を瞬かせた。

「私が……預かってもいいんですか?大切なお手紙なのに」

任務に関わる大事な書状かもしれない。私が、柱同士の重要なやり取りに手を触れていいはずがない。
戸惑いを隠せない私を、寛三郎さんは白濁した瞳で見上げた。その細い首をゆっくりと傾げ、柔らかな声で喉を鳴らす。

「お前サンなら、安心ジャカラノウ。義勇モ、お前サンを信頼シテル。イツモ気にカケテオルヨ」

風に揺れる木々の音だけが裏庭に落ちる。
息が止まりそうだった。もう遠ざかったはずの人の温もりに、触れてしまったような気がした。なんだか少し、泣きそうになった。





***




「しのぶさん、しのぶさん!」

任務へ向かうため、羽織を揺らしながら日の沈みゆく廊下を歩いていた。
煉獄さんが亡くなり、宇髄さんが柱を引退してからというもの、屋敷も隊全体も、目に見えて慌ただしさが増している。
欠けた大輪の穴を埋めるのは容易じゃない。私を含め、残された柱たちに割り振られる任務の密度も明らかに跳ね上がっていた。
上弦の鬼を倒したという吉報の裏で、着実に次の嵐が近づいているのが分かる。いつ誰が欠けてもおかしくない。そんな切迫感を、常に感じてしまう。

「あら、リサさん。どうしたんですか?」

その静けさを破るように、背後から小走りの足音が追ってきた。足を止めて振り返ると、胸元を押さえて少しだけ肩で息をするリサさんが、私の前で立ち止まる。

「良かった、まだいらっしゃって。冨岡さんからしのぶさんにお手紙です。鴉の寛三郎さんが、私に託してくれて」
「冨岡さんが?」

差し出された小さな紙片を受け取りながら、私は思わず彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。

「急ぎみたいで。しのぶさんが任務に行かれる前に間に合って良かったです」

そう言って、彼女はふわりといつものように笑う。
そこに翳りや動揺は欠片も見当たらない。まるでただ、道端で拾った落とし物を届けてくれたみたいに。

どうして、そんなふうに笑えるのだろう。
ふと、あの花火の夜、雨に打たれてずぶ濡れのまま屋敷に戻ってきた時の姿が脳裏をよぎる。芯まで冷え切った身体で、彼女は「なんでもありません」と笑ってみせたのだ。
何か決定的なことがあったのは確かなのに。

あそこまでお膳立てしてあげたのだから、少しでも進展がなければ許さないつもりだった。
いくら冨岡さんでも、あの誘いにどんな意図を込めていたのかくらい、察していたはずだ。
途中で降り出してきた雨に、花火は上がらないんじゃないかとアオイが心配していたけれど、まあそれならそれでいい、雨宿りで足止めになって一緒に過ごす時間が延びるなら好都合だとすら思っていたのだ。
それなのに、玄関の戸が開いたかと思えば、目の前に現れたのはずぶ濡れで震える彼女だった。
あの時の驚きと呆れは、到底言葉にできるものじゃない。

屋敷に送り届けろとは言ったものの、女性を雨に濡らして帰すなんて、あの男は一体どういうつもりなのか。どれほど言葉足らずで不器用だとしても、限度というものがある。
ただ、本人が話したがらない以上、それ以上追及することも出来ず。それ以来、彼女は冨岡さんのお屋敷へ行くのをすっかりやめてしまった。
言葉を尽くすことを放棄してしまうあの男と、踏み込むことを恐れて身を引いてしまう彼女。
噛み合わないまま擦れ違ってしまったふたつの不器用さは、救いようがないほどに似た者同士だった。

「わざわざありがとうございます。そんなに走ってまで」

大丈夫だと自分に言い聞かせるように微笑み、気丈に振る舞うことでしか、崩れ落ちそうな心を辛うじて繋ぎ止められないのだろう。
これ以上誰にも心配をかけず、彼への断ち切れない想いに蓋をして生きていくためには、そうやって笑って見せる以外に術がないのだ。

手にした紙片を、見つめる。
まったく、どういうつもりなのか。自ら距離を置かせたはずの男が、どうして今更彼女を介して手紙など寄越すのか。
そんな憤りを押し隠しながら、小さく折り畳まれた紙を広げた。
急ぎの要件、という建前の下で、今更何を書き連ねてきたというのか。冷ややかな疑念を抱いたまま、走り書きされた墨に視線を落とす。
そこに並んでいた短い数行の文面を目にした瞬間、私の息が止まった。

