84
午後、畳んだばかりの敷布を腕いっぱいに抱えて廊下を歩いていた。
さっきの雪くんのあの言葉が本物だったとしたら、私はどうすればいいのだろう。
少し、接し方に困ってしまうな。私が中途半端に受け止めてしまうことがいけないのかな。考えれば考えるほど足元がおぼつかなくなり、得体の知れない不安もたげ始める。
はあ、とそんな重たい思考に沈みかけた時。渡り廊下の向こうに、見慣れた半々羽織の後ろ姿を見つけて思わず足が止まった。
「冨岡さん!」
声をかけながら、小走りで駆け寄る。足音に気づいた彼が振り返り私を視界に収めると、わずかに目元を緩めた。
「どうされたんですか?一昨日も会えたのに」
「息災か」
「はい。元気です」
そんなやり取りだけで、強張っていた肩の力が解けていくのだから不思議だ。ただ目の前にいてくれるだけで、どうしてこんなに安心するのだろう。
「……顔色が戻ったな」
「あ、本当ですか?しのぶさんのお薬がよく効いてくれたみたいで」
「もう働いていいのか」
「もう熱もないですし、簡単な手伝いだけですよ」
冨岡さんがよく、蝶屋敷へと顔を出すようになった。
朝の冷え切った空気の中、夕暮れ時、あるいは夜半近くにふらりと現れることもある。時間に決まりなんてなくて、訪れ方も本当に様々だった。
任務を終えたついでに、行く前に、私の顔を確かめるように見つめていくだけのこともあれば、ほんの数分、縁側の端に腰を下ろして一言二言だけ交わし、そのまま立ち去っていく日もある。
柱の任務は多忙を極めているはずなのに、こんな短い間隔で顔を合わせるなんて、今までは考えられなかったから毎度驚いてしまう。
あの夏から秋にかけての、ぽっかりと空いてしまった数ヶ月がまるで嘘のように。まるで、最初からそこに線など引いていなかったかのように。冨岡さんは私の前へよく、現れるようになった。
「冨岡さんは、今日はお薬ですか?それともしのぶさんに用ですか?あ、それともどこか……」
怪我の手当てか報告か何かだろうかと、思いつく理由をいくつか並べ立ててみる。けれど、彼は少しも躊躇うことなく遮るように言った。
「いや、お前に会いに来た」
「えっ」
あまりに当たり前のように返されて戸惑う。
どう返答していいのか分からずに立ち尽くしていると、彼は私の狼狽など気にする様子もなく、真剣な眼差しで問いかけてきた。
「怪我の具合は」
「だ、大丈夫です。昨日抜糸も済んで、傷跡も、もうほとんど良くなってます」
足首をそっと示しながら答えると、彼は私の足には目もくれずに手を伸ばす。そして指先が私の着物の襟元へと滑り込み、鎖骨のあたりを覆っていた布地がわずかに押し広げられた。
「とみ……っ」
羞恥で声が裏返りそうになるのを必死で呑み込んだ時。
「……本当だ。綺麗に消えているな」
指先が鎖骨のくぼみをかすめ、皮膚に触れる。その感触があまりに生々しくて、身体中の感覚がそこに吸い寄せられそうになった。
…そ、そっちの傷。こうして立って普通に小走りで駆け寄ってきたのだから、冨岡さんなら見れば良くなっていることくらい一目で分かったかもしれない。
頭がくらくらとして、足元がおぼつかない。
――これも、彼が言う「責任」が果たされているからなのだろうか。
注がれる視線が、義務感だけで片付けるには重たすぎて。確信なんて持てないけれど、彼の中ではもしかしたら何かが決着しているのではないか。その迷いのない瞳を見て、そう思ってしまう時もある。
ぼうっと彼を見上げていると、敷布を抱えていた私の手首を彼が包み込んだ。親指の腹が、皮膚の薄い手首の内側をするりと撫でる。
「いいか」
低く落とされた問いかけに、思考が追いつかないままこくりと頷いていた。
手を引かれ、すぐそばにあった空きの病室へと連れられ、引き戸が閉じられる。
腕の中にあった、せっかく畳んだ敷布が床へ落ちるけれど、冨岡さんは散らばった布など気にせず、そのまま私を寝台へと腰掛けさせた。
目の前に立った彼の手が、私の頭へと伸びてくる。それはもう、二人きりになるたびに繰り返されるいつもの手順だった。
まずはこめかみを優しく撫でつけて、次に輪郭をたどるように頬へ。その次にその手は首筋へと降りてくる。
時々、耳をくすぐってくることもあるし、肩を引き寄せられることもある。そして最後には手首に触れてきて、その『印』が消えていないかを彼は確かめるのだ。
