外はすっかり冷え込む中、学園内は不思議と過ごしやすい気温だった。期末テストが近づいている。寮長はやたらと気合いが入っていたらしく、さりげなく何事かと聞いてみると、寮長の作ったテスト対策ノートをそれを望む生徒に配布する代わりに対価をもらう“契約”をするそうな。期末テストです! なんて意気込んでいるのを見たときは、余程勉強熱心なんだなあ、としか思わなかったけれど、何かを企んでいるのならそれも納得だ。「詳細はいずれわかるでしょう」と言った寮長だけれど、オクタヴィネル寮生たるものこの期末テストに関して手は抜けないらしく。
「ナマエさん、テスト勉強の調子はどうですか?」
「……それ聞きます? ……魔法史とか古代呪文語とかがどうも……頭に入りきらなくて」
「トレイン先生の授業ばかりですね」
すっかり恒例とも化してしまっていた、寮長たちと朝食をとることなのだけれど、フロイド先輩はまだ眠いらしくぽやぽやとした様子で口にパンを運んでいる。寮長は対照的に栄養バランスが考慮されたメニューを選び、三角食べをしている。この食べ方、エレメンタリースクールでしか見たことないなあ。
副寮長の言う通り、私はトレイン先生の授業が苦手なのだ。ただでさえ暗記科目が苦手だというのに、加えてあの眠さと先生の厳しさだ。きっと穴埋めなんて単純なものではなく、論述なんかをさせられるのだろうなあ、とコーンスープを口に運んだ。古代呪文語なんて冒険するんじゃなくて、エペルが楽だって言ってる占星術にすれば良かったなあ。それか同じ言語でも動物言語学なんかの方が役に立ったかもしれない。今更遅い後悔が募りに募る私の隣にいる副寮長は、私の食べている二、三倍の量が盛られたお皿を何食わぬ顔でまっさらにしていく。
「ナマエさん、僕と取引しませんか?」
「取引……?」
「ええ。あなたも他の生徒同様、僕がテスト対策ノートを渡す代わりに得意魔法を担保として預けてもらいます。五十位以内に入らなければ僕のもとで永遠に働く……というのが条件ですが、ナマエさんは働きものですしうちの寮生だ。もう少しお安くしておきますよ」
いずれわかるでしょう、の内容がこんなに早くカミングアウトされることがあっただろうか。しかもこの内容で取引に応じる生徒って、なかなかの自信家か相当な馬鹿だ。もしかすると私相手だからデメリットを大きな声で言っているのかもしれないけれど、だからといって寮長は人を騙すような真似はしないし。というか、こんな話クラス内でも回っていなかったけれど、皆どこから仕入れるのだろう。均等に切られたバケットをスープに浸して口に入れ、それを飲み込むと寮長に向き直した。
「私は応じません。自分で五十位以内に入り……ます」
「それは頼もしい。しかし随分自信がなさそうだ」
「う……やっぱり暗記系が怖くて……」
そう言って項垂れる私を見て、「おやおや」といつもの調子で笑う寮長と副寮長。二人とも普段の会話からわかるけれど、頭良さそうだもんな。期末テストの内容に飛行術があればまた別だったかもしれないけれど、あれは授業内試験で終わってしまうし、総合得点には加味されない。そういえばエペルも魔法史、駄目そうだったなあ。いつも浮かない顔をして挑んでいるもの。
早くもテストまで二週間を切ってしまったので、そろそろ暗記系は詰め込まないと流石にまずいと考えた私はうーん、と唸っていると、パンをひたすら噛んでいたフロイド先輩が喉を鳴らして、寝ぼけ眼でこちらを見た。
「ねー、ナマエちゃんの勉強、オレが見てあげよっか?」
「えっ」
「オレも一年の魔法史くらいならできるし……別に魔法薬学とか魔法解析学とかも見れるよ?」
「まったく……お前はナマエさんにとことん甘い」
頬杖をついて眠気に蕩けた瞳でこちらを見るフロイド先輩を見た寮長は、やれやれと首を振ってフォークを手に持った。わあ、寮長のベーコンエッグは半熟でいいなあ。ナイフで切り込みを入れると卵が溶け出した。
それにしてもフロイド先輩が勉強ができるなんてイメージは失礼ながらなかった。普段のふわふわ、というかふにゃふにゃした喋り方と機嫌の上下からして、けれど仮にもオクタヴィネル寮生だからその点は未知数に感じていた。機嫌の上下というと、副寮長は「最近のフロイドの機嫌はずっといいですよ」なんて言うけれど。
「お願い、していいですか? あ、でももしかして何か対価を払わないと……」
「いや別にいらねーけど。どうしてもって言うなら、払ってくれてもいいよ?」
