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「リサさんっ」
廊下の向こうから弾んだ声が聞こえて、私は足を止めた。振り返ると、まだあどけなさの残る顔いっぱいに笑みを浮かべた雪くんが、入院服の裾を翻しながらこちらへ小走りで駆けてくるところだった。
「雪くん」
「やっぱりここにいた。探したんですよ」
「あ、うん。お掃除ちょうど終わったところで」
私の目の前でぴたりと止まり、屈託のない様子で首を傾げる。
夏以降しばらく会えない時期が続いて、こうしてまた再会してからも、彼は変わらず蝶屋敷の中で私を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきてくれる。
あの頃とちっとも変わっていない姿に、なんだか懐かしいような、ほっとするような。
けれど――いつ頃からだっただろうか。彼のその親切や好意に、ほんの少しだけ息苦しさを覚え始めたのは。
最初に「あれ?」と思ったのは、台所から井戸端へ大鍋を運ぼうとした時のことだった。
水が並々と入った重い鉄鍋を持ち上げようと腰を落とした瞬間、突然背後から伸びてきた手がその手を制止した。
「あっ、駄目ですよ!そんな重いもの持っちゃ!」
「えっ、雪くん?いつの間にいたの?」
「貸してください。僕がやります」
「これくらい大丈夫だよ、いつも一人で――」
「駄目ですってば!」
私の言葉を遮るようにして、彼は強引に私の両手を鍋の取っ手から引き剥がした。その力は、普段の柔らかな物腰からは想像もつかないほどに強くて、思わず手首に痛みが走ったほどだった。
驚いて目を丸くする私をよそに、彼は軽々と鍋を持ち上げてみせた。
「僕がいるんだから、力仕事なんて絶対にしちゃ駄目です。足の傷が開いたらどうするんですか。僕が全部やりますから、リサさんはそこで見てるだけでいいんです」
「あ、う、うん。ありがとう」
頼もしいな、優しい子だな、と素直に思った。
しのぶさんにも無理をして動かないようにと、口を酸っぱくして言われていたばかりだったのに。けれど、じっと布団に横たわっているだけの毎日にどうしても落ち着かなくなってしまって、これくらいなら平気だろう、自分にもできるはずだと、ついつい身体を動かしてしまう。
そんな私の悪い癖を咎めるでもなく、こうして庇うように先回りしてくれる雪くんの気遣いは、純粋に有り難いものだと感じていたのだ。けれど。
「リサさんの手は、こんな鉄の錆や煤で汚れていい手じゃないんです。絶対に一人で持たないでくださいね」
繰り返された口調が少しだけ真に迫りすぎていて、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
まあ、私が怪我をしないように心配してくれただけだろう。その時はそうやって、軽く胸の内に収めていたのだ。
けれど、そんな違和感が確信に変わったのは数日前の夕暮れ時だっただろうか。縁側の先で、蝶屋敷で療養中だった別の若い隊士と、何気ない話をしていた時のことだ。
「手当てをしてくれて、本当にありがとうございました。リサさんや皆さんおかげで、明日には任務に復帰できそうです」
「よかったです。でも、まだ完治ではないってアオイさんも言ってましたから無理はしないでくださいね」
私は手にしたお盆を抱え直しながら、目の前の隊士に笑いかけた。
包帯が取れ、晴れやかな顔で感謝を告げてくれる隊士の姿を見るのは、ここで働いていて何より救われる瞬間だ。痛みに呻いていた人が、自分の足で立ち、また前を向いて歩き出していく。その手助けがほんの少しでもできたのなら、これ以上の喜びはない。
「はい、肝に銘じます。……あの、これ、つまらないものなんですが、実家から送られてきた干菓子でして。皆さんで召し上がって――」
「何してるんですか?」
温度のない声が、私たちの間に落ちる。思わず息を呑んで振り返ると、廊下の角の薄暗がりの中に、雪くんが立っていた。
いつからそこにいたのだろう。足音ひとつしなかった。
夕闇を背負った彼の顔には、普段私に見せる笑みは浮かんでいない。暗く濁った眼差しが、真っ直ぐに目の前の隊士を射抜いていた。
どうして、そんな目で人を見るのだろう。喉元まで出かかった疑問を、張り詰めた空気が押し戻す。
「あ、雪くん。ちょうど今、退院の挨拶を――」
「用がないなら、部屋に戻ったらどうですか」
私の言葉を平然と遮り、雪くんは一歩、影から踏み出してきた。
「え……?」
