81


冨岡さんと帰った蝶屋敷では、みんなが待っていてくれた。屋敷の敷居を跨ぐ暇すら与えられず、門をくぐった途端に、幾重もの腕が一斉に伸びてきて身体ごと閉じ込められた。
誰も、何も言わなかった。「無事だったのか」とも、「怪我はないか」とも、責める言葉も安堵の言葉すらも口にしない。ただ、私の身体をこれでもかと言わんばかりの強い力で、ぎゅうぎゅうと抱きすくめた。

きよちゃん、すみちゃん、なほちゃんが泣きながら小さな腕を腰に回し、しがみついてくる。
私が無茶をするといつもなら怒るはずのアオイさんも、きつく唇を噛み締めたまま、折れそうなほどの力で私の背中を抱きしめて離さない。
そして、その外側から私ごと皆を包み込むようにして回された、しのぶさんの腕。首筋に埋められた彼女の顔から、熱い雫が零れ落ちて私の皮膚を濡らした。

何も言わないでいてくれることが、痛いほど優しかった。どんな言葉を並べられるよりも、どれほど自分が大切に思われているのかが伝わってきた。
みんなの温もりに包まれたまま、私は堪えきれずに、またぽろぽろと涙を零してしまった。




*




「薬屋に行ったら……もう、帰ったって言われて……っ!でも、屋敷に戻っても……やっぱりいなくてっ!どこを探してもいなくて……っ!わたし、わたし……っ!」

途切れ途切れのアオイさんの声は、すぐに激しい嗚咽に呑まれて言葉にならなくなってしまった。背中に回された手の力は一向に抜けなくて、私の着物をきつく握りしめてくる。
こんなにアオイさんが泣いているのを見るのは、遊郭から戻った炭治郎くんたちが目を覚ました時以来かもしれない。
いつもはあんなにしっかりしているのに。あの時と同じように、張り詰めていた糸が切れてしまったのだろう。買い出しを頼んだ自分のせいだって、ずっと自分を責めていたに違いない。

「うん。ごめんなさい、アオイさん」

痛む腕を持ち上げて、震えているアオイさんの肩にそっと置く。そして、ゆっくりと背中を撫で下ろす。

「心配かけて、ごめんなさい」

どれだけ謝っても足りない。
もしあのまま戻れなかったら、アオイさんはこの先ずっと、自分のせいだと抱え込んで生きていくことになっていたのだ。そんな重荷を、この少女に背負わせそうになっていたなんて。

「うわぁぁん!よかったぁ、ご無事でよかったぁぁっ!」

すみちゃんとなほちゃんが堪えきれなくなったように私の腰元に顔を埋めて、大きな声をあげて泣きじゃくる。
この子たちにも、不安な思いをさせてしまった。
鬼によって家族を奪われ、この屋敷に身を寄せている子たちだ。普段は誰よりも健気に、屋敷の仕事をこなしているけれど、本当はまだこんなにも幼くて、小さな子供たちなのだ。
暗闇がどれほど怖いか、身近な人がふっといなくなってしまう恐怖をどれだけ知っているか。

「ごめんね。怖がらせて、ごめんね」

小さな身体をこれ以上震わせないように、みんなを引き寄せるようにしてぎゅっと抱きしめ直す。

「わたしが……っ!」

縋りついていたきよちゃんが、ひときわ大きく肩を跳ねさせて顔を上げた。

「わたしが、一緒について行けばよかったんですっ!途中で別れたりしないで、薬屋までちゃんと一緒に行っていれば……っ!」
「きよちゃん」
「お買い物、別々になんてしなきゃよかった……!ひとりにさせちゃったから、わたしのせいです、わたしが……っ!」
「違うよ、きよちゃん。きよちゃんのせいなんかじゃ絶対にない」

私はしゃがみこむようにして視線を合わせ、震えるきよちゃんの小さな両手を包んだ。

「きよちゃんは何も悪くないの。だから、ごめんね」

言い聞かせるように力強く告げると、きよちゃんは「うわぁぁん!」と声を張り上げて、私の胸元に頭を押し当てて泣き崩れた。
重なるみんなの体温に、また泣きそうになる。生きて戻れて本当によかったと、心の底から思った。

