荷物を取りに自宅に戻れば、玄関には轟の靴があった。靴箱をのぞいてみても見覚えのある靴ばかりで、女を連れ込んだ形跡はない。てっきり夜まで恋人と過ごすのだろうと思っていた為、あまりにもはやい轟の帰宅に勘繰ってしまった。
「お帰り、早かったな」
「ただいま」
大きな反応は見せなかったものの、肩を跳ねあがらせ、目を僅かに見開いた様子から、予想外の帰宅に驚いていることは明白だ。
リビングを通り過ぎて自室へと向かえば、轟はペタペタと間抜けな足音をさせながらついてきた。スリッパを履けばいいのに、幼い頃から和室に馴染みのある轟は裸足の方が落ち着くようで、足裏をフローリングに貼りつける音をいつもさせている。忠犬のように、律儀に扉の前で待つ轟を招き入れることもなく、背を向けたまま準備に取り掛かる。
「またどこか行くのか?」
「荷物取りに戻っただけ。すぐ出る」
「……仕事、なんだよな?」
私の私物は案外少ない。その殆どが衣類と化粧品だ。旅行用に購入したボストンバッグ一つで片付くような身軽さだ。
不安を滲ませたような声が、しんとした部屋の空気を揺らした。プロになれば極秘任務もあるだろうし、仕事については互いに詮索しないというのが暗黙の了解のようになっていたのだが。
それ以外に何があるのだと言いたかったが、今回の一件はエンデヴァー事務所が大きく関わっている。独立したとはいえ、エンデヴァー事務所に所属していたこともある轟に仔細を話すことはできない。「まぁ」と曖昧な音を返し、轟の横を通り抜けてリビングに向かう。
テーブルの上に置かれていた複数の紙にちらりと視線を向ければ、轟は慌てた様子でそれらをかき集めた。
「……これは、違ぇんだ。いや、違くはねぇんだけど」
「いいよ、別に興味ないし」
一軒家、マンションなど物件の情報が載っていた。どうやら今日出掛けていったのはこの為らしかった。
──愛の巣にふさわしい場所を探しに行ったのだろう。新築という文字が憎らしい。
この部屋は、高校卒業と同時に轟が契約したものだ。身の丈にあったといえば聞こえはいいが、新人の給料でも借りられた2LDKの部屋は、壁が薄く、床は軋んだ。
あの頃とは懐事情が違うのだから、新築駅近セキュリティ万全の物件を選ぶのは当然だろう。しかし何だか負けた気分だ。
苛立ちをコンセントにささっていた充電コードに向け、雑に一纏めにする。
轟の横を通り過ぎようとしたが、二の腕のあたりを掴まれ、阻まれてしまった。
「ナマエ、指のやつ……」
途中で言葉を切ったが、轟の言わんとしたことは彼の困惑が混じったような表情から容易に想像がついた。右手の薬指に、通信機をつけたままだった。ただの通信機ならば良かったのだが、ジーニストから身につけろと支給された通信機は指輪の形状をしていたのだ。
「昨日までつけてなかった。今日出かけたのって、本当に仕事だったんだよな……?」
面倒なことになった。任務に関係する情報は口外することができない為、誤解している様子の轟に弁明することもできない。
形のよい眉が不機嫌そうに寄せられていたし、目つきは険しいものに変わり、二の腕をつかむ手にも力がこもっていた。機嫌は最悪なようだ。
新しいコスチュームだとでも説明しようと思ったが、鳴り響いた着信音に遮られた。
「クソ、タイミング悪すぎんだろ」
「急ぎなんじゃないの」
着信音を別なものに設定している為、画面を見ずとも分かる。エンデヴァーからの連絡だ。轟のズボンのポケットからスマホを抜き取り、押しつければ、渋々だったが応答したようだった。
「いま取り込んでるから手短に……は? それどういうことだよ」
不機嫌さを隠そうともしない轟の声がさらに低くなった。一度耳から離して、何か操作をした轟は、画面をみた瞬間に顔を強ばらせた。切る、と一言呟いて通話を終了させた轟は、恐ろしいほど静かだった。
「轟?」
「ナマエ、それジーニストからなのか」
「もしかして今の電話ってこれについて?」
「あぁ」
表情から感情が読み取れない。不安になって名前を呼べば、ゆっくりと視線が向けられて、ようやく目が合った。エンデヴァーからの連絡はこの通信機についてだったようだ。
なぜ彼から轟に報告がいくのかは分からなかったが、説明する手間が省けたようだ。「そう」と短く肯定すれば、なぜだか轟は絶望のような色を滲ませた。
「嘘だよな?」
「こんなことで嘘つかないよ」
「それ本気で言ってんのか」
「なに怒ってるの」
掴まれていた腕が軋んだ。通信機はジーニストから受け取ったものだ。そのような些細なことで嘘をつく必要はないし、メリットもない。それは轟も理解しているはずなのに、なぜこんなにも怒っているのだろうか。
自分がいかに馬鹿力なのか自覚して欲しい。腕を振り解きたくとも、びくともしない。観念して轟と向き合うしかない。
「じゃあ、ジーニストと婚約したって本当なのか」
「どうしてそうなるのよ」
「……指輪、受け取ってんじゃねぇか」
ジーニストと婚約した? 誰が?
