77
どこを走っているのか、まるで見当もつかなかった。道なんて呼べるものはどこにもなくて、濡れた草や突き出た木の根が、容赦なく足を取る。
身体が、言うことを聞いてくれない。あの薬のせいだ。冷たい夜風を浴びて少しは頭が冷えたはずなのに、手足の先はずっと重たく痺れたままで、引きずるのがやっと。
それでも、足を止めたらそこで終わりだと分かっていた。追いつかれれば、彼らと同じように骨ごと喰い殺される。
それだけは、絶対に嫌だった。息を吸うたびに肺の奥が焼けるように痛んでも、心臓が耳元でうるさく跳ねていても、立ち止まるわけにはいかない。
鬼。あれが、鬼。
作り話だと思っていたわけじゃない。でも、実際に目の当たりにした怪物は、私の想像を遥かに超えていた。
咄嗟に、いつも懐に入れていた藤の花の香り袋を投げつけて逃げてきたけれど、鬼を逆上させてしまっただけだった。
これ以上ないくらい全力で走っているのに、背後から枝をへし折る音が止まらない。
「来ないで……っ!」
「それは無理な話だなあ」
もう、二人も殺したじゃない。あんな簡単に、二人の命を奪ったじゃない。
それだけじゃ足りないの?二人も喰べられるなら、もう十分でしょう?何で、何で私まで追ってくるの。
「女の方が栄養価が高いんだ。逃げられちゃ困るな」
どうして。何で。人生最悪の日をあげるなら、きっと今日だ。
変なお茶を飲まされ、連れ去られ、散々痛めつけられて、そうして死に物狂いで逃げついた先が、鬼の胃袋の中だなんて。
そんなの、あんまりじゃないか。
「っ、い……!」
突き出た木の根に足を引っかけ、前のめりに転んだ。
けれど、痛いなんて思っている暇はない。もつれる足に無理やり力を込めて立ち上がる。
木の枝が容赦なく肌を切り裂いていくけれど、払いのける余裕すらない。ただ、生き延びたい。その一心だった。
一刻も早くこの悪夢から抜け出したくて、がむしゃらに足を動かし続けた。
しかし、突如目の前に行き止まりが現れ、咄嗟に足を止める。足元の先は、ゆうに十数メートルを超えている断崖絶壁。下から吹き上げる風が、私の頬を撫でていく。
「おっと、行き止まりだな」
背後の茂みが大きく揺れ、あの巨体が姿を現した。光る三つの目。口元には、さっきの男たちのものだろう赤い血がべったりとこびりついている。
この鬼は、最初からここが行き止まりだと知っていたのだ。前は崖。後ろには、鬼。逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。
「よくもあのクソ袋を投げつけてくれたな。藤の嫌な臭いが鼻についてたまらねぇんだよ。……ま、足腰のいい獲物は肉が引き締まってて美味い」
これが、これが鬼殺隊のみんなが命を懸けて戦っている存在だなんて。
しのぶさんが、どうしてあんなに夜の外出を咎めていたのか。屋敷に運ばれてくる隊士たちの身体に、なぜあんな酷い傷跡が刻まれていたのか。その本当の意味を、私は何一つ分かっていなかったかもしれない。
「来ないで……っ、お願いだから、あっち行って……!」
たまらず後ずさり、足元の小石が崖下へとパラパラと落ちていく。
「あっち行け?腹を空かせた俺に、そんな台詞が通じると思ってんのか?」
「嫌……嫌だ……っ!!」
「どいつもこいつもそればっかりだ」
鬼は面白そうに牙を剥き出し、喉を鳴らして笑った。
「安心しろよ。頭から一気に噛み砕いてやるから、痛いのは最初だけだ」
こんなところで死にたくない。喰われたくない。
叫びながら必死に首を振る私を見て、鬼の目がぎらりと細められる。瞬間、鋭く尖った爪がまっすぐ私の喉元へと伸びてきた。