少し離れた門柱の陰では、しのぶさんと冨岡さんが並んでこちらを見守っていた。
二人とも張り詰めた面持ちで何かを話し合っている。おそらく、私がどんな目に遭い、どこにどんな傷を負わされたのか。冨岡さんが私の状態を伝え、しのぶさんがそれを聞き取っているのだろう。
私の前では包み込むように抱きしめてくれたしのぶさんだったけれど、その横顔には怒りが潜んでいるように見えた。
もう全てを隠し通すことはできない。けれど、こうして二人がついてくれているなら安心だ。

「ちょっとだけ、ごめんなさい」

きよちゃんの背中をもう一度優しく撫で、みんなの腕の中から抜けて立ち上がった。言葉を交わしていた二人が、こちらの動きに気づいて同時に口を閉ざす。
私は歩調を速め、二人の元へと駆け寄った。

「しのぶさん」

呼びかけると、しのぶさんの表情がふっと解けいつもの柔らかい笑みが浮かぶ。

「……しのぶさん、本当にありがとうございました。ご心配をおかけして、ごめんなさい」

頭を深く下げる。
昨夜、誰よりも早く事態を察知して動いてくれたこと。動ける隊士たちを集めて町中を探し回ってくれたこと。そして何より、私がいない間、屋敷のみんなを支え続けてくれたこと。
言葉にしようとすればするほど喉の奥が詰まってしまいそうだったけれど、真っ直ぐに顔を上げ彼女の瞳を見つめた。

「無事に帰ってこられたのは、しのぶさんがすぐに動いてくださったおかげです。本当に……ありがとうございました」

しのぶさんは手を伸ばして、私の乱れたおくれ毛をそっと耳にかけてくれる。

「謝らなければならないのは、こちらのほうですよ。贔屓にしていた薬屋だったとはいえ、私がもっと早く企みに気づいていれば……あなたをこんな恐ろしい目に遭わせずに済んだのですから。本当にごめんなさい」

私は慌てて、ふるふると激しく首を振った。
しのぶさんのせいなんかじゃない。ずっと親切な顔をして近づいてきた相手の悪意なんて、誰も見抜けなかったはずだ。

「安心してください。あの男はすでに警察へ引き渡しました。私のほうからも徹底的に手を回しましたから……もう二度と、日の当たる場所には出られません」

私の顔を見つめ直すと、声音はまた穏やかで優しいものへと戻る。

「今後、事情聴取などで出向く必要が出てくるかもしれませんが、その時は私か冨岡さんが必ず付き添いますから」

しのぶさんの言葉に胸を撫で下ろし、私は隣に立つ冨岡さんを見上げた。視線に気づいた冨岡さんは、「ああ」と頷いてくれる。

「……はい。ありがとうございます」

ぎゅっと胸元を押さえながら答えると、冨岡さんは目を細め、安心させるように小さく息を吐いた。

「そういえば」

ふと、しのぶさんが思い出したように悪戯っぽく目を細める。

「すごーく貴方を心配していた隊士が一人、中にいるんですよ。それはもう、死にそうな顔をして屋敷の中をうろうろと……」

しのぶさんがそこまで言いかけた時だった。

「っ、リサさぁぁぁん!!!」

屋敷の奥から張り裂けんばかりの声が響き渡り、土煙を上げるような勢いで誰かがこちらへ突っ込んできた。
え?と振り返る間すらない。突進してきた勢いそのままに、正面から私の腰へ両腕がぎゅうっと回され、息が止まるほどの力で強く抱きしめられる。

「わっ」
「リサさん!僕、僕もうっ!すごく、すごく心配したんですからぁっ!!」

胸元で泣き喚く頭を見下ろすと、やわらかく波打つ茶色い髪。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、見覚えのある可愛らしい顔がそこにあった。

