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「……ん」

 微睡みの底から、ゆるゆると意識が浮上していく。
 目を開けると、障子の向こうから差し込む光はいつの間にか高くなっていて、部屋の中を柔らかく照らしていた。吹き抜ける風も、遠くでさえずる鳥の声も、もう朝のそれではない。ずいぶんと長く眠ってしまったみたいだった。
 頬に当たる、骨張った硬い感触。耳のすぐそばで、規則正しい鼓動の音が聞こえている。
 自分が冨岡さんの腕の中で眠りこけていたのだと気づいて、息を止めた。おそるおそる視線を上げ、目を見張り、声も出ないまま息を呑む。

「寝てる……」

 あの冨岡さんが。あの、いつだって隙がない冨岡さんが。私のすぐ隣で、眠りに落ちている。
 彼は畳の上に仰向けになって、片腕は私の頭の下に、もう片方の手は自分のお腹の上に無造作に乗せられていた。
 引き結ばれた唇も、眉間の険しさもない。すー、すー、と静かな寝息を立てる横顔はいつもよりどこか若く、あどけなく見えた。

「冨岡さん?」

 そっと呼びかけてみるも、ぴくりとも動かない。信じられなくて、何度も瞬きを繰り返してしまう。こんな姿、一度だって見たことがない。いつだってこの人は、私より先に起きていたから。
 でも、良かった。眠れたんだ。不眠だと聞いていたから、ずっとずっと心配していた。張り詰めていた糸が今、私の隣で少しだけ緩んでいるのだと思えたら、それだけで胸がいっぱいになって泣きそうになる。

 起こさないように息をひそめながら、そっと彼の腕の中から身体を抜く。離れるのは少し寂しかったけれど、この穏やかな時間を邪魔したくはなかった。
 音を立てないよう細心の注意を払いながら、畳に手をついて慎重に腰を上げる。部屋の隅を見やれば、風呂敷がぽつんと置かれたままになっているのが目に入った。
 もうお昼を大きく過ぎているから、目が覚めた時にはきっとお腹が空いているだろう。汗もかいているはずだから、すぐにお風呂にも入りたいかもしれない。
 足音を忍ばせて風呂敷を拾い上げ、胸元に抱え込む。

「ゆっくり寝ててくださいね」

 眠り続ける彼の横顔をもう一度だけ視界に収めると、私は音を立てずに引き戸をすべらせ、静かに台所へと足を向けた。





*




 お盆の上におにぎりと湯気の立つお茶、それから台所の甕(かめ)にあった胡瓜のお漬物を小皿に盛って、居間へと運ぶ。
 隠の方が手入れを終えた後だったらしく、屋敷はどこを見渡しても埃ひとつ落ちていなかった。結局、冷めかけていたお風呂の湯を焚き直すくらいしかできなくて、居間へ続く廊下を歩きながら息を零す。
 そろそろ起きた頃だろうか。そっと居間の障子を開けると、冨岡さんは先ほどと変わらぬ体勢で畳の上に横たわったままだった。

「……まだ寝てる」

 本当に、随分とお疲れなんだな。私がこんなに屋敷の中を行き来していたのに、まったく目を覚まさないなんて。普段の冨岡さんなら、ほんのわずかな気配だけでも跳ね起きそうなものなのに。
 足音を忍ばせながら座卓にお盆を置く。硬い畳の上に寝転がっていて、身体は痛くならないだろうか。
 迷いながら、私は畳の上に正座した。横たわる彼の頭のすぐ上側からその顔を覗き込む。

「冨岡さん?」

 控えめに呼びかけてみるも、やはりぴくりとも動かない。起こしちゃいけないと思いつつ、こんなに無防備な冨岡さんを見るのは初めてで、目が離せなくなってしまう。

「……本当に綺麗な顔」

 肌が白くて、鼻筋が通っていて。普段はじっとなんて恥ずかしくて見つめられないけれど、この角度から見るとまつ毛が驚くほど長いのがよく分かる。寝ていても全集中の呼吸を続けているのか、呼吸も大きく深かった。

