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あの夜のことは、今でも鮮明に思い出せる。
『冨岡さん。助けて、ください』
その言葉が何を意味しているのか。彼女が何を求め、何を差し出そうとしているのか。
たとえそれが、衝動的な縋りつきであったとしても。彼女が助けを求めるのなら、どんなことでもするつもりだった。
彼女が求めるのなら、あのまま抱いてしまってもいいとさえ思っていた。望むのなら、俺のすべてを使ってあの記憶を奪い去ってやるつもりだった。肌に残された他人の痕跡など、一片たりとも思い出せないほどに。
掻き合わせた襟元の隙間から覗いていた、赤い鬱血。乱暴はされていないと聞いていたはずの身体に、残された暴力の痕跡。
制止する彼女の手を払い、浴衣を捲り上げていくたびに、俺の視界は血の気配で染まっていった。
どれほど強く押さえつけられたのか。どれほど乱暴に扱われたのか。
痛かっただろう。怖かっただろう。ここまでされていて、手を出されていないわけがない。掠り傷などという言葉で片付けていいはずがなかった。
間に合ったつもりでいた。助け出せた気になっていた。その実、彼女の心も尊厳も、俺は何ひとつ守れてなどいなかったのだ。
『なぜ、言わなかった』
なぜ隠した。どうして、ひとりで抱え込む。俺はそんなに頼りないか。
いや、一人で耐えなくていいと、助けを呼べばいいと、口ではもっともらしいことを言っておきながら。あの日、俺がそうなるように仕向けたのではないか。
それなのに。いざ他の男に荒らされたと知れば居ても立ってもいられず駆けつけ、彼女がまだ俺を嫌っていないと知るや否や、こうして夜の闇に紛れてその肌に唇を落としている。
他人の残した痕を消してやりたいという思いに嘘はない。だが、彼女が心の中で俺を呼んでいたと知った時、諦めきれないのだと胸元に縋りついてきた時、胸の奥で暗い感情が湧き上がった。
『俺は、どうするべきだ』
謝れば済むのか。
それとも――。
『責任を取るべきか』
義務や贖罪のような体裁を取り繕って吐き出したその言葉の裏に、どれほど浅ましい本音が張りついていたか。
彼女を突き放した過去の負い目があるからこそ、素直な言葉は言えなかった。
『責任を取ってほしいと言ったら……どう、なりますか』
お前はいつも、俺を優しい男だと言うが違う。
敷布の上へ押し倒し、見下ろしたその顔。拒まれないと知って、彼女の心がまだ俺の手の中にあると確信して、本気であのまま引き返せないところまで連れて行こうとしていた。
柔らかい肌の感触と、耳朶を打つ彼女の声。久しぶりに会ったということも相まって、たちまち胸が苦しくなった。
薬のせいか、彼女の身体はひどく熱を持っていて。ほんの少し指先が触れただけで、過敏に身体を跳ねさせる。その反応のすべてに、苛立ちが込み上げて仕方がなかった。
首筋から鎖骨へ、手首に残る赤黒い手形へと唇を落とし、俺の熱で塗り潰していく。
切迫した呼吸、肌を擦り合わせるたびに伝わってくる震え。敷布の上へ縫い留めた手首から、袖口へと手を滑り込ませ、うなじを包み込むようにしてその顔を引き寄せた。
あと一寸。あとほんの少し顔を近づければ、その唇を奪える距離だった。
そうしてしまえば、もう引き返せない。彼女を完全に俺のものにして、二度と誰にも触れさせない場所に閉じ込めてしまえる。
だが――。落ちてくる俺の影の向こうで、彼女はぎゅうっと固く、強張るように目を閉じた。その瞳に宿っていた絶望が、視界に焼きついて離れなかった。
彼女の脳裏に、今、あの男たちの残像が重なっている。その動かしようのない事実を突きつけられた瞬間、熱で狂いかけていた頭に、冷や水を浴びせられたように息が止まった。
…抱けるはずがない。そんな顔をさせてまで、押し通すことなどできるはずがない。
傷つけたくない。怯えさせたくない。ただ、笑っていてほしいだけだった。
その距離を埋めることができず、俺は顔をわずかに横へと滑らせた。唇を落としたのは涙の流れ続ける、冷たい頬。
それだけで、張り詰めていた彼女の身体からすうっと力が抜けるのが分かった。
隣に横たわり、布団越しに彼女の身体を引き寄せる。
これで良かったのだ。頼りなげに俺の浴衣を握りしめるその手を確かめながら、静かに息を吐き出した。