そう。冨岡さんはよく、蝶屋敷へと顔を出すようになった。そして――よく、私に触れるようになった。
彼は私の手首を持ち上げると、迷いなくその内側へと唇を寄せた。
たぶん、あの夜の記憶を塗り潰そうとしてくれているのだと思う。「もう大丈夫です」と何度笑ってみせても、彼は私にこうして触れることをやめない。
落とされる熱に、思わず目を閉じそうになる。けれど、伏せられた長い睫毛や、熱を孕んで濡れたような瞳。真剣そのものの面差しから立ち上がる色香に圧倒されて、私は息を呑んだまま目を離すことができなかった。
微かな痛みのあと、じわりと皮膚が吸い上げられる。生理的に浮かんできた涙が零れ落ちないよう、奥歯を噛んで耐えながら彼を見上げた。
一度だけ「忙しいのに無理をして来ていないか」と尋ねたことがあった。
そうしたら彼は、少しだけ不満そうに眉を寄せて、「俺はそんなに仕事が遅そうに見えるか」と返してきたので困ってしまった。
そんなこと、これっぽっちも思っていない。むしろその逆だ。
常人の何倍もの速度で仕事を片付けているようにしか見えない。そして、その無理やり捻出した余りの時間を使って、ここへ足を運んでいると考えるほうがよっぽど自然だった。
だからこそ、休む間もなく身体を酷使しているのではないかと心配でたまらないのに、それと同じくらい、顔を見せてくれることが嬉しくて仕方がなくて。
自分に向けられるその関心に、戸惑いながらも甘えてしまっている。
手首から、唇が離される。また新たに、そこに印が赤く色づいているのだろう。
一体どういうつもりでこんなことを繰り返しているのか、尋ねてみればいいのに。そんなことを口にしてしまえば、もう二度としてくれなくなるかもしれない。そう思うと怖くて聞けないのだから私も大概だ。
理由なんて何でもいいから、ただ彼の手の中に留まっていたいと願ってしまう自分が、ずるくて情けない。
ようやく解放されたことにほっと息をついていると、私を見下ろす彼の瞳がいつもより
「冨岡さん?」
「お前は、誰にでもそうなのか」
「そう……?」
「誰にでも、そう易々と触れさせるのか」
触れさせる?すぐに意味を呑み込めなかった。
そもそも、こんなふうに二人きりで部屋に閉じ込めて、頭を撫でて、印をつけたりしているのは冨岡さんだ。それを許しているのも、世界中で冨岡さんただ一人だけだ。
それを「誰にでも」だなんて言われるのは、少し心外だった。
「だ、誰にでもなんてしません」
抗議を込めて、精一杯はっきりと言い返す。
私にこんなことをしてくるのも、それを私がされるがままに許しているのも、全部冨岡さんだけなのに。何かを勘繰られてしまっているのだとしたら悲しい。
けれど冨岡さんは納得するどころか、夜色の瞳をいっそう細めた。
「この間、触れさせていた」
「いつ、ですか?」
「あの大型犬のような男に」
大型犬?ますます訳が分からなくなって首を傾げる。
記憶を慌てて手繰り寄せていると、ふと、先日の門前でのやり取りが脳裏をよぎった。
「あ、もしかして雪くんのことですか?」
その名を口にした瞬間、冨岡さんの眉間がぐっと寄った。
「雪くんがどうしてですか?」
雪くんは確かに、子犬のように私の頭にすり寄ってきたり、手をぶんぶんと振って握ってきたりする。
けれどそれは、親しい間柄での触れ合いというか、弟みたいな感覚というか。意識するような対象でもなければ、誰かに「触れさせた」という記憶の引き出しにすら入っていなかった。
「……お前は、もう少し」
「警戒心を持った方がいい。……ですか?」
重々しく切り出された言葉を先回りして口にすると、冨岡さんは目をみはり、なぜ分かったのかと言わんばかりの顔をした。
その反応がおかしくて、けれど怒らせてはいけないので、小さく息を漏らすだけに留める。
「もう覚えちゃいました、それ」
何度言われてきたと思っているのだろう。
出会った時から、私が隙を見せるたびに彼はその言葉を口にしてきた。
「雪くんは大丈夫です。いい子です。……たぶん」
「間があったな。何かされたか」
「大丈夫です。弟みたいな子なんです」
「いや、そう易々と身体を許すな」
許すな、と重ねられた言葉が重い。
「あの私、もしかして怒られてますか?」
「怒ってる」
「え……ど、どうしてですか」
「さあ」
