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「……で、聞いてます?冨岡さん」
畳の上、座布団一枚分だけ離れた場所に腰を下ろしている冨岡さんを見上げる。
いつも通りの端正な顔立ち。けれど、その目元には抜けきらない影が落ちていて、疲労が滲み出ていた。
最近は、あまり眠れていないのかもしれない。鬼を狩り、夜を徹して走り回り、そのままここへ帰ってきたのだと一目で分かってしまう。
だから早く休ませてあげたいと、私は口早に言葉を重ねていた。
「それでですね、やっぱり冨岡さんの言う通りにしようって思ったんです。雪くん、弟みたいで可愛い子だと思ってたんですけど……最近ちょっと、距離が近すぎるというか。しのぶさんにも少し注意されちゃって。だから、ちゃんと警戒心を持つことにしま――」
つらつらと並べ立てる私の報告を、冨岡さんは相槌も打たずに聞いている。いや、聞いているのかすら怪しい。
彼はやがて眉をひそめると、右手をおもむろに持ち上げて親指と人差し指で眉間を揉みほぐした。疲労を押し殺すようなその仕草に、私の口が自然と噤まれる。
「何故、ここにいる」
「屋敷の管理をされている隠の方が、どうぞって中へ通してくださって……」
「いや。そうではない」
眉間から手を下ろした冨岡さんの青い瞳が、まっすぐに私を見据える。
「何故、ここに来たのかと聞いている」
その視線に射竦められて、心臓が跳ねる。
何故と言われても、理由はひとつしかなかった。
「朝早く来たら、見回りと任務から戻られた冨岡さんに会えるかなって」
昨夜のことを思い出す。禰󠄀豆子ちゃんと炭治郎くんの姿を見て、私も考えを改めたのだ。
会いに、行く。そんなこと、考えたこともなかった。私はいつだって彼がやって来るのを、呼ばれるのを、待つことしかしてこなかった。
会いたい。待っているだけじゃなくて、私から。そう思ったら、もう居ても立ってもいられなくなっていた。
「遠方の任務の可能性もあっただろう」
淡々とした指摘に、はっと我に返る。
「あ……そうですね。そこまで考えが及んでいませんでした」
もし彼が何日もかかる山奥へ派遣されていたら、私は誰もいないこの屋敷でただ空振りに終わっていた可能性もあったな、と今更気づいた。
「……胡蝶は」
「あ、もちろん知ってます!朝餉の支度を終えたあと、冨岡さんのところへ行ってきますって伝えたら笑って送り出してくれました」
しのぶさんは『まあまあ』と零していたけれど、止めることはしなかった。けれど目の前の冨岡さんは、私のその返答を聞いて今日一番のため息を落とした。
…やっぱり、迷惑だっただろうか。ただでさえ疲れて帰ってきたのに、私が居座っていたら休まるものも休まらないだろう。
待っているだけじゃ、何も知ることができない。だから少しでも知りたくて、追いかけたくて、ここまで来てしまったけれど。
「あの、それとも。来ちゃ、まずかったですか……?」
「いや」
冨岡さんは、伏せていた視線をゆっくりと私へ向け、短く首を横に振った。
「事前に、お手紙で許可をとったほうがよかったですか」
「いや」
また短く否定される。じゃあ、何なのだろう。
戸惑いながら見つめていると、冨岡さんはどこか諦めたように視線を泳がせ、ぽつりと呟いた。
「……お前がそういうやつだと忘れていた」
「え?どういうやつ、ですか」
聞き返すと、彼は少しだけ視線を戻し、私を捉える。
「簡単に、人の懐に入ってくる」
――そんなふうに、思ってくれていたんだ。
私は完全に締め出されたのだと思っていた。冨岡さんが築いた高くて分厚い壁は、誰にも破ることなんてできなくて、私は一生その外側で立ち尽くすしかないのだと。
じゃあ、私は。少しは、冨岡さんの懐に入れてもらえているのだろうか。この人の心の、ほんの入り口くらいには、足を踏み入れることを許されているのだろうか。
そう考えた途端、胸がきゅうっと締めつけられるように嬉しくなってしまった。
疲れ切った彼を前にして不謹慎だと分かっているのに、緩みそうになる口元を必死に引き締める。
