85
みんな、勘違いをしている。
頼み事を聞いて「やる」側が、自分の方が上だと得意げになっているのだ。でもそれは違う。
「お母さぁん。あれ買って」
「もう、しょうがないわね。
欲しい物があれば強請ればいい。
「センパイ奢って下さいよ」
「しゃーねーな!今日は俺が出すから」
無いものは借りればいい。どうすれば相手が頷くのか、それを無意識のうちに分かっていたらしい自分は、「お願い」が上手だった。
主導権を握っているのはいつだって僕だ。それに気付くことなく首を振る馬鹿の、なんと多いことか。
図々しい?生意気?
別に何も悪いことはしていないじゃないか。相手だって喜んで尽くしてくれるのだから。
頼み事をする時は申し訳なさそうにして、頭を下げる。そんなことは誰が決めた?
綺麗事だ。手玉に取って、思い通りに動かして、欲しいものを手に入れる。世の中なんてその程度の単純な仕組みで回っていると、心の底から思っていた。
けれど、そんな生温い世界は、あの日あっけなく崩れ去った。
鬼に両親を殺された。目の前で食い散らかされる母を前にして、どれだけ必死に「助けて」と泣き叫んでも、怪異には僕の甘えも、懇願すらも届かなかった。
どんなに上手に頭を下げても、相手が人間の理屈で動いてくれないのなら、何の意味も持たない。
あの夜、自分という存在のあまりの無力さに絶望したと同時に――僕の中の何かが、決定的に歪んでしまったのだと思う。
ただ笑顔を向けて欲しいものを強請るだけじゃ駄目だ。相手の心の急所深くに爪を立てておかなければ、人はいつだって僕を置いて消えてしまう。大切なものほど、脆く失われてしまう。ただの「お願い上手」だったはずの僕は、いつの間にか、他人の心を絡め取って雁字搦めにする方法ばかりを考えるようになっていた。
「大丈夫?」
掛けられた声に、朦朧とする意識の中で顔を上げた。
任務で鬼の爪をまともに食らい、しくじった身体を引きずって運び込まれた蝶屋敷。消毒の匂いが立ち込める病室で、縫合されたばかりの腹の傷が焼けるように痛み、僕は寝台の上で脂汗を流しながらうずくまっていた。
痛みに耐えかねて息を詰まらせる僕の前に、彼女はいたのだ。
「傷が痛むの?気分が悪い……?」
眉をひそめ、今にも泣き出しそうな顔で懸命に問いかけてくる。僕の額にそっと触れる手のひらはひどく冷たくて、小刻みに震えていた。
痛がっているのは僕なのに、どうしてこの人はこんなにも苦しそうな顔をしているのだろう。底の浅い同情か、あるいはただの義務感か。冷めた頭でそんなことを考えながら、僕はじっと彼女の顔を見つめていた。
すると彼女は、唐突に僕の背後へと視線を跳ね上げたのだ。
「あっ……すみません、そこの人!」
廊下を通りかかった別の隊士の姿を捉えた瞬間、その綺麗な瞳が必死に揺れる。
「あのっ、今すぐしのぶさん呼んできてもらってもいいですか?」
縋るような視線。なりふり構わず、他人に下手に頼み込む口調。
目の前で必死に手助けを乞う彼女の姿に、僕は頭を強く殴られたような衝撃を受けたのだ。
…こんなに慈悲深く、美しい「お願い」が存在するのかと。
自分の利益のためじゃない。計算も、駆け引きも、嘘もない。
紛れもなく、ただの他人に過ぎない僕のために。いま彼女は、主導権のすべてをあっさりと相手に差し出して頭を下げている。頼む側である彼女の方が、圧倒的に無防備で、弱々しく他人に身を委ねている。
「はっ、はい……!分かりました!」
「ありがとう。お願いします」
通りがかった隊士は顔を真っ赤にして走り去っていった。そりゃあそうだろう。あんな顔で頼まれたら、誰だって断れるはずがない。
「大丈夫。すぐきっと良くなるから」