ああ、まるで悪夢をなぞるようだ。ただの不吉な夢だと言い聞かせたのに。現実が、容赦なくその通りに追いついてきてしまう。
もう後ろはないというのに、それでも身を引こうと足を動かした瞬間、足元が崩れた。
「きゃあっ……!」
雨上がり。地面が緩んでいる最悪の状況。
踏ん張りが利かず、足が取られる。身体が宙に放り出され、重力に引かれて空が逆さまに回転した。
まずい、落ちる。死んでしまう。恐怖で頭が真っ白になりながら、無我夢中で手を伸ばした。
視界の端に掠めた、崖の中途に生えた木の幹。指が千切れるほどの力でしがみつく。
ガクン、と肩が外れるような激痛が走り、身体が空中で揺れた。
「っ、ぅ……、ぅ……っ」
あまりの痛さと恐怖に、喉の奥からひゅうひゅうと情けない音が漏れる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、えぐえぐとしゃくりを上げた。
もう、嫌だ。痛い。怖い。お家に帰りたい。蝶屋敷のみんなのところに帰りたいよ。
どうして、こんなことになっているの。何が悪かったの。どこで間違えてしまったの。
答えのない問いばかりが頭の中をぐちゃぐちゃに巡り、さらに涙が溢れる。
木に食い込む指先が、自分の体重と衝撃で悲鳴を上げていた。少しでも力を抜けば、そのまま真っ逆さまに落ちてしまう。
必死にしがみつきながら頭上を見上げると、崖の淵から鬼が顔を覗かせていた。
「クックックッ。無様だな、人間はよ」
小石をパラパラと蹴り落としながら、鬼はそれでも愉しげに笑うのだ。
「大っ嫌い……!あなたたちなんか、本当に大っ嫌い……!」
「喚いたって無駄だってのによ。落ちて死ぬか、這い上がってきて俺の腹に収まるか、二つに一つしかねぇのに」
「ふざけないで……っ!」
「ふざけてねぇよ。お前らが脆いのが悪いんだろうが。ちょっと脚や腕をへし折られただけで泣き叫んで、高いところから落ちればそれだけで終わりだ」
どれだけ恐怖に怯えても、どれだけ助けてと叫んでも、この化け物には何一つ届かない。
人の命の重さも、生きている痛みの切なさも、何一つ。
「鬼なら、そこから落ちたところで死にゃあしねぇのにな。そんな脆い命を大事に抱えて、必死にぶら下がって。やっぱ人間ってのは不便で、弱くて、どこまでも滑稽だな」
嘲り、蔑み、人の命を踏みにじる言葉。恐怖で凍りついていた頭の奥で、ふつふつと熱い何かが芽生えた。
――何がおかしい。懸命に命を繋ごうと足掻くことの、何がそんなに愉快なのか。
「ち……、う……っ」
「ああ?」
「違うッ!!」
喉の奥が、目の奥が、焼けつくように熱い。
煮えたぎる激情が、確かに自分の中に渦巻いている。
「人間は、弱くなんかない……っ!死があるからこそ、生きることが素晴らしいの……っ!いつか終わるから、懸命に今日を生きようとするの……!!」
それは、私が蝶屋敷で日々を過ごしながら感じてきたことだった。
いつか消えてしまう命だからこそ、私たちは今日という日を、この一瞬を、必死に抱きしめて生きているんだ。
痛みに耐えながら、明日に向かって懸命に鍛錬を重ねる隊士たち。
いつも笑顔を絶やさないしのぶさん。
厳しく、けれど誰よりも温かくみんなを支えるアオイさん。
小さな体で元気いっぱいに屋敷を駆け回る三人娘に、静かに前を向くカナヲさん。
そして、最期まで誇り高く戦い抜いた尾崎さん。
いつか散る花だからこそ、人はその美しさに足を止め、慈しもうとする。
枯れない造花に、心なんて動かされない。終わりがあるから、人は今を大事にできる。いつか散ってしまうからこそ、その一瞬を大切にする。
永遠に生きているだけのあなたたちに、それが分かるとでも言うのか。
