ふらふら、おぼつかない歩み。オクタヴィネル寮生のマジカルペンについた魔法石は白色だから、ブロットの蓄積量がわかりやすい。魔法が少し使えるだけの私には、やはり先程の魔法は重かったようで、インクの染みが数滴分ほど、広がっていた。
鏡舎からオクタヴィネル寮に抜けるため、鏡に向かって飛び込むと、何やら壁に当たったようだった。壁にしては小さくて、壁にしては柔らかい。もちろん魔力を消費したこともあり、簡単によろけては尻もちをつく。こんなにも体力がないけれど、きっとナイトレイブンカレッジに入る前よりは格段に魔力量も、体力も増えているのではないだろうか。きっと以前なら、五人も一気に相手にすればこちらが倒れてしまっていただろうから。魔法は筋肉から、はあながち間違いではないのだと思う。
ぼんやりと、壁に跳ね返されてから地に着くまでの間で思考を巡らすと、私が壁の正体を確かめようと上を見るより先に、軽い声が耳に入った。
「おわっ、大丈夫ッスか?」
「……あ、大丈夫、です。……ラギーさん?」
オクタヴィネル寮に抜けてすぐにぶつかった壁の正体は、サバナクロー寮所属のラギーさんだったらしい。その隣には……あ、エペルが憧れている寮長さん、確か、レオナさんがいる。
ラギーさんと出会ったのは、入学して一ヶ月も経たない頃だった。毎日のようにモストロ・ラウンジで働いていた、確か部活を決める前。ラギーさんはうちの寮生でないにもかかわらず、何度かお手伝い――バイトに来ていたのだ。一時的なヘルプかと思っていたけれど、手際の良さが三年生の先輩と引けを取らず、むしろ率先していたので、すごく印象に残っている。かわいい耳とかわいい尻尾を、密かに盗み見ていたりもしたのだ。
「怪我はない? ……って、ふらふらじゃないスか」
「ありがと、ございます……えっと、ラギーさんはラウンジのお手伝いですか? 特に人手には困っていないはずなんですけど……」
通常、他寮の生徒が入ってくることは、オクタヴィネル寮ならば珍しくない。モストロ・ラウンジの利用客であったり、ラギーさんのようにバイトだったり、寮長と契約を結びに来たりと色々な寮の生徒が訪れるからだ。しかし、ラギーさんが客として来るとは思いづらく、また、レオナさんなんてオクタヴィネル寮で見たのは初めてだ。校舎内ですらすれ違わないのに。
私を支えたラギーさんは、私の問いかけに対してレオナさんと顔を見合わせると、同時に笑った。もっとも、レオナさんはにやり、と、うちの寮長や副寮長とは少し違う怪しげな、何かを企てるような笑みを浮かべた。
「今日はモストロ・ラウンジの客として来たんスよ。ね、レオナさん」
「ああ。何やらうちの寮生たちもよく働いていると耳にしたもんでなァ」
「へ、へえ……」
私にずい、と顔を寄せてくるレオナさんからは、彫刻のようなお顔に似合わない石鹸の香りがした。シンプルに、顔面が強すぎる。それに加えて、フロイド先輩のせいで慣れてしまったし、私だって時折エペルなんかに対してバグを起こすことはあるけれど、男子校だからなのか距離が近い人がまあ、多い気はする。キュートなお耳をぴくぴくと動かしたレオナさんは、私の面白みのない相槌を聞いては引いていった。サバナクロー寮生ももちろん寮長の支配下に置かれているから、働いているけれど、まあ、手はそれなりに抜いている。いた方が役には立っているけれど、ただただ邪魔なときすらある、なんてサバナクローの寮長さんを前にしてはとても言えるはずなんてない。
ラギーさんに腕を支えられたまま、それをすっと離そうとすると、先程よりは幾分かマシになったけれど、やはり魔力量に対して少し無理をしてしまったのか、身体が重い。
「おっと、無理は禁物ッスよ」
「でもラウンジ、もう開店時間ですし……少し休めば動けると思うので」
「頑張り屋さんッスねぇ。オレたちもラウンジ行くんで、中まで送りましょうか?」
「う、……すみません、お客様にお手を煩わせてしまって」
「いーえ。どういたしまして」
シシシッと息だけで笑うラギーさんは、ひょい、と私の片腕を肩へと乗せた。まさか肩を貸してもらうことになるだなんて、と俯きつつもラウンジ内へと向かう。レオナさんは何故か私たちの数歩先をすたすたと歩き、ライオンみたいな尻尾が控えめに、左右にゆらゆら揺れる。猫みたいで、レオナさんの尻尾が一番かわいいかも。耳も小さいし。でも隣の、ラギーさんの耳もやっぱりかわいさだと強いんだよなあ。そう思って私に肩を貸してくれているビスケットブラウンから主張するふわふわの耳を見ると、ブルーグレーの優しそうなたれ目がこちらを向いていたような気がした。
