79


「……ここにいたのか」

背後から掛けられた声に、私は三角座りをしたまま、庭へ向けていた視線を少しだけ肩越しに戻した。
夕餉を二人で平らげ、並んで一緒に膳を片付けたあと。お風呂へ向かった冨岡さんを見送り、私は居間を抜け出して縁側の端に腰を下ろしていた。
夜の庭はしんとしていて、池には白い月が綺麗に浮かんでいる。肌を撫でていく夜風も心地よくて、膝を抱えたまま、ただぼんやりと揺れる水面を眺めていた。

「風が……、気持ちよくて」
「湯冷めをするぞ」

そう言いながら、冨岡さんが私の隣へと歩み寄ってくる。

「大丈夫です。冨岡さんこそ、髪が濡れたままですよ」
「すぐに乾く」

私が膝に顎を乗せて見上げると、冨岡さんは髪を拭っていた手拭いを下ろし、私の隣に腰を下ろした。
言葉もなく、ただ並んで庭を眺める。草むらの奥で鳴く虫の声と、風が濡れた木々を揺らす音。風が通り抜けるたび、雨上がり特有の匂いが鼻をかすめる。

「……静かですね。明日は、いい天気になりそうです」

見上げた空には雲ひとつなく、星がまばらに瞬いていた。

「そうだな」

当たり前のように明日へ続く時間が、ただ無性にありがたい。

『ただ温かいご飯を食べて、眠って、今日一日を無事に生きる。それだけで十分なんですよ』

この世界に来たばかりの頃、しのぶさんがそう言ってくれたことがあった。
ここに存在することに、何か大きな意味を求めては立ち竦んでいた私に、彼女がくれた言葉だ。いずれ、意味が分かるようになると言われたが、今やっと分かったかもしれない。
こうして誰かと温かいものを食べ、夜空を見上げ、明日を楽しみに思える。
今日を生き延びたこと、それだけで本当に十分なのだと、隣にいる冨岡さんの静かな横顔を見つめながら思う。

「冨岡さんが、髪を解いてる姿を見るのは珍しい気がします」
「……変か」
「いえ。……すごく、素敵です」

膝の上に顎を預けたまま真っ直ぐ見上げて告げると、冨岡さんは目を丸くしてわずかに息を呑んだ。そのままふっと、視線を池の方へと逃がす。

「……お前も」
「……え?」
「あの蝶の髪飾りだ。よく似合ってた」

そんな言葉が返ってくるなんて、夢にも思っていなかった。首から頬にかけて一気に熱が駆け上がっていく。
たまらなくなって視線を庭へ戻し、誤魔化すように口を開いた。

「あれは……、蝶屋敷のみんながくれたんです」
「お前は、桜色が似合う」
「ふふ、あの桜吹雪の日にも冨岡さんにそう言われました」
「……そう、だったか?」
「はい」

膝を抱えたまま小さく笑って返すと、冨岡さんは少し視線を泳がせて、思い出せないように眉を寄せていた。
覚えてないんだ。あの日、桜が舞い散る中で彼が何気なく落とした一言を、私はずっと大事に覚えていたのに。
――『お前は、その色が似合うのだな』って。

「思ったことは覚えているが」

冨岡さんは少し視線を落とし、記憶を探るように呟いた。

「口に出していたか」
「えっ、言ってましたよ。はっきりと」

思わず隣に向き直ると、冨岡さんは少し困ったように眉を寄せて押し黙る。
心の中で呟いただけのつもりだったのだろうか。無自覚に口から零れていたのだとしたら、それはそれで破壊力が大きい。

「冨岡さんも、私が桜色が似合うってそう思いますか?」
「……ああ」

蝶屋敷のみんなも同じことを言っていた。そう思って確認すると、すんなりと頷きが返ってくる。
忘れていたわけじゃなくて、ただ私に伝えた自覚がなかっただけだった。そう分かって、冷めかけていた頬がまたじわりと熱くなる。

「……だから、あの帯留めをくださったんですか」
「そうだ」
「……冨岡さん、何も言わないから分からないです」

なんだ、そうだったんだ。知らなかった。あの桜の日を、特別に思っていたのは私だけだと思ってた。
きっと着物に合う色を選んでくれたんだろうなって。すごくすごく嬉しくて。
冨岡さんがそんな意味を込めて贈ってくれただなんて、全然知らなかった。