「いえ! お言葉に甘えさせてください……」
フロイド先輩が私に甘いのは、本当にそうだと思う。もしおもちゃだと思われているにしても、気に入られてるんだなっていう自覚はあるし、いつもフロイド先輩が私に向けてくれる目が何より物語っている。寮長と副寮長は決して私に甘いわけではないけれど、こうして朝食に誘ってもらえるので贔屓されていないこともない気がする。もしかしてこれが女子故の特権というやつかしらと思ったけれど、何も言わないことにした。
「ジェイド、フロイド。今回はお前たちにも五十位以内をとってもらわないと困ります。ジェイドはあまり心配していませんが……」
「フロイドはその日のやる気次第ですからね」
副寮長いわく、フロイド先輩はやる気次第でテストの結果が〇点にも百点にもなり得るそうなのだけれど、それってなかなか激ヤバでは? あまりにもギャンブルが過ぎる。そのときの気分が良かったり面白かったりすれば満点が取れて、面白みを見出せなければ白紙で提出、だとか。今回私たちに五十位以内をとってほしい寮長の目的は、性格の悪いことに五十位以内が増えない……つまり寮長にこき使われる生徒を増やすためだそうだけれど、そんなにムラのあるフロイド先輩は無事に五十位以内に入れるのだろうか。そんな私の心配なんてよそに、フロイド先輩は私のことをにこにこと見ていた。
◈◈◈
テスト一週間前でも三日前でも前日でも関係がないといったふうに、モストロ・ラウンジは営業していた。学園内の客は少ないと思えば、何やら寮長に用件のある生徒が数人、数十人……いや、数百人といっても過言ではないほどに絶え間ない行列が作られていた。おかげでラウンジのフードやドリンクを出すような忙しさはなかったのはあるけれど。
「……フロイド先輩」
「ん? なぁに?」
「テスト勉強のこと忘れてません?」
どうせ飲食目的での客はもう来ないだろう、と締め作業に入り、食器を洗いながら先輩に投げかける。前日でも、というのは流石に例にあげただけであるが、とっくに期末テストまで一週間を切っていた。私も休み時間やラウンジ開店までの間に勉強はしているけれど、結局得意な科目に逃げてしまって苦手科目に手をつけられない。ブラックバイトだ! ストライキを起こしてやる! というのはもちろん冗談だけれど、このままでは五十位以内だなんて夢のまた夢だ。じっとフロイド先輩をわかりやすく睨むけれど、そんな先輩はものともしない。
「えー、テストなんて勉強しなくても満点取れるくね?」
「気分屋さん! 天才! 私は取れないんです!」
というかそれができるのフロイド先輩くらいなのでは? 特に嫌味を言っているでもなく、平然とした顔で疑問として投げかけてくるのがさらに腹立たしい。いつもならすごいなあ、多彩だなあ、なんて感心で終わっているのに、テスト前と五十位以内をとると言ってしまったプレッシャーに後悔、さらにはフロイド先輩が頼みの綱だけあってこの調子なのでストレスが溜まってしまっていた。フロイド先輩から顔を逸らし、洗剤をスポンジで泡立てながらいかにも不機嫌ですよ、というように頬を膨らますと、両頬を大きな片手で挟まれた。
「あはっ。今の顔かわいいね」
「ひゃめてくだひゃい」
「いいよ。明日はシフトないでしょ? オレも空けてもらうから、放課後に二階の空き教室ね」
ぶりっ子をしたつもりは実際にあったので、別にかわいいとか言われても驚きはしないし、それよりも変な顔にされたことを早くやめさせたかった。というかシフト把握されてるの、なんだか怖。と思ったけれど寮長と副寮長と仲が良いからそのへんも携わっているのかなあ。とてもそうは思えないけれど。無理やり顔を横に向かせられると、フロイド先輩のオッドアイと目が合った。最初は怖かったけど、この距離感が普通になってしまったなあ、なんて。しかし気分屋のフロイド先輩だ。念を押すように、確かめるように「本当ですよね?」と眉をひそめると手を離して、小指を立てた。
「はい、ゆびきりげんまん」
「ゆびきり、げんまん」
泡を落とすべく、さっと水に手をくぐらせると、濡れたままの手でフロイド先輩と小指を結んで上下に揺らすと、目の前の人魚はぶんぶんと上下に振った。無邪気な子どもみたいでかわいい、とも思うけれど、これを見ている寮生はどんな気持ちなんだろうな、と冷静にも考えてしまった。
◈◈◈
「はい問題。『かつて活躍した海賊の左手がフックの理由を答えよ』」
