「サンジくん」
にんまり、といたずらをしかける少女のような笑顔で名前を呼ばれて体がぐにゃぐにゃになる。大人の女性らしくおれを惑わす姿も、少女のような可憐な雰囲気を纏わせておれを振り回すのもどちらも素敵だ。ハアイ!と元気よく駆け寄って、そんな素敵なレディを守るナイトのように傅く。
「サンジくんは一流のコックさんでしょう?」
「そしてあなたの愛のプリンス……」
「食べ物のことならなんでもござれ、でしょ? 目を閉じて、唇に触れてるものがなにかわかる?」
「ええそりゃまあ、ん? 食べちゃだめ?」
「だめ」
おれの愛の言葉はいつも通りスルーされて、レディの唐突な遊びにうーんと首を傾げる。わくわくしている姿はとてもかわいい。それなら愛のプリンスとして、一流のコックとして、やるべきことはひとつで、胸を叩いて任せなさいと承諾する。
「目、閉じて?」
あっエッチだ……言葉のチョイスも、うふふって笑い声がなんか、なんかすごくエッチだ……。可愛らしく笑んでくれてたのにおれがヨコシマな思考回路になったのを悟ったのか呆れが笑みに滲んでキュッと顔を引き締める。
鼻血が出そうになるのをどうにかこらえて、目も口も閉じた。
準備はいい?と問われて顎を引く。こつ、とレディの足音がしておれに近寄ってきたのがわかる。ふに、と甘いかおりと、甘い感覚が唇に優しく押し付けられて反射的にピクリとしそうになるのをどうにか堪えて頭を回転させる。
「ねえ、あの、食べちゃダメなんだよね」
唇をほんの少し動かして問う。おれの唇がうごくたびにふにゅり、ふにゃり、と形に沿うように動くそれのことを考えるけどわからない。
返事はない。
代わりに頬のあたりをくすぐる風。……風? 風にしては暖かくて、なんだか甘美で、つまりそれは、返事がないのは、
「た、たべていい?」
ふふ、と笑ったのか頬に吐息が触れる。唇に触れていたものも揺れた。確信。
「ッいただきます……!」
「あはは!」
レディの唇を奪った、はずだった。のに、笑い声が聞こえる。ということは。目を開けて急な光にチカチカするのも構わず見上げれば、それはそれは至近距離にいる女神のとても素晴らしい笑顔で、ということはおれが食んでいるこれは、
「ましゅ、まろ」
ぐに、と間抜けに開いた口の中に押し込まれて口の中に甘みが広がる。かつん、と歯に爪が当たった気がしてちょっと気分が上がったけど、一点集中していた血液が冷えていくのがわかる。小悪魔な君も素敵だよ。でも浮かれきって失態を犯した自分に落ち込む。
「サンジくんは想像を裏切らなくて好きだよ」
「エーーーン女神が喜んでくれるならそれだけで嬉しいようウッウッ」
両手を床について笑ってんだか泣いてんだか自分でもわからない感情を吐き出す。口の中のマシュマロは美味い。のに、なんだか塩味な気がする。
おれに合わせてしゃがみこんでくれた女神に視線を送ればにこにこ楽しそうにしていて愛らしい。愛らしいけども。
「二回戦! じゃじゃん!」
「あっ、まだするんですか」
「三回勝負。勝てたら景品もあげるね」
「……負けたら?」
恐る恐る聞く。だってもう後がない。プリンセスの可愛らしい悪戯のおかげでおれにはもう負けたら後がないわけで、ちょっと厳しい罰ゲームとかあると困る。まあ、なんだかんだ優しい君の罰ゲームをそこまで怖がる必要もないのかもしれないし、ご褒美の有無や罰ゲームの有無で料理人としての実力が変わるわけではないけれど、心構えはできる。
「私の言うことひとつだけ聞いてほしいな」
「別にそれくらいならいつだって聞くのに」
「目、つむってね」
冗談に捉えられたのかうふふ、と笑われて流されてしまう。君の言うことなら本当にいつだって言うことを聞くのに。そっとおれの手より小さな手が眼前に迫って瞼を下ろす。瞼にぬくもりを感じたまま、いくよ、と楽しそうに告げられた。どうして視界が暗いだけでいつもの言葉がこんなにエッチに聞こえるんだろうか。レディってすごい。
ふに、と唇にまた優しく押し付けられる。瞬間、すぐにそれが何かわかったけど、これはズル判定にならないだろうか。唇に触れる感触というより、嗅ぎ慣れた甘い匂いでわかってしまった。内緒にしよう。
「ナミさんの、みかん?」
「正解! あーん」
「あーーーーん♡」