けれど僕の心臓を激しく揺さぶったのは、相手を動かしたことではなく、彼女のその無償の献身だった。
この人は、僕の知っている誰とも違う。初めて見つけた、絶対に手に入れたい本物の光だと思った。
絵に描いたような清らかな生活を送る彼女。だからこそ、僕が守ってあげなければいけない。そう信じて疑わなかった。
これまで彼女の周囲に男の影など微塵もなかったから、僕は完全に油断していたのだ。
『次、冨岡さんのこと悪く言ったらもう口利かないからっ!!』
正直、驚いた。いつも腰が低くて、誰の頼みも断れない彼女が、あんなにも感情を剥き出しにして僕を拒絶するなんて。
声を荒らげ、涙を滲ませてあの男を庇う姿は、僕の知らない彼女そのものだった。
…なるほど。清らかに見えていた彼女にも、理性を失うほど執着する相手がいるらしい。彼女の聖域に踏み込んで、その心を掻き乱した男がいるのだ。
怒りと拒絶を露わにした彼女の顔を反芻しながら、僕は頭を冷やしていった。
怒らせてしまったのは失敗だった。けれど、収穫はあった。彼女の地雷がどこにあるのかは、これで完全に把握できた。
あいつの名前は、もう二度と彼女の前では口にしない。触れれば拒絶されると分かっている場所を、わざわざ踏み抜くような真似はしない。ならば関係のない外堀から、じわじわと埋めていけばいい。
任務で小さな怪我をわざと作っては手当てをしてもらい、蝶屋敷で彼女に会える口実を増やして、僕がそばにいる日常に少しずつ慣らしていく。
彼女は優しいから。弱くて、可哀想な存在を見捨てることができないから。僕が傷ついて、縋りつけば、必ず心を痛めて振り返ってくれる。
同情でも、哀れみでも何だっていい。その慈悲が僕に注がれるなら、手段なんてどうでもよかった。
『私が見てるよ』
『これからもずっと……雪くんのこと、見てるよ』
さっき、泣き真似をしながら引きずり出した彼女の言葉を思い出し、口元が自然と歪む。
僕の手を握り返してくれたあの瞬間、彼女の意識のすべてを独占していたのは間違いなく僕だった。
言質は取った。彼女の性格なら、一度口にした約束を破ることは絶対にできない。
僕の計算通りに事が運んでいる。その甘美な達成感に浸りかけた、その時だった。
彼女の腕を引き寄せた際、捲れ上がった袖の隙間から見えた、あの二つの赤い吸痕。彼女を連れ去った薬屋がいると聞いた時も、腸が煮えくり返りそうだったのに。
あれをつけた張本人が誰かなんて、考えるまでもなかった。
「水柱さま」
蝶屋敷を去っていく背中に、わざとらしく声を高めて投げかける。
顔だけ振り返った男の眉根は、迷惑そうに皺が寄っていた。
「何だ」
「そんな怖い顔しないで下さいよぉ。僕に稽古つけてくださいませんか?僕も水の呼吸の使い手なんです」
へらりと笑って両手を後ろで組んでみせながら、内心では吐き気を催していた。
意味が分からない。有り得ない。彼女は誰に対しても分け隔てなく優しくて、どこまでも純粋で、女神のような人なのに。
「つけない」
「えぇー、どうしてですか?」
「お前に教えることは何もない」
「そんなこと言わずに。僕、もっと強くなってリサさんの役に立ちたいんですよ」
「……」
「水柱様だって、か弱い人を守る手が足りないより多い方が安心でしょう?」
名前を出した瞬間、男の青い双眸がわずかに細められた。視線が、僕の顔を真っ直ぐに射抜いてくる。
「リサさんの前から消えてくれません?穏便に」
口元に貼りつけた笑みを脱ぎ捨てて、僕は低く言い放った。
嫌だと言われたところで、こいつが彼女の前から消えるのはすでに決定事項だ。自ら去るか、僕が周囲に根回しをして居場所を奪うかの違いでしかない。