「えーっと……『大人にならない少年によって切り落とされたから』……?」
「ん、ほぼ模範解答。やるじゃん。『ワニに食べさせたから』もあると安心かもね」
私はどうも教科書をすべて理解しようとするのがいけないらしく、フロイド先輩が要点だけ見極めるようにそのコツを教えてくれると、思った以上にするすると頭に入ってきて、一時間前まではできなかった簡単な一問一答も記述問題も八割方正解している。多分、フロイド先輩が教えるのが上手い。生まれ持った天才肌もあると思うけれど、要領も良いんだろうな。
「簡単でしょ? 魔法史って眠いけど、たまに面白い話もあるし。この調子で覚えたら、アカイカせんせぇのテストならそんなに苦労しねぇよ」
へえ、トレイン先生はアカイカなんだ。服装だけだろうけれどちょっと納得。ここまで聞いてきた金魚、ワニ、アカイカの中なら一番納得かもしれない。シルバー先輩のことはクラゲって言ってたっけ。フロイド先輩の名付けたあだ名を新しく聞くのは何気に楽しかったりするんだよね。
とりあえず魔法史にはなんとなく光が見えてきたから一旦終わり、というかたちにすると、前に座っていたフロイド先輩は私の方の机にべたー、と伏せていた。講義用机で、段になっているにもかかわらずこの腕の余りよう、やっぱり腕が相当長い。お疲れかな、眠いのかな。かれこれ一時間魔法史に付き合ってもらったし、この季節もあって外も暗くなってきてしまった。
「あの、お疲れですか?」
「ん? あー……正直ねみぃ。でもまだやるんでしょ、古代呪文語」
「やり……ますけど。おかげさまで魔法史はなんとかなりそうだし、飽きたならもう帰ってもらっても大丈夫です」
このままでは教科書を使いながら読むのが精一杯な古代呪文語が足を引っ張るだろうが、五十位をとるためには死に物狂いで勉強するしかない。本当にありがとうございます、と言うと、帰る準備をするでもなく、自身の腕を枕にするように顎を乗せたフロイド先輩がこちらを見ていた。不機嫌そうだとか、あの甘くて穏やかな笑顔とかでなくて、ただ何かを考えているような表情をのせたままに。思春期の男の子でこんなに肌が綺麗なことってあるだろうか。相変わらず透き通った肌だなあ、と見惚れていると、フロイド先輩が口を切った。
「ちょっと飽きたけど、別に教えてあげてもいいよ」
「えっ、こ……優しいですね」
「は? いつでも優しいだろ。……あー、でも条件付き。ナマエちゃんが前みたいに頭撫でてくれたら教えてあげる」
「……前?」
前って、なんだろう。必死に入学からの記憶を頭の中でリプレイしてみるけれど、思い出すにも限度があるし、何よりフロイド先輩に撫でられることは多々あるけれど、私から撫でるだなんてインパクトの強い出来事を忘れているはずがない。顎に手を添えて必死に思い出す様をフロイド先輩は、意地悪な笑顔で見つめている。……ひとつだけ思い当たる節がないこともない、けれど、あの日のことはなんとなく、私の行動から何から思い出したくない気がした。
「なに? してくれないなら帰るけど」
そうして身体を起こしたフロイド先輩は、前を向き直そうとしたのだけれど、それを止めたのは私だった。待って、とか、予告の言葉なしに柔らかそうなトルコ石を映したみたいな髪に触れて、すっと手櫛を通すように撫でた。こんな感じ、だったっけ。もしかしてフロイド先輩って、甘えたさんなのかな。見ている人は周りにいないのに、どうしてだろうか恥ずかしい。古代呪文語の分厚い教科書の臙脂色をした表紙を見たままに撫でて、数秒後にこわごわと視界の端に映り込んでいたフロイド先輩を見ると、予想外。にやにやでもにこにこでもなくて、驚いたようにぽかんと口を開けて相変わらずの凶暴な歯を覗かせ、金色の特徴的な瞳を真ん丸にしてこちらを見ていた。揺れるピアスは波のような音を鳴らし、肘をつけていた腕の先、手のひらは中途半端に開いたままだった。
「……? フロイド先輩?」
「……気分上がってきちゃったぁ。でも古代呪文語の気分でもなくなっちゃったなぁ」
私の呼びかけを聞いていつもみたいな柔らかい、けれどどこか煽りの片鱗を見せる表情をすると、頭に乗せていた私の手を掴んだ。教えてもらうためにお願いを聞いたんだけどなあ。
その後、満足気なフロイド先輩に古代呪文語の気分にさせるまで、色々な言葉で誘惑してみたりと、攻防戦のようなものが続いてそれなりに大変だった。