◈◈◈
いつもは開店前に着いているのだけれど、あの一年生集団の妨害に時間を費やしたこともあり、少しだけ出勤が遅れてしまった。だから、まさかラウンジ内がこんなことになっていると思わなかった。
「早くドリンク持ってこいよ!!」
「あ? お前のそれオレに寄越せ!!」
フロア内はまさに混沌。開店直後だと思えないくらいに混雑していて、しかもその大半――いや、全員がサバナクロー寮生だった。サバナクロー寮生が客ともなると、私だって相手するのは気が引けるし、きっと寮生たちだってそうだ。フロイド先輩のように絞めてくれる人だっていないし、何気なく神経を逆撫でしてくる副寮長だっていないから、皆どうすれば良いのかわからなくなってしまっている。オクタヴィネル寮生の庭のはずのモストロ・ラウンジで、オクタヴィネル寮生が使われている、だなんて。
ハッとして、しかし未だ私を支えたままのラギー先輩を見ると、「すごいッスねぇ……」のひと言。わざとらしすぎるようなその声を上げたハイエナは、これに関与しているのかしていないのか。彼のことをあまり知らない私にとっては知り得ないことだった。
「とりあえず、あそこのカウンター席に座っておいてください! あとでオーダー取りに来るので!」
「はーい。ゆっくりで大丈夫なんで!」
また特徴的な笑い声を上げたラギーさんの方を見ることなく、見る余裕もなく裏へと回った私は手早く、少し回復した身体の少ない魔力で自分に魔法をかけて寮服に着替える。そう、あくまでここはオクタヴィネル寮の支配下なのだから、オクタヴィネル寮生に従ってもらわないと――って、イソギンチャクたちは、どこに行ったの?
開店直後だからまだ来ていないだけ? そのままフロアに顔を出すと、やはり動いているのはすべてうちの寮生。こんなに異常事態なら、昨日や一昨日よりもイソギンチャクを使わないといけないはず、なのに。イソギンチャクの姿は一本も見当たらない。サバナクロー寮生がよく働いているどころか、迷惑かけまくりじゃない。というか、お客様としていらしていたはずのレオナさんはどこに消えたの? ついでに、カウンターに案内したはずのラギーさんも。混雑状態ゆえに見つからないだけかもしれないし、それをわざわざ探そうとは思わないけれど。
「……嫌な予感がする」
確証なんてものがあるわけではない。ただ少し、かなりではあるけれど、ラウンジ内の様子が変なだけなのに。胸のあたりがもやもや、ざわざわして落ち着かない。なるべく、サバナクロー寮生とも関わりたくない。
そう考えた私は、少し離れたところで傍観することにした。今ただでさえ手が回っていないけれど、人手が増えたところでさらなる混乱を招いては、揉め事が増えるだけだ。だから、下手に動くことをせずにただただ忙しないフロア内を見物した。まるで寮長になったかのように。
すると、いつもみたいな落ち着いた靴音ではなく、少しテンポの速い靴音が聞こえた。そちらに視線を向けると、間違いなく、この光景を見て驚かざるを得ず、目を丸くしたうちの寮長だった。誰かがこの手に負えない騒ぎを見て、寮長に助けを求めたのだろうか。
「オラァ! 早く飲み物もってこいよォ!」
「肉! 肉! ひゃははは!」
「テメーそれはオレが頼んだ肉だぞ!」
本当に、躾がなっていない。こんなに質もガラも悪い寮生の統率が取れているのだろうか、レオナさんは。流石に今の寮生たちに手が負えなくなってきてしまったらしく、遠くから見ていた私も慌ててホールに入る。するとキッチンの方から、もう今日の在庫が尽きそうだと聞こえてきたので、驚きと同時に溜息を零した。売上としてはありがたいけれど、それにしたって開店一○分経たずにこの状況は、やはりおかしい。
「私、買い出し行ってき――」
「な、ない! 金庫の鍵が、ない! まさか……まさか!」
このままでは他の客に出す料理が作れないと踏んだ寮長は、もちろんのこと急遽購買への買い出しを促す――予定だったのだが。私ともう一人、待機していた寮生に買い出しを頼もうとすると同時にポケットに手を入れると、今までに類を見ないほど顔を青ざめさせた寮長がいた。慎重派な寮長が金庫の鍵を紛失するだなんてとても考えにくい。誰かがお金目的か、それとも他の何か、寮長大切なものも入っているであろう、金庫を狙うために鍵を盗んだ?