怒っていると言いながら、何に怒っているのかは教えてくれない。
雪くんに腰を引かれたのがいけなかったのか、それとも、隙だらけに見えたのが見過ごせなかったのか。色々な可能性が頭の中を駆け巡って、収拾がつかなくなっていく。
彼は私の左手首を再び引き寄せると、先ほどつけた印のすぐ隣、親指の付け根に近い皮膚へと唇を落とした。
「だから何故自分が怒られたのか、ずっと考えていればいい」
まるで、「ずっと俺のことを考えていろ」とでも言われたみたいだ。独占めいた響きに、息が止まりそうになる。
もう、とっくに考えてるのに。ずっとずっと、冨岡さんだけなのに。
「ぁ……っ」
ちり、と吸われて上ずった声が出てしまうと、彼の瞳のなかにある鋭さが熱を含んだものに変わった。
とにかく返事をしないと。そんな気持ちだけで首を縦に振った。精いっぱい。
けれど、手首に押し当てられた唇は離れてくれなくて、羞恥に耐えきれなくなって、目元に溜まっていた涙が溢れ落ちる。
「っ、とみおかさん」
もう恥ずかしいのか苦しいのかすら分からない。ただ許しを乞うように、縋るようにその名を呼んでしまった。
自由の利く右手で、目の前にある羽織の袖口をぎゅっと握りしめる。
もう、許してほしい。怒られている理由もちゃんと考えるから。だから。
「……そんな顔をするならお前をここから出せなくなる」
そんな顔?とは疑問はよぎったのに、雰囲気に呑まれてもう何も考えられなかった。
「出さなくて、いい、です」
自分でも信じられないような言葉が飛び出す。冨岡さんが、思わず、といったように目を見張った。
…私はとっくに、この川から抜け出せなくなっているんだ。言っていることとやっていることの辻褄が合わなくて、どうしてだろう、何を考えているんだろうと、彼が去ったあともずっと彼のことばかり反芻して。
考えているからこそ、知ろうとしているからこそ、以前なら掴みどころのないと諦めていた部分が、ほんの少しずつ見えてくるようになった。
この人が湛えている深い水底の温度が、少しずつ、肌を通して伝わってくるようになった。
だから、この人にされることなら、もう何だって受け入れてしまう気がする。流されるままに溺れてしまってもいいとさえ、どこかで思っていた。
「印をつけていいか」
手首に添えられていた手が肩を滑り、襟元を押し開くようにしてうなじへと降りていく。
印なら、もうついている。これ以上にまだ何があるのか。まだこれ以上が、あるというのか。
冨岡さんを見上げていると、彼の指の腹が後ろ首をつ――となぞる。
思わず肩が跳ねてしまって、冨岡さんはゆっくりと私の隣へと腰を下ろした。寝台が小さく軋み、後ろから回された腕が私の腰をぐっと引き寄せ、固定される。
「とみ……っ」
反射的に身を引こうと腰を浮かしかけた。けれど、逃げ場なんて最初から用意されているわけがなく、腰に回された腕とは別の手が、私の鎖骨あたりを上からすっと覆い、胸元を背後へと押し戻す。
そのまま彼に抱きすくめられるように閉じ込められ、背後から首筋へと、彼の顔が深く埋められた。
「あ……っ」
首の後ろに直接かかる、熱い吐息。肌が粟立つほどの熱量に、思わず首を竦めて肩を縮こまらせる。逃げようとする力など、とうに奪われてしまっていた。
「……んっ」
最初は、ふわりと唇が触れるだけだった。後れ毛をかき分けたうなじの皮膚に、柔らかい感触が何度も確かめるように繰り返された。
くすぐったくて、背中がむずがゆい。思わず変な声が漏れそうになって、慌てて両手で自分の口元を押さえた。
次に、つ、と熱く濡れた舌先が下から上へと這い上がってきて、全身の力が一気に抜けそうになる。
手首の時よりもずっと生々しい。明るい部屋で、こんなところで、一体何をしているんだろう。
口元を押さえる手にぎゅっと力を込めたが最後、軽く歯を立てられたかと思えば、まるで液体を啜るように皮膚を吸い込まれた。
「んぅ……っ」
塞いでいても声が漏れてしまう。彼の歯がうなじに当たって、やわやわと何度も食まれて、その度に体が震えた。
これ以上変な声を出すわけにはいかないと咄嗟に息を止めるけれど、彼は私のそんな抵抗すら意に介さないように、唇をさらに下へと滑り込ませてくる。
背中へと続く皮膚を吸い上げられ、じくじくと疼いて痛い。なのに痺れるように甘くて。息を吸うことも吐くこともできないから苦しいのに、とても幸せで。
