轟が過去を乗り越え、結婚や家族について前向きになれたのは喜ばしいことだ。結婚するまでに最低でも何年は交際したいだとか語らった時期も、ウェディングドレスに身を包む友人の姿に自分を重ね合わせた時期も、全て捧げてきた。海のなかで揺蕩うように、流れに身を任せた関係はもう八年にも及ぶ。
花盛りの時期を喰らっておきながら簡単に私を捨てるのか──だなんて責めたい気持ちになったが、寸前で飲み込む。はじめから分かっていて、彼の申し出を受け入れたのだ。責める資格はない。
「自然に乾いたね」
自分の内側にいれたものを失うのが怖いのだろう。轟はきつく抱きしめてきた。何一つ逃さないようにと掻き抱く腕の中におさまったまま、どれだけ時間が経ったのか。すっかり髪の毛は乾いていた。
きっとグジュグジュと化膿したかのような胸の痛みも、時間が経てば乾いて、元通りになるだろう。
「そうされんの、落ち着く」
「そう」
丸い後頭部を撫でおろせば、轟は安心したように僅かに抱擁を緩めた。
「ご飯にしよう」
そう声を掛ければ、轟は一つ頷いてから離れていった。
明日はオフが被っていた為、良いワインを調達していたのだが、そのような気分ではなくなった。ワインにあわせて作った完璧な献立だったが、緑茶に変更したことにより不調和を奏でている。
大雑把な轟はそのようなこと気にしていない様子で、美味しい美味しいと言いながら料理を腹に収めた。
ぽつりぽつりと会話をしながら夕食を済ませ、片付けが終わったテーブルに向き合うようにして座る。
「話って?」
「暫く忙しくなりそうだ」
てっきり別れ話をされるものだと思っていた私は肩透かしを食らったような心地だ。結婚の準備で? と追求したくなったが、「ふぅん」とあまり興味がないふりをする。
寝食をともにしたのだ、いつか結婚の報告はしてくれるだろう。しかしそのタイミングは恐らく特別ではない。他の友人たちに伝えるのと同じタイミングで、私にも報告してくるのだろう。
何が、私も話がある、だ。思い上がりも甚だしい。轟の別れ話にあわせて、私もこの関係を終わらせるための話をしようと思っていた。しかし、もともと交際していないのだから、別れ話も何もない。
何を期待しているのか。この関係はわざわざ言葉にして終わらせる必要すらないものだったのだ。
「ナマエの話は?」
「同じような感じ」
「どこも忙しいんだな」
「轟ほどじゃないと思うけど」
話を振られて、慌てて誤魔化す。仕事には慣れて、忙殺されるようなことはなくなった。出来上がったルーティンをいつも通りにこなせば良いだけだ。ジーニストに頼み込んで仕事を回して貰えば少しは気が紛れるだろうか。
生活を新しくしようとしている轟に比べれば忙しくはないと小さな嫌味を言ってしまったが、轟は「そうでもねぇぞ」と気にしていない様子なのが腹立たしい。
「明日オフだったよな? ……今日駄目か?シてぇ」
伺いを立てるくせに、断られる可能性を一切考えていない態度だ。ギラついた瞳で焼きつくそうとしている。断るべきなのに、なぜか喉が張りついて言葉が出てこなかった。身体だけでも繋ぎ止めることができるならば──だなんて浅ましいことを考えてしまったのだ。
「ナマエ」
強引に椅子から立ち上がらされ、そのまま体を抱えられる。所謂お姫様抱っこというやつだが、いまの轟に王子様のような清廉さはない。欲に塗れた、雄の顔をしていた。
「お風呂」
「……大丈夫」
この雰囲気は危ない。このままでは流されてしまう。その場凌ぎにしかならないが、まだ身体を清めていなかったことを理由に一時退避を試みる。しかし轟の足はそのまま寝室へと向かっていて、そのままベッドにおろされる。
ベッドが二人分の体重をうけてギシギシと音を立てた。この生活を持ちかけられた時、寝室を同じにする条件の一つに大きくてふかふかなベッドを所望した。スプリングが悪くなったのか、かつてのような跳ね返しはなくなった。少しだけ沈み込む感覚に必死に抗いたくなった。
腕をベッドに縫い付けられながらも、必死にもがく。きれいに整えられていたシーツが波打つ。
「これは?」
「少しとちっただけ」
「聞いてねぇ」
「言ってない」
シャツの裾から手を滑り込ませた轟は、胸の下あたりにある真新しい傷を眉をひそめた表情で見た。轟に会えなかった二週間のうちのどこかで負った傷だ。わざわざ報告などしていないのだから知らなくて当然だが、轟は納得していない様子で薄い唇をむっと曲げていた。
