「は〜……かわいい……きれい……さらさら……かわいい……かわいい……」

 うっとりと呟きながらおれの頭を胸にそっと抱えて撫で続けるレディに、とにかく鼻血を出して汚してしまわないようにするのに必死で抵抗すらできなかった。だって抵抗するためにはこの柔らかな体のどこかに触れなくちゃいけなくて、触れただけで折れそうなレディのやわさが心地良くてこわくて、動けなかった。

「かわいい……」
「あの、そろそろ」
「ほんとうにかわいい……きれい……」

 さらさらと指に髪の毛を巻きつけたかと思えばそのまま流れるように下へ這い進んで耳たぶをふにふにと優しく包まれ、また滑るように進んだ先の頬を撫でられ、とにかく優しく、だけれどもみくちゃに触られまくっている。男を高めるための触り方じゃなく、ぬいぐるみに触れるような無邪気な接触なのに、こっちが勝手に欲を高めそうになるのをどうにか抑えるのに必死で息をするのも難しい。

「レディ、レディ、たのむから、はなして」
「かわいい……」

 全く話を聞いてくれないレディに絶対鼻血をつけまいとするためわざと意識を飛ばす。こうなった経緯はなんだったっけ。
 それを思い出そうとして、一瞬でその試みは終わった。
 だっておれはいつも通りみんなにおやつを渡して、数少ない自由時間でさて何をしようかねなどと物思いにふけながらたばこを燻らせていただけだから。今日も美味しかった、とナミさんやロビンちゃんの分のお皿も持ってキッチンに来てくれたレディに、レディがそんなことまでしなくてもおれが取りにいったのに〜とくねくねしてたばこを消して近寄って。そして彼女がシンクにお皿をつけておれに向き直った瞬間、ぱちりと目があって手を伸ばされた。
 本当に自然に、流れるような動作で、引き寄せられた。
 いつもの日常だったのが、そこで一気に非日常へと挿げ替えられた。

「あら」
「ろ、ろび、ロビンちゃん、」
「戻ってくるのが遅いと思ったら、とうとうやっちゃったのね」

 ぼくはなにもしてません、そうアピールするように両手をあげてロビンちゃんを見ようとして、できなかった。たぶん、ロビンちゃん本体はナミさんと優雅にお茶会をしているまま、目と口だけがどこかに咲いている。それでもロビンちゃんが見てくれているならなにもしていないアピールは続行だ。

「あの、ロビンちゃん、おれ、なにもしてない、です」
「うふふ、わかってるわ」

 こうしている間もレディの手はおれの頭を撫でさすりまくっていて一向に離れようとはしてくれない。

「あなた相手だから彼女の心配はしてなかったけれど一応確認に来ただけよ」
「ま、待ってロビンちゃん、そういえば、とうとう、って、なに」

 混乱する頭を精一杯働かせてロビンちゃんを引き止める。引き止められただろうか。なんとなく気配はする。だけれど今は動揺しっぱなしだし、あまりいつものように頭が働かない。それでもロビンちゃんの言葉はきちんと考えれば不思議なことだらけで。
 とうとうやっちゃったのね。
 それはこうなる未来をロビンちゃんは想定していたということで、この現状をどうにかできる心当たりがあるなら是非とも教えていただきたい。
 そりゃあ、レディから抱きしめられるのはとてもとてととてもとてもとてもとても喜ばしいことだ。だけど、身に覚えがなさすぎる。この幸せを甘受できる理由を知りたい。

「何も不思議なことはないわ? 彼女はサンジが大好きなのよ」

 聞いても、意味がわからなかった。

「そ、れは、うれしいけど、……でも、これはぬいぐるみ扱い、ですよね?」

 なぜか敬語になって伺ってしまう。大好きだと言われるのは嬉しい。おれだってこの船に乗る人、出会った人全てが恩人で、大好きな人たちばかりだ。でもおれはこういう、抱きしめて撫でさすることをそいつらにしたいかと聞かれればノーと即答できる。愛情表現の示し方が違うだけだと言われればそうかもしれないが、レディが誰かしらにこうなった現場を見たことがなくて、おれがそのはじめての対象ということに戸惑う。