「あ、そうだ!アオイさんがおにぎりを持たせてくれたんです。鮭と昆布なんですけど、一緒に朝餉にしませんか?あ、でも、もしお疲れでしたら無理にとは言いません!お風呂の後の方がよければ、私が温め直しておきますし、寝所にお持ちしても――」
一人で舞い上がって捲し立てながら、畳の端に置いていた風呂敷の包みを取ろうと腰を浮かせた、その時だった。
ず、と畳を擦る重い衣擦れの音がした。見れば、難しい顔をしたままの冨岡さんが、膝を滑らせてこちらへ詰め寄ってきていた。
え、と思った時にはもう遅い。座布団一枚分あったはずの隙間は一瞬で消え去り、私の身体の両脇に無造作に手が突かれた。
「とみ、岡さん?」
逃げ場を塞がれた形になり、私の言葉も、立ち上がろうとしていた身体も完全に凍りつく。
目の前に迫る、胸板。近すぎる。近すぎて、彼が纏っているほんの少しの汗の匂いと、そしていつも香る清らかな香りが直接に鼻を打つ。
思わず息を呑んで、少しだけ後ろへと身を仰け反らせた。
「な、なんですか?」
上ずった声で問いかけると、冨岡さんは至近距離から私の身体を上から下へとじっと検分するように見つめてくる。
「着物を、繕い直したんだな」
「は、はい。アオイさんと、町のしっかい屋のおじさんがすごく頑張ってくれて……元の柄に合わせて綺麗に縫い合わせてくれたんです」
もう二度と着られないと諦めていたけれど、みんなが私のために手を尽くして元通りにしてくれたのだ。
その苦労を伝えたくて懸命に答えたのに、冨岡さんは「そうか」とも言わず、無言のままじわり、とさらに顔を寄せてきた。
反射的に背中を引くけれど、両脇には彼の太い腕がある。
「帯留めもか」
間近で落とされる視線が、今度は胸元の中央、桜の硝子に落ちる。
近すぎる距離に心臓が早鐘を打ち始めて、頭がくらくらしてきた。
「そ、それは壊れちゃってた金具を、隠の後藤さんが直してくださって……」
「そうか」
短く吐き捨てられた言葉。それと同時に、じわり、とさらに距離を詰められた。
たまらず後ろへ逃げようとして、私は畳の上に両肘をついて大きく仰け反る格好になる。
怒っているのだろうか。それとも、私が勝手に屋敷に来たことが気に入らなかったのか。
蝶屋敷で会う時とは、何かが違う。今の冨岡さんの瞳の奥には、暗くて底の知れない何かが揺らめいている。
「お前の口から、男の名しか聞かないな」
男の、名?一瞬、言われた意味が理解できなくて目を白黒させた。
雪くんに、しっかい屋のおじさんに、後藤さん…って、まさかそれのことだろうか。
「そ、そんなことないです。しのぶさんとか、アオイさんの名前だって言いました」
必死に抗議の声を上げる。けれど冨岡さんは納得するどころか、腕の力をわずかに緩め、そのまま私の身体の上へ覆い被さるようにして倒れ込んできた。
「あっ――」
支えていた肘が限界を迎えて滑り、身体が畳へと完全に倒れ込む。
頭を打ちつける、と咄嗟に固く目を閉じたけれど、痛みは来なかった。倒れ切る寸前、滑り込んできた冨岡さんの手のひらが、私の後頭部を受け止めていたからだ。
畳の上に押し倒された姿勢のまま、ゆっくりと目を開ける。
目の前には、至近距離で見下ろしてくる冨岡さんの顔。私を庇ってくれた手は後頭部を抱いたまま離れず、もう片方の手は私の耳元の畳に強く突き立てられている。
彼の長い髪がはらりと落ちて、私の頬をかすめた。息がかかるほどの距離で、冨岡さんは笑みのかけらもない真剣な表情を張りつめている。
そして、低い声でぽつりと呟いた。
「どういうつもりで来た」
どういうつもり、って。
「冨岡さんに会いたくて……」
嘘偽りのない本音だ。けれど冨岡さんは納得するどころか、瞳をさらに眇めた。
「男が一人で住んでいる屋敷に、女が一人で上がり込むことの意味を分かっているのか」
意味?意味と言われても、すぐに思い至らない。だって、これまでだって何度もこの屋敷にはやって来ていた。
他愛のない話をしたり、お茶を飲んだり、出納帳の手伝いをしたことだって一度や二度じゃない。その時は、こんなこと一度も言われなかった。
