76


雨上がりの夜道を、一人で歩いていた。
見回りは終わった。異常もない。濡れた地面を踏みしめる自分の足音だけが、暗がりの中で響いている。
…随分と、静かな夜だ。いつもなら、このまま近くの藤の家紋の屋敷へ向かうところだ。が、どうにも腹の底が据わらなかった。

町へ暴漢共が放たれたと知ったのは、いつも屋敷の管理を任せている隠からだった。
不可解な釈放だった。現行犯で突き出したはずの連中が、なぜもう野にいるのか。
だが、知らせを聞いてすぐに手は打った。胡蝶へ鴉で文を飛ばした。あの男共が外に出ていること、それだけを伝えれば胡蝶なら察する。

それなのに、何が引っかかる?刀の柄を押さえながら道を進む。
暴漢共の狙いが以前の報復だとしても、屋敷から出なければ手出しはできない。彼女自身が不用意に外へ出ず、警戒を怠らなければいいだけの話だ。その間に、もう一度こちらで片をつけておけばいい。

「……いや」

そこまで考えて、己の足を止めた。
…警戒する?彼女が?あの、危機感の欠片もない彼女が?少し目を離せば何をしでかすのか分からない娘が、か?
いや、無理だろう。と、今までの数々の不用心極まりない姿が脳裏をよぎったのだ。

引っかかっていたのは、これか。と踵を返し、蝶屋敷のある方角へ足を向ける。
何を。自ら距離を置いておいて。今更、どの面を下げて行くつもりなのか。
いや、屋敷の中に入る気はない。姿を見せる必要もないし、言葉を交わす気もない。ただ、無事でいることさえ分かれば、そのまま立ち去れば済む話だと思っていた。





蝶屋敷の門前にたどり着くと、なぜか屋敷中が騒然としていた。玄関先で、複数の提灯の明かりが揺れている。
得体の知れない嫌な予感が、胃の底を冷たく締めつけた。
俺に気づき、玄関口から駆け寄ってきたのは胡蝶だった。いつもの笑みは消え失せ、冷たく張り詰めた顔をしていた。

「冨岡さん、ちょうど今手紙を送ろうとしていたところなんです」

夕刻前、買い出しに出たきり戻らない。町の薬屋へ向かったはずの高月の行方が、今も分かっていないと。
それが、胡蝶から聞かされた話だった。

「今、動ける隊士たちにも町を手分けして探してもらっています。彼女が最後に立ち寄った、贔屓にしている薬屋にも尋ねましたが、雨が上がってすぐに店を出たきり姿は見ていないと」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。
胡蝶の背後では、蝶屋敷の娘たちが泣きながら互いの身体を抱き合っていた。その脇からふらりと駆け寄ってきた神崎は、血の気の失った顔のまま頭を下げる。

「私のせいです……私が、買い出しなんか頼まなければ……」

すべての言葉がにわかに信じ難く、聞き間違いかと疑った。
…だから、いつも言っていた。警戒心を持てと。危機感を持てと。お前はあまりに無防備で、脆いのだと。言っていただろう。
いや、今になって彼女を責めるのは筋違いだ。不用心だと分かっていながら、文一つで済ませた己の慢心と怠慢ではないか。
俺は胡蝶へ視線を戻す。

「行方が分からなくなってから、どれくらい経つ」

胡蝶は答えず、唇を一文字に結んだまま黙り込んだ。

「胡蝶」

返答を促すが、それでも胡蝶は口を開かない。

「胡蝶!」

思わず語気を強めて名を呼んだ瞬間、胡蝶の眉が跳ね上がり、鋭く俺を射抜いた。
いつもの貼りついた笑みなどない。剥き出しの憤怒と苛立ちが、その瞳に宿っていた。

「私最初に言いましたよね、冨岡さん」

胡蝶は拳を固く握りしめ、一歩詰め寄るようにして下から俺を睨みつける。

「責任は、ちゃんと自分で持ってくださいと。私へ丸投げして、突き放して……そうやって放り出すのはどうかと思いますって、私あの時言いましたよね!?」

叩きつけられた言葉に、喉が塞がった。
反論などできるはずもない。雪の夜、彼女をこの屋敷へ連れて来た。全てはその通りで、俺が自ら選び、敷いたはずの線だった。

「彼女が、どんな思いでいたか貴方に分かりますか!?」

小柄な肩を震わせながら、普段の冷静さを完全にかなぐり捨てて叫ぶ。

「……泣いてました。私たちの前では絶対に弱音を吐かない彼女が、泣いたんです」

…忘れていた。俺の前ではよく泣くから、我慢強い娘だということを。
人に頼るのが下手で、他人の前では弱音を吐かないのに、瞳に涙を滲ませる姿ばかりを見ていたから、いつしか忘れていた。

