見たことない女の人だ。それに、それに、いるはずのない人が。

「どこかで会ったことある?」

 やたらと良い声でにこりと微笑まれて固まる。決定的な証拠。いや、まだ、誰かが変装している可能性も、……いや、ない。彼がいるこのポアロという空間で、この人の姿を模して無事でいられるはずがない。ならばこの人は、生きている本物で。
 ん?と困ったように首を傾げた姿を見てハッとする。今まで築いてきた地位をドブに捨ててはいけない。彼が生きていることは喜ばしい。そして、その隣に仕事のできそうな見たこともない女性。私にもこの記憶があるのなら、他の人にだって記憶があってもおかしくない。どうして今まで思いつかなかったんだろう。なんの努力もせずただやりすごそうとした最低な私と違って、あの女性はきっと、言葉では語りつくせないほどに努力して信頼を勝ち取って彼らの隣に立っている。彼らと対等に話をしている。ただそれだけの話。
 そんなことを考えながら震えそうになる声でどうにか言葉を絞りだす。

「声が、……声が良すぎてびっくりしたんです。すみません、不躾に」
「こえ? なあ、俺良い声?」
「さあ? 僕は聞き慣れているから」

 ぐるりと顔を動かして彼らも会話に巻き込んだ姿にぎょっとする。どうせ今までだってきっと褒められてきたんだろうから慣れていて、そうなんだ、と軽く受け流されて興味がなくなるものと踏んでいたのに。

「たしかに良い声だと思います」
「好き?」
「あの、安室さんほどではないとはいえ最近あなたにも固定ファンがつきだしてるのでやめていただけませんか」

 ああでも、私のことは会話のタネとしてのモブと認識してくれたのか、一度も紙面上で見たことのない女性にちょっかいを出して盛り上がりはじめた彼にほっとする。あと普通に気持ち悪がられなくてよかった。

「僕にはそういうこと一言も言ってくれたことなかったのはこういう系統がよかったからなんですね」

 胸を撫で下ろしてケーキセットに視線を移したのもつかの間、カウンター越しに声をかけられて固まる。

「……うっわ安室サン自意識過剰〜」

 隣で盛り上がっていたはずの彼らも少し引いたような声音で、だけど私はそんなことを気にしている場合ではなかった。認識されている。いやそれは彼なら当たり前だ。そっと覗き見るようにしていた今までの視線もきっと気付いている。だけどまさか、わかっていても、ただの常連と店員の距離を詰めたことなんて一度もなかったのに。いい天気ですね、そうですね、なんてせいぜいこれくらいの会話しかしてこなかったのに。やっぱり彼の声に反応したせいで目をつけられてしまったんだろうか。だけど、彼がこうして少し雰囲気は違うけれど変装をしているわけでもなく素顔のままなのを見る限り、事件はほぼ解決している時間軸なのではないのだろうか。最後の後始末をしているくらいの時間軸。それなら武術の心得も頭が切れるわけでもなさそうな私に目をつける必要なんてないわけで。ああでも彼らは細かいことによく気付き、疑うことが仕事の人たちだった。

「すみません、ただの店員が馴れ馴れしかったですね」
「っ、いえ、あの、……人見知りで、急なことにびっくりしただけで、その、……すみません」
「ふふ、1年は通ってくださってるのに」

 今度こそ顔に出してギョッとしてしまう。見開いた目でばちりと安室さんの目とかち合ってしまって慌てて逸らすのも失礼だからとどうすることもできなくて固まる。

「えっきも相変わらず記憶力が気持ち悪い」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
「まああなたも人のこと言えませんけどね」

 また3人で盛り上がって見つめ合っていた視線が外れてホッとする。認識されるにしても本当にすごい記憶力すぎてこわい。ポアロの前を通る通行人すら把握していそう。……本当に把握してそうでこわいな。

「お客様全員はさすがに僕も覚えてられませんよ、月に2度は来てくれるし、毎回幸せそうに食べてくれるお客様だから覚えていたんです。でもこういう店員に顔を覚えられるのが苦手な人もいますよね、すみません。でも僕、もうすぐここをやめるので、常連の方にはちゃんと挨拶したくて」
「えっ」

 やめる、やめる?
 やっぱり最後の後始末をしている時間軸なんだ。
 だからって今までのモブと素敵な店員さんの距離まで壊していかなくていいです。怪しいですか? 私怪しいですか?