「……っ、ふ、」
息が続かなくなって小さく身をよじると、ようやく名残惜しそうにちう、と音を立てて唇が離れた。
なされるまま、されるがままに呑み込まれてしまった。身体じゅうの力が抜けきってしまって、しばらく立ち上がれそうにない。
呼吸を整えながら肩を震わせていると、背後から伸びてきた手が、私の口元を塞いでいた手をそっと解く。
絡め取られた指先を包み込むようにして、彼はまだ熱の残るうなじへ、今度は労わるように額を預けてきた。
「……高月」
…今、そんなふうに名前を呼ぶなんてずるい人だ。そんな掠れた声で。そんなにも愛おしそうに。
この関係に言葉で名前をつけてもらえないまま。確かなことなんてひとつもないのに。
こんなことをされても、不安より満たされる気持ちが勝ってしまうのは――
彼はいつだって、言葉よりもずっと雄弁に、嘘のない温もりを残していく人だからだと思う。
*
「……また来る」
そう言いながら、冨岡さんは大きな手を私の頭の上にぽんと乗せ、髪をゆっくりと一度だけ撫で下ろした。そして立ち上がると、床に散らばったままだった敷布を抱え上げ、私の腕の中に戻してくれる。
「髪は、下ろしておいた方がいい」
「……あ、はい」
自分でつけておいて、よくそんな平然と言える。悔しくなるのに、恥ずかしさの方がずっと勝ってしまって、俯きながら後頭部に手を回し髪を留めていた蝶の髪飾りを引き抜いた。
けれど全部下ろしてしまっては仕事にならないから、耳の上の髪だけを掬い取って、後ろで束ねて半分だけ垂らす形に結い直すことにした。慣れない手つきで髪飾りを押し込み、なんとか形を整える。
「これで大丈夫、ですか?」
おそるおそる振り返りながら尋ねると、冨岡さんはすっと身を屈め、私の後ろ首を覗き込んできた。そして、「うん」と満足そうに返事をするので私もほっと息を吐き出す。
誰にも見つからないように髪で隠すだなんて、まるで後ろ暗い秘密を共有しているみたいだ。知られたら困るのに、消えてほしくない。そんな矛盾した気持ちを抱えていること自体、もう彼に毒されている証拠なのかもしれない。
戸に手をかけた彼に続いて、私も立ち上がって一緒に病室を出た。
「あの、お気をつけて」
並んで立ち止まった彼の横顔を、抱えた敷布に顎を埋めるようにしておずおずと見上げる。
何事もなかったみたいに涼しい顔をしているのが、なんだかずるい。こっちはまだ、息も気持ちもいっぱいいっぱいなのに。
じっと見つめていると、視線に気づいた彼と目が合い、硬かったはずの目元がふっと優しく緩む。それだけで胸がいっぱいになって、何も言えなくなるのだから、やっぱりずるい。
冨岡さんはそのまま背を向けると、静かな足取りで去っていった。廊下の角を曲がってその姿が見えなくなるまでじっと見送ってから、私はようやく大きく息を吐き出す。
「緊張した……」
もしも誰かに見られていたらどうしようと思うし、流されるまま許してしまうし。こんな昼間から、屋敷の中で一体何をしていたんだろう。
「リサさん」
「……っ、雪、くん」
突然、背後から降ってきた声に肩が跳ねた。
見られただろうか。どこから見ていたのだろう。なぜか咄嗟に手首を隠すようにして、両手を背中へと回して振り返る。
「どこにいたんですか。探しましたよ」
「え、あ……ちょ、ちょっと、洗濯物直しに行く前に用事を見つけて」
嘘をつき慣れていないせいで、言葉がぎこちなく上ずってしまう。
雪くんは私の背後に隠した手元を一瞥し、それから視線を廊下の角へと向けた。
「へえ」
低く呟いたあと、彼はふっと普段の人懐っこい笑みを口元に浮かべて私に向き直る。けれど、その表情にはどこか温度が足りない。
「リサさん、無理してませんか」
「……無理?」
「はい。何か嫌なこととか、無理に押しつけられたりしてないかなって」
す、と歩み寄られて、彼が少しだけ顔を覗き込んできた。
私より背が低い分、距離を詰められると至近距離でその視線を受け止めることになって、逃げ場がない。
「僕でよければ、いつでも相談に乗りますから。何でも言ってくださいね」
優しく労わってくれているはずの言葉が、すんなりと胸に入ってこない。
相談と言われても、冨岡さんとの間に起きていることは他人に話すようなことじゃないし、ましてや雪くんに言えることなんて一つもない。