バタバタと、初めてあんなにも慌てる寮長の背中を見ながら、私の脳内には一人、二人の人物の姿がよぎった。
あのライオンと、ハイエナか。
頭の中で、ギリ、と私の歯ぎしりする音が響いた。ラギーさんの手癖の悪さは時折小耳に挟んでいたし、廃棄予定の料理をこっそりとタッパーに詰めていたところだって見たことがある。それだけでは不確かな根拠だけれど、普段客として来ないあの二人が偶然にも契約満了の最終日である今日に訪れてきた。この場で騒いでいるのがサバナクロー寮生のみであることからしても、私の小さな頭でも推測することは容易だ。お金目的、だとしたら汚すぎる。サバナクローぐるみで、監督生と契約満了までの最終日。お金の他に厳重に、寮長が金庫に入れそうなもの……
「……契約書?」
◈◈◈
どうやらその読みは当たってしまったらしく、仕事を終えたかのようにその場からぱらぱらと去っていくサバナクロー寮生につられて、私も寮外へと出た。すると、ラギーさんとレオナさん、その向かい側には冷や汗をかいて顔を青く、完全に余裕をなくしてしまった寮長がいた。レオナさんの手には、ざっと見ても何百枚もの黄金の契約書が束ねられていた。
余裕の表情を映しては崩さないレオナさんと、囃し立てるように笑うラギーさんとは対照的に、これまでかというほどに焦った寮長。寮長のユニーク魔法は他人の能力を奪う類で、きっとあの契約書には今まで結んだ契約が書かれている。イソギンチャクだって、そうだ。レオナさんの能力には詳しくないけれど、彼も寮長クラスで、しかも三年。契約書を砂にすることなんて、容易い。
見るだけで何もできないでいるものか。回復には十分すぎる時間があった。私は思いきってあの契約書の束を横から奪おうと飛び出した。けれど、そんなのもう遅かった。
「寮ちょ、」
「う、嘘だ……やめろ!」
「――さあ、『平伏しろ!』」
寮長の今までで一番動揺した表情と、それから、レオナさんの手に、光が集まる。あの感覚は知っている。ユニーク魔法だ。ユニーク魔法を使って何をするかとか、そんな憶測なんて立てる暇なんてないほど、私だって必死だった。もちろん、間に合わずに、レオナさんは慈悲なんてかけるわけもなく、潔く口を開いた。
「『
それを唱えるとともに、数百枚の契約書はさらさらと、砂金のように、砂に変わった。文字通り、砂になって、海中に溶けていったのだ。もう、私にできることはない。イソギンチャクは解放された。監督生との取引なんてなかったことになるも同然だ。アズール寮長が今まで契約を通して奪った魔法だって、すべて元の持ち主に返った。いつも落ち着いて余裕があって、どこか胡散臭い寮長の顔は唖然としたまま動かない。これ、もしかして、まずいんじゃないの? 寮長は他人から能力を奪う前から、優秀な魔法士だ。そんな寮長が、あんな動物二匹のせいで暴れでもしたら、オクタヴィネル寮はめちゃくちゃになる。それどころか、もしかしたら――
「あ〜〜っ!!! もうやだ〜〜〜〜!!!」
「……えっ!?」
想像と違う、まさにギャン泣きだ。こんな寮長見るなんて思いもしなかったし、現に私だけでなくあの二匹も驚いている。
「ああ、もうすべてがパァだ!! なんてことをしてくれたんだ!!!!!」
暴走状態。寮内にいる、うちの寮生たちもこの騒ぎでわらわらと出てきた。これ以上騒ぎを大きくしてたまるか。契約書が砂に変えられたことでつい止まってしまった足を、再度動かして寮長たちのもとへ行く。先程よりも明確に、会話の内容が耳に入ると、どうやらラギーさんが寮長を宥めている最中だったらしく、あななたちのせいだろう、と舌打ちをしたい気持ちを半分だけ持っては私も同じように寮長を落ち着かせようとした。