「いつもお疲れさまです」

 おそるおそる指先を伸ばし、いつも寄せられがちな眉間を労うように撫で下ろす。
 …硬い。眠っている時ですら、どこか微かに力が入ったまま。この指先に触れている人の上に、どれだけ数え切れない人たちの命が乗っかっているんだろう。
 けれど、しんどいとか、痛いとか、辛いとか。冨岡さんが言っているのを見たことがない。この人はこれまで、どんな道を歩いて、どんなものを見てきたんだろう。
 言葉にしてくれないと分からないことばかりのはずなのに。それでも、こうして静かに眠る姿を見ていると、なぜだか少しだけ分かってしまう気がした。
 彼があの日、冷たい言葉で私を突き放したのも。私との間に頑なに線を引き続けていたのも。これ以上誰かが傷つくのを見たくなくて、遠ざけようとしていただけなんじゃないかって。

「そう……、ですよね?」

 撫でていた手を止め、そっと問いかけてみる。
 そうやって一人で全部を背負い込もうとするのが、あなたの守り方だったのだと。今なら、何故だかあの時の痛みの理由が分かる気がするんだ。
 冨岡さんはきっと、自分の懐に入ってきてしまった人たちを、みんなその手で守ろうとしてしまうのだ。一人残らず、こぼさずに。
 そうやってたくさん救おうとするあまり、指の隙間から零れ落ちてしまった命に、眠れないほど自分を責め続けてきたのだろう。
 あの山で私を助けに来てくれた時もそうだった。駆けつけてくれた冨岡さんの方が、鬼に襲われた私よりもずっと痛ましそうに見えた。まるで、傷ついているのが自分であるかのように。間に合わなかったかもしれない恐怖に、その身を苛まれるかのように。

 突き放されて、泣いた夜もあった。けれど本当に傷ついて、見えない涙を流していたのは、彼の方だったのではないか。
 きっともう、誰も失いたくないんだ冨岡さんは。だから、誰もその扉の中へは踏み込ませてもらえない。けれど、どれほど頑丈に扉を閉ざそうとしても、漏れ出てしまう優しさを隠しきれていない。本当に冷酷な人なら、突き放した後にあんなにも痛ましそうに瞳を揺らしたりしない。
 ほら、やっぱり優しい人だ。どれだけ自分には情なんてないような顔をしてみせても、その奥にある温かさを私はもうちゃんと知っている。

「冨岡さん、何も言わないから。こんなの私しか分からないですよ」

 この答えにたどり着くまで、すごくすごく時間がかかったんですからね。たくさん考えた。嫌われたんじゃないかって泣いて、なのに突然優しく触れてくるから混乱して。中途半端に優しくするなら、もっとひどく突き放してくれればいいのにって。
 けれど、それすらもできないのだ。徹底して冷たい人間になりきることも、誰かを心底突き放すことも、この人にはどうしてもできない。人を遠ざけようとする頑なさと、どうしても出てしまう情の深さ。その狭間で、ずっと一人で引き裂かれそうになってきたんじゃないだろうか。
 不器用で、中途半端で、誰よりも優しい。だからいつも、自分ばかりが一番深く傷つく羽目になる。
 でも、もう大丈夫ですよ。私はどこにも行きはしませんよ。どれだけ先回りして不安を抱え込んでいても、私は勝手に消えたりしない。そんなあなたの弱さも脆さもすべて、愛さずにはいられないんだ。

 何かに引き寄せられるようにして、私は膝立ちになった。そっと身体を前に倒し、彼の顔へと近づけていく。
 あと少し、あとほんの少しだけ。息をひそめてその顔を見つめていた、その時。

 ――ぱちり。何の予兆もなく、夜色の瞳が開いた。
 しまった、と思った時にはもう遅い。畳の上に投げ出されていたはずの彼の右手が、私の後頭部へと回り込む。引き寄せられ、ぐらりと重心が崩れた。

「とみっ……」

 咄嗟に彼の顔の横についた手で、身体を支える。至近距離で散った吐息が、私の額をかすめていった。

「い、いつから起きて……」
「お前が、部屋に入ってきたくらいだ」

 寝起きとは思えないほど明瞭な声が返ってくる。
 最初から。そんなの、恥ずかしすぎるじゃないか。

「お、起きてたなら言ってくださいよ……」

 抗議の声を上げながら身じろぎするけれど、頭を押さえる力は緩まない。そんな私の狼狽を間近で見つめながら、冨岡さんはわずかに眉を寄せる。

「いや。……寝込みを襲われるとは思わなかったから」

 その言葉の意味を理解した途端、ボッと音を立てて顔に火がつく。
 違う、そんなつもりじゃなかった。ただ、顔をよく見ようとしただけで。
 弁解しようとぱくぱくと口を開け閉めする私を、冨岡さんはじっと見つめ返してくる。

