「アンッ!」

 玄関に鍵を差し込んだ瞬間廊下に高音が響いて思い切り肩を揺らす。鍵を差し込んだまま放置して音のする方へ振り返ればハロくんを抱きかかえた降谷さんが立っていた。

「お、おかえりなさい!」
「ただいま。鍵を開けるときは背後に気をつけような」
「あっはい」

 久方振りの降谷さんに早速注意を受けてしまう。でも確かに不注意だった。いくらセキュリティが完璧な家だからと言って、降谷さんとハロくんの存在に気付かないほどぼんやりしていたのは反省。上から降谷さんの顔、ハロくん、腕、足、なんだかいつも以上に舐め回すように見て失礼だと思うけど今日は許してほしい。見たところ見てわかるような場所を負傷している気配はないけど……。

「あの、怪我、してないですか?」
「……今度こそ包帯、巻いてくれるか?」
「エッ、だっ、どこ、どこ怪我したんですか大丈夫ですかあの病院行っ、だめですよねえっととりあえず救急箱取ってきます!」

 やっぱり人目に見えないように隠すのもお上手ですね! 差しっぱなしにしていた鍵を慌ててガチャリと回して部屋に入ろうとして固まる。アレッ前に進まない早く手当てしなきゃいけないのになんで、なんて思っていればいつの間にハロくんを下ろしたのか私の腕を掴んで部屋の中へ入ろうとする私を阻止する降谷さんのせいだった。

「ごめん、その、嘘だ」
「エッ」
「包帯巻くほどの怪我はしてない」
「良かった……!」

 胸を撫で下ろしてほうと息をつく。いやでも待って、巻くほどの怪我はしてないけど、怪我をしてないと言い切ったわけじゃない。つまりまだ安心する時じゃない、軽い怪我でも心配は心配。

「……怪我してない」

 じろじろと上から下まで繰り返し舐め回すように見ていた私を見て苦く笑う降谷さんに渋い表情になってしまう。私じゃ降谷さんの嘘は当然のことながら見抜けないし、その言葉に安堵していいのかわからない。

「本当だ。信じられないなら脱ごうか?」
「ピェッ」
「はは、久々にそれが見たかった」

 弄ばれた。でも本当に無事で、怪我をしてないなら私の純情くらい弄んでくれて良い。本当に無事なら。私のことを誤魔化すための口八丁じゃなければ。

「本当に今は怪我してないから」
「いまは」
「今は」

 ということは会ってない間に怪我をして、会ってない間に完治したということ。確かに今は怪我をしてないのは本当なのかもしれないけど歯痒い気持ちになる。そんな私の複雑な気持ちなんてどうでもよさそうに楽しげに私達の周りをまわるハロくんに視線を落として口を開く。

「……ハロくん、降谷さんが怪我しないように見張っててね」
「アンッ」

 とても良い返事を貰ってしまって思わず頬が緩む。

「君のほうこそ怪我したり、危ない目にあったりしてないか」
「おかげさまで連日だれかしらと挨拶できたのでぴんぴんしてます」
「……職権濫用はしてないぞ。友達に相談しただけだからな」

 どこか言い訳のように聞こえる声に忍び笑う。もう慣れてもいいはずなのに、降谷さんが友達と普通に過ごしている姿を想像するだけで胸がいっぱいになる。

「風見さんもお友達ですか?」
「……部下兼友達だ」

 若干間があったのは私がその名前を知っていたからだろうか。それとも風見さんのことを叱ろうと思った間だったんだろうか。カンニングできる私がずるいだけで風見さんはとても優秀なのでこれ公はしないであげてほしい。

「ちゃんとつけてるな」

 誤魔化すように掴んでいた腕から指を滑らせた降谷さんが腕時計に触れて視線を落とす。

「……君が規則正しすぎるから、君なのか、君じゃない何かなのか、……本当に会うまで不安だったんだ」

 降谷さんに心配かけないように、パトロールをしてくれるみんなを振り回さないように、いつも以上に規則正しくキビキビと出勤と帰宅をしていたのが裏目に出てしまった。

「今日もいつも通りだったとヒロから聞いて、いつも通りの君なのか、機械的な何かなのかわからなくて。あいつらに相談して声をかけてもらったけど、今のところ俺と俺のライバルしか君の違いに気付けないから」
「……私、怒られたんです」
「は? 誰に」
「アッ違いますあの私が悪くてですねその」