「選ぶのに、随分と時間がかかった」
「そう、だったんですか……?」

思わず問い返しながら、じっとその横顔を見つめてしまう。
だって普段、冨岡さんが隊士たちからなんて呼ばれているか、私はよく知っているから。
無表情で何を考えているか分からないだとか、近づきがたいだとか。そう言われる裏で、任務の場での状況把握能力はすごく早くて、迷う姿を一度も見たことがないって。判断がとても早い人なんだって。蝶屋敷にいると、必然と耳に入ってきてしまう。
…ずるい、なあ。あんなに痛い思いをしたのに、またこの人の言葉ひとつに縋りたくなってしまう。

「そろそろ寝るぞ。冷える」
「あ……」

冨岡さんが立ち上がり、私の手首を引いた。促されるまま私も縁側から立ち上がり、廊下を彼のあとについて歩く。
あんなことを言われた直後に、はいそうですかって眠れるわけがない。やっぱり私は、少しも懲りてないみたいだ。

案内された部屋では、行灯だけが灯った畳の真ん中に、一組だけの布団がぽつんと敷かれていた。

「……あの、またこれ。冨岡さんはどこで寝るつもりですか?」

すっかり忘れていたが、このお屋敷には布団がこれしかないのだ。今日もどうせ、怪我人のお前が寝ろと言って聞かないに決まっている。
言い合って抵抗したところで、敵うはずがない。どうやって説得したものかと頭を悩ませていると、手首が解放された。
冨岡さんはすたすたと部屋の奥へ歩いていくと、押し入れを開け、中から厚みのある敷布団と掛け布団を取り出した。大きな腕でしっかりと抱えながら、こちらを振り返る。

「もう一式ある」
「……いつの間に」
「前のことがあって、さすがに備えは必要かと思った」
「新しく、買われたんですか?」
「そうだ」

思わず目をぱちくりと瞬かせて、抱えられた布団と彼の顔を交互に見つめてしまう。

「ふ、ふふ」
「何がおかしい」
「……いえ、ふふ。ふふ、何でもないです」

手で口元を押さえながら、喉を鳴らす。
一人で布団を買い足した姿を想像すると、どうしても可笑しさが込み上げてきた。いや、隠の人に買いに走らせたのかな。どちらにせよ、あの夜のことを冨岡さんも同じようにきちんと覚えていて、さすがにまずいと悔い改めたらしい。

「そうですよね、さすがに生活感が削ぎ落とされすぎでしたもん」

くすくす笑い続ける私に、冨岡さんはどこか居心地悪そうにしながらも、布団を抱えたまま障子のそばまで寄る。

「俺は隣の部屋にいる。夜中に目が覚めればいつでも声をかけろ」

その言葉に、さっきまでの笑いがすっと引いていった。

「え?一緒に寝てくださらないんですか?」
「いっ」

戸口で固まったままの冨岡さんを見上げて、私は小さく首を傾げる。

「私、何かおかしなこと言いました?」

どうしてそんな顔をされなきゃいけないのか。
だって、私はちゃんと伝えたはずだ。今夜は『冨岡さんがいい』と。
あれは、朝までただそばにいてほしいという意味だった。壁を一枚隔てた隣の部屋にいてほしいわけじゃない。
慌ててその背中を掴むと、立ち止まった冨岡さんが訝しげに振り返る。

「……高月」

言いたいことは分かっている。「お前は警戒心が薄い」という小言をまた並べたいのだろう。
それでも、背中の布地を掴む指に力を込めて、私は真っ直ぐに見上げた。

「あの、私言いました。冨岡さんがいいって。ここにいてください……駄目ですか?」

手を伸ばせば届く距離にいてほしい。同じ部屋の中で、気配をすぐそばに感じて、朝が来るまで安心していたい。
ただ、それだけでいい。今夜だけでいいから。

じっと見つめ返す私に根負けしたのか、冨岡さんは困ったように眉を下げながらも、静かに頷いてくれた。
背中を掴んでいた手の力を抜くと、冨岡さんは抱えていた布団を下ろす。そして部屋の隅、私から一番離れた壁際へとそれを敷き始めた。
あからさまに距離を取るその姿を見て、思わず口が尖る。

「……え、遠いです」

そんなの、そばにいるだなんて言えない。
冨岡さんがこちらと目を合わせることもせず、深く、深く息を吐き出す。そうして敷き終えたばかりの敷布団の端を掴むと、ずるずると引きずって位置をずらした。
私の布団から、手を伸ばせばぎりぎり届くか届かないか、という距離にまで移動される。