今、高月が一番必要としていたのは、過去を強引に奪い去るような衝動ではない。ただ、もう誰も自分を脅かさないという、心からの安心だった。
一線を越えずに済んだことに、心の底から安堵している自分がいた。
彼女が眠りに落ちるまで、静かに背中を撫で続けた。
時折、悪夢の余韻を払うように身じろぎをするたび、掛布団の上から力を込めて抱き寄せる。
ここにいる。誰もここへは来させない。言葉にして伝えるのは不得手だが、ただ腕を解かないことなら今の俺にもできる。
規則正しくなっていく呼吸を聞きながら、腕の中にある確かな重みを見つめる。もう二度と、あんな暗闇にお前を一人で置き去りにはしない。
大事にしまって傷をつけないように、鍵をかけておくように、そうやって守るべきものだと思っていた。けれど、突き放して遠ざけることが、お前を守ることだと思い上がっていた過ちを、もう二度と繰り返すつもりはなかった。
*
鬼を斬る速度が、かつてなく速くなっていた。型を放つごとに、迷いなく首を落とす。刃を納め、鎹鴉からの報告を待つわずかな合間すら、今の俺には惜しかった。
呼吸を整えることより、汗を拭うことより先に考えるのは、蝶屋敷へ戻るまでの道順と時間だけだ。
彼女から目を離さないと、あの夜に決めた。突き放して線を引くことが守ることだと、己を騙して背を向けていた日々の愚かしさを二度と繰り返さないと。
朝の冷え切った鍛錬の合間だろうと、夕暮れ時だろうと、夜半の暗闇だろうと、顔を見るためだけに足を向けた。
生きているか。痛みに震えていないか。あの男たちの影に怯え、一人で泣いてはいないか。
ただそれだけを確かめるために通い詰めていたはずだった。無事な顔を見て、元気だと笑う声を聞けば、それで胸を撫で下ろして立ち去る――最初のうちは、そのつもりでいた。
だが、駄目だった。無事だと知るたびに、安心するどころか、別の乾きが胸を焼き始めるのだ。
あの熱を知ってしまったからだ。もう、触れてしまったからだ。
襟元をそっと押し開き、皮膚の薄い場所に触れた瞬間、彼女が小さく息を呑み身体を跳ねさせる。
その無防備な反応を確かめて、安堵する。男たちへの恐怖ではなく、薬のせいではなく、俺の手だからこそ震えているのだと。
そして手首を掴み、病室の戸を閉める。寝台に腰掛けさせ、目の前に立つと、彼女は何も言わずにただ俺を見上げる。
拒まれない。手を引かれれば素直に従い、怯えることもなくその身を委ねてくる。
その愚かしいほどの無防備さに、昏い優越感が湧き上がってくるのを止められなかった。
頭を撫で、頬に触れ、首筋へ指を滑らせる。触れるたびに、彼女の体温が上がっていくのが分かる。そして手首を持ち上げ、脈打つ皮膚の内側へ唇を寄せる。
じんわりと熱が滲み、俺のつけた痕が柔らかな肌に浮かび上がるのを見て、ようやく呼吸が楽になるのだ。
ずるい男だと、自分でも心底から思う。彼女にしてみれば、これは何の儀礼に見えているのだろう。
「責任」という言葉を都合のいい鎖にして、彼女を縛りつけている。
もしも彼女が、俺に愛想を尽かして離れていこうとしたらどうするのか。あるいは、他の男に心を移し、その男の前で笑うようになったら。
『リサさん!』
『雪くん!?』
手元から引き離された温もり。彼は高月の腰にしがみつくと、媚びを含んだ声で訴えかけた。
戸惑ったように彼に受け答える高月を見て、自分の中で何かが急速に膨らんでいくのを感じた。
しきりに警鐘を鳴らす脳内に荒波を立てて対抗したのは、強い焦りと嫉妬心だった。
『……身体は、大丈夫か』
平然を装って投げかけたその一言に、どれほど醜い意図を含んでいたか。心配しているふりをして、その実、牽制したかっただけだ。
『い、行こう。雪くん!』
けれど結局、高月はあっさりと彼について行ってしまった。その背中をぼんやり眺めていると、唐突にその男が振り返る。
――失せろ。唇は確かにそう言った。彼女に向けていた表情とは一変、その幼さの残る顔付きは侮蔑と憎悪に歪み、俺を鋭く睨めつけていた。
弟のようなものだと彼女は言うが、あの男が彼女に向ける視線が無害なわけがない。
胡蝶の前では「取られはしない」などと平然と言ってのけたものの、あれのどこに余裕などあったものか。
彼女はまだ俺を好いている。と、その時は高を括っていたが、彼女の視界に入るのは俺だけであってほしいと浅ましくも望んでいた。
*
『リサさんの前から消えてくれません?』