「全力で探しますよ。探していますけれど……、今更心配そうな顔をして、どの面下げてここに来たんですか!!いつも、いつも貴方は遅いんですよ!!」

その通りだった。俺は、いつも遅い。
大切な瞬間にいつだって間に合わず、取り返しのつかない事態になってから、ただ立ち尽くすことしかできない。大切だと思った者が傷ついているとき、いつも側にいない。

誰かを懐に入れたくなどない。自分の中に踏み込まれるのも、他人の内側に入り込むのも嫌だった。
大切になってしまえば、今度はそれを守らなければならなくなる。そんなものは、蔦子姉さんや錆兎の時だけでたくさんだった。
そうやって逃げて、遠ざけた気になって、失われてからでは見殺しにしたことと何も変わらないというのに。

『冨岡さんが一番私のこと分かってくれてますよ』

何も分かっていない。俺はお前のことなど、何一つ分かっていない。
そんな薄情な男のどこを見て、お前はあんなふうに笑って言えたのだ。
胸を抉る後悔を、奥歯を噛み締めて力づくでねじ伏せる。立ち止まっている暇など、一瞬たりとも残されていなかった。

「……あとで鴉を送る」

それだけを胡蝶に言い残すと、返事を待たずに地面を蹴った。






薬屋の周辺にもいない。大通りにもいない。路地裏にも、どこにも姿はなかった。
すでに刻は遅く、町はどの店も雨戸を閉ざしていた。探そうにも、彼女が行きそうな場所の当てが何一つとして浮かばない。俺は彼女の行動範囲すら、まともに知らないのだ。
すれ違った隊士に声をかけたが、今のところ手掛かりは何もないと、首振りが返ってくるだけだった。
空を旋回させている寛三郎にも町の捜索を指示してあるが、何の進展も報せてこない。

「……どこだっ、高月」

あの暴漢共の仕業なのか。彼女が他の男の手に堕ちるだなんて、考えただけで吐きそうになる。
彼女の笑顔が好きだ。目が合った時、ふわりと柔らかい笑みを零す様がどうにも忘れられない。
彼女からあの笑顔を奪うものなど、何一つとして許せなかった。
息を切らしてまで守りたい人ができるなど、少し前の自分は想像しただろうか。

再び彼女が最後に立ち寄ったという薬屋の前へと戻って来る。それでも何も手掛かりはなかった。
焦りが、額に汗となって流れる。呼吸を整えながら周囲に視線を走らせていると、道の端に月明かりを弾いて光る何かが目に映った。咄嗟に駆け寄り、濡れた土の上に落ちていたそれを拾い上げる。
手のひらに乗ったのは、桜の形を模した硝子の帯留めだった。

「これは……」

見間違えるはずもない、彼女のものだ。以前、俺が買い与えたものだった。受け取った時、目を丸くして、それから泣きそうなくらい嬉しそうに笑っていた。会うたびに肌身離さず大事にしてくれていたそれを、彼女がこんな場所に放り出すはずがなかった。
薬屋に立ち寄ったのなら、ここに落としたとしても不自然ではない。が、指先で硝子の裏をなぞり、違和感に眉をひそめる。
紐を通すための金具が、不自然にひしゃげていた。自然に抜け落ちたのではない。何かに引っかかったか、力づくで千切られたような壊れ方をしている。
もみ合いになったのか。ここで、誰かに襲われたのか。
いや、それならなぜ、誰も気づかなかった。日が暮れる前、雨が上がったばかりの刻限だ。いくら町外れとはいえ、この店の前で争う物音が立てば、中にいる店主が気づかないはずがない。
思考が急速に一つの線へと結びついていく。

…見つからないわけだ。最後に姿を見たはずの目撃者が、嘘をついているのだから。





***





目を覚ますと、知らない場所にいた。頭の奥がじんわりと痺れていて、身体にうまく力が入らない。
ここはどこだろうと思考を巡らせ、自分が冷たく塵っぽい地面に転がされていることに気づく。辺りは真っ暗で、閉じられた窓の隙間から差し込む月明かりだけが頼りだった。部屋の隅には薪のようなものが積み重なっていて、どこかの納屋か、蔵の中のように見える。
…一体何があったのかと考えて、藤堂さんのお店へ行き、そこでお茶を飲んだことまで思い出して息を呑んだ。
あれを飲んだあと、なぜか突然眠気に襲われて…。そこから先の記憶が、ぷつりと途切れてしまっている。

