「こんにちは」
「き、こんにちは」

 本当に声をかけられたのに驚いて噛んでしまった。私の心を読んだかのように、社交辞令だと思ってたんですね、と傷付いたように、だけど私を責めたりしないように冗談っぽく言った安室さんにぺこぺこと頭を下げる。

「改めて自己紹介から、……といいたいところなんですが、僕のこと、店員以外で何か知ってる情報あります?」
「えっ、……え、と、……探偵さん……?」

 これは私が知っててもおかしくない情報ですよね。たまに私以外のお客さんがお店の中で軽い相談をしていたのも実際見聞きしていたし。

「そう、そうなんです。正義を守るための仕事は時に危険なこともありまして」

 深刻そうな表情の安室さんに胸が騒ぐ。私は普通をお届けするだけの係だと思い込んでいたんですがそれはやっぱり自意識過剰な思い過ごしで、仕事の延長戦で私に接触していたんだろうか。でも私はただのモブで、犯罪に関わったことがなくて心当たりももちろん全くない。そんな私でも役に立てるだろうか。
 なぜか口が重くて先に進んでくれない安室さんのおかげで次の言葉の覚悟が少しだけできたけど、でもやっぱり心当たりがないから役には立てない。

「……危険なことを調べていたので、……偽名だったんです」
「エッ」
「ただの店員の名前を覚えててくれてとても嬉しかったです。でも、本当の名前はそうじゃなくて、……騙すつもりはなかったんですが、……だから、嫌わないでほしくて、本当の名前も覚えてほしいんです」
「えっ、えっ?」
「混乱しますよね、偽名で、……結婚詐欺師っぽいて言われてもしようがないです。でも、改めて自己紹介させてほしいんです。僕とただ、普通に話してほしいんです。……本当の名前を言ってもいいですか」

 許しを請うような安室さんに私は混乱して何も気の利いたことを言えない。まさかそんな、いや違う。きっとまた別の名前だ。本当に本当の名前をただのモブに教えるわけがない。それとももう本当に世の中は平和になって、何も心配することなどなくて、だからただのモブにも、みんなにも教えて平気なんだろうか。
 安室さんは私の許可を待っているようでまっすぐ私を見つめている。私は、わたしは、私なんかが安室さんの名を聞いてもいいんだろうか。記憶があるくせに何もしなかった私が。この前見た女の人のように努力も何もしなかった私が。

「本当の、名前、って?」
「降谷零。安室だけじゃなくて、この名前も覚えてほしい」
「ふるや、さん」

 復唱する声が震える。私が呼んでいい名前じゃない。何もしなかった私が。なのに安室さんは嬉しそうに微笑んでいるように見える。本名を普通に名乗れることに幸せを噛み締めているんだろう。その相手が私でなければ、私も諸手を挙げて喜んだ。平和な世界で大好きな人が幸せで素晴らしいと、尊さを噛み締められていた。なのに、その相手が私なのがいけない。だって、だって私は何もしなかった。あの人のように助けようとしなかった。私がその名前を呼ぶ資格なんてない。

「はい」
「……もう危ない目には合わないんですか? 怪我とか、その」

 幸せを噛み締めている降谷さんの笑顔は素敵だけど、やっぱりどうしても記憶があったのに何もしなかった後ろめたさがあって視線を逸らしてしまう。

「怪我、……してたの気付いてたんですか」

 ひゅ、と息が詰まる。ああそうだ、普通の常連がそんなこと知ってるわけがない。洞察力の鋭い探偵たちや、彼に好意をもって近付いていた女性たちの距離の近さなら気付くこともあったかもしれない。でも降谷さんは完璧で、あまり接点のない私なんかが気付いていいことじゃなかった。気付いていたんじゃなくて、ただ知っていただけのカンニングでしかないのに、降谷さんに怪しまれてしまう。

「気付いてくれてたんですね」

 疑るような、責めるような声音で発されると思った。のに、降谷さんの声はどこか嬉しそうに上擦っていて逸らしていた視線を思わずぶつけてしまう。声の通り、なぜか嬉しそうに笑む降谷さんに目を見開く。

「もう怪我はしません。と言いたいところですが、犯罪者を見つけたらどうなるかはわからないので約束できません」

 ただのモブが本名を教えてもらえたのだから、黒の組織はきっと壊滅できたんだと思う。だけど黒の組織がいなくなったからって悪いことをする人がいなくなるわけではなくて、降谷さんはこれからも前に進み続けるんだろう。これからもその正義を貫いて、悪い人を捕まえて、友達とたくさんお話をして、笑って前に。

「よかった……」
「っ、」

 ぽろり、気付いた時には頬を涙が伝っていて、降谷さんが息を呑むのが聞こえた気がした。涙を流した張本人があまりの前兆のない涙に驚いてつるりと出た涙が一瞬で止まってしまう。

「すみません、あの、目にゴミが」

 一筋溢れてしまっただけだからこの言い訳でもなんとかなるだろう。そう思って伝った涙を拭って顔を上げると真剣な顔をした降谷さんのまっすぐな目に貫かれて身動ぐ。ごめんなさい、びっくりしましたよね。平和な世界に思わず感動してしまったんです。とは言えないからへらりと笑って誤魔化す。降谷さんもそれ以上は突っ込んでこなかったから胸を撫で下ろした。

「……安室という店員じゃなく、降谷という客としてあそこに行きたいんですがなんだか気恥ずかしくて、なので時間のある時でいいのでお付き合いしてくれると嬉しいのですが、……さすがに馴れ馴れしいですかね」

 降谷さんの困ったような笑みを見てその提案を拒否することができるほど、私は意志が強くなかった。ぶんぶんと首を振り、大丈夫ですとか細い声で呟くしか道がなかった。降谷さんの掌で思い切り転がされているのはわかっていても、それでもこんな表情を見れば断るなんてできない。
 ぱあ、と嬉しそうに微笑む降谷さんはとても幸せそうで綺麗だった。
2020/04/15


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