「それを、あなたたちが簡単に奪おうとしないでッ……!!」
感情に任せ、叫び切ったその瞬間だった。
「くだらないな。命乞いにもなっていない」
鋭い爪を備えた腕が、眼前へと迫る。
ああ、死ぬんだ。こんなに呆気なく。結局、飛び降りる勇気も持てないまま。鬼に喰べられて死ぬ。
今あんなにも偉そうな大口を叩いたくせに、最後はこんなにも無様だ。助けてほしいと願うことすら傲慢で、みんなの顔を思い浮かべる資格なんてなくて。
…ごめんなさい。私、ちゃんと生きられなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。
反射的にぎゅっと目を瞑り、痛みに備えて歯を食いしばる。心臓が破裂しそうなくらい早鐘を打っていた。息を止めて、ただその一瞬を待った。
けれど、どれだけ待っても痛みは訪れず、代わりに何かをあっけなく断ち切るような乾いた音が響いた。
思わず目を開けると、なぜか鬼の首が胴体から切り離され落ちていく。
「え……」
ことん、と音を立てて、まるで枝から木の実が落ちるように。胴体までもが、みるみるうちに風にさらわれて消えていった。
消え、た?何が起きたのか分からない。この一瞬の間に何があったというのか。痛みに耐えながら必死に木の幹にしがみついていると。
「高月……っ!」
頭上から、激しく息を切らす声が降ってきた。
嘘だ、と思った。崖から、身を乗り出すようにしてこちらを覗き込む姿。いつもの冷静な姿からは想像もつかないほど、なりふり構わずその人は私の名を呼んだ。
「とみ、おか、さ……っ」
「俺が来るまでよく堪えた!」
その言葉を聞いた瞬間、それまで張り巡らせていた糸がぷつりと弾け飛んだ。
信じられないほどの安堵が押し寄せてきて、えぐえぐと嗚咽をあげる。
「っ、うあ……ぁ……っ、とみ、とみ岡さぁ……!」
「手を伸ばせ、高月!」
言われるがまま、最後の力を振り絞り上へと腕を伸ばす。力強い手が私の手首を掴み取り、一気に崖の上へと引き上げられた。
地面に膝をついた瞬間、引き寄せられるようにして、彼に強く強く抱きすくめられる。
「遅くなったすまない」
骨がきしむほど、息ができないほど強く抱きしめられて、私はただ彼の肩口でふるふると首を振った。
「ふぇっ、とみ、とみおかさぁん……!」
どうして。何でここにいるの。でも、来てくれたことだけで胸がいっぱいだった。
その安心する香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私はみっともなく声を上げて泣いた。
隊服越しに、トクトクと激しく打つ鼓動が伝わってくる。いつだって静かで、波ひとつ立てないこの人なのに。こんなにも息を乱して来てくれた。
「すみ、ませんっ……、わたしっ、わたし、またごめいわくを……!」
しゃくり上げる私に、冨岡さんは片手で私の頭を包み込むようにして首を横に振った。そのままぎゅっぎゅっと、背中に回された腕にも力がこもる。
「ごめ、ごめんなさ……っ!ごめんなさい冨岡さんっ……!」
何度も何度もその名を呼んで、謝り続ける。
謝ったところで、何かが許されるわけでもないのに、口をついて出る言葉はそれしかなかった。
「っ、こわ、怖かった!こわっ、くて、わたしっ……!」
本当に、死ぬかと思った。
男たちに乱暴されそうになった瞬間も、鬼の爪が目の前に迫った時も、崖から落ちそうになった瞬間も。頭の中が真っ白になって、もう二度と朝を迎えられないんだと本気で諦めかけた。
今こうして彼の温もりに触れていても、まだ身体の震えが止まらない。
「わたしっ、わたし……っ!」