「ありがとうございます」

満足した私は元から敷かれていた布団をめくって、そこに腰を下ろした。
畳の上に立ったまま、冨岡さんが見下ろしてくる。

「……男の俺が同じ部屋で、苦痛ではないのか」
「全く。冨岡さんも早く寝ましょう」

促しながら、私は枕元に置かれていた行灯の火を吹き消し、横になった。部屋の中が一気に暗闇に包まれる。
しばらくして、衣擦れの音とともに冨岡さんも布団へ入った気配がした。

静まり返った部屋では、柱時計がコチ、コチ、と一定間隔で時を刻む。
私は体を、背中を向けた冨岡さんのほうへと向けた。

「冨岡さん、冨岡さん」
「何だ」
「もう少しだけ、お話ししたいです。駄目ですか?」

疲れているはずなのに、眠気がやってこない。冨岡さんは疲れているかな。でも、こうして二人きりで話ができる時間が、なんだか惜しかった。
冨岡さんはしばらく沈黙を保っていたけれど、やがてゆっくりとこちらへ寝返ってくれる。

「ありがとうございます」
「……どうした」
「あの、春先に冨岡さんが連れて行ってくださった、焼き鳥屋さん。覚えてますか?」
「……覚えてる」
「あそこ、食べ放題が禁止になったみたいですよ」

私は暗闇に紛れてへらり、と笑ってみせた。
もっと早く言えばよかったくだらない話を、今さら引っ張り出してきている私のずるさに、彼はきっと気づいていない。

「蝶屋敷にいる隊士の方たちが残念そうに話してました。せっかくよく行ってたのに、もうお腹いっぱい食べられないって」
「そうなのか」
「はい。私は冨岡さんのせいじゃないかなって思ってるんです」
「………俺じゃない」
「いえ、絶対そうですよ。あんなに何本も注文するから、お店の人最後は顔を引き攣らせてましたもん」

どこか何かが掛け違えているはずなのに、それに視線を向けずに私は話を続けた。互いに本当に話したいことは、そんなことじゃないと分かっているはずなのに。

「そういえば、にゃー吉がこの前蝶屋敷に女の子の猫を連れてきたんです」

けれども、距離を測りかねる前の、いつもの穏やかな時間をこうして冨岡さんと過ごせることは、とても嬉しかった。
炭治郎くんが刀鍛冶の里へ向かったこと。庭の木々の葉がすっかり落ちて、毎日掃き掃除が欠かせないこと。しのぶさんの任務が増えて、屋敷を空ける日が増えたこと。
思いつく限りの出来事を、途切れないように拾い集めては口にした。冨岡さんも短い相槌を打ちながら、耳を傾けてくれた。




「それから、アオイさんが……」
「高月」

それから、私はかなりの時間喋り続けていたらしい。遮るように名を呼ばれ、口を噤む。

「少し、眠った方がいい」
「…………はい」

さすがにこれ以上冨岡さんを付き合わせるわけにはいかないと、私は素直に瞼を閉じた。けれど、押し寄せる暗闇に耐えかねて、すぐにぱちりと目を開けてしまう。
壁の柱時計に目を凝らせば、もう夜中の二時前だった。うとうととし始めている自覚はあるのに。この恐怖が完全に消え去るまでは、しばらく寝付きも良くはないだろう。仕方のないことだ。
大丈夫。大丈夫。あの鬼も、あの男たちも、ここにはもういない。自分に言い聞かせながら、深呼吸を繰り返す。

冨岡さんは眠ったのかな、とふと視線を上げた時。向けられていた視線に息が止まった。青の瞳が、まっすぐにこちらを射抜いている。

「眠れそうか」

小さく問われ、首を振った。やっぱり、冨岡さんには全部お見通しみたいだ。
本当は、全然大丈夫だって思えない。振り払えない。怖い。息がうまく吸えないんです、冨岡さん。

「……眠れません。目を、閉じたく、ありません」
「触れてもいいか」

言葉の意味が分からなくて、目を瞬かせる。
首を傾げていると、暗闇の中で冨岡さんが少しだけ動く気配がした。布団が擦れる音と共に、彼の体温がじわりと近づいてくる。
え、待って、これって。