ヒーローをしていれば擦り傷などの小さな怪我は日常茶飯だ。一つひとつ数えていてはキリがない。
きっと轟が指輪を渡そうとしている相手は、傷ひとつない柔らかな肌をしているのだろう。それに比べて私の身体は引き締まってはいるものの、女性らしい柔らかさには欠けるだろうし、歪な傷痕もあってお世辞にも滑らかな肌とはいえない。
いくら美容に気を遣っていても火傷や擦り傷は絶えないし、敵地に潜伏して数日風呂に入れないこともある。ヒーローになるならばオンナを捨てろとは言わないが、やはり同年代の女性が当たり前のように享受している幸せのいくつかを諦めることはある。例えば、傷ひとつない柔らかな身体、指先を飾るネイル。これらは雄英に入学した時点で手放した。
轟の想い人に私が勝てるのは戦闘力くらいだが、オンナとしての魅力にどれほどの足しになるだろうか。敵を倒せたところでヒーローとしての評価があがるだけだ。オンナとして勝てる要素は浮かばない。
「……ねぇ、電気」
「ほかの男の名前出すなよ」
「違う、上鳴じゃなくて……ライトを消せって意味」
「そっちか」
照明を落とすように声を掛ければ、電気という名を持つ同級生を読んだのだと勘違いしたようで、僅かに苛立ちのこもった声が返ってきた。これほどまでに独占欲の強い男だっただろうか。まるで自分の玩具を取らせまいとする子どものようだ。
「全部見てぇ。脱げるか?」
こちらの要求は受け入れないくせに、自分の要求は通ると思っているところが轟らしいといえばらしい。しかしそうは理解していても、感情は別物だ。内心むっとしながら、シャツを頭から抜く。
身体に残る傷はヒーローとして必死に活動してきた証だ。柔らかさに欠ける身体も、ヒーローになるために何年もかけて作り上げたものだ。これまでの自分がつくり上げてきた身体を隠すことは、ヒーローとしての自分を否定することと同義だ。
膨らみの下、肋骨の隙間あたりにビリビリと痛みが走り、水からあげられた白魚のようにベッドの上で身体を跳ねさせた。
「は、なに」
轟が膨らみの下あたりにある傷口に唇を寄せていた。這わせた舌で傷口を辿ったり、尖らせた舌先でほじくるように動いたりする。
真新しい傷はまだ完治には至らず、轟が舌を動かすたびにビリビリと痛みがある。痛みにも快感にも似た刺激は骨をつたって全身に広がる。身体は浅ましくも素直にその刺激を受け入れ、悦んでいる。理性が残る頭だけが置いてけぼりになり、瞳にはジワジワと水膜が張る。
「……それ、やだ、痛い」
「悪りぃ、間違えた」
情けない声が出た。敵にこの傷を負わされた時ですら泣き言の一つも口にしなかったのに、なぜか声が震えた。痛みが快感だなんて可笑しい。手繰り寄せたシーツで顔を隠して、刺激が止むのを待っていれば、程なくして平坦な声の謝罪が聞こえた。
何をどう間違えたならば、治りかけの傷口を虐めることに繋がるのだろうか。熱を持った傷口にひんやりとした手が添えられた。
「それにしても痛そうだな」
「誰かさんが舐めてくれたおかげでね」
「そうだよな」
熱が和らいだことで、食いしばっていた口許をゆるめれば、その気配を感じとったのか轟が声をかけてきた。痛そうだな、なんて他人事だ。轟の言葉裏に苛立ちのようなものを感じたが、怒りをぶつけられる筋合いはない。皮肉っぽく返せば、轟はフッと口許を緩めた。
「さっきの、間違えたって言ったけど、あれわざとだ。舐めてみたかった」
「ヘンタイ」
「俺、今日おかしいかもしんねぇ」
ほんの僅かな合間に心変わりをしたようで、間違えたと何やら曖昧な言い訳をした先程とは打って変わり、欲望のままに行動した結果であったのだと素直に打ち明けてきた。
傷口を舐めたくなる心理なんて理解できるはずもない。彼の心情を理解しようと努めるが、ぶっ飛んだ行動ばかりで、人間の心に精通する心理学者ですら理解できないと思う。
轟に振り回されてばかりだ。なんだか会話に疲れてしまって、これ以上口を開くことが億劫だったが、嫌味だけは忘れずに返した。その嫌味に感情が揺さぶられたのか、荒い息と共に唸るようにして声が吐き出された。
「一緒におかしくなろう」
感情の振れが怒りではなく、興奮に向いていると知ったのは、ぬるりと耳たぶを舐められたからだ。ハァと熱い息が耳のふちを撫でたかと思えば、掠れた声が吹き込まれ、ぴちゃとはしたない音をさせながら耳を舐められた。