もう二度と、あなたに会えないんだと思った。
それが何よりも怖かった。あんなふうに気まずい別れ方をしたまま、もう二度と言葉を交わすことも、顔を見ることもできずに終わってしまうと思った。
「……っごめ、ごめんなさぁい!!」
「もう謝るな」
違うんです、冨岡さん。もし次に会えたら、あなたに必ず謝ろうって。
あの時、あんな馬鹿なことを言ってごめんなさいって。私は浮かれていて、きっと誰よりも浮かれていて。
気持ちを告げたりしなければ。自分の弱さを素直に認めていれば。冨岡さんを困らせることだって、なかったかもしれないのに。ずっと側にいれたかもしれないのに。
「う……っ、ひっく、うぁ……っ!」
なのに。なのに。
張り詰めていた最後の糸が切れ、抑え込んでいた涙が一気に決壊してしまっては、もう謝罪の言葉も紡げない。
「誰も来ない。鬼も、もういない」
言い聞かせるように、冨岡さんは私の背中をゆっくりと撫で下ろす。
「大丈夫だ、高月」
耳元で、何度も繰り返されるその響き。
さっき感じた大きな恐怖を打ち消すほどの大きな安堵感に…私は、冨岡さんに縋り付いて泣いた。
「大事ないか」
たくさん泣いて、声も枯れた。ひくりひくりとまだ呼吸は忙しないけれど、私が少し落ち着いたのを見届けてから、冨岡さんは身体を離した。
けれど、その手は離れることなく、何かを確かめるようにして、私の肩、腕、そして擦りむけた手足と、順番に触れていく。
「脚は?腕は動くか?」
「えっ、あの、冨岡さんっ」
あまりの必死さに戸惑って身をよじらせるけれど、彼は構うことなく、私の身体の隅々まで視線を走らせた。
最後に私の両頬を包み、じっと顔を覗き込んでくる。
「……この血は」
青い瞳が、頬や首筋にこびりついた汚れを捉えて揺れる。
…血。そう問われて、さっきの光景が頭の中で浮かび上がった。
「わたしっ、じゃなくて、あの、暴漢たちの、……です」
「すまない」
遮るように謝罪が落ちてきて、彼の眉がきゅっと寄った。
それだけで、私が何を言わんとしているのか、どんな光景を見てしまったのかを冨岡さんはすべて察してくれたみたいだった。痛ましいものを見るようなその目に、息が詰まる。
「お前は、」
「わたし、は床に転がされていたので、偶然大丈夫でした。鬼が二人を襲っ、てたその隙に、藤の香り袋を投げつけて、逃げて、それで……」
「いや、ごめん。無理に話さなくていい」
優しすぎるその声が、痛い。思い出させまいとする気遣いが、胸にじくじくと染みる。
馬鹿なことをしたと、散々警戒心を持てと言っただろうと。そうやって怒鳴られた方が、よっぽど楽だった。
それなのに、触れてくる手も、紡がれる言葉も、壊れ物を扱うみたいに慎重で、痛ましいほど柔らかい。
私の軽率さのせいでこんなことになったのに。どうしてこの人は、自分を責めるようなそんな顔をするんだろう。
「あの男たちに、乱暴は」
「されて、ません。寸前で、鬼が」
「……そうか」
「あの、どうして私のいる場所が、わかったんですか……?」
問うと、冨岡さんは深く息を吐いて目を細める。
だって、こんな山奥だ。道なんて呼べるものもない。連れてこられた私自身、ここがどこなのか全く見当もついていなかった。
「薬屋に、場所を吐かせた」
「とうどう、さん?」
「そうだ。……奴は今頃、胡蝶が警官へ突き出してる」
そう、だったのか。絶対に、誰にも見つけてもらえないと諦めていたのに、冨岡さんはあの人の企みに気づいてくれていた。その事が嬉しくて、また涙が溢れそうになる。
「でも、どうして藤堂さんが悪いって……」
「これだ」