「ゆ、雪くん!?」

思わず声が裏返る。
雪くんは私の驚きなどお構いなしに、腰にしがみついたまま顔を上げ、焦燥に駆られた様子で早口にまくし立てた。

「無事ですか!?あ、いえ、何も答えなくていいです!大きな傷は!?どこか痛いところは!?本当に、本当に大丈夫なんですか!?」
「え、あ、う、うん。大丈夫、大丈夫だから……っ」

あまりの剣幕と至近距離からの圧に、思わずたじろぎながら答える。
雪くんはなおも大きな瞳からぼろぼろと涙を零しながら、私の腰に回した腕をこれでもかと締め上げてきた。

「ぼ、僕、生きた心地がしなくて!久しぶりに怪我してここに運ばれてきたと思ったら、リサさんが行方知らずだって聞いて……っ!」
「ご、ごめんね。心配かけて」

あまりにも必死に泣きじゃくるものだから、私は苦笑しながら、そのふわふわの頭をそっと撫でた。
以前のこともあって、次に顔を合わせたら少し気まずいんじゃないかと身構えていたけれど――ぎくしゃくしていたのは私だけのようだ。
あんな命の瀬戸際を経験したあとでは、消化不良のまま気まずさを引きずって、永遠に会えなくなってしまうことの方がよっぽど恐ろしい。
この際もう、ぜんぶ水に流してしまおう。これでいつも通りだ。

そう思いながら優しく髪を撫でていると、ふいに着物の袖をくいと引かれた。わずかな力加減だったけれど、驚いて視線を上げる。
いつの間にか背後に冨岡さんが立っていて、いつもよりほんの少しだけ眉間を狭めた表情のまま、こちらを見下ろしていた。

「冨岡さん?」

首を傾げると、冨岡さんは雪くんの腕が私の腰に回っているのを一瞥してから、淡々と言った。

「……もういいだろう。早く中へ入れ。お前は熱がある」
「あ、はい。そうします。これ以上みなさんに迷惑かけるわけにはいきませんし」

これ以上熱が上がって、悪化してしまったら本当に大変だ。
傷だって冨岡さんが応急処置をしてくれたけれど、薬のことやこれからの処置も含めて、しのぶさんに診てもらわなければいけない。

「雪くん、ごめんね。ちょっと熱も上がってきてるみたいだから一旦……、」
「あの、」

冨岡さんが私の手首を取って引き寄せようとしたのと同時に、隣からやや低い声がそれを止める。
視線を向けると、先ほどまで泣いていたはずの雪くんが、涙を止め、難しい顔をして冨岡さんを見据えていた。

「……何だ」
「リサさん、怪我してますけど。手足と頬以外は見えないので分からないですけど、他にも傷があるんですよねきっと。……あなた、本当に柱ですか?これ、本当にリサさんを守りきれたって言えるんですか」

突然の雪くんの爆弾発言にぎょっとする。

「え、雪くん何言ってるの冨岡さんは私を」
「ちょっとリサさんは黙っててください」
「えっ」

ぴしゃりと言われてしまえば、口を噤む他ない。
普段の懐っこい笑顔からは想像もつかないほど、雪くんは真剣だった。
冨岡さんと雪くんの間の空気は、決して穏やかではない。しばし二人はじっと睨み合うような形で見つめ合っていたが、やがて雪くんがわざとらしいほど愛らしく笑って首を傾げた。

「リサさん?熱があるんですよね。僕が診察室まで送ります。……しのぶさん、いいですよね?」

私の腰を支えるようにすっと引き寄せながら、雪くんは側に立つしのぶさんへ視線を投げる。
それまで口を挟まずに成り行きを静観していたしのぶさんは、口元に手を当ててどこか楽しそうに目を細めた。