次の瞬間、私の布団が持ち上がり、冷えた空気が入り込んだかと思うと――大きな腕が背中に回り、正面からそっと抱き寄せられていた。
何が起こっているのか理解が追いつかず、私は何度も何度も瞬きを繰り返した。

「嫌ならやめる」

言われて、思わずふるふると首を振る。
その動きを感じ取ったのか、冨岡さんの手が私の後頭部に添えられ、そのまま引き寄せられた。
彼の胸元に顔を埋める形になり、一瞬で首から耳までが熱を帯びていく。
暗闇で本当によかった。ほんの少しでも灯りが残っていたら、真っ赤になった顔を見られていたに違いない。

「……冨岡さん」
「全部、一人で抱え込むのが偉いわけではない」

私の戸惑った声をやんわりと遮りながら冨岡さんが言った。

「誰にも迷惑をかけずにいる人間が、必ずしも善いわけではない」

背中に添えられた彼の手のひらが、ぽん、と置かれる。

「己が壊れてしまう前に、その悲鳴に気づいてやれるのは自分しかいない。『助けてくれ』と、そう言えるのも必要なことだ」

冨岡さんはそのまま、私の背中をゆっくりと落ち着かせるように撫で始めた。
その言葉が、私の胸の奥にじわじわ染み込んでいって。ぽたり、と雫が彼の浴衣に染みを作る。
…おかしい。あんなに、もう出ないくらいたくさん泣いたのに。
これまで何度、その言葉を言われてきただろう。けれど、今夜ほどその言葉が沁みたことはなかった。

本当は分かっていたんだ。冨岡さんが意味もなく、他者との間に線を引くような人じゃないって。一見すると冷たくも見えるその境界線には、絶対に何か理由があるんだって。
でも、一度引かれたその線を越える勇気なんて私にはなかった。私自身もずっと引いてきたはずの境界線の、何倍も深くて頑丈な線をこの人は引いたから。
でも、背中を撫でるこの手はこんなにも優しく、温かい。まるで、「助けて」と言うことを許すみたいに。

「……助けてって。ずっと、思ってましたよ」

本当は。
ずっとずっと、思っていたんです。

「何度も、何度も、冨岡さん助けてって」

呼んでも届かないって分かっていながら。頭の中に浮かんでいたのはあなたの顔だけだった。

「でも、それさえも思っちゃいけないって必死に耐えて……」

きっぱりと線を引かれたのだから、もう縋る資格なんてないと思っていた。頼ることも、甘えることも、全部あきらめなければいけないはずだった。
忘れたい。全部消してしまいたい。声も匂いも感触も、全てを。じゃないと、息ができないから。

「なのにっ、なのに、冨岡さんが来てくれるから……っ」

なのに、またこうして一番欲しい瞬間に駆けつけて、抱きしめてくれるから。
この想いは、手放さなければいけないはずなのに。
もう二度と期待なんてしないって、鍵をかけたはずの理性が音を立てて崩れていく。助けてと叫ぶことも許されないと思っていた暗闇の底で、こんな体温を渡されたら――

「諦めるなんて無理があるぅ……っ」

そんな決意なんて全部吹き飛ばしてしまうくらい、この人の腕の中は温かくて。
諦めきれない。こんなふうにされたら、もっと好きになってしまうに決まっている。
どうして優しくするの。痛む胸をぎゅっと押さえつけて、必死に耐えようとする。
もっと酷く突き放してくれたなら。いっそ嫌いになれたら。
それなのに、私が一番ぼろぼろで醜いときに限って、この人はこうして現れるのだ。

「言わなくたって、来てくれるからぁ……っ」

恨み言なのか、感謝なのかすら分からない。ただ、口をついて出る言葉はもう自分でも制御がつかなかった。
いや、突き放してほしいなんて嘘だ。嫌いになんてなりたくない。
私は一体、どうやってこの人を諦めればいい?