冨岡さんはそう言って私から手を離すと、懐から何かを取り出した。差し出された手の中にあったのは、見覚えのある小さな桜。
「あっ……」
思わず息を呑み、反射的に自分の帯元へ手を当てた。あるはずのものが、ない。
落とした?いつ?慌てて冨岡さんの手からそれを両手で受け取り、胸の前できつく抱きしめる。
「すみません。大切なものなのに……」
「いや、落としていてくれて助かった」
手のひらを開いて触れてみると、何かに引っかかったのか、金具がひしゃげてしまっていた。
…直せるだろうか。冨岡さんから貰った大切な贈り物だ。首飾りと一緒に、いつも肌身離さずお守りみたいにしていた。粗末に扱って落としてしまったことには変わりなくて、申し訳なさで胸が痛む。
「そんなものは、いくら壊れても構わない。……お前が無事なら、それでいい」
「でも……」
そう言いながら、冨岡さんが空いた手で自身の右手の甲を軽くさする。
私にとっては、代わりのないものなのに。そう続けようとした言葉が、途中で止まった。彼の右手に、赤く滲んだ傷が増えているのが目に入ったからだ。
「あっ、怪我を……」
思わず、その手を両手で包み込むようにして彼を見上げた。
「大したことはない。それより、お前の、」
「痛い、ですよね。血が、滲んでます」
あの人を、殴ったのだろうか。冨岡さんらしくもない。そんなことをしてまで助けに来てくれたことが、たまらなく申し訳ない。
擦りむけた皮膚を指先で撫でる。人を痛めつけるための手じゃないのに。これまでたくさんの人を守ってきた手だ。いつも、私に優しく触れてくれる。
それを、あんな人のために使っただなんて。眉を寄せて彼を見つめる。
けれど、じっと見つめ返してくる冨岡さんの瞳が、なぜか泣き出しそうなくらい悲しげに揺れた。
…どうして、あなたがそんな顔をするの。そんな顔を、してほしいわけじゃないのに。
「とみ岡さん?」
心配になって問いかけると、触れていた私の手を彼が掴んで、静かに引いた。
わっ、なんて間抜けな声を出しながら、そのまま背中に回された腕にぎゅうっと力が込もる。
「あっ、の」
また抱きしめられたことに不謹慎にも胸が高鳴ってしまい、慌てて身をよじった。
「えっと、たくさん走って、汗もかいてるので、その……」
まずい、まずい。今更ながら、状況がじわじわと飲み込めてくる。いつもなら絶対に耐えられない距離だ。肩口にすとんと預けられた頭の重みに、さらに身体を硬直させる。
いつもと違う、冨岡さんのただならぬ様子に戸惑った。思わず胸を押し返そうとするけれど、彼は力を緩めるどころか、さらにぐっと腰を引き寄せてくる。
「とみ岡さ、」
「頼むから……。頼むから、今は自分の心配をしてくれ」
その苦しげな声に、思わず息を呑んだ。続けようとした言葉が、喉の奥へ消える。
息ができないほど強く抱きしめられているのに、なぜか苦しいのは胸の方だった。
死にかけたのも、怯えていたのも私なのに。まるで冨岡さんの方が、取り返しのつかない傷を負って血を流しているみたいだ。
分からない。この人がどうしてこんなに苦しそうなのか。分からないのに、どうしてこんなにも、あなたの痛みが痛いんだろう。
私は別に、自分の命を粗末にしていたつもりじゃない。死ぬのが嫌だから、最後の最後まで木の幹にしがみついていたんだ。
それでも、ただ私にとって、目の前のことの方がずっと大切で優先順位が上なだけだった。
…でも、私がここで死んでいたら、結局は冨岡さんやみんなに迷惑をかけることになるのか。それはそれで、とっても嫌だ。
「……ごめんなさい」
「うん」
「ごめんなさい、冨岡さん」
「うん」
おずおずと持ち上げた手を、冨岡さんの背へと回す。そして、その肩に顔を埋めた。
