78


冨岡さんから聞いた話によると、藤堂さんの目論見は、本当に恐ろしいものだった。
あの優しい人が。裏ではお金持ちの道楽のために危ない薬を作って売り捌いていたなんて。

表向きは薬屋の店主。その裏で彼が作っていたのは、麻薬性の強い媚薬だったらしい。富裕層が秘密裏に開く夜会で、女性を弄ぶために取引されていたものだと。
けれど、藤堂さん自身は決して表に立たず、手を汚すこともない。怪しまれない立場のまま、実験といった汚れ仕事のすべてを、あの乱暴な二人組に請け負わせていたのだという。
二人組が強盗や傷害で何度監獄に入れられても、裏から手を回して早々に釈放させていたのも、藤堂さんだったらしい。
けれど、通りすがりの人をその場限りで攫うやり方では、まともな経過が追えない。監禁するわけにもいかない。そうやって限界を感じていた藤堂さんが目をつけたのが、定期的に店へやってくる私だったのだ。
まさか、お店に訪れるたびたお茶に薄めた薬を少しずつ飲まされていたなんて。今までよく、私の身体に目立った異常が出なかったものだと思う。
異変に気づくこともなく、ただの美味しいお茶だと思って呑気に過ごしていたのだから、本当に間が抜けている。
思い返せば、最初に二人組から襲われた時、薬を飲まされそうになったのもすべて繋がっている。
あの時も、冨岡さんが助けてくれずに連れ去られていたらと考えると、今さらながら背筋が凍りつくようだった。





夜の冷たい風が、濡れた木々を揺らしていた。規則正しい足音とともに、身体が心地よく上下に揺れる。
湿った草むらの奥からは、鈴虫の澄んだ鳴き声が静かに響いていた。

「……冨岡さん。おぶっていただいてすみません」
「気にするな。歩けないのだろう」
「恐縮です」

申し訳なさに小さく縮こまりながら、私は彼の広い肩にそっと額を預けた。ゆっくり目を閉じると、触れている温もりにほっとして自然と息が深くなる。

「はじめて、鬼を見たんです」

ぽつりと落とした声は、静寂に吸い込まれるように消えていった。ここが泥を噛む思いで駆け抜けた、あの森と同じ場所だとは到底思えない。
冨岡さんは何も言わなかったけれど、その沈黙がむしろ心地よかった。

「皆さんがあんなに恐れていたわけが、やっと分かりました。咄嗟に足も動かなくて。理屈では分かっていたつもりだったのに、いざ目の前にするとあんなに体が言うことを聞かないなんて」

今まで、どこか遠い世界の出来事のように感じていたのかもしれない。みんなが命を懸けて戦っていることも、屋敷に運ばれてくる隊士たちの酷い傷跡も、全部知っていたはずなのに。
生きてきた中で、初めての大きな恐怖と絶望だった。身を隠すように冨岡さんの隊服に指先を絡めると、背負ってくれている背中がわずかに固くなった気がした。

「……お前には、あれを見せたくなかった」

冨岡さんが前を見据えたまま呟く。
いつだったか、彼は私に『お前は鬼に遭うな』と言ってくれたことがあった。ただの忠告だと思っていたその言葉の奥に、どれだけの想いが込められていたのかを今になって知る。

「すまない。間に合わなかった」

背中に額を押しあてたまま、ふるふると首を横に振った。
そんなことない、もう謝らないでほしいのに。

「でも、最後の方はすごく腹が立ってしまって。思わず鬼に言い返してしまいました」
「二度とあんなことはするな」

即座に帰ってきたお叱りに、思わず肩をすくめる。

「……聞いていらしたんですか」
「ああ。人を喰った鬼とは、まともに会話などできない。言葉をかけるだけ無駄だ」
「……はい」

その通りだと思う。どれだけ命の重さを叫んだところで、あの鬼には何も響いていなかった。私は脆くて、弱い。
本当に、あの鬼も元は人間だったのだろうか。どんな人生を歩んで、どうしてあんな姿になってしまったのか。哀れむ余裕なんて一欠片もないのに、どこか割り切れない。