今日の轟はいつにましてぶっ飛んでいるらしい。余裕のない手つきで服を脱がせようとして、ボタンを弾けさせた。チェストの足に当たったような音がした。あとで責任を持って探させよう。
「口開けられるか」
下手に出るふりをしながらも、その声は押しつけがましい響きがあった。放っておいたところで轟が折れることはないのだろう。要求は押し通すタイプだ。
そろそろと口を開けば、遠慮がちに親指が侵入してきた。他四本の指は、顔を逸らさせないようにと顎を覆っていた。
頬の内側や、舌の表面を撫でるように親指が動かされる。次第に無遠慮な動きへと変わり、人差し指が追加されたかと思うと、舌の根あたりを掴まれ爪を立てられた。
爪はいつでも整えられているため傷つけることはないし、感覚が鋭い部位でもないためそれほどまでに痛みは感じない。
「キスしてぇ」
ひとりごちるように呟いた轟は、口から指を抜くと今度は舌を差し込んできた。唾液に濡れた指でぬるぬると胸を撫でられると、むずがるような声が漏れてしまう。
その反応に気を良くしたのか、轟は胸を揉みしだいてくる。綺麗な顔をして、手は案外無骨だ。厚みもあるし、指は節榑立っている。決して私の胸は小さくないはずなのに、彼の手は胸全体を覆っていた。手の動きに合わせて丸みを帯びていた胸が歪む。それを見ているだけでいやらしい気分になってくる為、両腕を額にのせ目元を覆う。
「全部見せろ」
頼む、と最後に付け加えたところで、前の台詞の強制感は打ち消されない。これ以上何を見せろというのか。顔が見えない方が誰かの姿と重ねやすいだろうに。
胸がぐにぐにとカタチを変えられれば、それに伴って周囲の皮膚が引っ張られる。胸の下あたりにある治りかけの傷も、皮膚を引っ張られれば痛む。
「それ痛い」
「痛いだけか?」
いつも涼しい顔をしているこの男が、獣のように欲求だけを追いかける姿はみていてくるものがあるが、ようやく塞がってきた傷口を開かれたら堪らない。腕を掴み、待ったをかければ、ぴたりと動きが止んだ。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、真意を探るように瞳の奥を覗き込まれぎくりとした。感じているのが苦痛だけではないことを見抜かれたのかと思った。
「いや、何でもねぇ。今日はこっちだけにすんな」
押し黙っていれば、轟は案外あっさりと身を引いてくれた。傷がない方の胸をそっと撫でられた。どうやら行為自体は止めるつもりはないらしい。
我が物顔で私の脚の間を陣取っていた轟は、膝の頭を濡れそぼつソコにぐりぐりと押し当ててきた。布越しであっても敏感なそこは僅かな刺激も拾ってしまい、下腹部にどうしようもない熱が渦巻く。
今日はシないのだと拒絶するタイミングはとうに過ぎた。せめてもの悪あがきとして、轟の首裏に腕をまわして引き寄せ、肩口に歯を立てた。この期に及んで自分のものであるかのように振る舞う女に愛想を尽かしてくれないか。
これだけ深く痕を残したのだ。数時間前に私を抱いた腕で他の女を抱くなんてことは出来ない。最低でも一週間は私だけに囚われるだろう。私の身体を思い浮かべ、自分の右手と仲良くすればよいのだ。
きっと私は、ルージュを相手のポケットにしのばせる女よりも、ずっと苛烈だったようだ。
「珍しいな、こういうことすんの」
ざまあみろ。心の中でそう呟こうとしたが、轟の肉声に遮られる。歯列が分かるほどくっきり残った痕を満足気に撫でてから、「もっとするか?」だなんて聞いてくる。
嫌がって欲しい。そうすれば諦めがつくというのに。勘違いをしそうになる。
思考を中断させるようにスマホが着信を知らせた。仕事に関する連絡は着信音の種類を変えている。それは轟に代わって私が設定してあげたから確かだ。友人からの連絡はバイブレーションのみ。
「……轟、電話」
試すように、着信について触れる。一般的にはまだ就寝には早い時間帯とはいえ、この時間にかけてくるだなんて、急ぎの要件か、親しい相手に決まっている。轟の場合は後者だろう。
このまま電話を取らずにいてくれたならば少しは希望があったかもしれない。
「悪りぃ、少し出てくる」
「ごゆっくり」
しつこく鳴り続けるスマホを片手に轟は寝室を出ていった。目の前にすぐ喰らえる、いわば据え膳状態の女がいるというのに、彼は電話に飛びついてしまった。