「誰か、」

と呟いて、背中がぞくりと震えた。
必死に身を起こそうともがくが、手足は痺れ、なぜか指先ひとつ思うように動かせない。床を爪で引っ掻くのがやっとだった。

今、何時だろう。空がここまで暗いということは、あの時からかなりの時間が過ぎているはずだ。いつの間にか雨の音も止んでいる。
帰ってこない私に、蝶屋敷のみんなは気づいているだろうか。
焦ってなんとか身体を起こそうとしたと同時に、ガラガラと音を立てて戸が開かれた。
びくりと肩が跳ね、息を止める。誰かが入ってきたのだと頭では理解できても、視線だけを辛うじてそちらへ向けることしかできなかった。向けられた提灯の眩しさに、目を背ける。

「お、目は覚めているようだな」

どこかで聞き覚えのあるような、ないような声だった。
光に目が顰めていると、戸口に立つ二つの人影がはっきりとしてくる。一人は頭に手拭いを巻き、もう一人は浅色の羽織を羽織った男二人だった。
その顔を捉えた瞬間、過去の記憶と恐怖が一気によみがえって、身体が、全身が、がたがたと震え出した。

「お、俺たちのこと、ちゃんと覚えてくれているみたいだな。嬉しいなあ」

手拭いの男が、乾いた笑いを漏らしながら後ろの戸を閉める。

「あの時、痛い目見せてくれたあの青い目の侍野郎は今どこで何してんだ?また助けに来てくれるといいなァ」

どうして。なぜ彼らがここにいるの。
しのぶさんによれば、警官に突き出され、捕まったのではなかったのか。なぜ、当たり前のような顔をしてそこにいるの。

「藤堂の旦那には感謝しないとね。わざわざ探しに行く手間が省けた。のこのこ一人で町まで歩いてきてくれるんだから、運が良かったよ」

羽織の男が吐き捨てた言葉に、息が止まった。
何かの間違いだと思いたかったけれど、嫌でも頭の中で線が繋がってしまう。
なぜ、私が一人で町へ出たことを、この男たちが知っているのか。なぜ、藤堂さんの名前が彼らの口から出てくるのか。なぜ、こうして雑に床に転がされているのか。
藤堂さんとこの男たちは、きっと裏で繋がっている。あのお茶に、何か睡眠薬の類のものでも混ぜられていたのだろう。だから、身体が痺れて動かないのだ。

薬屋へ行くたびに、いつも親切にお茶を出してくれていた人だった。雨宿りにと声をかけてくれたあの穏やかな笑顔を思い出すほど、信じていた足元が崩れ落ちていくような心地だった。
善意だと疑いもせず、差し出された湯呑みを飲んでしまった自分の浅はかさに、苛立ちが込み上げてくる。

「……どう、して……」

なぜ、こんなことをするの。私に、何の関係があるというの。
ただ買い出しに来ただけだった。誰かを恨んだことも、危害を加えたこともない。なのに、なぜこんな暗がりで、こうして捕まらなければならないの。
床に転がったまま見上げると、手拭いの男が面白がるように顔を歪める。

「どうして?そりゃあ、藤堂の旦那の実験のために決まってるだろ」
「少々、牢から出るのに時間はかかったが。汚れ仕事は俺たちの役目なんでね」

羽織の男も、提灯を揺らしながら愉しげに喉を鳴らした。
私を一度襲ってきたことも含め、過去にこの男たちが町で働いていた悪事の数々。まさか、それらもすべて、あの藤堂さんの指図だったというのだろうか。

「金持ちどもに流す、新薬の実験さ。さっそく始めるか」
「ああ、旦那はずっと前から、お前を被験者にするためにじっくり仕込んでたんだとよ。楽しみだな」

背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走り、呼吸が浅く乱れる。
ずっと前から。偶然親しくなったわけでも、ただの気の良い町の人だったわけでもない。
仕込んでいた。仕込むって、何を。あのお店で、あの人は私に一体何をしたというの。

「旦那からも死なねえ程度なら、好きにしていいって言われてる」

さっきから、何を言っているのかまるで分からない。
新薬、実験、好きにしていい。吐き出される単語のひとつひとつが、不気味で思考を麻痺させていく。

「お前には、あの店に来るたびに薄めたやつを少しずつ飲ませてたんだよ。いきなり強いのを飲ませると身体が拒絶しちまうからな。……で、今日飲ませたのが、仕上げの強いやつだ」