ごめんなさい。自分のことを、ちゃんと大切にできなくて。ごめんなさい、不用心で、警戒心もなくて、こうして簡単に死にかけて。心配をかけて。
私が傷つくことで、あなたがそんな顔をしてしまうなら。自分なんてどうでもいい、だなんて、二度と思わないから。
「来てくださって、ありがとうございました」
そのまま回した腕に、少しだけ力を込める。
だから、お願いだから。そんなにも痛そうに、自分を責めるような顔をしないでほしい。あなたが代わりに苦しむ必要なんて、どこにもないのだから。
どうか、いつものあなたに戻ってほしいと、縋るように背中の温もりを感じる。
冨岡さんの腕にも、さらに強い力がこもる。それだけでは足りないと言わんばかりに、腰に回された手が、ぐっぐっと帯越しに手繰り寄せるように力を込めてきた。
「……あの、冨岡さん」
「………」
「息、苦しいです」
「………」
「……あの、本当に、あの」
返事がないどころか、ぴくりとも動こうとしない。
骨がきしむほど強い力で抱きしめられたまま、耳元に落ちてくる彼の呼吸だけが静かに響いていた。
私の言葉が聞こえていないわけでもないはずなのに、まるで頑なに私を離すまいと拒んでいるみたいだ。どうして?
「と、冨岡さん?聞こえてますか?」
「………」
「あの……私はもう大丈夫ですから、その、ちょっとだけ、力を緩めて……っ」
けれど、耳元に落ちる熱い吐息が浅く乱れるだけで、腕の力は緩むどころか、いっそう強く身体を閉じ込めてくる。
さすがに、これ以上は我慢ならなかった。
「もっ、む、無理です……っ!」
両手で彼の肩をぐっと押し返すと、今度はあっさりと身体が離された。
なぜか息を切らしている私を、冨岡さんは真剣な瞳をしたまま見下ろしてくる。何を考えているのか全く読めなくて、なんとなく視線を彷徨わせていると、冨岡さんが軽く息を吐く気配がした。
「あの、そんなに見ないでほしい、です」
「何故だ」
「その、泥だらけだし、ぐちゃぐちゃだし、目も腫れてるしで、すごく……恥ずかしいので」
「そうか」
そう呟いた冨岡さんは、目を逸らすどころか、持ち上げた指先で私のこめかみに触れた。
乱れた髪を分けるように撫でていくと、そのまま躊躇うことなく輪郭をなぞり、指の腹が耳たぶへと滑り落ちてくすぐるように触れてくる。
「あのっ、だから恥ずかしいって……」
「恥ずかしいのか」
「は、恥ずかしいです」
そう訴えてみても、親指と人差し指で耳たぶをぷにぷにと軽く摘んだり、爪の先で裏側を撫で上げたりと、所在なげに指先を遊ばせてくる。
くすぐったさと妙な熱さに耐えかねて、思わずびくびくと身体を強張らせて身を捩ると。
彼はようやく満足したのか、すっと指を離してくれた。
「……っ、冨岡さん」
困り果てて名を呼ぶと、冨岡さんは少しだけ目を伏せ、ぽつりと零した。
「お前が無事で、よかった」
その一言が、身体の芯にじんわりと染み渡っていく。
無事。生きてる。…そう、私はまだ、生きている。
目の前にいる彼の体温も、全部ちゃんと感じられる。この人が追いついて、見つけ出してくれたから、私は今こうして息をしているんだ。
実感が遅れて押し寄せてきて、目の奥がまたじんと熱くなった。
「帰るぞ」
冨岡さんが短く呟いた、その時。黒い影が私たちの間にパタパタと舞い降りてくる。寛三郎さんだった。
「ギユウ」
呼ばれた冨岡さんは何事もなかったかのように立ち上がると、数歩離れた寛三郎さんの元へと行ってしまった。
私はその背中を、地面にへたり込んだままぼんやりと見つめる。
「……そうか。分かった」