「あなたには酷かしら」

 言葉とは裏腹にどこか楽しげな声に言葉に詰まる。まあ、バレてたか。確かにほんの少し、ほんの少しだけれど、そのほんの少しの違いを見つけてしまえるのがレディたちの特権で、慧眼だ。男どもにはバレやしない。バレたとしたら、そいつは敵だ。敵だ、なんて言いつつ、この気持ちを言葉にする気はなかった。

「男ってのは単純なもんで、……嬉しいもんは嬉しいんですよ、なんちて」
「あら素直」
「レディの思考がずっとどこかに旅行中なもので」

 かわいい、きれい、と繰り返し呟きながら撫でさするだけだ。おれとロビンちゃんが会話をしていることにも気付かない。

「これ、レディ大丈夫かな」
「ずっと我慢してたタガが外れちゃっただけだから大丈夫よ。我に返った時が大変ね」
「それはレディがかわいそうだ。ロビンちゃん、そろそろ彼女をこう、どうにかできないかい?」
「私、かわいいものが好きなの」
「ん?」

 唐突なロビンちゃんの言葉に首を傾げそうになって硬直する。だめだ、おれが動くとレディの柔肌に頭を押し付けることになってしまう。動いちゃダメだ。

「かわいいものを止められないわ。でも盗み見したいわけでもないからそろそろ私はお暇するわね。頑張って、サンジ」
「ロビ」

 んちゃん、と言う声はしりすぼみになる。はらはらと花が散る気配がして、レディとおれだけが取り残された。









「ねえレディ」
「かわいい」
「……最初はおれの心臓の音かなと思ったんだけどね」
「……かわいい」
「おれの心臓の音にしては愛らしすぎるんだよ」

 びくり、と体が震えて怯えさせたいわけではなかったと眉根を寄せる。ぬいぐるみのように下心なく触れる指が、意志を持ち始めたのはいつからだっただろう。ロビンちゃんが消えてしばらくたってもなにもしてませんよアピールを続けて、心頭滅却してどうにか鼻血を出さないように心を落ち着けて、何分経ってからだろうか。柔い肌に押し付けられていることに慌てて混乱していたのがどうにか落ち着いて、まあ少しでも気を緩めると鼻血が出そうなのは変わらなかったけれど、どうにか落ち着いたのと同時に違和感。
 指先の滑りがどこか遠慮がちになって、一定の場所しか撫でないようになっていた。呼吸がなんだか不安定。極め付けは、よく聞こえる心臓の音。
 我に返ったんだな、と悟った。ほんの少しの安堵と、ほんの少しの残念な気持ちが混ざりあって、引っ込みのつかなくなってしまったんだろう彼女の心境を考えて苦く笑う。そうだね、おれが反対の立場でもどうすればいいのかわからなくなるよ。いや、おれと君の立場を入れ替えたら誰かしらのストップが入ってこんな悠長に長い間君に触れていられなかっただろうけど。というか止めてもらわなきゃ困る。

「……ごめんなさい」
「いやいや、おれは役得だから。寧ろずっとこうしていたいくらいさ」

 今更離せなくなったんだろう。我に返って、手を離して、顔を突き合わせることなんて誰が今更できるだろうか。おれだって今更彼女とどう顔を合わせればいいのかわからない。微笑めばいいのか、困った顔をすればいいのか、嗜めるような顔をすればいいのか、どれが一番普通の対応で、彼女を傷付けないのかわからなかった。

「サンジくんのね」
「うん」
「まるっこくて、金色で、さらさらな頭を、いつも触ってみたいなと思っていたの」
「レディの理想通りだった? 遠目から見ると確かに綺麗な金髪でさらさらの髪に見えるかもしれないけど、おれも海の男だから潮風に晒されて結構ぱさぱさだし、」
「そんなことない、思ったとおり本当に綺麗で、だから離せなくて、……ごめんなさい」

 撫でるのをやめた手は所在なさげに後頭部にそっと添えられていて、彼女の心臓の音も落ち着いてきた。それでもおれも彼女も顔を合わせにくくて同じ体制のまま会話を続ける。

「……こんなになるまで我慢しないで言ってくれたらよかったのに」
「サンジくんは言えるかもしれないけど」

 もごもごと口籠るレディに思わず笑う。ナミさんやロビンちゃんや君、そしてこの世の女性すべてに欲望のまま言い寄っていることは確かに事実だけれど、おれだってこれでも我慢してるんだよ。なんて、心の中で呟いたって意味がない。
 本当の本当にしたいことはいつだって心の奥底にしまい込んで隠している。宙に浮いたままの手は本当なら君を抱きしめたいし、おれだって君を胸に抱き寄せてかわいらしいつむじにキスをしたい。いや理性を失った君だっておれのつむじにキスなんてしてないけど。