「ずっと距離を置いていたみたいですし、そのまま消えてくれれば僕も余計な手間をかけずに済むんですけど。……急にまた現れて、何なんですか?」
あのぽっかりと空いていた空白の期間、こいつは彼女を放置していたはずだ。そのまま永遠に消え去っていればよかったものを、どの面を下げて戻ってきたのか。
しかし、男は僕の言葉を浴びせられても眉一つ動かさない。
「何か勘違いしてるみたいだが、」
そう前置いた男は、ゆっくりと体をこちらへ向ける。
「別段、俺は一度も高月から目を離した覚えはない」
は?と、自分の喉から間抜けな声が漏れた。
何を言っているんだ。決して放置していたわけではないと、それだけを淡々と告げてくる切れ長の目がじっと僕を見据えている。
「消えようと何をしようと、それが彼女のためになるなら言われなくてもそうする」
「は、分かってんじゃないすか。だったら――」
「だが、その判断は俺がする。お前の指図は受けない」
何なんだ、こいつは。僕が頼んでいるというのに。
何が彼女のためだ。そんなもの、ただ自分の欲求を表面的に取り繕っただけだろう。
「何いい加減なこと言ってんですか?そんなの、あんたがリサさんから離れたくないだけでしょ」
本当に彼女のことを思うなら、身を引けばいい。まさか自分が彼女に釣り合うとでも思っているのだろうか。勘違いも甚だしい。
ところが、男は一切動じることなく、短く息を吐いた。
「ああ、そうかもしれない」
図星を突かれて怯むどころか、自分の我欲を隠そうともせずに平然と肯定した。大人と子供ほどに隔絶されたその態度に、奥歯がぎりりと軋む。
「随分適当ですね。水柱様ともあろう人が。……大体、柱なんて持てはやされてるんだから女なんて腐るほどいるくせに。自分の女くらい、自分の縄張りで見繕ってくださいよ」
彼女は真っ白なんだ。痛い思いも、怖い思いもさせず、僕の用意した清らかな箱庭の中でだけ笑っていればいいのに。
泥臭い鬼殺隊の中に身を置かせるのも、男の身勝手な熱でその肌を汚すのも、すべてが冒涜だった。
「あの人は誰の手にも染まっちゃいけない、真っ白で清らかな人なんですよ。あなたみたいな人が触れていい人じゃない」
それをあんな無粋な痕で縛りつけるなんて、許されるはずがない。
僕の激昂を前にしても、男はただ静かな瞳で僕を見下ろしていた。まったく響いていない。何を言っても、暖簾に腕押しのように滑り落ちていく。
「外へ出さずに育てた生き物は、すぐに死ぬ」
唐突に、男が言った。
「は?」
「免疫がついていないからだ。大事に囲ったはずなのに、邪魔な物を排除したはずなのに、長生きはできない」
「……何の話をしてるんですか」
「お前と、俺の話だ」
さっきまで置物のような顔をしていたくせに、つらつらと訳の分からない理屈を始めたかと思えば、冷酷な眼差しでこちらを射抜いてくる。
「説教なら間に合ってますけど」
苛立ちを隠さずに吐き捨てた僕に、男は淡々と続けた。
「説教ではない。……俺の失敗談だ」
失敗?何を言っているんだ、こいつは。
失敗したから何だというのだ。自分が守りきれなかったからといって、僕にまで同じ結末を押しつけるな。僕のやり方は違う。
僕は彼女を誰よりも理解しているし、彼女が何を望み、どうすれば傷つかずに済むかを誰よりも考えている。
囲い込むことが悪い?毒を遠ざけることが間違いだと?外の世界に放り出して、傷だらけにさせることがこいつの言う「正しさ」だというなら、そんなものクソ喰らえだ。
「傷つけたくないと遠ざけ、害になるものをすべて取り除いて囲い込んでも、何も守れはしない」
冷酷なまでに静かな声が、僕の思考を無遠慮に切り裂いていく。