「リサさんは忙しいんです。邪魔しないでください」
「い、いや。俺はただお礼を言おうと」
「お礼ならもう言ったでしょう。それ以上引き止めて何がしたいんですか?」
雪くんの唇の端がわずかに歪む。
「怪我の手当てはここの人たちの仕事です。あなたが特別に何かを施されたわけじゃない。それなのに、くだらない世間話に付き合わせて、情けない顔でだらだらと駄弁って……恥ずかしくないんですか?治ったんなら、とっとと自分の部屋で荷物でもまとめていればいいのに」
普段の雪くんからは想像もつかない、あまりに一方的な言葉だった。
目の前の隊士は目を丸くして、急に食ってかかってきた年下の異様な空気に、気圧されたように固まっていた。怒るというよりは、あまりの唐突さに呆気にとられ、引き気味に視線を泳がせている。
「ゆ、雪くん、そんな言い方……!」
たまらず声を荒らげてふたりの間に割って入ろうとしたけれど、隊士は揉め事を嫌ったのか、引きつった顔のまま小さく頭を下げた。
「あ、すみません。リサさんお忙しいのに気づかず邪魔しちゃって。また怪我したらお願いします。……失礼します」
これ以上関わるのを避けるように、足早にその場を去っていく。差し出しかけて宙に浮いたままだったその手には、小さな包みが握られたままだった。
…胸が痛い。あんなに嬉しそうにお礼を言ってくれようとしていた人を、どうして傷つけなければならなかったのか。
去っていく背中が見えなくなるまで見送ってから、私は抑えきれない憤りを込めて雪くんを振り返った。
「雪くん、どうしてあんなこと言うの?退院の挨拶をしてくれていただけなのに。あんな言い方、あまりにも酷いよ」
声を震わせながら訴えかける私を前にして、雪くんの表情がふっと強張った。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声が落ちる。雪くんはきゅっと肩をすくめ、大きな瞳にみるみるうちに涙を溜めて私を見上げてきた。
「僕……リサさんが困ってると思って。あの人、ずっと引き止めて話しかけてたから、断れなくて無理に付き合わされてるんじゃないかって。助けなきゃって、思ったんです……」
ぽろり、と大粒の涙が頬を伝って落ちる。両手で入院服の裾をぎゅっと握りしめて震えるその姿に、さっきまで抱えていた怒りが一瞬で散っていった。
もしかしたら、さっき見たあの冷たい瞳は、私の見間違いだったのかもしれない。この子はただ、不器用に行き過ぎたやり方で私を守ろうとしてくれただけなのかもしれない。
「ごめんなさい……僕、また余計なことしましたよね。リサさんを怒らせるつもりなんてなかったのに……僕、嫌われちゃいましたよね……」
しゃくり上げるようにして顔を伏せる彼を見ていると、頭ごなしに怒鳴りつけてしまって申し訳ないとさえ思った。
「ご、ごめんね。私こそ、急に大きな声を出して」
慌てて歩み寄り、取り繕うように声をかける。
この子に無用な心配をかけさせた、私の方に落ち度があったんだとさえ思った。
「雪くんが心配してくれたのは、分かってるから。……でもね、あんな言い方をしたら相手の人も傷ついちゃうよ」
「はい。ごめんなさい……」
「でも、ありがとう。良かれと思ってしてくれたんだよね」
「はい……。本当にごめんなさい」
雪くんは袖口でごしごしと乱暴に目元を擦ると、濡れた睫毛を持ち上げて、縋るように私を見つめた。
困ったように笑いかけながら、手拭いを差し出そうとした時だった。差し出そうとした私の指先に、彼の冷たい指先がするりと絡みついてくる。
「え……」
驚いて身を引こうとした私の肩を、もう片方の手が抱き寄せた。顔を上げれば、彼の唇が私の耳のすぐそばにある。
「リサさんは本当に優しいですね」
低く、甘く、どこか底知れない響き。笑う息が首筋を撫でる。
何を言われたのか頭で咀嚼する間もなく、彼の手はあっさりと私から離れた。
「手拭い、ありがとうございました。また来ますね」
振り返った雪くんは、目元に涙の跡をわずかに残したまま、いつもの無邪気な笑顔を浮かべていた。
何事もなかったかのように小さく手を振ると、彼は軽い足取りで廊下の向こうへと去っていく。
ぽつんと一人取り残されたそこで、私は冷え切った指先をしばらく抱えていた。
――そして、今。
「雪くん」
「はい!今日も何か手伝うことありますか?何でも言ってくださいね。あ、足の包帯巻き直すの手伝いましょうか?」
目の前で無邪気に微笑む彼が、少し、分からない。
いや、いい子には変わりないと思うんだけど。手伝おうとしてくれる気持ちも、私を心配してくれる言葉も、きっと嘘ではない。