轟は何を言っているのだ。エンデヴァーから通信機について報告を受けたわけではないのか? いや、もしそのように報告を受けたならば、未だに指輪だと誤解しているこの状況はおかしい。
私がジーニストから指輪を受け取った、その情報だけが流れているということか。訂正をするには、この指輪の正体について明かす必要がある。通信機だと知られれば、何か極秘の任務についていることについて悟られてしまう。それは困る。
「指輪は受け取った。けど婚約とかそういうんじゃない」
「じゃあどういうんだよ」
バキッと嫌な音が響いた。薄い壁に穴が空いていた。轟が感情の昂りのままに拳をぶつけたのだ。
壁を破壊したことでさすがに冷静になったのか、轟は「悪りぃ、間違えた、そんなつもりじゃなかった」とバツが悪そうな表情をした。
力が弛んだのを感じて、思い切り腕を振り払う。
「とにかく! 轟には関係ない」
「は?」
なぜ私ばかりが責められているのか。腹のあたりで渦巻いていた苛立ちの感情が、声にまで表れてしまった。
言葉選びを間違えた、と思った時にはもう手遅れで、口の中に戻ってはくれなかった。今日何度目かの轟の低い声だ。
「何年も一緒に住んでんのにか」
「そっちだって隠し事してるくせに」
「何だよそれ」
「自分の胸に聞いてみたら早いんじゃない?」
何年も一緒に住んでいるのに隠し事をしているのは轟も同じだ。彼も恋人の存在を隠していたではないか。それもプロポーズを決断するほど本気の相手だ。
私の場合は誤解だが、もし私が本当にジーニストからプロポーズを受けていたとしても、轟は人のことをとやかく言える立場ではないだろう。
「もう振り回されるのは散々」
「そんなふうに思ってたのかよ」
はじめから振り回されてばかりだった。高校生活も、この共同生活も。惚れたもん負けとはよく言ったものだ。何を言われても、どのような仕打ちを受けても、愛おしいと思えてしまい、全て受け入れてしまうのだから。
ずっと側で、多くを望まずに生きてきたのに。その行動の背景にあった気持ちすら疑われるなんて、あんまりだ。
仕舞い込んでいたボストンバッグの中に荷物を詰め込む。リュックに詰めていたものも、全部だ。
「……任務だけならいつもの鞄で足りるだろ」
「任務だけならね」
「どこにも行かねぇって……」
「言ったね。そのつもりだった。でもずっとこのままでいるのは無理だったんだよ」
旅行なんて随分と行っていなくて、埃をかぶっていたボストンバッグを出してきたその意味を理解したのだろう。轟が怒りを収め、困惑をあらわした。
任務だけならばリュックで十分だ。でも私の私物はボストンバッグ一つの量なのだ。
また轟は迷子の子どものような顔をしているのだろうか。しかし、これ以上関係を続けることは出来ない。
耳のふちを撫でながら、高校時代にピアスを開ければ良かったかななんて考える。そうすれば、片方をどこかに隠すだなんて、未練がましい恋人がする定番のアレができたのに。しかしここに戻る理由をつくってはいけない。きっと気持ちが揺らいでしまう。
「どこ行くつもりなんだよ」
「轟のいないところ」
「……行かせると思うのか」
「手、離して」
長い間過ごした家だというのに、この家にあった私の痕跡はボストンバッグ一つに収まってしまう。今日のこの日が、いつかくると分かっていたようだ。
肩にかけたバッグは案外重くて安心した。轟は、通り過ぎようとした私の手首を掴んだ。
「もっとはやくこうするべきだったんだよ」
「行かないでくれ、好きだから」
「轟のその気持ちは、きっと違うよ」
繋ぎとめる為に吐く”好き”は、ただの依存心からだ。
「それは勘違いなんだよ」
「好きだ」と「違ぇ」を壊れたラジオのように繰り返す轟の手はあっさりと解くことができた。
「電話鳴ってるよ。良かった、今度は仕事の連絡だった」
リビングから音がした。仕事の緊急連絡を知らせる着信音だ。
彼女からの着信じゃなくて良かった。嫌味ではなく、自然と安堵してしまったくらいに私は轟が好きだった。きっと喉から手が出るくらいに。
この良かったの意味を轟が知ることなんてないのだろうけど。