「冨岡さんは……、鬼を斬る時、何を考えているんですか」
「何も考えない」

そっと目を開けると、すぐ間近に彼の黒髪があった。

「迷えば己が死ぬか、守るべき者を死なせるだけだ。情けをかける余地はない」

…うん。冷酷に聞こえるかもしれないけれど、それが、命を懸けて戦い続けてきた人の現実だ。生半可な気持ちで刀を振るっているわけではない。哀しさや理不尽さなど、すべてを飲み込んだ上で、彼は自分の役目を全うしている。

「私は……怖くて、何もできませんでした。鬼の前ではただ震えて叫ぶしかなくて……本当に、弱くて情けないです」

ただ感情に任せて喚き散らした自分の浅はかさが、じわじわと胸を苦しくさせる。
冨岡さんのように、覚悟を持って首を落とすこともできない。逃げることだってまともにできない。
もしも私に、戦う力があったなら。あの不条理を退けることができたのだろうか。

「……『それをお前たちが簡単に奪うな』」
「え?」
「だったか」

それは、私が鬼へ向けた言葉だ。
私の沈黙をどう受け取ったのか、冨岡さんが私の言葉を反芻するように言う。

「お前は間違ってない」

思いがけない言葉に、思わず背中から顔を上げた。前を見据えたまま歩く横顔は、いつもと変わらない静けさを湛えている。

「本当に弱い奴からあの言葉は出ない」
「違います。私、何もできなくて……」
「腰を抜かして声も出せないのが普通だ。お前は、意外に肝が据わっている」

肝が据わっているだなんて強い冨岡さんに言われて驚く。今まで散々、警戒心が足りないと言われてきた身だ。自分では肝が据わっているだなんて、一ミリも思えなかった。
だって、現に腰を抜かして崖から落ちかけたし、涙も鼻水も垂れ流して、ただみっともなく喚いていただけだ。
けれど、この人は誰に対しても適当な言葉なんて吐かない人だから。

「……あ、ありがとうございます」

雑念を捨てて刃を振るう彼だって、きっと心の奥底には消えない怒りがあるのだろう。それを押し殺して首を落とし続けているからこそ、私の叫びを否定しなかった。
感情を殺して刀を振るうようになるまでに、冨岡さんは一体どんな痛みを重ねてきたのだろう。
知りたくても踏み込めない彼の内側に、思いを馳せる。

「吐き気や、指先の痺れは?」
「今は……大丈夫です。少しだけ身体が熱いような気がするくらいで……」
「胡蝶がいれば、薬の成分を特定できるが」
「いえ、明日帰ってからで大丈夫です」

離れたくないという意味を込めて、首元に回した腕へ力を込めた。少しでも早く診てもらった方がいいのは分かっているけれど、今はまだこの体温に包まれていたいと思ってしまう。頬をそのまま彼の背中にぴたりと寄せた。
ゆらり。ゆらり。規則正しい足音とともに、身体が揺れる。夜風は冷たいのに、触れている胸元や首筋は驚くほどあたたかくて。ただこうして背負われているだけで、恐怖が少しずつ遠のいていくのが分かった。
そうやってしばらく心地よく揺られていると、ふと不思議な既視感に包まれる。この光景。この安心感。…そう、つい最近にも、こんなことがあった。

「……冨岡さん。あの、私ひどく酔っていたのではっきりとは覚えていないんですけど」

ずっと引っかかっていた疑問を口にしようとして、少しだけ躊躇う。それでも、あの夜の温かさと、今こうして触れている体温が同じだったから。

「宇髄さんのお屋敷で酔い潰れた私を、蝶屋敷まで運んでくださったのは……冨岡さんですか?」

問いかけた途端、私の膝を支えていた冨岡さんの腕がぴくりと揺れた。歩幅が一瞬だけ乱れ、すぐに元の規則正しい足音へと戻る。
その僅かな反応だけで、答えとしては十分すぎるほどだった。