瞼に柔らかな手で目隠しをされているのもなんだか素敵で甘美だけれど、あーん♡だなんてご褒美ももらえて尻尾を振って喜ぶ。ちゅるん、と唇の中にみかんが入って、ナミさんのみかんがもともと美味しいのは勿論、手ずから食べさせてくださったおかげでいつもより甘く美味しく感じられた。一個まるまるあーん♡してほしい。だめですか。クイズ先行ですか。じゃあもしおれが勝ったらそれを景品にしてくれないかなあだなんて考えてごくん、と飲み込んだ。
「三回戦!」
じゃじゃーん、と楽しげに揺れた声におれもなんだか楽しくなってくる。
ふにゅ、とまた優しく触れられる。けれど唇の真ん中じゃなくて、ほんの少し右に片寄っていて首を傾げそうになる。瞼に触れている手をどけようとズルしたのではと思われてはたまらないので慌てて我慢したけれど。ふにゅ、と柔らかくほんの少し暖かみを感じるそれは今度は匂いで即答できずに唸ってしまう。さっきの残り香なのかほんの少し甘い匂いは漂っているけれど、さっきみたいに心当たりは思い浮かばなくて眉間に皺が寄りそうになる。
たぶん、そこまで変なものは持ってこないと思うし、レディのことだからきっと甘くて可愛らしい物だと思うけれど、なんて推理をしてみても全くわからずにひたすら無言の時間が流れてしまう。
「レディ、ヒントは……?」
無言。またからかわれているな、と小さく微笑んでしまう。でもさすがに二回も、それもこの短時間に引っかかったりはしないですよレディ。うーん、と考えながら、いつの間にか瞼に触れていた柔らかいものがどけられていることに気付く。なんだか残念だ。心地が良かったのに。いつか添い寝が許されたならば妄想していた色んなあんなことやそんなことの他に、そっと瞼の上に手のひらを置いてもらって寝かしつけてもらいてェな、なんてガキのようなリクエストも追加して。
「レディ?」
無言。
「あのぅ、」
唇の端にそっと優しく押し付けられているからもごもごとなんだか舌ったらずに聞こえて情けなく思う。というか、急に難易度高くないですか、レディ。いくらおれが一流のコックさんといえど、さすがに唇に触れたくらいの感触じゃ、匂いやなんかのヒントがないと難しいよ。
「レディ?」
というかそもそもこの食材、おれが知ってるもの? 知らなかったらいくらおれが一流のコックさんと言えど知らないものを当てられるはずもない。まさかまさかのおれが知らないものを見つけたのをいいことに可愛らしい悪戯心で遊んでるんじゃないだろうか、なんて考えまで浮かんでくる。それほどにお手上げで、レディの無言の意地悪にも痺れを切らしてきてしまう。いや、レディとならいつまでだって遊んでいたいけれど、レディの姿を見るか、せめて声を聞くかをしないと意味がないじゃないか。
いつまで経っても無言なままのレディに、お手上げになる。わからない、と素直に言ったらきっとつまらないだろう。あんなにわくわくしていたんだから。せめてレディを楽しませながら降参しなければ。でもどうやって。ううん。わざと目でも開いて失格になろうか。そうすればレディはまたおれで遊べる。うん、そうしよう。
そろり、と瞼をゆっくり光に馴染ませる。わりと長い間目を閉じていたからか、眩しくて目の前がはっきり見えない。
ぱちり、ぱちり、と瞬きをして、心臓が止まった。瞬きをしてる間になぜか天国に来てしまったのかと。だって、レディが、レディの顔が、こんなにも近い。一回戦の悪戯の時なんかより、もっと近くて、というより、レディの唇が、おれの口端に触れていた正体で。カッと体が瞬間沸騰してしまう。でも燃えてしまったら彼女まで傷付けてしまうから、どうにか発火は耐えて、この現状がおれの都合のいい妄想なのか幻覚なのか天国に来てしまったからなのかを必死で考える。
ぐるぐるぐるぐる考え込んでいる間に目が光に慣れて、ぱちん、と焦点があった瞬間、ふ、とレディの眉尻が下がって遠くなる。こつん、と一瞬で手の届かない距離へ遠ざかったレディに無意識に伸ばした手。反対の手は今の今まで触れていたはずの唇の熱をどうにか逃がさないように自分の唇を手のひらで覆って隠す。
「サンジくんの負け」
「え、っ、え?」
レディの言葉に今のは妄想でも幻覚でも知らぬ間にたどり着いた天国でもなくて、現実だと悟る。悟ったところで冷静になれるわけもなく、ただ混乱に喘ぐだけ。だって口の端と言えど、そこは確かに唇で、レディとおれが、わりと結構な時間口と口を合わせていたという事実に変わりないわけで、それがどういうことなのか、どういう意味を持つのかわからなくなる。