「アズールくん。ほ、ほら、ちょっと落ち着こ、ねっ!」
「寮長、落ち着いて! 一旦冷静に――」
「うるせ〜〜〜!!!! お前らに僕の気持ちなんかわかるもんか!」
効かないどころか、遮られてしまった。効いていないし、きっと寮長だって私たちの言葉を聞く気がないのだ。寮長からは墨のような黒いオーラが溢れており、駄目だ、良くない気配がする。やっぱりこのままでは寮長自身だって危ない。寮長をこんな状態にしたサバナクロー寮の寮生なんかと手を取りたくはないけれど、寮長を落ち着かせるためならば一時的に手を借りることにもなる、かもしれない。本当はそんなこと望ましくないけれど。
これ以上寮長を暴走させないかを考えていると、寮長が一人溜まっていたものを吐き出したかと思えば、いきなり冷静になったように、真顔になっては、口先だけで笑った。
「寮長……?」
「……なくなったなら、また奪えばいいんだ……」
ぽつりと呟いた寮長自身の言葉で、ハッとしたように口角を徐々に上げながら、声量を上げては、さらなる言葉を吐き出した。
「くれよ、なあ、お前らの自慢の能力、僕にくれよぉ!」
それからは、オクタヴィネル寮特有の綺麗なエメラルドグリーンのラムネのような海が、寮長から溢れるオーラに支配されては濁っていく。まるでタコがその場に墨を吐きつけたように、濁って、毒々しい色へと変化してしまった。駄目だ、駄目だ。まだ一年生で経験不足な私でも、この状態が良くないことだってわかる。
「そこのお前の雷の魔法、その隣のヤツの運動能力全部、全部僕によこせぇ!」
「アズールくん、皆から何を吸ってんスか!? 吸われたヤツらが次々倒れていく!」
「アイツのユニーク魔法、契約書を介さないと他人からすべての能力を吸い取っちまうようだな」
「えっ!?」
確か今までは、得意魔法を奪うだとか、オンボロ寮だとか、もっと限定的なものだったはず。契約書でセーブして、契約書がこの場にないかつ暴走している寮長の手にかかればこうも恐ろしいことになってしまう、のだろう。そんなの、魔力の消費だって激しいし、ブロットだって溜まってしまう。そんなの、そんなの、
「アズール寮長っ――」
「ああ、ナマエさん。ください……ねえ、あなたの力も僕にください! くださいよぉ!!」
「ナマエちゃん!」
今の寮長は、おかしい。味方なんてする必要なんてないくらいに、暴走が止まらない。協力だってやむを得ない。
私の呼びかけなんて、小鳥が鳴いている程度のものだろう。寮長と付き合いだって短いし、副寮長やフロイド先輩とのような信頼関係が築けているわけでももちろんない。それでも少しでも、寮長の心に呼びかけることができたら良かったのに。そう考えたときには遅かった。
ラギーさんが私に手を伸ばして呼びかけたのと同時に、私の身体からは力が抜けて、そのまま後ろに倒れて、すべての気力が削がれた。私のユニーク魔法が、そのまま自分が返ってきたみたいに。
倒れて、そのまま硬い地面へと背中が叩きつけられるかと思ったら、背中には地面とも部屋のベッドともまた違う、柔らかいけれどしっかりとした感触があった。それから爽やかで少しだけ癖のあるマリン系の香りがふわ、と鼻のあたりをくすぶった。知っている、この匂いは。焦点の合わない目で薄らと捉えられたのは、私の顔にかかる少し長くてさらさらの髪と、控えめな潮騒、それから星みたいな金色の光。
それらの持ち主の名前を、ほとんど意識が離れた自分でもわかる、ところどころ掠れた声で呼ぶと、そのまま背にある優しさに身を任せるように脱力した。