 話の導入の仕方がとてつもなく悪かった。瞬間冷凍のように空気が冷えて、さっと触れていた指先が離れて冷や汗をかきそうになる。これはだめだ。きちんと伝えなければ萩原さんが悪者になってしまう。悪いのは私なのに。やっぱりこの間萩原さんに叱られた時、降谷さんに似てると思ったのは間違いじゃなかった。

「あの、ひ、ろいん役だというのはその、実感は湧かないんですけど、その、犯罪にあいやすくなるかもしれないということは受け入れてたんです。でも、……私がいなくなってしまうのはどうしようもないことだって、パトロールをしてもらったところでそのよくわからない何かから身を守ることはできないって諦めてたんです」
「……」

 空気が重い。視線が重力に負けてどんどん俯いていく。いくら今は考えを変えたと言ってもやっぱり降谷さんの気持ちを考えずにひとり諦めていたことを伝えるのは申し訳なくて顔を見ることができない。俯いた先で不思議そうに見上げるハロくんと目があって息を吸う。

「そうやってどうしようもないって笑った私にあいつが諦めてないんだから信じてあげて、って……、だから私、諦めないことにしたんです。もしもう一度、向こうに帰ってしまったとしても、降谷さんのそばに帰ってきます」

 降谷さんからの返事がなくて不安になる。でも、心配しなくて大丈夫だ。私が勝手に不安になっているだけ。降谷さんが、誰かの決めた覚悟に否定的なことを言うわけがない。

「前は約束はできないけどって諦めてしまって、降谷さんのそばにいたいって望みを言うことしかできなかったけど、今度は、約束します。ちゃんと帰ってきます」

 小指をそっと差し出して、ハロくんに勝手に分けてもらった気になった勇気を出して顔を上げた。

「約束、してく」
「する。するに決まってる」

 私が言い切る前に降谷さんの声が重なる。
 小指を差し出したのに、降谷さんの小指が絡み返されるわけじゃなく全部の指を両手で掴まれて思わず瞬きしてしまった。
 約束かっこ物理な感じに頬が緩む。降谷さんらしい。小指なんかじゃ足りない、全部で約束してくれる。

「……どうすればここに戻ってこれるのかは前と同じでわからないままだけど、それでも絶対に諦めないでちゃんとただいまって降谷さんに言います。約束、しました」

 手を丸ごと包まれているけどお約束だからと指切ったをしようと少し揺らそうとして、全くかけらも動かない拘束につい笑ってしまう。降谷さんは力を込めているつもりがないのかそんな私の空気の読めない笑みに不思議そうでそれが更におかしくて笑みが溢れてしまう。

「ふふ、」
「……冗談だとは言わせない。警察との約束だぞ、破ったら逮捕してやるからな」

 思わず浮かんだ笑みに冗談を繰り出したと思われたのか不穏な声音で告げられた職権濫用につい肩を揺らしてどうにか抑えようとしても微笑んでしまう。

「ふふふ……ごめんなさい、違います、あの、全く動かなくて、いろんな意味で力強くって頼もしいなって楽しくなってきちゃって」
「……君は、俺が君のことを恋愛対象として好きなことを忘れるのが本当に好きだな」
「ぴっ」

 一瞬緩んだ手のひらに視線を落とす前に放たれた爆弾に反射的に手を引こうとしたのに全く動かなくて固まる。

「俺は君が好きだから君の言葉にこうして振り回されてすぐ不安になるし、さっきみたいに飛びつく勢いで喜ぶ。わかってるか?」

 ぐ、と力を入れてもびくともしない。
 わかってる。今のこの宙ぶらりんな関係は降谷さんの厚意と恩情で成り立ってるって。降谷さんが私が混乱しないように、また容量オーバーで気絶しないようにゆっくり私に考える時間をくれているだけだって、わかってる。わかってるのに。降谷さんがあまりにも優秀すぎて自然な距離感と、そういう、今のような距離感をまるでスイッチでもあるかのように見事に切り替えるからわからなくなる。
 これは言っていいことなのか、悪いことなのか、今まで通りで許される会話なのか、今まで通りだと傷付けてしまう会話なのか、わからなくなる。