「……僕のこと、興味ないと思ってました」
「え、」

 あなたのこと興味ない人とか、いやいるにはいるかもしれないけど、このポアロに通ってる女性で興味ない人とかはいないんじゃないですかね。いや私は安室さんだけでなく梓さんやいろんな人に興味ありましたけど。さすが主要人物のいる場所、顔面偏差値が高くてものすごく目の保養でした。

「僕のこと、知ってくれてます? お別れの挨拶をするのに名前も知られていなかったらさすがに悲しいので」
「ぁ、むろ、さん」
「よかった」

 掠れた声でどうにか失礼にならないように答える。もう喉がカラカラだ。こんな、あまり話したことないモブにすらこんな、……やっぱり怪しまれているんだろうか。

「結婚詐欺師を疑う顔になられてるのわかってるか? ぐいぐいこられると困るよな、ごめんな。最近浮かれてんだよこいつ」

 どうしようと考えて不安が顔に出るのすらダメなんじゃないかと八方塞がりで何もできない私に天の助けか悪魔の囁きかわからない言葉が降ってきてびくりと肩が揺れて声の発生源の隣を窺い見る。
 人好きのしそうな優しい笑みで同意を求められてただ包囲網を固められただけのような気がして頬が引きつった。

「そうですね、あまり話したこともないのに安室さんの顔でにこやかにこられると同じ女性としてはやっぱり身構えてしまうのもわかります。でも悪い人ではないですよ。見ず知らずの他人にこんなこと言われても安心できないでしょうけど」

 だけどその奥で呆れたように笑う見知らぬ女の人の言葉に少し緊張がほぐれる。悪い人ではないのは知っている。知っている、けど。

「……だって、日常にたまに現れる人と、もう会えなくなるかもしれないのに何も言わずにやめるのは嫌じゃないですか」
「……日常?」
「ふらりと月に2度ほど来てくれて、僕が作ったものを幸せそうに食べてくれて、なんだかそれを見ると安心したんです」

 それは、もしかして、何もしない何もしなかったモブだからこそ平和の象徴のようなものになれたんでしょうか。トリプルフェイスのつかの間、モブがケーキをつつく姿を見て、ああ今日も平和を守れたと心の中で思っていてくださったんだろうか。そんなの、私の台詞なのに。平和を守ってくれてありがとうと。いや言えるわけはないけど。

「……僕の中で静かな癒しだったんですよ。だから名残惜しくてつい、話しかけてしまいました。馴れ馴れしくてすみません」
「いえ、いえ、私は、……私はここがだいすきで、安室さんが来る前も、来た後も、変わらず心地良くて、変わらなかったはずなのに、……安室さんがいなくなったらここは少し、変わるんでしょうね、そう思うとさみしいです」
「え?」
「うまく言えないけど、……安室さんが来たことで客層もがらりと変わるのかなと思ったけどそうじゃなくて、もともと来てた子達が安室さんを好きになって、最初は警戒してた男の人たちも、何も変わらない心地よさで安室さんがまるで最初からずっといたかのような馴染みっぷりで、看板娘と看板息子で、……何かが変わるのかなって不安だったけど最初からずっとこうだったみたいに安室さんが静かに溶けて、……最初から何も変わってないから何も変わるはずがないのに、安室さんがいなくなったら変わってしまうんだろうなって、……でも、応援します。安室さんがどこにいても、ポアロのみんな、安室さんが大好きなので」
「っ、」

 うまく言えた自信がない。支離滅裂で、伝えられた自信がないのだから伝わるはずがない。だけど最後の言葉さえ通じればいい。安室さんは存在しないけど、みんな、みんな安室さんを大好きで応援していると。それさえ伝わればいい。

「……卒業証書もらった気分だ」
「え?」
「いえ、やっぱり挨拶してよかったなとしみじみ思いまして。またいつか店の外で会えたら、話しかけてもいいですか?」
「……はい」

 きっと、そんないつかは来ないんだろうけど、だけど安室さんの笑顔がなんだか曇りなく綺麗で、思わず頷いてしまった。でもそれでいい。ここで変に拒否する方がおかしな反応だから。はい、っていうのもなんだか変な気がするけど。だって常連とは言えこんなに長く話したのは今日が初めてなのだから。