寛三郎さんと短く言葉を交わす冨岡さんの横顔は、いつも通りに見えた。先ほどまでの苦しそうな表情は、どこにも感じられない。何だったんだろう、さっきのは。
でも、やっぱりすごい人だった。あんなに恐ろしかった鬼を、あっという間に倒してしまった。私が何一つ状況を理解できていない間にも、一瞬で場のすべてを掴んで動いていた。その凛とした立ち姿が格好よくて、思わず見惚れてしまいそうになる。
これは…私だけ、なのかな。抱きしめられていた余韻が、所在なさげにまだ跳ねている。
「寛三郎。高月に怪我はあるが大事ない。胡蝶に、じきに蝶屋敷へ連れて帰ると伝えろ」
ああ、そうだ。蝶屋敷。きっと、みんなにもたくさん心配をかけた。きよちゃんにアオイさん、私が買い出しから戻らなくてびっくりしただろうな。
すみちゃんとなほちゃんも。しのぶさんとカナヲさんが任務で留守にしている時だったから、なおさら不安で怖かったはずだ。
早く帰って、みんなを安心させてあげたい。そう思って身構えたはずなのに。歩き出そうとした冨岡さんが、驚いたようにこちらを振り返った。
不思議に思って彼の視線の先を辿ると、私の手が、いつの間にか彼の羽織の裾をぎゅっと掴んでいた。
「……どうした」
静かに降ってきた声に、思わず息が詰まる。自分から引き止めておいて、何を言えばいいのか全く分からなかった。
布地を握りしめたまま、地面にへたり込んだ姿勢で、縋るように冨岡さんを見上げる。
羽ばたこうとしていた寛三郎さんに、冨岡さんが小さく片手を挙げた。
「寛三郎、少し待て」
バサバサと枝に戻る羽音を聞きながら、冨岡さんは私の前に片膝をついた。目線が同じ高さになる。
「どうした」
「……っ、あの」
「無理に言わなくてもいいが……。何か、言いたいことがあるんじゃないのか」
怒る色なんてどこにもなくて、ただ私の声を聞こうとしてくれている。その優しさが胸に刺さって、唇が小さく震えた。
「何を言っても怒らない。……言ってみろ」
急かすわけでもなく、穏やかに促される。
怒らないと言われても、こんな子どもじみた我儘、自分でも呆れてしまう。蝶屋敷に帰ればみんなが待っているのに。怪我の手当てだって必要なのに。
それでも、一度緩んでしまった気持ちは止められなかった。
「いっしょ、に……」
「ん?」
「まだ、一緒にいてください……っ」
ぎゅっと羽織を握り直すと、ポロポロと涙が零れ落ちた。
情けない。助けてもらった身なのに、どこまでこの人を困らせれば気が済むんだろう。
「あの、その……腰、が抜けてて立てなくて。それに……」
言い訳を探すように、視線がどんどん地面へと落ちていく。
夜道が怖い。暴漢たちのせいで男の人が怖い。鬼の笑い声が耳から離れない。一人の部屋で眠るのが怖い。
…どれも本当で、嘘じゃない。でも、一番の理由じゃない。誰でもいいわけじゃないんだ。他の誰に側にいてもらったって、この震えは止まらない。
「……その、冨岡さんが、いいんです……っ」
ぽたぽたと土を濡らす涙を見つめながら、一番言いたかった本音が、震える声で零れ落ちた。
刹那、ぎゅっと握りしめていたはずの布地が指先から消え、代わりにふわりとやわらかな重みが私の両肩を包み込む。
驚いて呆然と見上げると、羽織を脱ぎ去り隊服姿だけになった冨岡さんが、私の肩口を丁寧に合わせるようにして羽織を掛けてくれていた。
冨岡さんは膝をついたまま、大きな手のひらで一度だけ私の頭にそっと撫でると、枝の上でじっと待っていた寛三郎さんへとまっすぐに視線を向けた。
「寛三郎。高月は……、俺の屋敷へ連れていく。胡蝶にはそう伝えてくれ」
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