珊瑚のゆりかご

 水の中で泡が立つのがわかった。
 静かな海中に私でない、けれど知っている名前を呼ぶ知っている声が小さく聞こえて、もう少し重い瞼を上げずにいたいのに逆らって持ち上げれば、少し離れた場所に見慣れた色がぽつぽつと散らされていた。小さく鼻に声をかけながら起き上がると、周りにも私と同じように、同じタイミングで起き上がる生徒が何人かいた。

「お、目覚ました」

 今度はしっかりと、私の名前を呼んだわけではないけれど、私に向けて放たれたその声に目を向けると、赤みがかった無造作ヘア。まだぼんやりとした意識で、しかし力が抜けているわけではなく、壁にもたれるかたちになっていた上体の支えをなくすと、もちろんその姿を認識することは容易だった。私が寮長の手助けをしようと妨害を二度行った相手の一人、エース・トラッポラ。けれどこの数日頭に生えていた紫色のイソギンチャクが綺麗さっぱり消えているのを認識すると、徐々に意識がはっきりとした。確か私、暴走してしまった寮長に力を吸い取られて、それで、フロイド先輩に支えられて、

「! ……寮長は、……っ!」
「おい! 無理すんなって」

 力は入るけれど、どうしてだか立ち上がるのは少し難しかった。ふらついて前に倒れそうなのを、トラッポラが私の腕を掴んで支えた。こうしてふらふらするのも入学して何回目だろう。弱いなあ、私。倒れる寸前の記憶にある、元いた場所からは離れているので、恐らく誰かが倒れた私を端の方まで運んでくれたのだろう。そういえば、私が意識を手放す前の黒い墨のようなものに染められた海は、すっかり何事もなかったかのように綺麗になっていた。トラッポラの肩越しに、向こうで数秒置きに、私の知っている名前――アズール寮長を呼んでいる声の主を見ると、囲うようにその場に座っているのは知っている面々だったけれど、その名前を呼ばれている寮長の姿だけが目に映らなかった。

「トラッポラ、ごめん、あそこまで行くの支えてくれない?」
「……しょうがねぇな」
「……ありがとう」

 あれほど妨害をして、心中ずっと彼らのことを舐めていた私には良い印象を抱いていないどころか、内心腹が立つであろう私に対して了承をしてくれたトラッポラに、なんだか馬鹿らしいというか、どこか申し訳ない気持ちに駆られた。イソギンチャクに関してはどう考えたって、自業自得だとは思うけれど。
 決して手を差し伸べられるわけではなく、肩を貸してくれるわけでもないトラッポラは、ただその場に立っていて、しかし私の方を横目に見ながらその場から動かずにいたので、真っ直ぐ下に伸ばされた腕を控えめに掴むと、ゆっくりと歩き出した。

「……寮長……!?」
「ナマエちゃん」

 おはよ、といつもみたいな柔らかい笑顔で小さく私に声をかけてくれたフロイド先輩の前には、数人が囲っていたその真ん中には、寮長がいた。眠っているのか、呼吸音は控えめながらも規則正しかった。何があったのかと、トラッポラから離れるとその場に座り込んで、周りと同じように寮長を覗き込む。何かあったのだろうか。魔力の使いすぎで疲れた? それにしても、事態はこうも収束している。じゃあ、何があったのだろう。ばっ、と顔を上げて周りの面々と目を合わせると、私の聞きたいことを察したのか、レオナさんがいつものごとく少しだけ怠そうに口を開いた。

「オーバーブロットだ」

 オーバーブロット。もちろんそのことは知っているし、私が先程のギャン泣きかつ魔法を暴走させていた寮長を見て最も懸念していた可能性だ。私のような魔力量が少ない魔法士には起こるリスクが少なく、そもそも魔導師レベルでないと滅多に起こり得ない、とミドルスクールでは教えられていたのだけれど、名門ナイトレイブンカレッジともなると、こんなことも起こってしまうのか。
 オーバーブロットは、命の危険を伴うものだ。こうして規則正しい呼吸をしていると考えると、サバナクローの人たちや、イソギンチャクたち、フロイド先輩や寮長がなんとか、暴走を抑えてくれたのだろうか。そんなの、心中馬鹿にしてきたイソギンチャク集団や、寮長の計画を無茶苦茶にされて恨んでいたサバナクローの二人にも、とても頭が上がらない。しかしそれでも、もしかすると後遺症だって残るかもしれない。そう考えたとき、一気に血の気が引いた感覚がした。だったら、副寮長とフロイド先輩が冷静すぎる。これ、本当に目を覚ますのかな。

