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ゆるゆると、頭を撫でられている感覚がする。やわらかな重みを持った手のひらが、髪をすくようにして、一定の間隔で何度も繰り返される。
どこか懐かしい感触だった。まだ幼かった頃、泣いてばかりいた私の頭を、母がこうして宥めるように撫でてくれたことがあった。悲しいことや痛いことがあっても、その手が頭の上にあるだけで、不思議と呼吸が落ち着いていったあの朝。あの時の温もりに、よく似ている。
まだ半分眠っている頭のなかで、それが誰のものかを確かめるまでもなく、胸がきゅうと満たされていく。この手のひらの下なら、どんな夢を見ても怖くないような気がした。
微かに届く鳥の声。障子の隙間から差し込む光の白さ。まどろみの中で、少しずつ意識がはっきりとしていく。
心地よい重みに身を任せたまま、ゆるりと瞼を持ち上げた時。

「目が覚めたか」

すぐ頭の上から降ってきた声に、ぱっと目を大きく見開いた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、濃紺の浴衣に、はだけた襟元から覗くたくましい胸板。
おそるおそる顔を上向けると、こちらを見下ろしている青い瞳と至近距離で目が合う。

「とみ、おかさ……」
「よく眠っていたな」

昨夜の出来事のひとつひとつが鮮明によみがえってきて、首から頬にかけて一気に火がついたように熱くなる。
穴があったら入りたい。なんであんなみっともない姿を見せてしまったんだろう。後悔と恥ずかしさで頭がおかしくなりそうで、慌てて視線を胸元へ逃がした。
けれど、逃がした先で目に入ったのは色白い肌で、見ちゃいけない、とさらに下へと視線を落とす。

「……一晩中、そばにいてくださったんですか」
「お前がそう言ったんだろう」

あまりにも当たり前のように返されて、言葉に詰まった。
私がゆっくり寝られたのは、間違いなく冨岡さんが傍にいてくれたからだろう。一人だったらきっと眠れなかった。…なんだか子供みたいだ。

ふと、身体がやけに重くて温かいことに気づいて視線を布団へ移した。
自分の布団の上にもう一重、向こうにあったはずの冨岡さんの掛け布団が重ねられている。
昨夜は布団越しに腕を回されていたはずなのに、いつの間にか彼が自分の布団を引き寄せて、二重にして私ごと包み込んでいたらしい。

「あの、いつから起きて……」

恥ずかしさを誤魔化すように尋ねてみるけれど、冨岡さんは何も答えない。ただ大きな手で、私の髪をさらりと撫で続けるだけ。もしかして、私が目を覚ますずっと前から、こうして見つめていたのだろうか。
今、何時だろう。確認しようと壁の柱時計へ視線を向けようとしたけれど、目の前を塞ぐ冨岡さんの身体に阻まれて何も見えない。

「いま何時、ですか」
「七時を回ったところだ。もう少し寝るか」
「い、いえ。起きます」

慌てて答えたものの、頭の上にある手は退いてくれない。さらり、さらりと髪を梳く心地よい感触に身を委ねながら、ふと思う。
冨岡さんは眠れたのだろうか。不眠はまだ続いているのだろうか。昨夜だって私のくだらない話に付き合って、夜中まで起きていてくれたのだ。ちゃんと休めたのだろうか。

「冨岡さんはよく、眠れましたか?その、不眠、のほうは……最近はどうなのかなって」

ごにょごにょと言い訳がましく尋ねると、髪を撫でていた彼の手が止まった。見上げると、冨岡さんはどこか不服そうに眉を寄せている。

「……お前は本当にぶれないな」
「だ、だって」

気になるものは気になる。朝からこんな色気のないことを聞いてしまうのは自分でもどうかと思うけれど、聞かないとずっと頭から離れてくれないのだからどうしようもない。それに、会えない間だってずっと気にかかっていたのだから。
じっと見つめ返していると、冨岡さんがわずかに顔を寄せてきた。ひやりとした空気の中で、耳たぶをかすめる熱い吐息。

