ぽかん、と今まで生きた人生で一番大きな口を開いた。私の口、こんなに大きく開けたんだ、だなんて間抜けなことを思ってしまうほど。だって目の前に、あの、紙面上と、画面の中でしか見たことがない人が立っていて、思わず言葉が漏れる。

「アッ死んだなこれ」
「誰だてめ、ェ……」

 私が世の中を儚んで走馬灯を走らせていたのに目の前に立つ、サー・クロコダイルが急に勢いを散らして瞬いた。萎んだ声の代わりに、同じ声が画面から聞こえる。クロコダイルさんの視線を追えばそこには私がたった今見ていたアラバスタ編のルフィ対クロコダイルのクライマックスシーン。ちら、と視線を戻せば驚いたように目を見開きながらも食い入るようにそれを見つめる姿がなんだか幼く見えて可愛らしい。命の危機だと言うのにそんなことを思ってしまうのは、悪い人だと知っていてもなんだかんだ推しだから。

「……おい、おれは死んだのか」
「44歳なんですか?」
「あ?」

 クロコダイルさんが吹っ飛んで、視線が私に戻る。暗い瞳がほんの少し揺れていて、また可愛いなだなんて思ってしまった私がつい漏らしてしまった疑問に視線が鋭くなってまた走馬灯が走った。
 いや私も混乱してて口が滑ってしまったんです。だって吹っ飛ばされた自分を見て言う言葉がそれだったからつい。2年後のクロコダイルさんなら死んでいないことは知っているはずだから思わず。

「続き見ます?」

 眉を顰めたけれど否定はしなかったからリモコンを操作した。見終えたら死ぬのかなあ、なんて、ほうけたように突っ立ったまま画面を食い入るように見つめる姿を見つめた。座ったらいかがですか、とソファをすすめようと思ったけど、あんまり軽率に走馬灯を走らせたくなくて置物のようにじっと固まったまま動かずにいた。推しでもリアルに存在するなら怖いもんは怖いです。というかこれ、リアルなんだろうか。テレビつけっぱなしでうたた寝しちゃったせいで見てる夢なんじゃないだろうか。



  ▼▼▼

「……死んでねェな」
「そうですね、良かったです」
「あ?」

 ばちん、と視線が交わって固まる。クロコダイルさんが目の前に現れてしまってからどうも脳みそのタガが外れてしまったのかお口が緩くなってしまっていて困る。何回目の走馬灯だろう。というかやっぱり走馬灯が走るくらい余裕があるこんな現状は都合が良すぎて夢な気がして口が緩んでいるんだと思う。本当ならきっと、ぽかん、と間抜けに口を開く間もなく何が起きたかわからないまま砂になってるはず。

「……最初から漫画読みますか?」
「漫画?」

 相変わらず警戒した猫のようにジッと立ったままのクロコダイルに提案する。これが夢じゃなくて、クロコダイルさんが44歳で、先を知ってしまって悪巧みをして未来が変わったとしても、あの麦わらの一味ならきっとそれすらも乗り越えられる力はある。クロコダイルさんのことは好きだけど、それはそれ、これはこれ。そんな思考は心のうちだけにとどめてクロコダイルさんを見つめた。
 否定の言葉をいつまで経っても紡がないからゆっくり立ち上がる。急に立ち上がって驚かせて砂にされても困るので。視線だけで死にそうな険しい目でじっとり観察されながら本棚からとりあえず一巻を取り出して差し出した。それをつまみあげたクロコダイルさんに思わず笑みが溢れそうになったのをどうにか耐える。だってクロコダイルさんの手、大きくて、漫画がまるでミニチュアに見えた。



  ▼▼▼

「おれはこれに負けたのか」

 何も言えない。何を言っても命が散りそうで。それにしてもクロコダイルさんは相変わらず突っ立ったままで、警戒心はごもっともなんですけど、クロコダイルさんじゃなくても男女の差で普通に押し負けるのに何をそんなに普通の女を警戒する必要があるんだろうと首を傾げる。
 ごそごそと本棚を探って10巻ずつ机の上に乗せる。ちらりと視線が動いて、クロコダイルさんが持つとものすごく小さく見える1巻を置いて2巻を手に取った。トリックアートみたいだ、なんて思いながらクッションを手に取って床に座った。口に出してソファをすすめることはできなかったけど、意図は汲んでくれたのかようやくソファに座ってくれた姿にホッとした。




  ▼▼▼

 ぱち、と目を開ける。ふわ、と呑気なあくびが出てしまって涙の滲んだ目を擦ってぼんやり見えた大きな何かに固まった。クロコダイルさん。夢じゃなかった。漫画を読み進める姿を眺めていたらいつの間にか眠ってしまったようで、同じ姿勢で読み続けるクロコダイルさんが視界に入った。ちら、と時計を見れば朝、で。視線をクロコダイルさんに戻した瞬間、バッチリ目があって固まる。

「……ようやくお目覚めか」
「……おはようございます」

 挨拶、大事。というより他に何を言えば良いのかわからなくて、だけど無視は絶対にしちゃだめだからと苦し紛れに発した言葉で、鼻で笑われてしまう。

「おれを誰だか知っているくせに警戒心がねェのは愚かだと思うぜ」

 まあそれはそうなんですけども。警戒しようがしまいが死ぬときは死ぬ。警戒したところで私がクロコダイルさんから逃げられるわけもないし。などとはとても言える雰囲気ではなく、はあ、と妙な相槌を返すことしかできなかった。

「まあ、どうやらおれは今、能力は使えねェみたいだが。命拾いしたな」

 試したんですか? 私でですか? それともそこらの家具とかでですか? 私でですか? 命拾いしたなってことはやっぱり私でですか? 寝てしまった間に死にかけてて寝てしまった間に命拾いしている事実を受け止めきれずに動揺する私を見て、また鼻で笑われる。いやまあ、能力が使えなかったとしても命の危機が去ったわけではないですけども。その鉤爪もその体格も何もかもが私にとっては武器です。

「……平和ボケした女だな」

 呆れたように呟かれて視線を戻したクロコダイルさんに何も言えなかった。

2021/07/16