「脆く弱いまま閉じ込められたものは、いざ檻の隙間から外の風が吹き込んだだけで、あっけなく命を落とす。……お前がやろうとしていることは、そういうことだ」
「……っ、」
「お前はまだ若い。覚えておけ」
たん、と踵を返した男の足音が、静まり返った門前に響く。
もう二度とこちらを振り返る気すらないその背中を見送りながら、僕は奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめていた。
いい気になっていられるのも今のうちだ。どれほど腕が立とうが、所詮あいつは言葉を持たない置き物に過ぎない。
力ずくで刻みつけた印なんて、僕がいくらでも上書きしてやる。
彼女の心を縛る鎖を、最後に握りしめているのは僕だ。
***
ん、と微かな違和感に引き戻されるようにして、夜中にふと目が覚めた。
部屋の中はしんと静まり返っていて、遠くで風が木々を揺らす音だけが届いている。
起き上がって明かりをすべて点けてしまうと、寝静まっている屋敷のみんなに気づかれてしまうかもしれない。そう思って小さな豆電球だけを点けたのだが――やはり、眠れそうになかった。
ぼんやりと薄闇の中で目を開けたまま横になっている分には、何の問題もないのだ。けれど、もう一度眠ろうと目を閉じた瞬間に、やはりまだ駄目だと気づかされる。
暗闇の向こうからじわじわと手先や足先が冷えていくような感覚がよみがえってきて、目が冴えてしまった。
「情けないな」
と小さく息をこぼす。身体をゆっくりと起こし、掛け布団の上に両手を下ろして深く息を吐く。身体には疲労が残っていて、眠気だってあるはずなのに。
これは今夜も眠れないな。諦め半分にそう思いながら、私は布団から抜け出して足音を忍ばせながら障子を開けた。
すっと入り込んできた風が、頬を撫でていく。縁側へと出て、冷え切った板間に腰を下ろした。
カサ、とふいに足元から落ち葉を踏むような小さな音が聞こえて視線を落とすと、暗がりの中から毛玉が現れる。
にゃー吉は縁側に座る私を見上げると、どこか気遣うように小さく「にゃあ」と鳴いた。
「どうしたの?君も眠れないの?」
「にゃあ」
「起きてたこと、みんなには内緒にしといてくれる?」
「しゃー」
「ふふ、気に食わないって顔だね」
囁きかけるように声をかけると、にゃー吉は不満を訴えるように喉を鳴らした。
縁側から足を下ろし、地面に置いてあった草履を履いて、庭土の上にしゃがみ込む。指先でその柔らかい顎の下を撫でてやった。
にゃー吉は気持ちよさそうにしながらも、どこかじっとこちらの様子を伺っている。
「ええ、駄目って?」
「にゃあ」
「やっぱり言わないと駄目かな」
にゃー吉はまるで、夜中に一人でこんなところにいる私を心配してくれているみたいだった。
でも、本当に大丈夫なんだよ。心の中で、誰にともなくそっと呟いてみる。
目を閉じるとまだ少しだけ怖いけれど、もうあの暗がりの中に一人きりで置き去りにされているわけじゃない。
手当をして薬をくれるみんながいて、そして、風の冷たさを溶かすように会いに来てくれる人がいる。
私は、一人じゃないって分かるから。
ふと、背後の暗がりからわずかに衣擦れの音がした。
まずい、しのぶさんだろうか。夜中にこっそり抜け出したのがばれて心配される、と焦りながら振り返るが、庭の影に佇んでいたその姿を捉えた私の目は大きく見開かれた。
「ねず――っ!」
反射的に上がりかけた声を、咄嗟に両手で口元を押さえて飲み込む。
長い毛先を夜風に揺らしながら、禰󠄀豆子ちゃんがまん丸の瞳をぱちくりとさせて私を見つめていた。どうやら、彼女も私とにゃー吉と同じく眠れないお仲間らしい。