この人たちは、私に何をするつもりなのか。何を、されようとしているのか。
向けられる瞳の奥にあるものが、ただただ底知れずおぞましい。逃げなければと本能が警鐘を鳴らすのに、鉛のように重い身体は言うことを聞かない。
痺れた腕で地面を押して必死に身じろぎするが、数寸後ずさるのが精一杯で、すぐに息が上がってしまう。

「やめ……っ」

無駄な足掻きを嘲笑うように、羽織の男が私の腰の上に跨がり、どさりと体重を落とした。

「っ……!」

肺の空気を無理やり押し出され、声にならない悲鳴が漏れる。上からのしかかる圧迫感に、息をすることすらままならない。

「君が初めてじゃないんだよ?あの子も、あの子も……みんなこの蔵で、君と同じように震えながら、俺たちの実験に付き合ってくれたよ」

羽織の男が、土壁の暗がりを指さしながら低く笑った。
脳裏に、かつてこの冷たい地面に転がされていたであろう見知らぬ娘たちの姿が浮かぶ。助けを呼ぶことも、逃げることもできず、自由を奪われたまま、どれほど恐ろしい夜を過ごしたのだろう。
尊厳を踏みにじられたその子たちは、今、光の下を歩けているのだろうか。…いや、生きてここを出られた者は、いるのだろうか。

「だがなァ、通りすがりの奴らじゃ少々実験に限界があってな。すぐに壊れちまうし、データとやらもまともに取れねぇ。その点、お前は都合がよかった」
「金持ちの道楽者どもはさ、ただ泣き叫ぶ女を犯すだけじゃ満足できねぇんだよ」

何を、言っているのか。
これ以上、聞きたくもない。

「身体は拒絶して逃げ出したいのに、頭の芯だけが蕩けて、触られたところから熱くなっていく……」

悪夢を語るようなその声が、耳から容赦なく流れ込んでくる。

「さ、説明より何より、まずは始めてみようか」

合図のように放たれたその一言で、蔵の中の空気が凍りついた。
逃げようと残る力を振り絞って身をよじった瞬間、羽織の男が強引に腕を掴み、両手首を冷たい地面へと力づくで押さえつけてきた。

「無駄に暴れるなって」

ぐっと体重を乗せられ、手首の骨がきしむような痛みが走る。びくりとも動かない。
さらに手拭いの男が身体の自由を完全に奪うように私の足元へと回り込み、逃げ道を塞ぐように両脚の間にどさりと腰を落として座り込んできた。

「やめ……て……っ!」
「怖くない怖くない。ほら」
「あの日見られなかった泣き顔、たっぷり見せてくれよ」

ああ、こうなるんだと。本当の恐怖を前にした時、人は叫ぶことも抗うこともできず、思考も身体も完全に止まってしまうのだと。

「そうそう、大人しくできるじゃん」

やめて。お願いだから。言葉にならず、ただふるふると首を振る。
涙が、しゃくりあげるような嗚咽が止まらない。みっともないくらい顔が歪んでいくのが分かるのに、どうにもできない。

「おい、脱がさねえのか」
「すぐに脱がしたら面白くないじゃん。まずは……」

男の嫌な視線が下へと滑り落ちる。無遠慮な手が私の足元へと伸び、着物の裾を乱暴に捲り上げられた。

「ほら、白くて柔らかそうだ」

生温かい手のひらが、太ももへ滑り込んでくる。皮膚を這うねっとりした感触に、思わずびくりと身体を跳ね上げ、身体を捩らせた。

「……こういうのは初めて?」

ぐっと、もう一人の男に顎を乱暴に掴まれる。男の顔が迫ってきて、口づけられる、と直感した途端に、必死に顔を背けた。
けれど、ぱぁん、と鈍い音がして左頬に強い衝撃が走る。頬の中がじんじんと痺れる感覚に、思いきり叩かれたのだと少し遅れて理解した。

「なるほど。初心なまんま大事に囲われてたんだな」
「いいよ、俺たちが最初から教えてやる」

頬が痛い。触れられている肌が気持ち悪くて、吐き気がする。逃げたい。今すぐ消えてしまいたいのに、ぬるりとした感触が首筋を這い上がって、全身が一気に栗立った。
叫びを飲み込んだ瞬間、次は太ももに痛みが走る。強く口で吸い上げられたようで、顔を離した男の目には愉悦の色が浮かんでいた。

「いやだ……っ」
「本当は奥のほうがじんわり熱くなってきてんじゃねぇのか?」

男が指先を這わせながら、観察するように顔を覗き込んできた。

「どんな気分だ?触られて、気持ち悪いはずなのに……なんかゾクゾクしてんだろ。正直に言ってみろよ」

そんなわけがない。気持ち悪い、恐ろしい、それだけのはずなのに。
男の言葉に引きずられるように、麻痺していた肌の表面が、撫でられるたびに嫌な熱を帯びていくような錯覚に襲われる。身体が自分のものじゃないみたいに勝手に震え、心臓の鼓動ばかりが不気味に速くなっていく。

