たまにおれは母に会えるかもしれないと、そう思って空を歩く。馬鹿みたいな考えだと自分でもわかってる。ルフィだって、ゾロだって、気付いていて放っておいてくれている。クソマリモの方に馬鹿にされたように見透かされるのは腹が立つがうちの船長にあの顔で見送られるのは正直、気分が良い。絶対に帰ってくるとわかっている目で見送られている。おれが少しでもそのまま空に溶けようとしている時だけはルフィの長い腕がおれの体を絡め取り、空には向かわせてくれない。だからおれがこうして空を歩いている今は気分も落ちていないし、船長の許しもあるし、自分の帰るべき場所を知ってる、ただの散歩なんだ。本当に天国があるなんて思っていない。空島はあるけれど。
 だから、ふ、と現れるはずのない影が現れて目を見開いた。
 いつものようにメロリンする暇もなく、ただ驚いた。
 いつも女神だ天使だと言うのだって本気で言っているけれど、まさか目の前に本当に天使が現れると思っていなくて、「本物」を目の当たりにすると何も言葉が出なくなるんだとその時初めて知った。
 ぱちん、と目が合った瞬間おれ以上に驚いたその天使様が、ひっくり返って心臓がありえない爆音を立てた。

「おいおいおいおいッ」

 真っ白な汚れを知らない羽をもつれさせて海へと吸い込まれていく天使様に慌てて走り寄って救出する。天使の羽が大きくて、お姫様抱っこがいつもよりなんだかうまくできない。目を白黒させておれの腕の中におさまる天使様に何を口にすればいいのかわからなくてしばらく見つめあってしまった。

「ど、どうして、羽がないのに空を飛べるの? 人間なのに」
「天使様もどうして羽があるのに落っこちそうになったの?」

 思わず口について出た疑問にしまったと顔を顰めた。レディに対して失礼すぎることを言ってしまった。誰にだって失敗はあるのに。

「に、人間、が、空を飛んでておどろいて」
「驚かせちゃってごめんね」

 人間だって転ぶ時もある。天使様が羽をもつれさせるのもそんな感じだ。うん。かわいい。なんて思うのは天使様に失礼か。本物の天使様、というタガがあるおかげか鼻血を出したりせずに済んでいる。

「あの、助けてくれてありがとう。もう大丈夫」
「……そう?」

 ばさ、と大きく白い羽を動かす姿を見ても少し不安で、指先だけつまんだままエスコートをさせてもらった。優雅に宙を浮かぶ彼女にホッとして恭しく手を離した。

「……翼で飛んでるんじゃなくて、脚で駆けてるのね」

 たん、たん、とリズミカルに動くおれの足を見て微笑む姿になんだか小さい子を見ているような微笑ましさに笑いそうになるのを堪えて神妙に頷く。

「私も歩く練習してみようかな」

 ぽそり、と落とされた言葉に今度こそ笑ってしまった。やっぱり天使様だから純粋で、無垢で、可愛らしいんだろうか。おれが色を含まずただ微笑ましいと思えるのも、天使様が天使様だからただ愛らしいと笑えるんだろうか。笑われたことに対してもからかわれたと怒ったりしないで笑むおれの姿が嬉しくてつられるのか更に破顔する表情にただただ胸が温かくなる。

「きみは天使様?」
「翼が生えてるだけ。そんなに良い子じゃないの」

 一転してムスッ、と頬を膨らませる姿はまるでただの小さな子どもでそんなところがさらに愛らしい。

「だって、なんにもできないもの。ただ上から、見守ることしかできない」

 今まできらきらしてよどみなんてなかった目が下を向いた一瞬、光をなくして胸が痛む。

「おれは、悪い子なんだよ」

 だからつい、そう呟けば戻った視線と共に光も戻ってホッとする。

「あなたは羽がもつれた私を助けてくれたじゃない」

 良い人、と唇が象る前にそっと羽ごと抱きしめる。レディに対してごめんね。邪まな気持ちは、いつもに比べれば少ないから許してほしい。なんていつものおれを知らない彼女に謝っても仕方ないけれど。
 だけど天使様だからか抱き締められても腕の中で不思議そうにおれを見上げるだけの無垢な姿に、にこりと微笑む。誰かが笑うと嬉しいのかつられて笑んでくれる姿を見ながら、たん、と駆け出した。

「えっ」
「きみは、なんにもできなくなんかないよ。おれと話をしてくれた」
「そ、それは、あなたが空に来てくれたからっ」

 たん、たん、と足を船に進めていく。腕には天使様。
 だんだん豆粒だった船が形を戻してきて、船首に立つルフィの麦わらが視界に入る。

「歩く練習をするなら、ウチの船で」
「え」

 戸惑いの音しか出せなくなった天使様に笑うおれはさながら天使様を堕天させる悪魔のようで、だけど海賊にはお似合いの称号だ。にっこり笑って天使様を見るけれど、もう天使様の視線はおれじゃなく下にしか向いてなくて更にスピードをあげる。

「寂しくなったらウチの船においで。海賊だから世間一般的には悪いやつの集団だけど、良いやつばかりだよ」

 矛盾だらけの言葉を紡いで、自分で言ったことが面白くて小さく笑った。ルフィの顔がこちらを向いて、天使様に負けず劣らずのきらきら笑顔でおれの腕に抱えた天使様を見ている。
 この船に巻き込まれた天使様は幸か不幸か、もう見ているだけじゃ終われない。

2021/04/06