「寮長、アズール寮長」

 私の声は、正気を失った寮長に届くことなんてなくて、そんなことは意識を失う前にとっくに知らしめられていた。けれど、少しでも私の声が届いてほしくて、それでもって意識が戻るかどうか不安であった。他の皆が冷静すぎるように見えるのは、前にも同じようなことがあったのか、しかしそれにしても不思議なほどに副寮長とフロイド先輩は落ち着きを見せている。私はこうも、涙すら零れないほどに不安で仕方がないのに。
 震えて、スカートの裾を、しわになるほどに握りしめながらも寮長の名前を呼び続けると、フロイド先輩の大きくて優しくて冷たいはずの手が私の背に乗せられた。いつもは冷たいはずなのに、今日はどこか温かくて、少しだけ身体が強ばった。ゆっくりと左を向くと、私に向けられた優しい目はアズール寮長の方に移されて、寮長の方を見たまま、私に言葉をかけた。

「だいじょーぶ」
「……フロイド先輩」

 フロイド先輩の言う「大丈夫」が好きだ。以前も、今も、そのひと言だけで私にいとも容易く安心を与えてしまうのだから。唾を飲み込んでフロイド先輩を見て小さく頷くと、大きくて温かい手のひらで、私の背をゆっくりと往復させるように撫でつけた。そのまま右に向くと、左にいた大きな人を鏡合わせにしたような副寮長がいて、少しだけ目がおかしくなりそうだった。

「アズールも幸せ者ですよ。こうやってナマエさんに気にかけてもらえて」

 ふ、と笑みを零しながら、副寮長もフロイド先輩と同じようにピアスを揺らしては、金色の優しい視線を寮長へと預けた。どうしてこの二人はこんなに落ち着いているのだろう、と思ったけれど、二人ともアズール寮長に向ける信頼が大きいんだ。私なんかよりずっとずっと長い付き合いだからこそ。けれどその中にも心配だとかが少しでもあるから、こうやって寮長の傍から離れないでいる。本当に、この三人はいい関係だ。
 私からはまだ寮長への心配が晴れることなんてなくて、けれど真っ白なダイヤモンドさながらの輝きに戻った寮長の魔法石と、相変わらずの静かな寝息、それから双子の存在が数分前よりも私に安心を分け与えてくれていた。

 ◈◈◈

 それから数分、数十分、寮長を呼びかけて、副寮長も数分に一度「アズール」と名前を呼んで、すると不意に、思いきり睫毛を持ち上げるとその勢いのまま、寮長は上体を起こした。

「……ハッ……」
「あ、目ぇ覚ました」

 顔色はいつも通り、ブロットだって抜けて、パッと見た感じは胡散臭い笑顔を消したいつもの寮長が戻ってきていて、フロイド先輩の言葉でまた、安堵の溜息を深く深く零した。副寮長が寮長に向けて右手の指を立ててこの手は何本に見えるか、と問えば、八本と言ったので、まだ焦点は定かでないのだろう。けれど、目を覚ましてくれたことの安心感が大きかった。入学したての私だったら、寮長に対してこんな感情の一つも抱かなかっただろうに。

「僕に力をくださいよぉ〜〜って泣きながら皆の魔法吸い上げてさぁ。ちょ〜ダサかった。ちょっとゲンメツ」
「そ、そんな……僕が暴走するなんて……信じられない……」
「ナマエちゃんからも能力吸い上げて、ナマエちゃんぶっ倒れたのも覚えてない?」
「い、いえ……少しも……」
「ナマエさん、あなたにあれだけ助力してくれたというのに」