「ふふ、ええ。構いませんよ」

面白がるような声で、あっさりと許可を出してしまう。
その隣で、冨岡さんの眉間の皺が一層深くなった気がした。

「リサさん、行きましょう」
「えっ、あ、うん。……分かったよ」

ぐいぐいと手を引かれて、その方向によろめく。強引に歩く雪くんに若干の違和感を覚えつつも、私は振り返って冨岡さんを見つめた。
これが最後にはならないよね。またすぐに、会ってくれるよね――。
また前みたいにすれ違ってしまうんじゃないかという不安が、胸をよぎる。そう思いながら視線を絡ませた、その刹那。

すっと伸びてきた冨岡さんの手が、私の手首を掴んだ。素肌の残る骨のあたりを、しっかりと握られる。
驚いて足を止めたと同時に、足を止められた雪くんがあからさまに不機嫌そうに振り返った。

「何ですか?リサさんを早く休ませてあげたいんですけど」

尖った声をぶつける雪くんをよそに、私の心臓は跳ね上がっていた。
何か言いたいことがあるのだろうか。引き止めてまで、何を伝えてくれるのだろうか。
冨岡さんはじっと私の顔を見つめ、何かを熟考するように沈黙したあと、ぽつりと口を開く。

「……身体は、大丈夫か」

身体?手足の痺れならほとんど引いていると思い至り、彼を安心させたくて小さく頷いた。

「あ、はい。それはぜんぜん大丈夫で……」

とまで答えた時。屋敷の敷地内からこちらの様子を遠巻きに伺っていた隊士から、ざわざわと不穏なざわめきが立ち上がる。
ひそひそと交わされる推測の声が耳に届き、一瞬で頬がかっと燃えた。

――わざとだ。男女が一晩を共に過ごした翌朝に、大勢の前で「身体は大丈夫か」なんて聞かれたら、どういう意味に取られるかくらい分かるはずだ。

「け、怪我!冨岡さんが綺麗に手当てしてくださったので、ぜんぜん平気です!あとはしのぶさんに診ていただきますね!本当にありがとうございました……っ!」

一気にまくし立てると、私は冨岡さんの手からするりと手首をすり抜けた。
そのまま固まる冨岡さんに深々と頭を下げ、呆然とする雪くんの手を強引に引き寄せる。

「い、行こう。雪くん!」

赤く染まった顔を誰にも見られないよう伏せたまま、私は逃げるようにして屋敷の中へと足を踏み入れた。





***





若い隊士の手を引きながら逃げていくリサさんの背中が、屋敷の奥へと消えていく。パタパタと慌ただしい足音が完全に遠のいたのを見届けてから、私は隣の彼へ視線を戻した。
見れば、彼は額に手を当て、片手で目元をすっぽりと覆ったまま、石像のようにぴくりとも動かなくなっている。

「……他に、かける言葉はなかったんですか?」

呆れを通り越して感心すら覚える声で問いかけてあげると、覆われた手の下から地を這うような溜息が聞こえてきた。

「……自分でも、なぜあのような言い方になったのか分からない」
「でしょうね。冨岡さんの言葉足らずは今に始まったことではありませんが」

まったく、世話の焼ける人だ。昨夜あんなにも必死になって駆け回っていたくせに、いざという場面でこの体たらく。
私は肩をすくめ、容赦のない現実を突きつけてあげることにした。

「だから言ったでしょう?ぼんやりしていると、あっという間に取られてしまいますよ。リサさんは蝶屋敷では大人気なんですから」

その忠告に、彼はゆっくりと顔から手を離した。何を考えているのか読めない、けれど妙に真っ直ぐな目で前を見据える。

「取られはしない」

ぼそりと呟かれたその一言に、今度は私が目を丸くする番だった。彼はそのまま背を向ける。

「怪我の手当てを頼む。……また来る」

それだけ言い残して、引き止める隙も与えずにさっさと歩き去ってしまう。迷いのない後ろ姿を見送りながら、私は思わず手で口元を覆った。

「あら」

いつもなら的外れな否定をして逃げるはずなのに。随分とはっきり言ったものだ。
――まったく、本当に不器用で、面倒くさくて、可愛い人たち。
さて、赤くなって逃げていった彼女の手当てに向かいましょうか。どんな顔で迎えてくれるか、今から少し楽しみだった。




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