「……なんだ。やっぱり冨岡さんだったんですね」

私は背中から顔を上げ、彼の横顔を見つめた。

「夢だと思ってました」
「……夢ではないと、言った」
「そんなの、覚えてないです。酔ってたから」

あの翌朝、炭治郎くんが言っていたことは本当だった。あの夜、私を迎えに来て背負って送り届けてくれたのは、宇髄さんじゃなくてこの人だった。
しのぶさんやアオイさんに尋ねても言葉を濁されたのは、きっと彼が口止めをしていたからだ。

「……ずるいです。いつも私だけ知らない」

いつもそうやって守られてばかりだ。知らないところで。
けれど、もう自分は守られるだけの存在は嫌だなんて口が裂けても言えない。本物の恐怖を前にして、私一人では何もできなかったのだから。

「酒はなぜ飲んだ」
「……なんとなく、です」

雰囲気に流されて飲んでしまったのと、少しだけむしゃくしゃしていたのもある。
原因は目の前のこの人にある。

「でも、もう飲みません」

次の日のあの頭が割れるように重かった感覚は、もう二度とごめんだ。
それに、そうやってお酒の力を借りて気を紛らわせたところで、結局は虚しい気持ちになるだけだった。

「ああ、お前はもう酒は飲むな。宇髄のところへも行かなくていい」
「……もしかして私、何か粗相をしましたか?」

前を向いたままの冨岡さんの口元がほんの少しだけ緩んだように見え、不安に駆られた。
身を乗り出すようにして問いかけるけれど、冨岡さんはわずかに顔を背ける。

「……いや」

そんなふうに言葉を濁されると、余計に気になってしまう。絶対に何かあった反応だ。
まさか私、とんでもない粗相をしでかしたんじゃないだろうか。お酒の勢いで絡んだり、失礼なことを口走ったり。普段の自分ならあり得ないようなことを、この人の前で晒してしまったのかもしれない。
そう考えると、さらに不安になった。

「な、何ですか?何をしたんですか私?」

必死になって肩越しに覗き込むと、冨岡さんは困ったように眉を寄せ、闇に向かって深く息を吐き出す。

「……お前は、よく泣く」

泣く。泣いた。
確かに、泣いた記憶はある。

「泣いて、何を……?」

おそるおそる尋ねてみるけれど、冨岡さんは前を向いたまま首を横に振った。

「お前ではない」

私ではない。主語を失ったその言葉の意味を、頭の中で必死に考える。
私が泣いたのに、私ではないとはどういうことだろう。粗相をしたのが私ではないという意味なのか、それとも泣かせた原因が私ではないということなのか。
意味が分からなくて「冨岡さん?」と重ねて問いかけてみたけれど、彼は静かに夜道を踏みしめるだけで、それ以上は何も教えてくれなかった。
ずるい。いつもこうやって、肝心なところだけ口を閉ざすんだ。それなのに、たまに思わせぶりな言葉を落としてくるから、とんでもない天然たらしだ。
唇を尖らせて拗ねてみても、彼に見えるはずもなく、ただ夜風が二人の間を通り抜けていくだけだった。

「寒くはないか」
「……はい」

私はもう一度、そっとその広い背中に額を預けた。
聞きたいことも、言いたいことも、きっとまだたくさんある。けれど、今はただ、この彼の背中で守られている心地よさに縋っていたかった。









冨岡さんのお屋敷に到着し、そのまま彼におぶわれて奥の部屋まで連れて行ってもらった。
久しぶりに跨いだ敷居の先には、以前と変わらない空間が広がっていて、不思議な安堵感が胸を満たす。
畳の上にそっと降ろされ、明かりの下で改めて自分の姿を見て私は言葉を失った。森を這いずり回ったせいで、着物は泥と埃に汚れ、あちこちが擦り切れて無惨な姿になっている。手足は泥と乾いた血で酷い有様だった。