 私の見ていないオーバーブロットという言葉を副寮長から聞いた寮長は、まさしく信じられないといったような、焦りと驚きの表情を映した。フロイド先輩のクオリティの微妙に低い寮長のモノマネが気になるけれど、それはさておき。寮長はフロイド先輩に告げられた、私が魔力に留まらず能力まですべて吸い取られてしまい、少しの間気を失っていたらしいのを聞いた寮長は、私の方に目配せをすると、これまた信じられないといった表情を見せた。
 すると、次に口を開いたのはラギーさんだった。

「ま、コツコツ集めてきたモンを台無しにされたらそりゃ怒るッスよね。オレだって、ずっと貯めてる貯金箱を他人に割られたら絶対許せないと思うし」
「台無しにしたのはあなたたちでは……?」
「まあまあ、そのへんは……ねっ」

 同情をするようなラギーさんに、嫌味を込めた疑問を投げると、誤魔化すように笑って私から目を逸らして、それからニカッと笑うと目を合わせた。どうして、イソギンチャクの生えていないサバナクロー寮生が、監督生たちの手助けをするのかはわからない。特にレオナさんだって、わざわざ自業自得の寮生を助けるような柄ではない、と思っている。しかしその間にあるものは、私に計り知れるものではないのだろうし、これ以上は詮索しないようにした。
 次いで口を開いたのは、灰色をした丸い猫だった。

「でも、やっぱ悪徳商法はダメなんだゾ。反省しろ」
「その前に、お前らは他人の作った対策ノートで楽しようとしたことを反省しろ!」
「それは間違いない……自業自得だもん。ハウル、気合うね」
「ったりめぇだ」

 それに関しては同意しかできない。そもそも、契約に乗るのが馬鹿だという印象は変わらないままだ。というより、ハウルって、うちのラウンジに乗り込んできたときから思っていたけれど、相当な真面目くんだ。偏見だけど、間違いなく根っからの文系脳だろう。確かに、イソギンチャクの解放に助力していたけれど、そもそもテストの結果が出た日からハウルは中立……というか、うちの寮長のやり方も、浅はかな考えのイソギンチャクに対しても怒りをぶつけていた。私はまあ、寮長寄りではあるけれど。ハウルが当然のようにフン、と鼻を鳴らすと、次いで口を開いたのは、例の監督生、だった。

「アズールさん。あの対策ノートは、他の誰にも作れない」
「……え?」

 その言葉を聞いて、オーバーブロットにより心なしか弱っていた挙句にグリムによって責められていた寮長は、驚いたように目を丸くした。監督生の言う通り、寮長が今まで積み上げてきたであろう、影の努力あって何百人もの生徒に優秀な成績を収めさせた。しかも、ハウルが言うには例の対策ノートは百年分のナイトレイブンカレッジでのテストの出題傾向を分析して作った、だとか。まさかそこまでするだなんて、私も驚いて口をあんぐり開けた。寮長も、真面目というか、やっぱり案外脳筋だなあ。そういうところも私の好きな寮長なのだけれど。

「寮長。私寮長に五十位以内に入れって言われたのに、あなたの作ったそのノートのせいで危うかったんですよ」
「……フン。そんな慰め、嬉しくもなんともありませんよ」

 そう言ったアズール寮長の、レンズ越しに映るスカイブルーの瞳には、涙がきらきらと光っているように見えて、けれどどこか雨上がりを連想させるものだった。そんな涙目を見ないふりすれば良いものの、もちろんあの双子にはそれができるはずもなく、その涙目についていじっては少し声を荒らげて注意していた。秘密保持契約……ああ、前に私に言おうとして止められていたあれ関連かな。その秘密保持契約って、案外緩そうだけど大丈夫なのかな。
 そんな私たちオクタヴィネルを見て、ハウルが何か思い出したかのように口火を切った。

「コレ、あんたが取って来いって言ってたリエーレ王子の写真」
「リエーレ、王子?」

 ハウルが差し出した紙切れ一枚を、それが寮長の手に渡る前に立ち上がって、私とレオナさんとラギーさんとで覗き込むと、何やら小さい子供人魚たちが集合してカメラを見ているような、そんな一枚の写真だった。リエーレ王子って、この真ん中にいる人魚のことだろうか。三人で頭上に疑問符を浮かべながらその写真をまじまじと見ていると、空いている隙間から背の高いフロイド先輩が、写真に影を落とした。