蝶屋敷を辞去しようと門へ向かっていた時だ。人懐っこい笑みを浮かべて、そいつはそこに現れた。
稽古をつけてくれだの、彼女の役に立ちたいだのと、好意的な言葉を並べ立ててくる。だが、その瞳の底にある敵意は決して隠しきれていなかった。
『別段、俺は一度も高月から目を離した覚えはない』
事実だ。突き放して背を向けたつもりでいた間も、意識のどこかには常に高月がいた。
視界から外したところで、心の中から追い出すことなどできなかった。消えるべきだと判断すればいつでもそうするが、それは俺が決めることであって、目の前の青二才に指図される筋合いはない。
彼女から離れたくないだけだろうと嘲笑された時も、図星を突かれたとは思わなかった。
手放したくない。その浅ましい執着を、今さら否定して取り繕うつもりなどないからだ。
大事な箱庭に閉じ込めておきたいのだろう。外の泥や雨風に触れさせず、清らかなまま囲い込んで、自分だけのものにしておきたいのだろう。
分かるよ。その言葉を聞きながら、かつての己の姿を見ているようだった。
大事にしまって傷がつかないように、鍵をかけておく。そうやって遠ざけておくことが守ることだと、俺もかつて思い上がっていた。
だが、その結果はどうだったか。無菌の温室で育てた生き物は、ほんのわずかな隙間から吹き込んだ悪意に晒されただけで、あっけなく食い破られる。
あの夜、彼女が受けた傷は、他でもない俺のその独善が生み出したものだったのだ。
だから、安堵した。その男の執着が、まだ「大事に囲っておきたい」という程度の青い独善で止まっていてくれたことに。
俺のように、泥を塗りたくってでも囲い込みたいという生々しい飢えにも至っていないことに。
汚したくないと思っている間は、彼女の奥底まで踏み込んで奪うことなどできはしないのだから。
明け方の冷え切った空気。夜通しの任務と見回りを終え、自分の屋敷へと続く薄暗い坂道を一人歩いていた。
数日間ほとんどまともに眠っていないせいで、さすがに身体に重い疲労が沈殿していた。
少し仮眠を取ってから、昼過ぎに蝶屋敷へ寄れればいいが。いや、その前に鴉へ任務の報告書を持たせなければならない。ああ、破れた隊服の修繕も出さねばならなかったか。
門をくぐると、ちょうど入れ替わりで屋敷の管理を任せている隠が玄関から出てくるところだった。
「お疲れ様です、水柱様。湯を焚いてありますので、冷めないうちにどうぞ。着替えも寝所に用意しておきました。あと、鎹鴉からの文が三通、机の上に置いてあります」
立て続けの報告に、頭の中でひとつずつ順序を組み立てながら短く息を吐き出す。気遣いはありがたいが、疲労のせいで上手く気の利いた返答が出てこない。
「……ああ。すまない、いつも助かる」
「いえ!それと……あの、居間に」
隠が何かを言いたげに、そっと屋敷の奥へと視線を泳がせた。
「何だ」
「いえ、その……行かれれば分かります。ごゆっくりお休みになってください。では、失礼します!」
ぺこりと深く頭を下げ、隠はどこか落ち着かない様子のまま足早に門を出ていった。
何事だろうと腑に落ちない思いを抱きつつも、疲れた頭で深く考えるのを諦め、草履を脱いで板張りの廊下に上がった。薄暗い廊下を進み、居間の引き戸に手をかける。
立て付けの少し緩んだ戸を静かに引いた――その時だった。
自分の目を疑った。全身に溜まっていた重い疲労が、一瞬どこかへ吹き飛んで消えた。
朝の柔らかな光が差し込む畳の上。そこに座っていたのは、淡い薄紅の着物を身にまとった娘。胸元には桜の帯留め。首元には、失った友と揃いの青い首飾り。丁寧に結い上げられた髪には、揺れる蝶の髪飾りがあった。
あの夜。鬼とあの男たちの手によって無惨に引き裂かれ、泥と血に汚れて、二度と見ることなどできないと思っていた姿。
もうあの時のように、無邪気に笑ってこの装いを身につけることなどできないのではないかと、どこかで諦めていた過去の残像が、何ひとつ欠けることなくそのままそこにあった。
湯呑みを両手で包み、静かにお茶を啜っていた彼女が、戸の開いた気配に気づいて振り返る。そして、戸口に立ち尽くす俺の姿を認めた瞬間、ぱっとその顔を花が咲いたように輝かせた。
「冨岡さん!おかえりなさい!」
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