「……ひとつ、聞く」

その時、背中を撫でていた手が止まった。それまで、私の言葉を一度も遮ることなくただ静かに受け止めていた人が、わずかに身体を離し、こちらを見下ろしてくる。

「俺は、どうするべきだ」
「え?」
「あの日のことを、もう一度謝ればいいか。それとも」

一拍の間が空く。暗闇の中、すぐ近くにある彼の呼吸音だけがやけに耳に届いた。

「責任を取るべきか」

――責任?
その言葉の意味を理解しようとして、あれだけ溢れていた涙がすっと引いていった。
責任を取るって。あの日、私を突き放すようにして距離を置いたはずの人が。今どんなつもりでそんなことを言っているのか。
あれは彼にとっての「間違い」で、なかったことにしたい過去ではなかったのか。何一つ、意味が分からなかった。
ただの哀れみ?義務感?慰め?本当に、分からない。この人の考えていることが、いつも分からない。
でも、もしも。もしもこれが、私がずっと諦めきれずにいた想いへの答えなのだとしたら。ここで手を伸ばしてしまって、もし違って、次こそ本当に心が折れてしまうのだとしても。
それでも――。

「責任を取ってほしいと言ったら……どう、なりますか」

「こうなる」と、気付けば視界は天井だった。
肩を押されたかと思えばあっという間に敷布団へと押し倒され、私の両頬に手をついた冨岡さんに上から跨がられていた。
至近距離で見下ろしてくる瞳の強さに耐えきれなくなって、思わず顔を横へ背ける。

「こっちを見ろ、高月」
「だ、だって冨岡さん、何考えてるのか分からない……」
「高月」
「っ、」
「分かるだろう」

低く名を呼ばれ、身体を強張らせる。
分かるわけがない。分からない。分からないですよ。勝手に期待しては勝手に傷ついてきたのに。
なのに、自分の気持ちも私に伝わっているはずだと信じ切っているような、そんな声で。

おずおずと、視線を彼の方へと戻した。
目が合った、その瞬間。冨岡さんの顔がすっと近づいてきて、私は反射的に目を閉じた。
冨岡さんになら、何をされたって構わない。そう思っていたはずなのに、身体がぎゅっと縮こまって心臓の音が激しく鳴り響く。

けれど。どれだけ待っても、何かが起こる気配はなかった。おそるおそる、隙間を開けるようにして目を開ける。
冨岡さんの手が、私の浴衣の襟元に添えられていた。その瞳が、私の首元をじっと見つめていることに気づいてはっとした。慌てて両手で自分の襟元を深く掻き合わせると、身体を横へ背ける。

「これは」
「……」
「高月」
「……」
「答えろ。これは」

ふるふると首を振って否定する。
見えないように、湯から上がったあとも襟をきつく合わせて必死に隠していたのに。
見られた。最悪だ。こんな痕なんて、彼に絶対に知られたくなかった。

「乱暴は、されていないんじゃないのか」
「さ、されてません。最後までは」

冨岡さんの手が私の手首を掴み、襟元を押さえていた手を引き剥がした。
露わになった鎖骨から胸元にかけて残る鬱血を見つめ、冨岡さんが息を呑む気配が伝わってくる。

「や、め……っ」

恥ずかしさと居たたまれなさで身を捩るけれど、彼は容赦なく、今度は浴衣の袖をぐっと二の腕に向けて捲り上げた。
強く握られて変色した腕の痣が、暗がりの中に次々と晒されていく。

「とみ、おかさっ……やめっ……て」

懇願しても、彼は止まらない。冨岡さんの手が痛む箇所を確かめるように触れていく。
次の瞬間には、掛けられていた布団が容赦なく剥ぎ取られていた。冷たい空気に晒されて震える間もなく、冨岡さんの手が下へと伸びる。

「や、やだ……っ」

身を捩る私の手首を片手で容易く制し、冨岡さんは浴衣の裾に手をかけた。

「やめてっ、とみおかさ」

ふくらはぎ、膝、そして下着が見えないすれすれのところまで剥き出しにされた太もも。その内側へと、彼の手が伸びる。
痕の残る皮膚に指先が触れた瞬間、じんとした痛みに思わず息を呑んで、身体を跳ね上げた。

