私の息子がフラれて帰ってきた。アンタそれどこで泣いてきたの。まさかあの子の前で泣きじゃくってきたわけじゃないわよね。誰に泣き顔見られてもいいけど好きな子の前で泣きじゃくってその顔になってきたわけじゃないわよね。そうよね?
なんて、フラれて帰ってきたんだろう息子にそんなこと聞けるわけもなく、そっと見て見ぬ振り。いつものようにおかえりと声をかけていつものように手洗いうがいしなさいよと口煩い母親業に徹する。これが娘なら話を聞いて慰めたりするんだけど、なんせ気難しい息子だから。思春期の息子らしくうるせえだのなんだの母親に向かって言う子だから恋愛の話に口なんて出せるわけもなく見守るしかできない。
それにしても長い初恋だった。初恋は叶わないものなのよ、なんて言ったらさらに泣いてしまうだろうか。言わないけれど。たぶん本人も今そう思って気持ちを落ち着かせているんだろうし。初恋は叶わないもの、そう思えば少しは楽だから。
いつだっただろう。あの子が「おねえさんと結婚する」と言い出したのは。
「おねえさんと結婚する」
「ええ?」
はじめてマセたことを言った息子に思わず少し笑ってしまった。ごめんね。かわいくて。幼稚園でも小学校でもあんなにモテモテだったのに初恋の兆しも見せなかった息子のようやくの春が、近所のお姉さんだなんて。あまりにも愛らしすぎて頬が緩んでしまったのも仕方ない。許してほしい。陣平は決意に溢れていて私の様子なんて気にしていないようでホッとした。
「あの人、俺がついてないとだめだ」
「ふ」
思わず口をおさえてしまったけど大正解だった。吹き出すところだった。あのね陣平、アンタあの子に子守りされてたのよ。なのにどうしてそんな、アンタが守ってましたよみたいな面構えで決意表明してるの。うちの息子、小学生にしては賢いと思っていたのだけど、実はとてつもない馬鹿だったのかしら。
あの優しくて可愛らしい大根演技をどうして見抜けなかったの。
「おねえさんと結婚する」
久々に聞いたわね、と再び決意表明のつもりなのか言い放った息子の顔を見る。親バカにも程があるかもしれないけど6年生にしては完成されている姿で、好きな人と結婚するという幼稚園児のように安直な発想をするのはどこかちぐはぐで微笑ましいというよりは少し面白い。体だけはすくすくと成長して、鍵を忘れた頃と全く成長しない内面にお付き合いしてくれてるあの子には本当に感謝しなくては。
「……おねえさん、鍵、忘れてなかった」
「……」
成長していないと思ったのに、いつのまにか気付いていた。
本当にいつ気付いたんだろう。また同じことを言っている、そう思って微笑ましく感じていたけれど、ついさっきのことを思い返してみれば初めて聞いた時の決意表明と違ってどこか重々しかった。
守ってもらっていた側だったのに気付かず俺が守らなくちゃとあんなに意気揚々としていたのに、間違いに気付いた今日はとても落ち込んでいる。
「……知ってたか?」
どう答えるのが正解なんだろう。
あの優しくて愛らしい大根演技に騙されるのはたぶん陣平だけだよ、だなんて言ってしまえば繊細な恋心が傷付くのは目に見えてる。でもだからって知らなかった〜だなんて白々しい答えもきっとバレてしまう。私の大根演技には騙されてくれない息子にどうしようかと内心唸る。
「どっちにしろ結婚したいんでしょ? なら別にどっちだっていいじゃない」
どうすればいいのかわからなくて全力で放り投げてしまった。まあでも、些細なことをぐだぐだ悩んでる暇があるなら年上のおねえさんに頼られるくらい男前になるしかないじゃない。小学生がいくら頑張ったって中学生の女の子はどうも思わないと思うけど。なんて心の声は封印する。いつか自分で気付くでしょ。初恋なんてそんなものだし。
「……うん。次は俺があの人のこと守る」
「その意気その意気」
高校受験のことより住宅探しに力を入れてる息子にまあ一人暮らしは夢のような生活に思えるもんねえ、とほったらかしにしていたのにあんなにたくさんあった賃貸雑誌がまとめて捨ててあって瞬く。急に飽きたのかしら。あんなに熱心に色々探してたじゃない。
そんな、少しだけ不思議に思っていたことの答えが隣の奥さんとの井戸端会議で分かった。
アンタまだあの子のこと好きだったの?
追いかけようとしてたの?
でもあの子が一人暮らしをしないと知って、賃貸雑誌はお役御免になったの?
我が息子のことながら長く重すぎる初恋に笑い飛ばせなくなってしまった。
長かったなあ。
かれこれ8年くらいだろうか。うーん、あの子もよく嫌な顔もしないで付き合ってくれたなあ。きっとそもそも恋愛対象ですらなかったんだろうけど。まあ初めてのまともな出会いが鍵を忘れて困ってる小学生の男の子だから仕方がない。
見た目がこんなに完璧に、まあ親バカだけれど自慢の息子に成長したわけだけど、ずっと付き合いのある子はそりゃあ近所の男の子枠からはどうしたってはみでないよねぇ。私だってあの子のことは優しくて愛らしい大根演技の子の印象が強くて、大人の女の人になったのはわかっていても微笑ましい目で見てしまうもの。
でも年齢差ってそういうものよ。仕方ない。
あの子はとても良い子で優しくて、小さな男の子が恋をしてしまうのは当然で、優しい初恋をいつまで経っても引き摺り続けられはしないんだから、ピリオドを打ってくれたあの子に感謝して良い思い出にしなさい。
今は悲しくて辛くて恋心を片付けるのは難しいかもしれないけど、初恋ってそういうものなんだから仕方ないのよ。
「……籍入れた」「なに? どこの椅子?」「席じゃねえよ、籍、いれてきた! 結婚した」「……誰と?」「……隣の、」「……あんた失恋してたじゃない。夢でも見たんじゃないの大丈夫?」「夢じゃねえし失恋もしてねえわ!!」「いやあんた高校生くらいの時にあんだけ号泣して帰ってきてお母さんが気付かなかったとでも思ってるの?」「ぐ、あの時も別に失恋してねえし夢でもねえし今日ちゃんと相思相愛になったし結婚した! 今度連れてくる!」「大丈夫かしらうちの子、疲れすぎたのか起きたまま夢見てるわ」「夢! じゃ! ねえ!」