「私の勝ち。だから、ひとつだけ、言うこと聞いてね。……今のは忘れて」
にっこり微笑んで紡がれた言葉に目玉がこぼれ落ちてしまうんじゃないかというくらいかっぴらいた自覚があった。レディの言うことはなんでも聞きたいけど、そのお願いを聞くことは難しくてぶんぶん首を振る。拒否されたことに困ったように笑うレディにおれの方が困ってしまう。
いや、だってむりだろ、忘れろなんて。そもそもどうして。どうしてこんなことを。
「……いつだって私の言うこと聞いてくれるんじゃなかったの?」
うそつき、と小さく笑われて、いやそれはそうなんだけど、これは無理だろ。無理だって。死ぬまで忘れたくない。というか、
「今の誓いのキスってことにしない??」
アッやべェ。願望が口から。手のひらで覆っていても物凄くでかい声になった。だってもう考えすぎて訳がわからなくなってしまった。ぽかん、と口を少し開けて不思議そうに固まるレディはとてもかわいい。かわいいけれど。
「誓いのキスって……結婚しちゃったらもう女の子と遊べないよ」
「えっレディと結婚できるならもちろんよそ見なんてしねェです」
覆った手のひらはレディの熱を逃さないための蓋でしかなくてぽろぽろと情けなく追い縋ってしまう。スマートに、紳士に、なんてかっこつけることができずに一言一言逃がさないように必死で食らいつく。
「そもそもどうしてこんなこと」
「……私も海賊だからちょっと、奪っちゃおうかなって」
えへ、と恥ずかしそうに笑う彼女に心臓をぶち抜かれる。かわいい。それ好きってことじゃねェ? ちがう? だめ? なんで? 好きでもねェ男の唇なんか奪いたくならないだろ。えっ、もしや、なるのか? えっ? まさかマリモにもこんなご褒美したのか? え?
「サンジくんだけだよ」
おれの表情があまりにもわかりやすすぎたのか、言葉に出てたのかわからないけれど、呆れたように付け足してくれた言葉に花びらが舞う。じゃあそれ好きってことじゃねェ? 誓いのキスでよくねェ? だめ? なんで?
「私はサンジくんだけだけど、サンジくんはみんなが好きだから。だから、忘れてね」
さらりと衝撃的なことを言われてぎょっとする。今の幻聴か? いや、確かにこの耳で聞いた。ものすごく嬉しいことを聞いたのに、この話はもうおしまいと言わんばかりにくるりと踵を返した彼女に慌てて立ち上がって手を差し伸ばす。さっきは情けなくも届かなかったけど、今度はしっかり捕まえて背後から抱きすくめる。
「忘れたくない。お願いだから、そんなこと言わねェで」
彼女の熱を失いたくなくて覆っていた手も彼女を抱きしめるために仕方なく外した。だって、彼女の熱を失いたくなくて彼女そのものを失うわけにはいかない。ぎゅうぎゅう抱きしめて懇願する。
「そりゃおれは、信用ねェだろうけど、でも、……誓わせて。君だけを見るから」
お願いだ、と呟けばびくりと体を硬直させたレディに申し訳なく思う。でもおれだって譲れない。どうして手を伸ばせば届く距離にいるのに手放さなきゃいけないんだ。
「……やめる」
ぽつりと呟かれた言葉に焦る。何をやめるの。
「忘れて、は、やめる」
小さな声にホッと力が抜けそうになる。でもだめだ。まだ油断はできない。だって緩んだ瞬間にまたふわりと逃げられるかもしれない。それはいやだ。逃したくない。逃がさない。
「……他の女の子を見て浮かれてもいいけど、最後には私だけを見て、にする。……いい?」
やっぱりおれは日頃の行いが悪いせいで信用されていないけれど、それでも彼女の言葉に天にも昇る心地になった。
「お安い御用さ!」
くるんと彼女の手を取って向かい合わせになおる。真正面から見た彼女の皮膚がりんごに負けず劣らず真っ赤になっていてでれでれと頬が緩んだ。宣言通り、かわいいかわいい姿をジッと見つめていれば、今はいいの、と蚊の鳴くような声で呟いて俯かれてあまりの可愛さに死にそうになる。負けたのに罰ゲームどころか一生分のご褒美貰っちまった。
「今度はおれからキスしてもいい?」
俯いても隠せない真っ赤な耳を見つけて声があまりにも緩みきってしまったせいか、ベシッとお腹を叩かれる。でもおれも海賊だから、奪っちゃってもいい、はずだ。たぶん。きっと。
2021/05/18