…昔、尾崎さんに『冨岡さんのお屋敷に行って出納帳の手伝いをしてる』と話した時のことをふと思い出す。
あの時、尾崎さんは目を丸くして、信じられないような顔をしながら『本当に二人きり?』と詰め寄ってきたのだった。
あの時は大袈裟だなと笑って聞き流してしまったけれど、もしかして、冨岡さんはそのことを言っているのだろうか。
「……俺は疲れてる」
思考を巡らせていた私の額のすぐ上で、ぽつりと呟きが落ちてきた。
「は、はい。お疲れのところを押しかけてしまって、本当にすみませ、」
謝りかけた私の唇を遮るように、彼の顔がさらに近づいた。鼻先が触れそうな距離。落ちてきた吐息が、私の唇をかすめて熱く散る。
「正常な判断ができない」
掠れた声が耳朶を打つ。
正常な判断が、できない。それは大変だ。
「そ、それは早く……休んだ方がいいですね。早くお布団へ……」
震える声で精いっぱいの逃げ道を提示する。
けれど冨岡さんは、私のその言葉に小さく頷いただけだった。
「ああ、そうだな」
そう言ったきり、離れるどころか、さらに顔が近づいてくる。
影が私の視界のすべてを覆い尽くす。駄目だ、息ができない。どうしよう、どうしよう。
唇が触れる。絶対に触れてしまう。引き返すことのできない場所へ連れて行かれてしまう恐怖と、それを拒みきれない自分への混乱で胸がいっぱいになり、私はぎゅうっと固く目を閉じた。
ここで拒まなければ、もう元には戻れない。蝶屋敷での印とは違う。あの夜、頬や首にしか触れてこなかった彼が、今度こそ私のすべてを奪いにくる。
心臓が耳の奥で狂ったように跳ねている。でも、嫌じゃない。嫌だと叫んで突き放すことなんて、私にはできない。
いっそ呑み込まれてしまいたい。そんな思いが、恐怖の裏側でどろりと頭をもたげた時。
「……っ?」
ふいに、鼻先をぎゅっと強めにつままれた。あまりにも間の抜けた衝撃に、息が漏れる。
おそるおそる目を開けた瞬間、ぐらりと視界が横に傾いた。覆い被さっていた冨岡さんの身体が畳の上へと滑り落ち、隣へと横たわる。
そして戸惑う私の身体を、太い腕でぐいっと引き寄せた。
「え?」
私の後頭部を抱いていた手は背中へと回り、もう片方の腕は私の腰をしっかりと抱え込んでいる。引き寄せられた私の顔は、冨岡さんの胸板にすっぽりと埋まっていた。
固くて、温かい。隊服越しに、彼の規則正しい心音が伝わってくる。
「少し、寝る」
それきり、部屋の中は静寂に包まれた。
え、寝る?ここで?わけが分からなくて、状況を呑み込めないまま、私は彼の腕の中で完全に固まっていた。
「あの、冨岡さん?お布団は……」
おそるおそる呼びかけてみるけれど、返事はない。代わりに聞こえてきたのは、すう、すう、という穏やかな寝息。
…本当に、寝ちゃったの?信じられない思いで、胸元から少しだけ顔を上げて見上げる。
目を閉じた冨岡さんの顔は、さっきまでの張り詰めた気配が嘘のように解けていて、ひどく疲れて見えた。
あんなに脅かすようなことを言っておいて。正常な判断ができないだなんて、あんな台詞を吐いておいて。
回された腕に少し力を込めてみるけれど、びくともしない。眠っていても解く気はないとでも言うように、しっかりと抱きすくめられている。
これじゃ、動けない。起き上がっておにぎりを温め直すことも、居間を出て隠の人を呼ぶことも。
どうしよう。本当にどうしよう。けれど、伝わってくる彼の体温と、一定の間隔で刻まれる寝息を聞いているうちに、私の強張っていた肩から力が抜けていくのが分かった。
…よく考えれば、私も昨夜はほとんど眠れていなかったのだ。安心したら、急激に睡魔が瞼にのしかかってくる。
彼の胸元に頭を擦り寄せ、少しだけ居心地のいい場所を探して額を預ける。
誰にも邪魔されない、静かな空間。とくん、とくんと響く音を聞きながら、私は吸い込まれるように瞳を閉じた。
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