それに、なんだろう。こちらの反応をじっと試されているような落ち着かない視線に、私は背中に隠した両手を無意識のうちに握りしめていた。
「……雪くん。雪くんは、いい子だよね?」
縋るような、確認するような、おそるおそるの問いかけ。
自分でもどうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。いつだって屈託なく笑いかけてくれていたはずの彼に、そんな当たり前のことを確かめなければならないこと自体が不自然だった。
雪くんは、にっこりと笑った。いつもの、人懐っこい笑顔で。
「いい子ですよ」
そう言って、小首をかしげながら事も無げに囁く。
「僕、リサさんが困るようなことなんて絶対にしませんから。怪我の手当てだって手伝うし、重い荷物があればいつでも持ってあげます。柱の方たちみたいに威圧したりもしないし、怖い顔で命令したりもしません。ね、優しいでしょう?だから僕には、何も隠さなくていいんですよ」
ふわりと鼻先をかすめる、回復訓練で使う薬湯の苦い匂い。す、と伸ばされた彼の指先が、私の着物の袖口を引く。
「だから……僕から離れていかないでください」
雪くんの声が震えた。捨てられた子犬のように縋りついてくるその痛々しい表情に、なぜか胸が引き裂かれそうになる。
「ご、ごめんね?そんなつもりじゃなくて。離れていくなんて、そんなことしないから」
口をついて出た謝罪の言葉に、雪くんは引いていた袖口にぐっと力を込めた。
背中に回していた私の腕が、抗う間もなく前へと引き出される。彼は私の袖口を掴んだまま、泣きそうな目で言った。
「誰も、僕のことなんか見てくれないんです」
「え……?」
もしかしたら、この子もそうなのかもしれないと、その言葉を聞いて思った。鬼殺隊に身を置く者なら、誰もが何かしらの喪失を抱えている。家族を奪われたり、帰る場所をなくしたり。いつも屈託なく笑っているこの子も、そうした痛みを心の底に押し殺してきたのだろうか。
そう思うと放ってはおけなくて。きつく袖を握りしめている彼の手を溶かすように、私は自分の手をそっと重ねた。
「私が見てるよ」
彼の周りにだけ冷たい雨が降っている。今ここで傘を差し出せるのは私だけで、そうしなければいけないと思った。
「……本当に?」
酷く不安そうに聞いてくる雪くんに、私はすっかり頷いて彼の顔を覗き込んだ。
「うん。本当に」
ゆらゆらと彼の瞳が揺れている。零れそうだった涙の奥で、何かが歪に形を変えていった。
「じゃあ。リサさんは、ちゃんと見てくれるの?僕のこと、ちゃんと見て、褒めてくれるの?駄目な時は駄目って、叱ってくれるの?」
「雪く――」
言いかけた瞬間、重ねていた手を払うようにして彼の手が私の手首を直接掴んだ。
「ねえ、リサさん。ちゃんと僕の目見て」
雪くんは真剣だった。だけどそこには期待と諦めが入り混じっていて、どこか仄暗い。
随分久しぶりに、彼を怖いと思った。どういった種類の恐怖かは定かじゃない。自分の本能の部分がしきりに警鐘を鳴らしているような気がして、なぜか腰が引けた。
「僕のこと、ちゃんと見てくれる?」
ここで嫌だと答える選択肢は、用意されていないだろう。とにかく解放されたくて、私は黙って何度も頷いた。
雪くんは私の手を握る力を一層強めて、小首を傾げる。首を縦に振るだけじゃ許してくれないのだと、その無言の圧が伝わってくる。
「み、見てるよ……私が、ちゃんと見てる」
「これからも?」
「う、うん」
「これからも、ずっと?」
念押しをされて、きっとこれも言わないと終わらないんだろうなと悟った。
「これからもずっと……雪くんのこと、見てるよ」
掠れた声でどうにかそう答えると、雪くんの口元がふわりと緩んだ。
「うん。リサさんなら、そう言ってくれると思ってました」
満足そうに細められた瞳の奥に、触れてはいけない何かが潜んでいる。
「言質、取りましたよ?」
喉の奥で悲鳴を上げる。
咄嗟に逃げなきゃ、と引き戻した私の手を、雪くんは案外容易く手放した。
「ご、午後の訓練……頑張ってね!」
逃げるように早口でそう告げると、返事も待たずに踵を返す。背後から降り注ぐ視線が肌に突き刺さるようで、どこか居心地が悪くて、私は足早に廊下を駆け出していた。
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