「あっは、懐かしい。これ、オレたちが遠足のときに撮った写真だよね。ココにオレとジェイドも写ってる。そんで……」

 わ、ウツボってネタバレされたけど思っている人魚より、余程ウツボ寄りだ。色が青みがかっていて、けれど今より小さくてかわいい。髪の一部色が違うところって、染めたものでなくて生まれつき、なんだなあ。まさか実物を見るより先に、こうして写真を見ることになるなんて。ショックがないというと嘘になるけれど。
 かわいい〜、と小さな人魚さんの虜になっていると、フロイド先輩が溜めに溜めて、息をすうっ、と吸った。

「一番隅っこに写ってるのが、昔のアズール!」
「えっ!?」
「うわああああああああ! やめろ!!! 見るな! 見ないでください!」

 寮長は急にガバッと起き上がってはその写真を取り返そうとするのだけれど、副寮長により宥められていた。フロイド先輩が指さした、その隅っことやらに目を向けると、確かに聞いていた通りのタコだ。タコ、だけれど……。

「もしかして、控えめに見ても他の人魚の二倍くらい横幅がありそうなこのタコ足の子供……」
「アズール、オメー昔こんなに丸々と太ってたのか!」

 そう、私が言語化するまでもなく、オブラートに包むことを知らないこの二匹の言う通り、丸くてかわいいタコの人魚が写っていた。とても今のすらっと細くて胸を張っているようなアズール寮長からは想像もつかないほどに丸くて、背だって丸まっている。あ、もしかしていつもの栄養バランスを考えました! というような理想のあの朝食ももしかして、このときの教訓あって、だろうか。それにしても、

「まんまるでかわいいね」
「! ね、すごくかわいい」

 確かによく見ると面影を感じるし、それでもってやっぱりかわいい。ウツボの二人もかわいいし、それと同じくらいアズール寮長もかわいい。え〜、実家に押しかけてアルバムを見せてほしいくらいだ。
 寮長はもちろん、それを見られたくなかったのであろう。頭を抱えて悶えていた。あ、もしかしてこれを知られたくなくて監督生との取引で写真を取って来させたのだろうか。やたら必死なスペードの説得を聞き流しつつも監督生とキャッキャしながら人魚ちゃんたちの虜になっていると、どうやら私の推測はビンゴだったらしい。

「モストロ・ラウンジの店舗拡大と、黒歴史抹消を同時に叶える……完璧な計画だと思ったのに〜〜〜っ!」
「黒歴史、かあ……」

 これも努力して今の体型まで持っていったのだろう、そんなに黒歴史なんていう必要ないと思うけれど。恐らく寮長はこの体型あってなのか「グズでノロマなタコ野郎」と罵られただろう、その罵ってきた側の方が余程黒歴史だとは思うけれど。なんなら、こんなに努力しました! と誇っても良いのではないだろうか、と思ったけれど、今の寮長にはとてもこんな言葉は響きそうにはない。

「すごく頑張ったんですね」
「……ううっ、もう嫌だ」

 ほら、監督生の言葉もこうやって届きそうになかった。食べでがありそうだとか言っているフロイド先輩のことは、今だけは私が寮長の代わりに絞めても許されそうだ。仕返しが怖いからとてもやらないけれど。

 アズール寮長が落ち着いてきたところで、ハウルが写真を元あったアトランティカ記念博物館に返すように言うけれど、うちの寮長はまんまるかわいいタコちゃんの姿がとてもとても人目についてほしくないようで、どうしても画像を差し替えたいだのうだうだ言っていた。わ〜、なんかボドゲ部っぽい。
 すると監督生もそれを返しに行くのに付き合うようで、羨ましいという目で見ていると、フロイド先輩の腕が私の頭に乗っかった。