「冷えただろう。まずは風呂に入れ。そのあとは手当をして……一緒に夕餉を食べよう。俺もまだだ」

冨岡さんはそう言うと、ほんの少しだけ口角を上げて微笑んでくれた。滅多に見せない、どこかぎこちないその表情に、張り詰めていた心がゆっくりと解けていくのを感じる。
私はこくりと頷き、彼が奥から出してきてくれた清潔な浴衣を受け取って、お風呂場へと向かった。

脱衣場に入り、汚れてしまった着物を一枚ずつ脱いでいく。
洗濯をすれば、この泥は落ちるだろうか。水につけて丁寧に揉み洗いすれば、元に戻ってくれるだろうか。
乱れた髪を留めていた蝶の髪飾りを解くと、重く絡まった髪が肩にばさりと落ちた。
浴室の引き戸を開け、張られたばかりの熱いお湯を桶に汲み、思い切って頭から被る。ざあ、とお湯が肌を伝い落ちた瞬間、手足に無数にできていた擦り傷がピリピリと痛んで、思わず眉を顰めた。

「痛い……」

森の中を無我夢中で駆け回っていた時は、恐怖と緊張で麻痺していて何も感じなかったのに。自分が今こうして温かい湯を浴びていること自体が、なんだか信じられない。

けれど。痛みは、生きている証拠だ。
かつて、誰かがそう言っていたような気がする。死んでしまったら、この痛みも、お湯の熱さも、何も感じることはできないのだ。
そっと、足首の大きな擦り傷を指先でなぞってみる。ぴりりと鋭く走った痛みが、私が今ここに存在していることを何よりも確かに証明していた。

「……生きてる」

私はまだ、ここに生きている。冨岡さんが救ってくれた命が、ちゃんとここにある。







湯から上がると、廊下の奥から出汁の優しい匂いが漂ってきた。
そっと居間に足を踏み入れると、冨岡さんが膳の上に夕餉を並べているところだった。もう準備が整っているなんて、とても手際がいい。
彼も隊服を脱いで着替えたようで、深い藍色の浴衣の上に羽織を重ねていた。

足音に気づいた冨岡さんが、こちらに視線を向け、ふっと息を緩める。
以前同様、借りた彼の浴衣が私には少し大きい。それを見かねた冨岡さんはこちらへ歩み寄ってくると、私の手を取り、だぼついた袖をくるくると捲り上げてくれた。

「ありがとうございます……」

お礼を言って膳の前に置かれた座布団へ腰を下ろそうとすると、腕をすっと軽く引かれて止められた。

「手当が先だ」

冨岡さんはそう短く言うと、部屋の隅から薬箱を持ってきて私を畳の上に三角座りで座らせる。その正面に冨岡さんも正座で腰を下ろした。

「痛むか」
「いえ、お湯に入った時は少し染みましたけど……今は大丈夫です」

差し出した私の腕を取り、冨岡さんは擦り傷のひとつひとつに優しく指の腹で薬を塗り広げていく。
真剣な眼差しで私の傷口を見つめる彼の横顔があまりにも近くて、今度は傷とは違う場所がじわりと熱くなりそうだった。

「あちこち切れているな」
「……この薬は、しのぶさんのですか?」

鼻をかすめた薬草の香りに覚えがあって尋ねてみると、冨岡さんは指先を止めずに首を振った。

「消毒の粉は胡蝶のものだが、この軟膏は違う。俺の先生のものだ」
「先生……。育手の方ですか?」
「ああ。傷の治りが早くなる」

ぽつりと零しながら、冨岡さんは私の腕の傷へ軟膏を伸ばした。
両腕の手当を終えると、冨岡さんはそのまま視線を私の足元へと落とす。

「次は脚だ」
「え……あ」

当然のように言われて、少し戸惑った。けれど、これは手当だから仕方がないと、おずおずと片足を前に出し、自分で浴衣の裾を膝下までそろりと持ち上げる。
差し出された素足を見て、冨岡さんは伸ばしかけた手を一度ぴたりと止めたものの、すぐに息を整えると大きな手で私の足首をそっと支えた。
私は畳の一点を見つめたまま、息を潜める。

