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「わあ!ごめんなさい、取り損ねました!」
中庭の青空に、すみちゃんの高い声がよく響く。
土煙を立てて転がっていく赤い手鞠を、きよちゃんがぱたぱたと小走りで追いかけていった。向こう側では、日差しを浴びながら禰󠄀豆子ちゃんがしゃがみ込み、庭の隅に咲いた小さな野花を指先でちょんちょんと突っついている。
「大丈夫だよ、すみちゃん。一番下手っぴさんなのがあちらにいますから」
「うっ」
すまし顔で言い放ったなほちゃんに、私は胸を押さえてたじろぐ。
「また鞠つき三回しか出来なかったんですか?リサさん」
「意外です!リサさん、なんでも上手にできそうなのに」
「また木にお顔をぶつけて鼻血出さないように気をつけてくださいね?」
きよちゃんとすみちゃんにまで口々に言われて、思わず顔に熱が集まった。
洗濯も包帯巻きも、みんなに教えてもらった甲斐があって手際よくこなせる自信はあるけれど、子どもの遊びとなると話は別だ。力加減がまったく掴めない。
そもそも、この時代の手鞠や竹とんぼなんて遊びを幼少期に通ってこなかった。そんな言い訳を口にしたところで、誰にも伝わるはずもないのだけれど。
「で、できるよ!ちょっと手が滑っただけで……ほら、禰󠄀豆子ちゃん見てて!」
思わずムキになって手を振り下ろすと、手鞠は地面を鋭く叩き、ポーンと綺麗な弧を描いて庭の奥へとすっ飛んでいってしまった。
あ、と思ったときにはもう遅い。
「あーあ、リサさん何してるんですか」
「ご、ごめん!」
なほちゃんの呆れ顔から逃げるように、私は慌てて手鞠の行方を追って駆け出した。
植え込みを越え、渡り廊下の近くまで転がっていく赤い球体。拾い上げようと手を伸ばしかけた瞬間、白い裾が揺れて足元ですっとその動きが止められた。
入院着を着た、一人の隊士。庭の端の日陰にぽつんと立っていた彼が、屈み込んで手鞠を拾い上げてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言いながら差し出した私の手は、空振りに終わる。手鞠は手元をすり抜け、彼の手によって奪うように素早く背中へと隠されてしまった。
ぽかんと宙を彷徨う私の手。見上げた先にあったのは、どこか意地悪そうに細められた瞳だった。
「ゆ、雪くん……」
思わず零れた名前に、彼は形のいい唇をふっと持ち上げて楽しそうに笑ってみせる。
「返してほしいですか?」
背中に手を回したまま雪くんは首をこてん、と傾げてみせた。
「う、うん。返して?」
「嫌です」
屈託のない笑顔で即座に返されてしまって、思わずたじろぐ。
彼に対して一定の距離を保つようになってからというもの。ふとした拍子に見せる表情や、こちらをじっと品定めするような視線がどうしても引っかかって、踏み込まれるたびに警戒心が先に立ってしまう。
「どうして?みんなで遊んでいる途中なんだよ」
「だってリサさん、僕のことずっと見てるって約束してくれたのに全然見てくれないから」
やっぱり、気づかれていたか。あからさまに避けているつもりはなかったけれど、必要最低限の会話だけで済ませようとしていたこちらの都合なんて、彼にはとっくにお見通しだった。
「ご、ごめんね。色々と忙しくて……」
「本当ですか?」
覗き込むように顔を近づけられて、思わず喉が詰まる。
「う、うん。本当」
「どうかなあ。柱の屋敷にはわざわざ行くのに?」
「どうして……それを知ってるの?」
「さあ?」
雪くんは悪びれもせずに笑った。その視線が、私の顔からすっと滑り落ちる。彼が見つめたのは私の手首のあたりだった。
見透かされたような気味の悪さに背筋が粟立ち、私はとっさに反対の手を伸ばして着物の袖ごと手首を覆い隠した。
「お願いを聞いてくれるなら返してあげてもいいですよ」
私の警戒を意に介した風もなく、雪くんは手鞠を背中に隠したまま楽しそうに告げてくる。
「お願い?私にできること?」
「はい。リサさんにしかできないです」
きっぱりと言い切られて、ますます身構えてしまう。
雪くんなら、何を言い出してくるか分からない。また何か試すような、私を困らせる無理難題を突きつけてくるんじゃないか。嫌だと言ったら手鞠を返してくれないだろうか。
あれこれと予想を巡らせて眉を寄せていると、目の前で雪くんが吹き出した。
「ふふっ、何を想像してたんですか?そんなに怖い顔して」
「だ、だって……」
「僕の絵の人形代になってほしいんです」
「……絵の?」
拍子抜けして瞬きを繰り返す。
そうだ、思い出した。雪くんは絵がとても上手だった。夏頃、彼が縁側に腰掛けて木炭を走らせていたのを覚えている。庭の青葉や池を、紙の上に息づくみたいに巧みに描き写していた姿が脳裏をよぎった。
「それくらいなら……」
「本当ですか?約束ですよ。じゃあ、返してあげます」
あっさりと背中から手鞠が出され、私の掌の上に乗せられた。手の中で転がる感触にほっとしかけて、ふと不安が頭をもたげる。
「あ、あの……変な絵じゃないよね?」
「もちろんですよ。そんな絵、僕描きません」
雪くんはどこまでも爽やかに笑い、軽く片手を振ってみせた。