「しのぶさん?」

表情を強張らせた私を心配するように、彼女が小首を傾げた。
その純粋な瞳に射抜かれ、私は咄嗟に口角を引き上げる。

「いえ、何でもありませんよ」

何気ない調子を装いながら、手にした紙片を指先で折り畳んだ。
心臓が激しく波打っていた。動揺を押し隠し、探るように言葉を落とす。

「……リサさん、この手紙の内容は見ましたか?」
「えっ?い、いえ!見ていません!柱同士の大切なお手紙を、私が勝手に盗み見るなんてそんな……!」

勢いよく両手を振って否定する姿に、やましいところなど微塵もない。
そうですよね、と小さく息を吐き出す。

「あの……何か、良くないことでも書かれていたんですか?」

私の顔色の微細な変化を察したのか、彼女はおずおずと眉を下げて尋ねてきた。自分を責めるようなその怯えを払うように、私はわざと大袈裟に肩をすくめてみせる。

「何でもありませんよ。ただ、前に処方した傷薬をもう切らしただなんて言うから、呆れて腹を立てていただけです」
「えっ、お薬をですか?」
「ええ。どれだけ無駄に使えばそんな早さで無くなるのでしょうね。まったく、手のかかる人です。また新しく調合しなければなりませんね」

呆れた風を装って吐き捨てると、彼女は「そうだったんですね」と安堵したように胸を撫で下ろした。
少々、まずいことになった。今すぐに何かが起きるわけではないし、直接こちらに火の粉が降りかかるような事態でもない。
けれど、この手紙に書かれた事実が意味するものは、少し厄介だった。
何も知らずに胸を撫で下ろしている彼女を見つめ、私は小さく息を吸い込む。

「そろそろ、任務に向かいますね。リサさんもあまり無理をしたらいけませんよ」

笑いかけながら、紙片を懐の奥深くへ滑り込ませる。
これ以上ここに立ち止まって、彼女に余計な勘繰りをさせるわけにはいかないと踵を返し、足早に廊下を踏み出した。

「あ、ま、待ってください!門の前までお見送りします!」
「ふふ、本当ですか?ありがとうございます」

ぱたぱたと続くその気遣わしげな音を聞きながら、私は薄暗い廊下の先を睨み据えるように目を細めていた。





***





門の前に出ると、冷え始めた夕暮れの風がすっと頬を撫でた。
屋敷の玄関先には、すでにアオイさんやカナヲさん、きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんの姿が揃っている。しのぶさんが任務へ出る時は、誰が号令をかけるでもなく、自然とこうしてみんなで集まるのがいつもの流れだった。

「毎度毎度、そんなに改まらなくていいのに。ただの任務ですよ」

羽織を揺らしながら歩み出たしのぶさんが、困ったように眉を下げて笑う。
けれど、三人娘は納得がいかない様子で駆け寄り、しのぶさんの両手を代わる代わる引っ張るようにして取り囲んだ。

「そんなわけにはいきません!」
「無事に帰ってきていただくための、大事なお見送りなんです!」
「しのぶ様、無理だけは絶対になさらないでくださいね」

口々に声を張り上げ、小さな手でしのぶさんをぎゅっと握りしめている。
柱として戦いに出る彼女を送り出す時の、引き留めたいような、けれど信じて送り出さなければならないような、彼女たちなりの必死な甘え方なのだろう。
その隣で、カナヲさんも視線を落としながら、しのぶさんの無事を祈るように小さく頷いている。

「気をつけて行ってらしてください、しのぶ様」
「お気をつけて!」
「ご無運を!」

重なる声の温もりに、しのぶさんは優しく目を細めて「はい、ありがとうございます」と頷いた。

「しのぶさん、気をつけてくださいね」

私の言葉にも、しのぶさんは視線をこちらへ戻し柔らかく目を細めてくれた。

「はい。行ってきますね。……そうだ、アオイ。少しよろしいですか」
「はい、何でしょう?」

手招きされたアオイさんが、小走りでしのぶさんの傍へと歩み寄る。
しのぶさんは僅かに身を屈め、アオイさんの耳元へ唇を寄せて何かを囁く。すると、アオイさんの瞳が一瞬大きく見開かれ、すぐに何かを察したように引き締まった表情に変わると、力強く一度頷いてみせた。
なんだろう、と一瞬だけ首を傾げたものの、任務に関わることなら私が首を突っ込むような話でもない。もしかしたら、さっき言っていた冨岡さんの薬の件の話をしているのかも知れない。そのままみんなと一緒に見守る。

「では、皆さん。行ってきますね」

アオイさんとの会話を終えると、しのぶさんはそう言い残し、門を抜けて任務の地へと足早に向かっていった。





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