「いってらっしゃい」
「おう、行ってきます」
この挨拶は小さな頃から隣の家に住んでたわけだし学生の頃は登校時間がかぶることもあるから別にそこまで新鮮味があるわけじゃない。でも、同じ家で、玄関をくぐる前に聞くのは新鮮さしかなくて何度聞いたって嬉しくてたまらなくなる。
浮かれてた。ああ、見事に浮かれてた。
この人が、それを言うたびに引き攣った笑顔だったことを見逃すほどに浮かれていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
この言葉にも浮かれていた。気付かなかった。まるで生死をかけた難事件から帰ってきたかのようなホッとした表情に気付かなかった。
浮かれすぎていた。
「なあ」
「なあに」
それ以外は柔らかい声と笑顔で俺を包んでくれるから、気付けなかった。部署がコロコロ変わる俺相手とはいえ警察の目から逃れられるなんてあんた、すげえよ。隠し方がどんどんうまくなっていく。俺はこれからこの人の隠し事を全部暴いていかなきゃいけない。この人が幸せになるために。俺と一緒にただ浮かれる毎日を過ごしてもらうために。
「俺は死なねえから」
「────」
目を丸く見開いて、でもすぐにまた笑顔を見せる姿が痛ましい。俺じゃない俺じゃなくて、今ここにいる俺を好きだと言ってくれたのは信じてる。でもたまにまだ俺じゃない俺を見て、不安に駆られてる姿を見ていると気持ちがぐちゃぐちゃになる。嫉妬なのか悔しいのか悲しいのかわからない。
「……毎日不安にさせてごめん。危険がないとは言えない。犯罪者を相手にする仕事だから。でも絶対、絶対俺はあんたより先に死なねえから。あんたを絶対置いていかないから。行ってきますって言ったら絶対にただいまって言いに帰ってくるから、信じて」
「……信じてるよ、信じてる、……でも、不安になる。毎日、毎日が不安で、……慣れるまでは仕方ないの。時間が解決してくれるから、もう少しでちゃんと慣れるから、いつも待たせてばかりで悪いけど、もう少しだけ待って」
「待つのは得意だけどこれは時間じゃなくて俺が解決する。俺を信じろ。あんたはただ俺を信じればいい。絶対に死なねえから」
困ったように笑って瞬いた瞬間、頬に涙が伝って目を見開く。涙の跡を辿って次から次へと溢れる涙に、思わず腕を引っ張って胸の中に閉じ込めた。
「……俺、そんな信用ねえ?」
「ひっ、……ふ、」
顔が見えなくなったことで堪えきれなくなったのか声を洩らして泣く姿に背中を撫でながらあやして声をかける。
「俺、あんたのこと全力で守るし、あんたのこと守るには俺が生きてないとどうしようもねえだろ。約束破ったことあったか? 俺のしつこさは知ってるだろ? 守るって言ったら守るし、生きるって言ったら生きる。心配してくれんのは嬉しいよ、でも毎日毎日思い詰めすぎて死にそうなくらいに怯える必要はねえよ。絶対あんたのそばに帰ってきて、ただいまって言うから。な?」
縋り付いて泣いてくれるようになっただけでもあんたにしては大進歩だ。
「いってらっしゃ」
「なあ、行ってきますのキスって寿命が5年伸びるんだってよ」
腫れぼったい目を見つめて言う。ぼっ、と火がついたように赤くなった頬に気分が良くなりながら玄関に背中を預けて笑う。迷信かもしれない。でも毎日好きな人から朝の行ってきますのキスをしてもらえたら寿命が伸びる気持ちも理解できる。
「俺は怪我しないように頑張るから、あんたも協力してくれよ」
まあたぶん、この人には無理だろうな、なんて思ってたのが間違いだった。あまりからかいすぎても怒られて寿命が縮むからとグラサンをかけて扉に預けていた背中を浮かせた瞬間、ぐい、とネクタイを思いきり引っ張られて不意打ちに思わずされるがままに引き寄せられた。グラサン、つけなきゃよかった。そしたらまた真っ赤に染まった表情を味わえたのに。グラサンで暗い視界じゃぎゅっと固く閉じられた目と柔らかい唇しか認識できなくて、勿体無いことをしたと一瞬の間に後悔と喜びといろんな気持ちが混ざりあってフル回転する脳とは裏腹に体は固まったまま。
「いってらっしゃい、気をつけてね!」
「ちょ、まっ、……ただいまのキスも楽しみにしてる」
いつの間にか背後の扉を開けられて強制的に追い出されてしまってその早技とは裏腹にゆっくり閉まる扉に向かってせめてと言葉を投げつけた。
「ばか!」
どうやら俺の言葉はしっかり届いたようで、だけど可愛らしい罵倒だけしか返ってこなかったということは拒否されなかったということ。
職場に着く前から帰ることばかり頭に浮かんでニヤニヤしすぎて萩原に気持ち悪がられたけど、まあ、仕方ないよな。
2020/12/21