「……っ、」
「ここまでされていて、乱暴されてないわけがあるか」

見下ろしてくる瞳には、静かな怒りが滲んでいた。
痛みを確かめるように置かれていた彼の指が、わずかに震えているのが伝わってくる。

「なぜ、言わなかった」

怒っている。私の全部を見透かすような瞳の裏で、抑えきれない激情が渦巻いているのが分かる。

「男たちに手を出される前に、鬼が現れたと……そう聞いていた」
「……」
「掠り傷と打撲程度だと」
「……」
「高月」
「……だって」
「なぜ隠した」

責め立てるような声に、視界が滲む。
言えるわけがない。こんな嫌な痕を残されたなんて、一番知られたくないこの人に言えるはずがないじゃないか。

「だって、こんなひどい」

ぎゅっと奥歯を噛みしめ、溢れそうになる涙を堪えながら絞り出す。

「一番、冨岡さんに見られたくなかった……っ、汚い、って思われるかもって……っ」

張り裂けそうな声で叫ぶと、ぽろぽろと零れ落ちる涙で彼の姿が歪んだ。
恥ずかしくて、悔しくて、両手で顔を覆ってしまいたかったけれど、手首を掴む彼の力は緩まない。

「……汚いなどと、」

冨岡さんの声が、重く震えていた。

「俺が思うはずがないだろう」

彼はそのまま、剥ぎ取った布団を引き寄せると、私の身体の上すっぽりと包み込むように掛け直した。

「そんなっ、だって、こんな痕っ……幻滅する」

私がどれだけ彼を想っているか、彼が知るはずもない。これだけは知られたくなかった。

「お前が傷つけられたのは、俺の責任だ」
「っ違います」
「俺の到着が遅れたせいだ。……すまない」
「ち、違います、冨岡さんのせいなんかじゃありません!私が、私が……っ」

私がもっと上手く立ち回れていれば。馬鹿みたいに隙を見せなければ、こんなことにはならなかったのに。

「わたしが……っ」

込み上げる嗚咽と共に吐き出すと、強く握られていた手首の力が解けた。解放された手でようやく顔を覆おうとした時、それより早く大きな右手が私の頬を包み込む。

「違う。お前は生き延びた」

親指の腹が、目の端から次々と零れ落ちる涙を、優しい手つきで掬い取っていく。

「あれほどの恐怖の中で、俺が来るまで一人耐えた」
「とみ、おかさん……」
「傷だらけのお前を見て、俺が思うのは己の不甲斐なさだけだ。……お前をこんな目に遭わせた奴らへの怒りと、お前を失わずに済んだという、安堵だけだ」

幻滅などするはずがない。そう語りかける声は、震えていた。頬を包む彼の手が、私の熱を確かめるように動く。
悔しくて、堪らない。どうしてあの時、もっと上手く逃げられなかったんだろう。どうして私の身体は、あんな人たちの感触をまだ覚えているんだろう。早く、早く全部消えてほしいのに。

「お前は、何も損なわれていない」

飾り気のない言葉が、深く胸に突き刺さる。
ああ、どうせ触れられるなら、冨岡さんがよかった。そんなみっともない感情が込み上げてきて、その胸元をぎゅっと掴んだ。

「……冨岡さん」

もう、隠すものなんて何もない。強がりも、見栄も、全部この人が剥ぎ取ってしまった。

「助けて、ください」

初めて、まっすぐにその言葉を言った。静寂の中、冨岡さんの瞳がわずかに揺らぐ。
何を、言っているのか。自分でも分からなかった。あんな人たちの感触を塗りつぶすために、彼を利用するなんて失礼なのに。
でも、これ以上一人で耐えるなんて無理だった。
助けて、と言ってもいいのなら。そう口にすることを、許してくれるのなら。

ごくり、と。目の前で彼の喉仏が上下する。
私が何を求めているのか。その言葉の奥にある本当の意味を、彼は正確に理解したみたいだった。
頬を包んでいた手の震えが止まり、静かに見つめ返してくる。
張り詰めた沈黙の中、やがて冨岡さんは深く息を吐き出した。

「……分かった」

低く落とされた声とともに、頬を包んでいた手がゆっくりと肩へ滑り降りていく。

「嫌なら、払え」

自分から願ったはずなのに、その手のひらは、触れている私の肌が火傷してしまいそうなほど熱かった。
思わず目を閉じた私に、冨岡さんはそっと顔を寄せる。そして降ってきたのは、首筋に触れる柔らかく湿った感触。
最初は無言のまま、首筋から鎖骨へと。触れるだけだった唇がやがて肌を捉え、ちり、と吸い上げられた。

「っとみおかさ」
「怖いか」

驚いて目を開き、思わず名前を呼んでしまったけれど、ふるふると首を振って否定する。
怖くない。冨岡さん相手に、怖いなんて思うはずがない。
冨岡さんは私の様子を見定めるように、肌の上で一度動きを止める。私が逃げ出さないか、確かめているみたいだった。