さんざん刺激を与えられて馬鹿になりかけていた頭が理性を取り戻していく。濡れた下着がつめたくなり、身体を冷やした。不快だったが、起きあがる気力もなくて、布団にくるまった。
手だけを布団の外に出して、スマホを探る。寝室にスマホを持ち込まないというルールを設ければこのような事態にもならなかったのだろう。しかし、お互いにヒーローであるため、いついかなる時でも備えておく必要がある。これからセックスをするという場面でもスマホを寝室、しかもすぐに取れるように枕元に置くのは致し方ないことだと割り切っている。
あちらが先にムードを壊したのだ。文句をいわれる筋合いはないと開き直り、私も電話をかける。
「お疲れ様です」
「オフだというのにそちらから連絡をくれるとは珍しい」
「明日出勤するんで仕事ください」
「……何かあったようだが、深くは聞くまい。それに話したいこともあったから丁度良い」
つながったと同時に名乗りもせずに挨拶をした。いつもならばくどくどと礼節について説くジーニストも、私からの連絡は意外だったのか小言よりも先に驚くような反応をした。待ちに待ったオフだというのに、仕事をまわせと交渉してきたことから、何かあると察してくれたようだ。余計な詮索はせずに、待っているよ、と柔らかな声で応じてくれたジーニストに「ありがとうございます」と短く感謝だけ伝えて電話を切る。
隣の部屋からは、内容までは分からないが、轟のわずかに弾んだ声が聞こえた。スマホをベッドの上に放り投げた私は、頭まですっぽりと布団に隠れた。
「思ったより時間かかっちまった」
いつになく殊勝な態度で詫びる轟に背を向けたまま空寝をしていれば、布団の上から腰のあたりに腕がまわされ、抱き寄せられる。
「待たせて悪い。なぁ、顔見せてくんねぇか」
被っていただけの布団は簡単に剥がせるはずなのに、こちらの出方を窺う轟が憎らしい。
「入っていいか?」
「聞かないで」
「お、寝てるかと思った」
「……待ってない。私も電話してたし」
「なら良かった」
顔を見せてくれという要求を一度引き下げ、布団に入って良いかと確認してきた。朝方は冷え込むというのに、布団に入らずに夜を明かすというのか。ヒーローとして身体は資本だというのに。
勝手にしてくれという意味を込めてぶっきらぼうな返答をすれば、轟は驚いたような反応をした。寝ている相手にあれだけベラベラ喋りかけるなんて、やはり轟はズレている。
期待して、大人しくベッドの上で待っていただなんて思われたくなくて、不要な説明をする。そろそろと布団に入ってきた轟は、片側を下にして横になる私の髪をかき分けると、うなじあたりに鼻先を埋めた。良かっただなんて穏やかな声で言わないで欲しい。私だけが悦んで、期待していたみたいだ。
「ナマエ、明日……」
「明日仕事入った」
どうせ明日は例の女と過ごすため出掛けるとでも言いたかったのだろう。先ほどの電話はその約束を取り付けるためのものだったのではないか。ここまで予想ができている内容をわざわざ聞くのも時間の無駄のような気がして、言葉をかぶせた。いや、時間の無駄だなんて後付けの理由だ。ただ単純に轟の口から聞きたくなかっただけだ。
「さっきのってその電話か? こんな時間に急ぎじゃねぇ連絡ってするもんか?」
「轟こそ、さっきの電話、急ぎの用だったんじゃないの」
「いや、そういう訳じゃねぇんだ」
夜中に緊急の出動要請がかかることだってある。深夜であろうと早朝であろうと仕事の連絡はあるが、緊急の場合に限る。急ぎでない用件は次の出勤の際か、メールで伝えられる。だからこそ、仕事の電話があったというのに呑気にベッドに寝そべる私の姿をみて不思議に思ったようだった。
轟と一緒にいるのが辛くて、明日の仕事を入れてもらったのだ。身体に鞭打ちってでも、慌ただしく部屋を出ていく演技くらいすればよかったかもしれない。
妙に鋭い轟の追及をかわすために話題を逸らす。ただ、逸らし方を間違えた自覚はある。女の存在を頭の隅に追いやろうとしていたのに、急ぎの要件でなくても飛びついたことから、女が轟の中を大きく占めていることを理解させられた。
「明日少し出掛けてくる」
身体の一部をどこかに置き去りにしてきたかのような不安と、先ほどまで善がっていた事実をつきつけるような下着の冷たさによって増幅された虚しさが襲ってきた。もう轟の声に反応を返すことができなかった。
「もう寝るか?」
シーツに顔を押し当て、もれ出しそうになる嗚咽を押し殺すことしかできなかった。