「どうしたの?暇になっちゃった?」
口元を押さえていた手を下ろし、囁きかける。小首を傾げた禰󠄀豆子ちゃんが、とことこと私のそばへ寄ってきた。
「そうだよね。炭治郎くんはまだ眠ったままだし、みんなも夜は眠ってるもんね」
「いのすけ」
「伊之助くん?」
「いのすけ。おはよう」
「ふふ、伊之助くんに何か吹き込まれたの?」
一昨日、刀鍛冶の里から戻ってきた炭治郎くんは、またしても上弦の鬼と死闘を繰り広げたのだという。遊郭の時ほどの重傷ではないと聞いて胸を撫で下ろしたものの、疲弊しきった身体はまだ深い眠りの中にあった。
けれど、何よりも驚くべきは目の前にいる彼女のことだ。太陽の下を歩けるようになったのだと知らされた時は、屋敷中が衝撃に包まれたものだ。
昼間は三人娘と楽しそうに庭を駆け回っていたけれど、やはり鬼であることには変わりなく、夜になってもこうして目が冴えてしまうのだろう。
私はしゃがんだまま手を伸ばし、彼女の髪に触れる。禰󠄀豆子ちゃんは気持ちよさそうに目を細めると、私の手のひらにすり寄るように頭を傾けてくる。
その愛らしい温もりに、自然と口元が緩んだ。
「ねえ、禰󠄀豆子ちゃん。……私と遊ぼっか」
夜の庭に溶けてしまわないよう、そっと囁きかける。眠れない夜をやり過ごすための、ふたりだけの秘密みたいに。
立ち上がり、草履を脱いで縁側へと上がる。振り返って差し出した私の右手を、禰󠄀豆子ちゃんはぎゅっと握り返した。
「足音、忍ばせてね。みんな起きちゃうから」
人差し指を口元に当ててみせると、禰󠄀豆子ちゃんはこくりと素直に頷いて、私のあとに続いて静かに部屋へと上がってくれた。
小さな豆電球の明かりがぼんやりと照らす部屋の中にふたりで座り込むと、それだけでさっきまでの静寂がどこかあたたかいものに塗り替えられていく。
「何して遊ぼっか。折り紙でも折る?それとも……あ、髪を結ってあげようか」
「かみ」
ぽつりと小さく繰り返した禰󠄀豆子ちゃんが、自分の毛先をちょんと指さした。
「うん、髪。禰󠄀豆子ちゃん、綺麗な髪してるから。ちょっと待っててね」
音を立てないように立ち上がり、部屋の隅の鏡台から櫛と、アオイさんからもらっていた色とりどりの細い飾り紐を取ってきた。
畳の上に座り直すと、禰󠄀豆子ちゃんは待ってましたとばかりに、私の膝の前にちょこんと背を向けて座ってくれる。
「痛かったら言ってね」
「ん」
櫛を入れてやると、すうっと音もなく通り抜けていく。太陽を克服したとはいえ、毛先にかけて赤みを帯びた黒髪は艶やかで、指先を滑る感触がひどく心地いい。とっても綺麗な髪だ。
「私ね、妹が欲しいって思ったこともあったんだ。もし妹ができたら、こうやって毎朝髪を結ってあげたり、可愛い紐を選んであげたりしたのかなって。だからね、今すごく嬉しい」
「いもうと?」
「そう。禰󠄀豆子ちゃんみたいに可愛い妹」
手の中で髪を三つに分けながら、ゆっくりと編み込んでいく。
禰󠄀豆子ちゃんは私の言葉を反芻するように「いもうと」と何度も小さく呟いて、くすぐったそうに肩をすくめた。
「ねずこ、おねえちゃん」
「ふふ、そうだよね。禰󠄀豆子ちゃんは、炭治郎くんの妹で……弟や妹たちのお姉ちゃんだもんね」
六太くんや花子ちゃんたちのことを思い出したのだろうか。炭治郎くんがいつだったか、六人兄弟の賑やかな日々を話してくれたことがあった。
丸い瞳を少しだけ瞬かせたあと、禰󠄀豆子ちゃんは編まれていく自分の髪をじっと見下ろす。
「お姉ちゃんだって、誰かに甘えたくなる日もあるよね。今夜は私の妹ってことで、いいかな?」
「……ん!」