そのせいで、首筋に埋まった彼からこぼれる熱い吐息に、背中が震えてしまう。頬に触れる癖のある髪が、くすぐったい。
でも、恐怖じゃない。触れられているのがこの人だからこそ、身体中が過敏に熱を拾ってしまうのだ。
そのまま唇が下へと這っていき、また熱が落とされ、ちう、と吸われる。

「っ、……」

鋭い刺激に今度こそ身をよじった直後、その熱を持った箇所を柔らかな舌がざらりとなぞった。
どうしよう。自分から言っておいて、ついていけないかもしれない。痛いのか甘いのかも分からない感覚に翻弄されて、ただ荒くなる呼吸を繰り返すことしかできなかった。

「冨岡さん、身体があつくて」

頭の芯までとろけてしまいそうな熱さに怯えながら、縋るように彼の浴衣の胸元を握りしめる。

「これも、薬のせい、ですか?」

あんなものを飲まされたから、身体がおかしくなっているのだろうか。
震える私の問いかけに、冨岡さんは肌に落としていた唇をわずかに離した。至近距離で見つめ返してくる青の瞳が、熱を孕んで揺れている。

「……違う。俺が、そうさせてる」

彼の手が下へ滑っていく。浴衣の上から、脇腹から腰のくびれにかけて的確になぞり上げられて、頭の芯がじんと痺れた。
まずい、かもしれない。ここで止めなければ、自分の中の理性が跡形もなく溶けてしまう。

行き場をなくして彷徨っていた私の片手が、彼にそっと持ち上げられた。
引き寄せられた手首の内側――赤黒く手形が残る皮膚の上へ、冨岡さんは迷いなく唇を落とす。
ちり、と脈打つそこを吸い上げる彼の姿に、思わず息を呑んだ。

そのまま指を絡ませるように、敷布の上へと縫い留められる。
掛けられていた布団は再び剥ぎ取られ、反射的に反対の手で乱れた着衣を直そうとしたけれど、その手もすぐに掴まれて止められてしまった。

自由を奪われた腕の広い袖口から、彼の手が滑り込んでくる。指先が素肌に触れ、手首から二の腕の内側をなぞるように這い上がってくる。
そのまま首筋までたどり着いた大きな手のひらは、うなじを包みこむようにして止まった。

「高月」

ああ、駄目だ。名前を呼ばれるだけで、底なしに蕩かされる。
顔に、影が落ちてくる。唇が近づいてきて、口づけされるんだと分かった。
拒みたいわけじゃないのに。目の前に迫る顔に、あの時の男たちの影が一瞬だけ重なって、反射的にぎゅうっと固く目を閉じた。

ふっ、と目の前で彼の気配が止まる。冨岡さんの顔がわずかに横へと滑る気配がする。
こめかみをかすめるような吐息のあと、頬に柔らかいものが触れた。

「……っ」

思わず目を開けると、至近距離にあった青い瞳は、痛ましそうにすがめられていた。
冨岡さんはそのまま、私に重ねていた身体を離し、縫い留められていた手首が放される。
何も言わず、はだけた私の浴衣を引き寄せると、丁寧に帯を直してくれた。足元に丸まっていた布団を引き上げ、肩まで包み込むように掛け直す。
あっけにとられて見つめる私を、冨岡さんは見下ろした。

「無理をするものじゃない」

頬を熱いものが伝っていって、そこでようやく、自分がまた泣いていることに気づく。

「もう何もしない」

冨岡さんはそう言うと、私の隣へ身体を横たえた。
掛布団越しに、大きな腕が回される。引き寄せられるようにして彼の腕の中に収まると、身体ごとすっぽりと包み込まれた。

「……もう寝ろ。ここにいる」

その広い胸に顔を埋めながら、涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
やっぱりこの人は、どこまでも優しい。
冨岡さん、冨岡さん。声には出せないけれど、心の中で何度も、何度も叫ぶ。
あなたが好きです。どうしようもないくらい、好きなんです。もう何度も同じことを胸の内で叫んだが、その時よりもずっと胸が張り裂けそうなくらいに想いが膨れ上がっていた。
日々、過ぎる毎に冨岡さんのことが好きになる。毎日あなたに、恋をしている。

「……好き、です」

胸元に顔を預けたまま、誰にも届かないほど小さく囁いて、私はそっと瞼を閉じた。背中に回る腕の力が、少しだけ強まったような気がした。



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