「……なんかほんと顔が良いから詐欺師っぽいな」
「そうですね」
「……あなたたちは茶々入れに来たんですか?」
「いや最初は仕事だったんだけどな。微笑ましくて」
「あなたたちとはもう外で会っても挨拶しません」
「またまたそんな」
「結婚詐欺師だなんてことはじめて言われたので傷つきました」
「えっ」
「えっ」

 はいと頷いた後、虫のように息を殺して気配をどうにか消そうとしていたのに安室さんの返答に思わず声が出てしまって手で口を押さえても後の祭り。
 信じられない、本当に傷ついた、みたいな表情で私を見下ろす姿にすみませんと言いながらぺこぺこと頭を下げる。本当に失礼なことをやってしまった。だけど、何もかも計算づくでやっている安室さんがそれを言われたことも感じたこともなかったのには心底驚いてしまった。

「……結婚詐欺師っぽいですか」
「次会ったとき話しかけたら本当に結婚詐欺師っぽいよな」
「ああ……はい……店員としてじゃなく、改めて自己紹介から入るんですよね……詐欺師っぽいですよね……」

 仕事のできそうな女性がしみじみと呟いて、それは名前が変わるからですよねと1人納得する。そんなこと知らない私が頷いても驚かれるし、頷かなかったとしてもさっき、えって言ってしまった事実は覆らないし曖昧に笑うしかできない。いやいくら事件が解決していたとしてもこんな一常連のモブに降谷として自己紹介するわけないか。普通に店員としてではないただの自己紹介をするだけ。なまじ知ってしまっているせいでそういう風に思ってしまったけど、だいぶ自意識過剰だった、反省。

「普通にこう、これからは店員とお客様だと天気のことしか話せなかったのをいろいろ仲良く話せたらな、的な感じだったんですが」

 じゃあどういうふうに言えば詐欺師っぽくないんだ。女目線だとその顔の時点で難しいですよ。顔が良いのも大変だな。あなたも人好きする顔と優しげな甘い声でどっこいどっこいです。えっ。

「ふ」

 3人のわちゃわちゃとしたやりとりに気が抜けて本当に空気のような笑みがこぼれる。だけどさすが仕事のできる人たち、私のそんな小さなそれにすぐさま気がついて6つの瞳が私を射抜く。死ぬのでは。引きつりそうになる頬をどうにかこらえて愛想笑いをして誤魔化す。誤魔化されてなんかくれないだろうけど、追求されることもないだろう。

「あなたともこんな感じで話したいんですよね」
「えっいやさすがにそれは」
「……さっきまで店員とお客様でしかなかったのにいきなりすぎますかね。でもこういうのは主張しないと次には繋げられませんし」
「……何も面白いこととか言えませんが」
「普通が楽しいんです」

 普通が、と繰り返されてハッとする。みんなでわちゃわちゃと話してたのも楽しそうだったけど、安室さんにはきっと事件に関わりがないであろう知人がいないのかもしれない。それは、少しだけ息苦しいのかも。普通の、事件に巻き込まれることのない、ただのモブと話してみたい。その気持ちを理解して、白羽の矢が立ったのに納得がいく。私はただ普通に、降谷さんの守っている平和の中生きている日常を安室さんに伝えればいいだけなんだ、きっと。私なんかが務まるかは心配だけど、降谷さんの心がそれで少しでも癒されるなら、降谷さんの恩恵で平和に過ごせている私のモブでしかない日常を、降谷さんにお返ししよう。
 私なんかに務まるか、本当に不安だけど。

「じゃあ、あの、外で見かけたら声をかけてください。面白い話とかできませんけど、それでもよければ、」
「ありがとうございます!」
「っ」

 言い終える前に食い気味でお礼を言われて少し驚く。どれだけ普通に飢えていたんだろう。別にそんな慌てて平和を摂取しなくても、事件が解決したのならゆっくりと普通の平和を実感できるだろうに。

「よかったな」
「よかったですね」
「嬉しいです」
「……なんだかプレッシャーがすごいですが、頑張ります」

 微笑ましいものを見つめるような2人の視線にぺこりとお辞儀をして、嬉しそうに目を細めてくれている安室さんにぎこちないかもしれないけど心から笑顔を向ける。平和を守ってくれて、ありがとうございます。それに見合うだけの普通をお返しできるかはわかりませんが、頑張ります。
 心の中でそう決意した。

2019/10/01