「ねーねー、いつ行く? みんなで行くんでしょ。エレメンタリースクールの遠足以来のアトランティカ記念博物館、楽しみだなー。ナマエちゃんとも一緒に行く約束してたもんね」
「はい。……えっ! 私も着いて行っていいんですか?」
「何その顔うける。そういう約束だったじゃん」

 またいつもみたいにフロイド先輩を見上げると、むに、と両頬を片手で挟まれた。驚いている言い訳として、一つが寮長の目的を達成できなかったから。もう一つは、シンプルになんとなく、だった。監督生たちと寮長たちで行ってしまうのかな〜、とぼんやり考えていたのもあって、驚きの声が出てしまったとでもいうのだろうか。フロイド先輩と副寮長と行く約束が、メンバーが増えてしまったけれど、だからこそわくわくが止まらない。

「えっ、何? フロイド先輩とナマエちゃんってそういう感じ?」
「そういう感じってどういう感じ? こういう感じだけど」
「ん〜……多分トラッポラの思ってるのとは違うけど、こういう感じ」

 ねーっ、と言うようにフロイド先輩と顔を見合わせた。仲良し。トラッポラがにやにやというか、どちらかというと驚いて引きつっている、そんな表情でこちらを見ているけれど、そんなトラッポラが私たちに期待しているのは恋仲だとかそんな甘酸っぱい関係なのだろう、少なくともそれはない。と思う。フロイド先輩といるとドキドキ……するときはなくはないけれど、安心感が本当に大きいのだ。こんなことリドル先輩に言えば、酷く顔を顰められるに違いない。
 そんなトラッポラや監督生たちのの意識が何やらグリムの方に移ると、フロイド先輩に拘束されたままになっている私のもとに寮長がやって来た。

「……ナマエさん。今回の件は、本当にお騒がせしました。あなたにも申し訳ないことをした」
「本当ですよ、もう」

 ふん、と腕を組んで寮長の方を見ると、ああ、そこまで申し訳なさそうにされてしまうと私まで申し訳なくなってしまう。一番根本的な原因は寮長かもしれないけれど、オーバーブロットしてしまったのは完全にサバナクローの二人のせいであろうというのに。
 それほどまでに申し訳なさげにされると、私だって許したくなるし、そもそもそんなに怒ってはいない。するとその表情のまま、私の方をちら、と見た。

「ナマエさんが、僕が気を失っている間に何度か僕のことを呼んでくれたような気がするんです。もちろん、ジェイドやフロイドも」
「!」
「あなたたちの言葉が頭に反響して、なんというか、少し心地良かった」
「ふ、ふふ」

 気のせいじゃありませんか? なんて、からかってみたい気持ちもあるけれど、それより、なんだろう、嬉しかった。私の声も寮長にしっかり届いてた、ということだから。フロイド先輩も私の頭上でにやけて、副寮長もいつも通り数歩離れて「おやおや」と眉を八の字にした。赤面した寮長はそれを誤魔化すみたいに咳払いをして私たちに向き直した。

「と、とにかく! あの写真のことは忘れてください」
「ふふ、いいですよ。でもその代わり、一つだけお願い――取引、しませんか?」
「取引、ですか?」

 シンプルに、お願いというワードを使っても良かったのだけれど、ここはあえての取引だ。その聞き馴染みのありすぎる言葉に、寮長はわかりやすく目を見開いた。

「アトランティカ記念博物館に行くのに、私に人魚になれる薬をください」

 監督生たちみたいに水中で呼吸ができる薬でなくて、人魚になれる薬。副寮長だって、私独自の尾びれを見るのを楽しみにしているみたいだったし、私だって少しの間でも人魚になって、珊瑚の海を楽しんでみたい。駄目ですか? なんて引き下がるわけもなく、無理なんですか? なんて煽るわけでもない。寮長の次の言葉を待っていると、寮長はいつもみたいな自信たっぷりの表情で胸を張って、左手をその胸に置いた。

「お任せください! すぐにでも用意させていただきます!」

 そんな寮長を見て、副寮長もフロイド先輩も、いつもみたいに面白そうに笑って、やっぱり、こういうオクタヴィネル寮が大好きだ。
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