「おれはいつだって大歓迎だよ」

 たとえそれが恋心からじゃなくて、ぬいぐるみを抱く少女のように純粋な気持ちからでも。おれは君が笑ってくれるならぬいぐるみにだってなる。

「もうしないよ、ごめんね」
「なんで。してくれていいのに。鼻血で君を汚したりなんてしないよ」

 ぬいぐるみになったっていい、なんて言いながら、ぬいぐるみは言葉を紡がないし、こうやって縋ることだって勿論しない。のに。つい、食い気味に反論してしまった。君に男として見られていないのは残念だけど、ぬいぐるみ扱いでだって愛でられるのはこっちが邪な気持ちを追い出しさせすれば気持ちがよくて、何度だって甘受したいものだったのに。

「サンジくんをこうして抱きしめていいのは、サンジくんの恋人だけだよ。……でもたまに、髪の毛触らせてね」

 なんだ、ぬいぐるみ扱いのくせに、世間一般の距離感は知ってるんだ。知ってて、ぬいぐるみ扱いなんだ。ロビンちゃんといい、君といい、おれなら大丈夫だ、って発想はどこからくるんだろう。普段の言動からして一番危険なのはおれでもおれだと思うのに。

「おれは本当にいつでも大歓迎だけど、本当ならレディが抱きしめていいのも、レディの恋人だけだよ」

 レディの未来の恋人が、過去にこんなことがあったと知ったところで憐れまれることはあれど、嫉妬するわけがない。世間一般の距離感は知っているくせに意識も何もしていない、なんせただのぬいぐるみ扱いだ。そんなことはわかっている。わかっていて、他の憐れな男を増やさないために忠言する。おれのようにただぬいぐるみに徹する男だったら良いけれど、世の中には悪い男の方が多い。海賊に近寄る男なんてそもそもがきっと悪い男だ。忠告するに越したことはないだろう。

「うん、ごめんね」
「……本当にわかってる? おれだったからよかったけど、変な男だったらどうするんだ」
「サンジくんにしかこんなことしないよ」

 その言葉を聞いた瞬間、頭に血がのぼりそうになった。ロビンちゃんといい、君といい、どうしておれを安全圏だと思うんだ。君は、おれが君を好きなことを知らないからそんなことを言えるんだと思う。でもロビンちゃんは、おれをぬいぐるみ扱いしているこのレディを好きだと知っているくせに、大事な女友達をどうしてそのまま預けられるんだ。
 レディたちの考えは、男のおれには到底理解できない。
 ばくばくと聞こえていた音もやってしまったと焦る心音でしかなかった。だって今はもうとっくに落ち着いている。とくとくと優しく跳ねる心臓の音は、心地良いのにつらい。
 おれがひとたび動いてしまえば彼女の手をたった一本の腕で絡め取ることができて、自由を奪える。なのにどうしてそれをしないと思ってるのか。きみのことが本当に好きだから、大事だから、ぬいぐるみ扱いすら甘んじて受け入れているだけなのに。

「……他のクソ野郎どもにこんなことしないならいいさ」

 頭に血がのぼりそうな発言をされても結局、おれは君を怖がらせるようなことなんてできなくて、笑い声に混ぜて溜息をこぼすことしかできない。片手できみを簡単に拘束して顔を近付けて、ほら、こんな怖い目に遭うかもしれないんだよ、なんて。そうすれば少しは男として見てもらえるかもしれないけど、でも結局おれは憐れなぬいぐるみ扱いされる程度の情けない男だった。
 レディたちはそういう、女性を泣かせる暴漢とそうじゃない男の違いを本能で感じ取れるんだろうか。だから、おれだから心配ないなどと。

「本当に勝手なことしてごめんね」

 溶け合っていた体温が急に離されて体が自由になる。離される最後にそっともう一度頭を撫でられて自然と顔が下を向いたから謝る彼女の表情が見えなかった。ちょうどいい。男として全く意識されてない表情なんて、直視できない、したくない。

「レディにならいつでも大歓迎さ」

 また君のぬいぐるみになりたいと、そう笑うことしかできない情けない男だった。

2021/04/25