「良くないと言ったら、今度はどうしてくれるんだ」

耳元に、低く掠れた声が落とされる。昨夜のあれこれがそのままよみがえってきたような低音に、かあっと首から上が沸騰した。
待ってほしい。冗談なのか本気なのかすら分からないけれど、私にはあまりに刺激が強すぎる。棗(なつめ)だとか、生姜だとか、できる限りのことをあれこれ届けてきたけれど、そういうことじゃないと分かってしまうから困るのだ。
真っ赤になって固まる私を見て、冨岡さんはふっと息を吐き出した。

「……冗談だ。俺はそんなにやわじゃない」

頭の上にぽんと手を置き直すと、真面目な顔で言う。

「自分の心配をしろと言った」

冗談、だった。とんでもない。私を気遣って、空気を和らげようとしてくれたのだろうか。そんなことすら、この人の表情からは読み取れない。
かちこちに固まって身動きが取れずにいると、冨岡さんは私から手を離して、布団から上体を起こした。

「腹は減ったか」

…減ったような、そうでもないような。身体がまだうまく目覚めきっていなくて、自分でもよく分からない。
冨岡さんは少し考えるように視線を宙へ向ける。

「昨日の残りの、味噌汁があったはずだ」
「……食べます」

冨岡さんのお味噌汁。食べたい。その甘美な響きに、布団を鼻先まで引っ張り上げながら答えると、冨岡さんは立ち上がって乱れた浴衣の帯を締め直した。
そして、部屋の障子まで歩くと、引き戸に手をかけ振り返りもせずに言う。

「呼ぶまで、寝ていろ」

ぱたん、と障子が閉まる。一人取り残された部屋の中で、私はようやく大きく息を吐き出した。
まだ心臓は早鐘を打っていたけれど、胸を満たしていたのは、昨日までの冷たい恐怖ではなくて、泣きたくなるほど穏やかな温もりだった。




*




「……寝ていろと言ったが」
「あ、あの、着替えが……見当たらなくて」

台所の板間に足を踏み入れたら、鍋に火をかけていた冨岡さんが肩越しに振り返った。すでに隊服姿に着替えている。
視線を泳がせながら告げると、冨岡さんは手にしていた柄杓を置き、こちらに向き直った。

「次の間の、衣桁(いこう)に掛けてある」

言われて思い出す。昨夜、湯に入る前に脱いで畳んだままになっていたはずの私の着物。

「移動させて……くださったんですか」
「煤だらけだったから」

それもそうかと思い直す。昨夜のあれで汚れているから、彼がわざわざ運んでおいてくれたみたいだ。
今すぐ着てしまうより朝餉をいただいて、それからきれいに煤を払ってから袖を通したほうが良さそうだ。
いつも蝶屋敷にいるこの時間は、朝餉の支度で慌ただしく動き回っている時間帯だ。なんだかじっとしていられず、こうして起き出してきてしまったけれど。

「何か、手伝えることはありますか」

手持ち無沙汰をごまかすように声をかけながら、鍋の様子を見守る冨岡さんの隣へと並んだ。
台所を見回し、しゃがみ込んで蠅帳(はいちょう)の扉を開ける。
塩と味噌の甕(かめ)。根菜が少し。それから干した椎茸。
綺麗に片付いてはいるけれど、やっぱりここにも生活感がほとんどない。一人で暮らしているのだから当然かもしれないけれど、本当に最低限のものしか置いていなかった。
その隅に、籠に入った卵を見つける。

「あ、卵がありますね。卵焼き作ってもいいですか?」

下から見上げると、冨岡さんは視線だけでこちらを見て小さく頷いた。
私は卵を三つ取り出して立ち上がり、深鉢を出して台の上に置く。殻を割って落とし、菜箸を手にした。

「冨岡さんは、甘いほうが好きですか?それともお出汁……」

そこまで言って、手が止まる。いつの間にか、冨岡さんが私の顔をじっと見下ろしていた。
息を詰まらせて固まっていると、すっと手が伸びてきて頬に触れる。何かを確かめるように、親指の腹が傷をそっとなぞった。そのまま無言で輪郭を辿り、冷たい指先が首筋へと滑り落ちる。
思わず息を呑んだところで、手の甲が首の付け根にぴたりと当てられた。