嬉しそうにこくりと頷いた弾みで、編みかけの髪が少し崩れた。思わずふたりで顔を見合わせて、小さく笑い合う。
そして崩れてしまった毛先を指先ですくい直し、もう一度ゆっくりと編み直していった。
「炭治郎くん、早く目を覚ましてくれるといいね」
しのぶさんの話では、峠はとっくに越えていて、いつ目を覚ましてもおかしくない状態だという。
世界でたったふたりきりになってしまった兄妹。お互いを誰よりも大切に思い合うふたりの絆を見るたびに、胸が痛くなるほど祈ってしまう。
このふたりが、報われないなんてことがあっていいはずがない。いつかすべての戦いが終わって、鬼のいない平和な世界で、ふたりが心から笑い合える日が必ず来てほしい。炭治郎くんが目を覚ましたら、今度は太陽の光を浴びながら笑う禰󠄀豆子ちゃんの姿を、一番にその目で見せてあげたい。
「炭治郎くんが起きたら、禰󠄀豆子ちゃんとお日様の下でお散歩できるね」
「おさんぽ」
「うん。いっぱいお話しして、綺麗な景色を一緒に見て」
楽しそうに言葉を繰り返す禰󠄀豆子ちゃんの頭を撫でながら、それからもしばらく他愛のない話をした。
言葉はおぼつかなくても、禰󠄀豆子ちゃんは私の顔をじっと見つめながら、楽しそうに相槌を打ってくれる。
髪を綺麗に結い終えて、手鏡を渡してあげると、彼女は鏡に映る自分を嬉しそうに眺めたあと、ふいに私を見上げてきた。
「おねえちゃん」
初めてそう呼ばれて、思わず目を丸くする。そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しさに瞳を潤ませていると、きゅっと私の浴衣の袖を小さな手で掴んだ。
「あいに、いく」
「え……?」
「おにいちゃん。あいにいく」
胸の前に手をぎゅっと当てて、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる。
夜中にこっそり抜け出してここへ来たのも、きっと炭治郎くんに会いたくて、部屋の周りをうろうろしていたからなのだろう。
ただ待っているだけじゃなくて、会いたいから、自分の足で。
「……うん、行こうか。お兄ちゃんのところ」
私が立ち上がると、禰󠄀豆子ちゃんはぱあっと顔を明るくした。足音を立てないようにそっと部屋を出て、薄暗い廊下を二人で並んで歩く。
病室の前に着きそっと戸を開けてあげると、布団の中で眠る炭治郎くんの横顔が見えた。傷だらけだけれど、その寝顔はとても穏やかだ。
「ありがとう禰󠄀豆子ちゃん。おやすみ」
手を振って囁くと、禰󠄀豆子ちゃんはこくりと頷いた。
そして、抜き足差し足で部屋の中へ滑り込み、炭治郎くんの枕元へちょこんと座り込む。結い上げたばかりの髪の毛を揺らしながら、眠る兄の手を両手でそっと包み込んで、愛おしそうに頬をすり寄せていた。
邪魔をしないように、静かに戸を閉める。しんと静まり返った薄暗い廊下に、ぽつんと一人立ち尽くした。
ただ待っているだけじゃなくて、会いたいから、自分の足で会いに行く。
そうだよね、と思う。会いたい人がいるなら、待っているだけじゃ駄目だと思う。ただ待っているだけじゃ、本当に知りたいことには届かない。知りたいと願ったのは、他でもない私なのだから。
なんだか、あのふたりに勇気をもらってしまったな。明日、しのぶさんに相談してみよう。それから、アオイさんにもお願いしたいことができてしまった。頭の中にやりたいことが次々と浮かんできて、胸が小さく跳ねる。
それから薄暗い部屋に一人きりになっても、もう暗闇は怖くなかった。
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