「あ、ありがとう……?」
奪われていたものを取り戻しただけなのに、なぜこちらがお礼を言っているのだろう。釈然としない疑問を抱えたまま、私は急ぎ足で中庭の中央へと戻った。
「ご、ごめんね。お待たせ!」
息を切らして駆け寄ると、すみちゃんがきらきらとした目で手鞠を見つめていた。
「大丈夫です!次は禰󠄀豆子さんが投げたいみたいですよ!」
「本当?じゃあ、これあげるね」
手渡すと、禰󠄀豆子ちゃんは受け取った手鞠を両手で大事そうに抱え、こくりと嬉しそうに頷いた。
*
「雪くん、本当に絵が上手だねえ」
思わず零れた感嘆に、木炭が紙を擦る乾いた音がぴたりと止まる。
「動かないでください」
「ご、ごめん……」
少し離れた縁側の端から注意されて、私は慌てて視線を庭先の植え込みへと戻す。夕暮れ時の淡い光が、中庭の木々を橙色へと染め上げていた。
「思い立ったが吉日ですよ」と、引っ張ってこられた結果がこれだ。夕方の仕事が一段落した隙を狙い澄ましたような手際で画板と木炭を用意され、逃げる間もなく縁側へ座らされてしまった。
そういえば以前、お父さんが画家だったと話してくれたことがあったっけ。手慣れた木炭の扱い方や、迷いのない線の引き方を見ていると、幼い頃からその背中を見て育ったのだとよく分かる。
…けれど、そのお父さんも、きっと。彼が鬼殺隊の隊服を着て、傷だらけになって蝶屋敷にいる理由を考えれば、その先を想像するのは難しくなかった。
まだこんなに若いのに。絵筆を握り、穏やかに絵を描いて暮らしていたはずの少年が、刃を握って鬼を狩る側にならざるを得なかった理由。
「どうして悲しそうな目をしてるんですか」
「ううん、なんでもないよ」
慌てて作った笑みで取り繕いながら、庭へと視線を逃がす。無神経に同情の目を向けてしまって、少し申し訳ない。
「雪くんは、小さい頃から絵を描いてきたの?」
「まあ、そうですね。父さんの隣で、紙の切れ端にずっと落書きしてました」
「きっと才能なんだね、すごいねえ」
「リサさんはどんな子どもだったんですか?」
さらさらと木炭を走らせる音の合間に、雪くんがふと問いかけてきた。探るような色合いのない、ごく平坦で穏やかな声だった。
「私?うーん……普通だよ。本当に、どこにでもいるような子ども」
「普通、ですか」
「うん。大人数とかはあんまり得意じゃなくて、家の中で本を読んだり、ぼーっとしたりするのが好きだったかな。あ、でも走るのは結構速かったかも」
まあ、小さい頃限定の話だけど。歳を重ねるごとにあの時の脚力は一体どこへ消え去ってしまったのかと思うほど、次第に走る機会も減り、運動会では目も当てられない順位を叩き出すようになっていた。鬼ごっこで必死に逃げ回っていた小学校低学年の頃の貯金だけで生きているようなものだ。
未来での記憶を頭の中で都合よく塗り替えながら答えると、雪くんは息を漏らして笑った。
「意外ですね。もっとお転婆だったのかと思ってました」
「失礼だなあ」
「よく転びそうになってるから。……はい、顔の向きそのまま」
「あ、はい」
言われてぴたりと首の動きを止める。
「雪くん、小さい頃はどんな絵を描いてたの?」
「今と変わらないですよ。虫とか、草花とか。あと、気に入らない近所の子の似顔絵とか」
「え……」
思わず首を巡らせて、まじまじと雪くんの顔を凝視してしまった。
そういう時って、普通は好きな子とか、気になっている子の絵を描くんじゃないのだろうか。気に入らない相手の顔をわざわざ時間をかけて紙に写し取るなんて、一体どんな心境なのだろう。やっぱりこの子の考えることは、どこか理解の範疇を踏み越えている気がする。
「……もしかして雪くん、私のことも気に入らないから描いてるの?」
おそるおそる尋ねてみると、木炭を止めた雪くんはきょとんと首を傾げてみせた。
「ふ、あはは。そっか、リサさんはそういう風に取るのか」
そして喉を鳴らして吹き出すと、可笑しそうに目を細めて首を横に振った。
「違いますよ。嫌いなわけないじゃないですか」
「じゃあ、どうして……」
「真っ白だからですよ」
「え……?」
「この世界の人たちって、みんな何かしらの色に染まってるんです。鬼への憎しみとか、誰かを守りたい覚悟とか、そういうどす黒い執念みたいな色に。でも、リサさんだけはどこにも染まってなくて驚くほど真っ白なんです」
木炭を持った指先で、彼は私の顔をなぞるように宙を指した。
「真っ白な紙って一番描きやすいでしょう?何色にでも染められるし、ちょっと指を滑らせただけで簡単に跡が残る。……だから、描きたくなるんです」
あまりよく分からなくて、思わずそのまま首を傾げてしまう。すると「あ、また顔!」とすかさず注意が飛んできて、慌てて視線を元の植え込みへと引き戻した。
雪くんはよくそう言うけど、真っ白、と言われてもぴんと来ない。熾烈な生き死にの中に生きる彼らと違って、自分がいかに異質で浮いているかを言い当てられたような座りの悪さだけが残る。
「出来上がったら、リサさんに一番に見せますね」
「う、うん……」
生返事をしながらも、やはり胸のざわめきは消えなかった。
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