「何もしないのか」
「え?」
「続きがあるのかと、待っていたんだが」

 耳まで真っ赤になった私を見て、冨岡さんはどこか意地悪な色をその瞳に宿した。揶揄われているのだと悟る。
 そう、私は何をしようとしていたのだろう。彼の上にかがみ込んで、息がかかるほどの距離まで顔を近づけて、その先で――。

「ち、違います。ちょっと近くで、お顔を見ていただけです」
「『私しか分からない』と、自信満々に言っていたな。何だ?」
「わ、忘れてください今の……」
「断る」
「冨岡さん!」

 恥ずかしさで頭が沸騰しそうだ。穴があったら入りたいどころではない。畳の目に溶けて消えてしまいたい。
 じたばたと焦る私の様子をしばし黙って眺めていた冨岡さんだが、ようやく満足したのか後頭部を解放してくれた。
 弾かれたように身を引き、畳の上で両手で顔を覆う。もう、本当に恥ずかしい。
 そんな私を横目に、冨岡さんはのっそりと上体を起こす。衣擦れの音がして、冨岡さんが辺りを見回すように身じろぎする気配が伝わってきた。

「高月。握り飯を、持ってきてくれたのか」
「は、はい。一緒に食べようと思って。お茶も淹れたてです……」
「漬物も?」
「はい。勝手に台所触ってすみません」
「……風呂の湯も、足してくれていたな」
「はい。熱湯で入れたので、少し時間をあけて入るとちょうどよくなってるはずです……って知ってるってことは随分前から起きてましたね?」

 両手で顔を覆ったまま、指の隙間から細い声で答える。
 部屋に入ってきた時どころの話ではない。お風呂の湯を足したことまで知っているなら、私が台所を行ったり来たりしていた時からずっと起きていたということだ。屋敷の中を行き来する足音を聞いて。声をかけるでもなく。

「そうですか。そんなに前から起きて」

 覆っていた手を下ろし、私はぷいっと横を向いた。

「怒ったか」

 ちらりと視界の端で捉えると、珍しく胡座をかいた冨岡さんが、首を傾げてこちらの顔を覗き込んできていた。
 怒ってなんていない。ただ、恥ずかしくて居た堪れないだけだ。あんな恥ずかしい独り言まで聞かれて。
 優しい人だなんて、やっぱり嘘だ。この人は案外意地悪だ。これ以上は敵わないと、私は膝を抱え込むようにして小さくなる。

「ぜんぜん、どきどきなんてしてませんから」
 
 起きていたなら、声をかけてくれればよかったのに。そうしたら、もっと長い時間一緒にお話だってできたのに。
 意地を張って視線を逸らしたままでいると、すぐ隣からふっと吐息が漏れる音がした。直後、頭の上にふわりと重みが落ちてくる。そのまま手のひらが私の髪を毛流れに沿うように、何度も何度も撫でられた。
 おずおずと視線を彼に向けると、少し前かがみになって私を見つめていた冨岡さんと目が合う。

「どうして、これ……」
「触りたいからだ」
「触りたいから」
「それとも、触れる前に確認した方がいいか?」

 小首を傾げて、問いかけてくる。

「えっと。……確認しなくて、いいです」

 こうして触れられるのは嫌じゃない。
 そう思って答えると、冨岡さんは「そうか」と呟いた。見つめ合うのも恥ずかしいのでまた両手で顔を覆う。そんな私に構わず、冨岡さんは変わらず私の頭を撫で続けている。
 耐えきれなくなって、私はその場にごろりと倒れ込んだ。横向きに丸まって、膝を胸元まで引き寄せる。畳に顔を押しつけて、とにかく真っ赤になった顔を隠したかった。

「……猫のようだな」
「にゃー吉みたいに可愛げなんてないですよ」

 にゃー吉のように素直には甘えられないもん。拗ねたように言うと、頭を撫でていた手の動きがふと止まった。

「いや、そんなことはない」

 そろりと隙間を開けて見上げると、冨岡さんはどこか優しい表情を宿してこちらを見下ろしていた。

「……また揶揄っているんでしょう」

 ふくれっ面を作ってみても、冨岡さんは少しも動じる風はなかった。止まっていた手が、再びそっと頭頂へ置かれる。指先が私の前髪を軽く払うようにすくい上げ、額をくすぐる。

「本当のことだ」

 低く落ちてきたその言葉は、柔らかくて、どこか甘くて。静かな部屋に、あまりにも深くとどまった。




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