「痛いだろう」
「あ……そこ、転んだ時に擦ってしまって」

小さな擦り傷はさほど問題なかったが、一度木の幹に躓いて派手にすっ転んで擦った足首は酷いことになっていた。小学生の頃、道端で転んだ時のことを思い出す。大人になってからの方が、怪我が痛く感じるのはなぜだろう。
冨岡さんは傷口を刺激しないよう、驚くほど柔らかく軟膏を伸ばしてくれた。

「……少し、締めるぞ」

最後には、手慣れた手つきで足首から傷口を覆うように、包帯が絶妙な加減でくるくると巻き上げられていく。
最後に端をしっかりと留めると、冨岡さんは私の浴衣の裾を元の位置まで下ろしてくれた。

「ありがとうございます……」
「いや、」

すぐに足を引っ込めた私に冨岡さんは苦笑すると、すっと私の頬へ右手を伸ばした。
何だろうと思わず身構えていると、ふいに頬がぴりっと痛む。

「ここもだ」

お風呂に入った時には気付かなかったが、顔にも傷が出来ていたらしい。あの男たちに叩かれた拍子に、爪か何かが引っかかったのだろうか。
じっとしていると、冨岡さんは布で傷口をそっと拭い、指先で軟膏を薄く伸ばしてくれた。間近にある青い瞳が、痛々しいものを見るように揺れている。

「これで終わりだ。……飯にしよう」

冨岡さんはそう言って薬箱の蓋を閉め、立ち上がろうとした。その腕を、私は慌てて両手で掴んで引き止める。

「あ、あの、冨岡さんの右手の手当がまだ終わってません」
「あとで自分でする」
「駄目です。すぐにしないと、ばい菌が入ったら大変なんですから」

半ば無理矢理に冨岡さんの手から木箱を奪い取り、畳の上に置く。中から消毒の布と、さっきの軟膏を取り出した。
しのぶさんやアオイさんのような的確さはなくても、何もしないよりは絶対にいい。

「高月」
「駄目です。これでも蝶屋敷で一年間、お手伝いしてきたんですから」

冨岡さんがそれ以上何かを言う前に、私は彼の右手首をきゅっと掴んだ。
関節の皮が剥けて赤く腫れ上がっている。消毒薬を含ませた布をそっと当て、刺激しないよう慎重に薬を塗り広げていく。
無理に引き剥がされることも覚悟していたけれど、冨岡さんはそれ以上抵抗するのをやめてくれた。無骨で長い手が、私の手のひらの中に大人しく預けられる。

「……手際がいいな」
「本当ですか?頑張って勉強した甲斐が出てるのかもしれません」

冨岡さんだって、さっきの手当てがすごく手際良くて、私は少し悲しくなってしまった。
それほど、何度も何度も、自分で自分を手当てしてきたということだから。

「冨岡さんが怪我をしたら、また手当てをするのでいつでも言ってくださいね」

私なんかが彼の役に立てるはずもないけれど、せめて傷の痛みくらいは一緒に背負わせてほしいと願ってしまう。
軟膏を塗り終えたあと、傷口に小さく切った布を当て、固定布で押さえるだけにとどめた。大袈裟に巻くほどの傷ではないけれど、放っておけばまた擦れてしまう。
「終わりました」と手を離すと、冨岡さんは今度こそ立ち上がって薬箱を部屋の隅に片付けた。

「……食べるぞ」
「はい」

冨岡さんは部屋の隅から戻ってくると、畳に座ったままの私に右手を差し出してきた。引き上げられるようにして身体を起こし、二人並んで膳の前に腰を下ろす。

「わ、私の好きなものばかりです」
「そうか」

短く返しながら、冨岡さんは箸を取り上げる。
少し冷めてしまっていたけれど、湯気を立てる出汁の香りが、ふわりと鼻をかすめた。

手を合わせ、私もお箸に手を伸ばす。
何気ない言葉を交わしながら並んで食べるその時間が、張り詰めていた心をゆっくりと解きほぐしていくようだった。




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