「ほら見ろ、肌が赤くなってきた。旦那の言った通りだ、効いてきてるぜ」
「そんなに睨むなって。怖くない。気持ちいいことしかしない」
「……っ、やめて……っ!」
「こんな山奥じゃ誰にも届かねぇよ」

ここは、山奥なんだ。町からどれだけ離れているのかも分からない。私の居場所を知っている人なんてどこにもいない。誰も来ない。見つけてもらえるはずもない。

「ほら、もっと声出せよ。誰も助けに来ねぇんだからよ」

嘲笑う声とともに、今度は着物の広い袖口から、ごつごつとした手が強引に潜り込んでくる。
肌をまさぐるようにして腕を這い上がり、肩を掴まれた指が、着物の内側へさらに入り込んだ。

「……や、だっ……とみ、岡さん」

絶望に飲まれて、頭に浮かんだのはやっぱり彼の姿だった。助けて。助けてください、と。
あなたの言う通りだった。私はいつも警戒心が足りない。いつも不用心で、危機感がなくて、周りの善意に甘えてばかりで。
こうして一人になった途端、罠にかかり、簡単に転がされてしまう。
全部、全部私が悪い。自分の浅はかさが、愚かさが、全部自分に返ってきているだけなのに。
それなのに、こんな時にまで真っ先に彼の顔を思い浮かべて、都合よく救いを求めている。

『その優しさを自分に向けられた特別なものだって勘違いしているなら、あまりにも滑稽よ』

そう。本当に、おこがましい。
ここで彼の名を呼びたい、助けに来てほしいと願っている私は、どれほど滑稽で、惨めで、おこがましいのだろう。
守られていなければ、一人では何一つできないくせに。
守られるだけの存在は嫌だなんて、よく言えたものだ。

「トミオカさんは来ないよ」

男が私の呟きを拾って、あざけるように笑った。
指先が着物の帯にかけられる。もう片方の男の手も、下着へと手がかかった。
胸元が着崩され、鎖骨のあたりに舌がまた這う。脚を閉じようとすると、男の膝が私の脚の間に割り込むようにねじ込まれる。

冷たい土の上で、身動き一つ取れない。
嫌だ、やめて。声にならない嗚咽と共に、涙がまた頬を滑り落ちた時。

「…………っ!」

轟音と共に、蔵の頑丈な引き戸が粉々に弾け飛んだ。爆ぜるような衝撃と、突風。
一瞬の出来事だった。

肉が千切れ、骨が砕ける音が重なる。びしゃ、と私の顔や首筋に、生暖かい液体が大量に降りかかった。
何が起きたのか。目の前から男たちの重みが消えていた。隣で、つんざくような絶叫が上がる。

「ぎゃあああっ!う、腕が、俺の腕がぁぁっ!」
「足が、足があああっ!」

手拭いの男は肩から先を失い、もう一人の男は膝から下を吹き飛ばされ、血の海の中で転げ回っていた。
それだけに留まらず、這いつくばって逃げようとする羽織の男の背中を、黒々とした太い足が容赦なく踏み砕く。ぐしゃりと鈍い音が響き、さらに血が撒き散らされた。
それを見て悶絶する手拭いの男の胸ぐらを軽々と掴み上げると、まるで枯れ枝でも折るかのように、残っていたもう片方の腕を力づくで千切る。

浴びせられた生暖かい返り血と、鼻をつく血の匂いに呼吸が止まった。ガチガチと奥歯が鳴って、全身の震えが止まらない。
異常な光景に、指先ひとつ動かせない。視界が恐怖で激しく揺れる中、震える首をどうにか持ち上げ、戸口のほうへと視線を向ける。

粉々になったそこに、異様に大きな影が立っていた。
青黒い皮膚に、肥大した筋肉。頭からは歪な角が生え、裂けた口からは牙が覗いている。
そして光る三つの目玉が、ぎょろりと血溜まりを見下ろしていた。

「……あァ?なんだ」

怪物は、男の千切れた腕を口に放り込み、骨ごと噛み砕きながら咀嚼した。

「運がいい。こんな山奥に、美味そうなご馳走が三人も揃ってる」

暴漢への恐怖など吹き飛ぶほどの、本物の死の気配。
シャラン…と首元で、首飾りが警戒を促すように揺れた。




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