「恋心を弄ぶ悪い人は今すぐ捕まえようか?」
「っ、」
「……ヒロイン役なんて受け入れなくていい。その弊害はこっちでどうにかするから。ヒロインだろうがそうじゃなかろうが、この国に住む人を守るのが俺の仕事だからいつも通り過ごしてくれ」

 真面目な表情で私を射抜く視線が力強い。

「ただ、君は俺の好きな人だということを受け入れてくれ。忘れないで。普通の顔をしていても心の中で常に笑顔が可愛いと思ってるし、俺に見惚れて奇声をあげるおかしな君も可愛いと思ってるし、……悔しいことに、悔しいくせに、俺に好かれてるということをすぐ忘れてしまうところも可愛いんだ」

 警察官の表情が甘く崩れて思わず目を逸らしてしまった。

「君は少し情報通なだけのごく普通の民間人なんだから、何も心配せず安心して生活してほしい。君が警戒すべきは目の前にいる君を好きな男だ。君の周りで一番の危険人物は俺だ」
「そ、ん」
「そんなことない? 現に君はこうして俺を振り解くこともできないのに?」
「そ、……れは」

 ぐ、と足に力を入れて踏ん張って後ろに引こうとしてもびくともしない拘束に、ほら、と降谷さんが呆れた表情を浮かべる。

「まあこんなことを言いつつ絶対に襲わないのが理解されてるから、君も自覚しにくいんだってこともわかってる。信頼があだになることもあるんだなんて思わなかったよ」

 はは、と笑う降谷さんになんと言葉を紡げば良いのか分からない。私が降谷さんを理解していることを降谷さんは理解してくれていて、それでもきちんと言葉にしてくれるところがやっぱりどう足掻いても正義の塊でしかない降谷さんで、それを悟った降谷さんがまた苦く笑う。

「……友達の自覚も時間があれだけかかったんだから、告白を受け入れるのもそれ以上に時間がかかるのはわかってる。だからゆっくり考えてくれていい。でも忘れるなら荒療治で無理にでもこうして意識させる」

 こうして、と包まれた両手をぐっとさらに強く握りしめられるだけにとどまらずさっきまであんなにも動かなかったのに軽く引き寄せられただけでぐらりと揺らいでたたらを踏んだ。ごつ、と鼻が降谷さんの胸板であろう何か固いものにぶつかって呻く間も与えてもらえない。鼻が胸板らしきものにぶつかったということは、今私が立っている場所は降谷さんの腕の中で、

「……面白いくらいに脈拍がすごいな」

 愉快だと言わんばかりの揺れる笑い声の体の振動すら伝わってくる立ち位置に石にでもなったかのように固まって動けない。

「息はしろよ」
「──……はっ」

 降谷さんの言葉に息を忘れていたことを思い出す。

「これもセクハラだから訴えないでほしいが、君が忘れなければこういうこともしないから。……なんて、君のせいにしてごめん」

 いつの間に手が離されたのかぎゅうと体を抱きしめられて耳元に降谷さんの声が流れ込んでくる。

「忘れるな、……わかったか?」
「……」
「返事は」
「はいっ」

 出せる限りの声を出したつもりだったのに、きっと降谷さんにしか聞こえないくらい小さな音しか出ていなくて自分でも驚く。

「よし」

 私のとても元気が良いとは言えないか細い返事でも満足してくれたのか、降谷さんの声がまた耳を擽ってゆっくりと体温が離れていった。離れていったといっても、鼻が折れそうなほど固かった胸板と私の距離が拳ひとつ分くらいしか離れていなくて、せめてハロくん一匹分くらいの距離感が欲しくて目が泳ぐ。

「忘れたらまた意識させるからな」

 何度でも念を押す降谷さんに私も何度も首を縦に振った。
 頭がくらくらするほど何度も振って、眩む視界で降谷さんを恐る恐る見上げる。

「うん、その調子だ」

 降谷さんが満足そうに細めた目に映った私の表情は、その表情に見合う色をしていたのだろうか。
2020/08/03


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