「まだ、一人は不安か」

見つめ返したまま、小さく頭を左右に振る。

「……いえ、そんなことは」
「なら、着替えてこい」
「え?」
「手伝いは要らない。一人でいるのが嫌なら話は別だが」

それだけ言って、冨岡さんは首からすっと手を離した。
こうして隣に立っているのが、まだ彼に縋りついているように見えただろうか。

「もう一度、湯に入るか」
「大丈夫です」

昨夜借りたばかりなのに、と慌てて断ると、冨岡さんは鍋の火加減へと視線を戻した。

「なら、着替えてから座っていろ。すぐにできる」

淡々とそう告げられてしまえば、それ以上食い下がることもできない。
「…はい」と小さく答えて、手放した菜箸を台の端に置き、促されるまま台所を後にした。

次の間に足を踏み入れると、衣桁に掛けられた自分の着物が目に入る。
煤を払おうと伸ばしかけた手を止め、なんとなく居心地の悪さを覚えて、両手でぴとりと自分の頬を包み込んだ。

――熱い。
手を通して伝わってくる熱さに、ぎょっとする。触れられた瞬間から火照っていた自覚はあったけれど、ここまで熱を持っていたとは思わなかった。
けれど、じわじわ湧き上がってくるようなこの気だるさは、ただの照れや動揺で片付けるにはどこか重たすぎる気がした。
…少し、熱があるんだろうな。気が張っている間は分からなかったけれど、頭がほんのりぼんやりしている。
冨岡さんが触れてきたのは、私の体温の異常に気づいていたからなのかもしれない。

『責任を取るべきか』

…あれは、一体どういう意味だったんだろう。
昨夜のことも全部、あの人の言う「責任」の内側なのだろうか。

けれど、あれこれ理由を探そうとすること自体が、どこかずれたことのように思えた。彼の胸の内を推し量って、期待したり、諦めたり、名前をつけて納得しようとすることすら、今は何だか違う気がする。
言葉も、抱きしめられていた時の骨がきしむほどの強さも、肌に落とされた熱も、まだぜんぶ残ってる。
鬱血や擦り傷は、日が経てば薄れていつか消えていくのだろう。
けれど、それを塗りつぶすように触れてくれた彼の熱は、たとえ癒えてなくなったとしても、きっと私の奥深くに残り続けて消えないのだ。

冨岡さん。あなたにとっての「責任」って、一体なんですか。
あんな風に突き放して泣かせたことへの埋め合わせですか。それとも、私の想いに気づいてしまって、見捨てられなくなったからですか。
もしそれが、優しすぎるあなたが自分に課した義務なのだとしたら、私はどう笑えばいいんだろう。
私の全部を包み込むように抱きしめてくれたあの腕も、髪を梳いていた手のひらも、全部「そうすべきだから」したことなんですか。
けれど、義務であんなふうに誰かを抱きしめられる人間がいるだろうか。あんなにも切なそうに眉を寄せて、世界でいちばん壊れやすいものに触れるみたいに、私の名前を呼ぶことができるだろうか。
冷たい言葉で境界線を引いたくせに、熱い体温でそれを踏み越えてきた彼の真意が分からなくて、苦しくて、愛おしい。

…やめよう、ぐだぐだ考えるのは。
知らないなら知ればいい。知りたいなら知りにいけばいい。
言葉なんて、結局は心を切り取るための道具にすぎない。器用に並べられた言葉ほど嘘が混ざりやすくて、何かを形にしようとするほど、いちばん大事な感情が零れ落ちることだってある。
冨岡さんはきっと、それを誰よりも知っている人だから。彼が言葉にしない想いは、私が全部拾い集めていけばいいんだ。これまでみたいに。

左手首の内側に指先で触れ、胸がきゅうと痛んでたまらない気持ちになった。
見るのも嫌だった痣の上、彼が唇を重ねてくれたその痕に、自分の唇をぴたりと押し当てる。
――熱のせいか、それとも。零れそうになる涙を堪えながら、その温もりをしばらく胸に刻みつけていた。




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