けれど、以前の冨岡さんに対する言い草や、退院していく隊士に向けた冷たい態度を思い出すと、どうしても引っかかってしまうだけで。
守ろうしてくれる気持ちが強すぎて、少しだけ暴走してしまうところがある気がする。まだ若いし、鬼殺隊という過酷な場所にいるせいで、感情の加減がうまく利かないのかもしれない。
そう考えると、放っておけないというか、可哀想というか。
「大丈夫だよ、雪くん。包帯はさっきアオイさんに巻き直してもらったばかりだから」
「そっか。アオイさんが」
命のやり取りばかりが日常にあるこの場所で、感情の出し方が少し不器用になってしまうのは、きっと仕方のないことだ。
少し行き過ぎた言動だって、きっと誰かに認められたいという不安の裏返しなのだろう。そう思えば思うほど、突っぱねるような真似はできなくなってしまう。
「あ、でもね。さっき乾いた洗濯物を畳むの、手伝ってもらおうかな」
「本当ですか?やります、僕やります!」
ぱあっと顔を輝かせて、雪くんが嬉しそうに頷く。
その笑顔を見ていると、胸をよぎった微かな違和感すら私の考えすぎな気がした。
「じゃあ、縁側のところに持ってくるね」
「あ、僕が運びますよ!リサさんは座って待っててください」
小走りで中庭へ向かっていく雪くんの後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
少し過保護すぎる気もするけれど、こうして誰かの役に立ちたいと奔走する姿は、やっぱりただの素直な少年にしか見えない。
私が深読みをしすぎているだけなのだろうか。
縁側の端に腰を下ろして待っていると、雪くんが腕いっぱいに抱えた籠を持って戻ってきた。
「はい、持ってきました!」
「ありがとう。じゃあ、敷布と手拭いで分けようか」
並んで腰掛け、ぱたぱたと音を立てながら洗濯物を畳んでいく。
隣で器用に手を動かす雪くんの横顔は、隊士というよりはあどけない少年にしか見えない。
「……ねえ、リサさん」
「ん?どうしたの?」
「僕、ずっとここにいたいです」
ふと手の動きを止めた雪くんが、膝の上の手拭いを見つめながらぽつりと呟いた。
「任務が嫌になっちゃった?」
「そういうわけではなくて」
「怪我があまり良くないの?」
「いえ、怪我が良くなりすぎて困ってるんです」
「うん?」
首を傾げて彼を見つめると、光を失った瞳が縋りつくように私を真っ直ぐ捉える。
「だって、治っちゃったらここを出て行かなきゃいけないし……そしたら、リサさんの傍にいられなくなっちゃうじゃないですか。ずっと怪我してたいです」
「またそんな、縁起でもないこと言って」
思わず苦笑して諫めようとしたけれど、雪くんの表情は真剣そのものだった。その瞳に浮かぶ感情の重さに、私はふっと口をつぐむ。
視線を落とすと、膝の上で丸められた手拭いに、爪が白くなるほど力が込められていた。
「僕の手足を全部折ってでも、ここに置いてほしい。リサさんの役に立てるなら、僕、一生刀が振れなくなってもいいです」
息が詰まった。冗談や軽口で済ませるには、あまりに歪んだ熱量が言葉の端々に滲んでいた。
何を言えばいいのか分からない。ただ見開いた目で、彼を見つめ返すことしかできなかった。
張り詰めた沈黙が落ち、秋風が縁側を通り抜けていく。その静寂を破ったのは、ふっと吹き出すような小さな笑い声だった。
「なーんて。あはは、びっくりしました?」
さっきまでの冷え冷えとした空気が嘘のように、雪くんはいつもの笑顔を浮かべて首をかしげて見せた。
「嘘ですよ、冗談です!一生刀振れないなんて困るに決まってるじゃないですか。そんな怯えた顔しないでくださいよ、リサさん」
「……え、あ」
「あーあ、揶揄いすぎちゃったかな。ごめんなさい」
悪戯が成功した子どものように笑いながら、彼はまたぱたぱたと手拭いを畳み始める。
な、なんだ…冗談、だったのか。危ない、本気にして変な空気を作ってしまうところだった。
年頃の男の子の冗談を真に受けて、変に深刻な顔をしてしまっていたかと思うと、途端に気恥ずかしさが込み上げてくる。揶揄い甲斐のある反応をしてしまった自分に苦笑がこぼれそうになった。
「もう、揶揄わないでよ」と笑いながら息を吐き出す。
けれど、一瞬だけ見せられたあの真に迫った眼差しが、どうしても胸の内に引っかかって、綺麗には消えてくれなかった。
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