メールブルーで息をする

 鏡の間に戻るべく、鏡に飛び込む直前に全員が薬を飲むのだけれど、全員不味くてたまらないといった表情をしていて、外部から見ればまさに滑稽だろう。一時間、二時間と人魚となって泳いでいたのはやはり人間に戻ったときの身体にも影響するみたいで、ふらふらと歩くのすらも大変な状態だった。

「ナマエちゃん、陸に来たばっかのオレらみてぇ」
「無理もないですよ。僕たちだってこの切り替えは未だに慣れません」

 つい数十秒前まで人魚姿でもこんなに泳げるようになった! なんて喜んでいたのに、尾びれの感覚が残ったままで思ったように足を動かすのが難しかった。二人も少しふらふらしていて、しかしもともと人間の私なんかよりも上手に立っていたので、背の高いフロイド先輩に支えられつつその場に立った。背が高いとやっぱり、安定感がすごい。

「プハー! やっぱり陸の酸素はうめーんだゾ!」
「アトランティカ記念博物館、なかなか楽しかったな」
「楽しかったね〜。魔法史の校外学習なんかで行けばいいのにね」
「それは名案だな」

 館内が写真撮影禁止だったのは少し残念だけど、それも歴史ある展示物ばかりで珊瑚の海にとっては大切な宝なのだろうから、仕方ない。銀の髪すきがお気に入りらしいトラッポラは、今後フォークを見る度に思い出し笑いするかもしれない、なんて余程気に入ってしまったようだった。ハウルもあの海の伝説の王を見習って鍛えよう、なんて言っていて、どこまでいってもストイックだなあ。各々良い刺激を受けたところで、寮長がパン、と手を叩いて注目を集めた。

「そろそろモストロ・ラウンジの開店時間です。お茶を一杯いかがです?」

 流石寮長、勧誘がお上手なんだから。

 ◈◈◈

 寮長の魔法で速やかに寮服に着替えさせてもらい、モストロ・ラウンジへと行くと、もう他の寮生たちが店を開けており、店内はいつもの休日の三倍ほどの賑わいを見せていた。これには監督生たちも驚いているようだった。実際、私もまさか宣伝の効果がここまでとは思っていなくて、少し頭を抱えたくなってしまった。

「ナマエ! 三番テーブルでオーダーが!」
「そっち終わったら次八番テーブルで!」

 私の姿が見えるや否や、寮生たちは私を呼んだ。来たばかりで歩くのも大変なのに、まったく人使いが荒いんだから。そう、こんなに賑わっているのは、アズール寮長が黙認していたであろう学園長に「契約でも能力を奪うなんていけません!」と言われてしまったがためにポイントカード制にして、メニューごとにポイントを振り分け五十ポイント溜まるとうちの慈悲深い寮長に無料で悩みを聞いてもらえる、というものだった。スペシャルドリンクで一ポイント、限定フード付きメニューで三ポイント、それから――

「美味しくなぁれ、萌え萌えきゅ〜ん」

 どうやらこれが二ポイントらしい。馬鹿げているとは思う。ポイント制にしたことにより、談話室で一人メニューについて悩んでいた寮長がハッと気がついたように顔を上げて放ったのは、「ナマエさんに少し働いてもらいましょう!」ということだった。どうやら以前あったサバナクロー寮生との揉め事がヒントになったらしく、これで商売をしてみようということだ。私が嫌ならやらなくてもいい、と言われたのだけれど、結構楽しそうだな〜というだけで快く了承してしまった。学園唯一の女子だし、寮長だって良いように利用せざるを得ないでしょ。

「あ、ありがとうございます!!」
「いえいえ、美味しく召し上がってください」

 今三つのテーブルを回っているのだけれど、見たところイグニハイド寮生に好評らしい。限定フード付きメニューとあまり変わらない値段の料理の内容は、オムライスに私がケチャップでその人に合わせて簡単な絵を描いて、ハートを作ってこのセリフを言う。フード付きメニューに比べると手がかからないのに、お金が稼ぐことができるというわけだ。かといって、オムライスはもちろんフロイド先輩監修の味なので、一流レストランと引けを取らないくらいに美味しい。
 すると、少し遠くの監督生たちのテーブルから視線を感じたので、賑わう店内で耳をそばだてた。

「あれ何してんの?」
「メイド喫茶なんかでお決まりのアレです」
「隣のフロイド先輩は?」
「マニュアル以上のことを求められては困りますから、この注文が入ったら隣にフロイドを監視で置いてるんですよ」
「リーチ先輩はどういう感情であの光景を見てるんだ……」

 そう、このオーダーは私がいるときでないと通らない上、たった今寮長が説明したように、フロイド先輩の監視がつくのだ。どんな感情で見ているか、と言われると、まあまあつまらなそうに見ている。フロイド先輩が不在のときには他の寮生たちが横につく、まあ、なんとも高圧的なメニュー。わざわざ頼む人がいるのかと思っていたけれど、やはりイグニハイド寮生からのオーダーが多い傾向にあるようだ。明らかに目線が高い男にこんなに冷たい目で見下ろされるの、怖いだろうな。冷やかしなんかでオーダーされたときにはフロイド先輩がなんとかするのだろうけれど、どうもイグニハイド寮生たちの反応を見るに冷やかしなんかではないらしい。アズール寮長の商売、大成功じゃん。

「ナマエさん、こちらのテーブルにもお願いします」
「はい! ……って、ええ……」

 副寮長に呼ばれて向かったテーブルは、監督生たちが座っている場所だった。ひらひらと悪いことを考えていそうな笑顔で手を振るのは、ハート柄のスートが顔に描かれた、エース・トラッポラ。うわあ、早速冷やかしだ! 副寮長も止めてくれればいいのに!
 もう既に机上にはオムライスが置かれていて、美味しそうに湯気を立てていた。顔をぴくぴくと引きつらせて痙攣させていると、副寮長がケチャップを私に差し出して来たので、やるしかないと思いつつ、トラッポラといえばで印象的なハートのマークを黄色い生地に思いきり描いた。顔見知りに見られながらって、なんだかすごく嫌すぎる!

「さんきゅー! じゃあ頼むわ!」
「口の利き方。……美味しくなーれ、萌え萌えきゅーん」

 微妙な仲の顔見知り相手にこういうのって、客相手でも仲良しの友達相手でもないから、なんか、恥ずかしいというより嫌だ。その結果が表に出てしまって、こうも棒読みになってしまったのだ。

「ぷっ……あはは! ナマエちゃん棒読みすぎでしょ!!」
「さっきまであんなにノリノリだったのにな」
「う、るさいな。ちゃんとやったんだからいいじゃん……ね、フロイド先輩」
「うん、絞める」
「会話の応酬が成ってなくね!?」

 耐えきれなくなったトラッポラが噴き出して、横にいるスペードやら遠くのハウルまで笑いを堪えて口元をゆるめている始末だ。ちゃんと応えただけ、本当に偉いと思う。それだけ笑われると、精一杯萌え萌えきゅんをしようが棒読みだろうが恥ずかしさなんて変わらなくて、むしろ思いきり羽目を外した方が良かっただろうかと後悔しつつもフロイド先輩に助けを求めた。そのフロイド先輩は、笑顔で「絞める」と言った後に湯気の立ったオムライスにかかったケチャップをスプーンでぐちゃぐちゃに塗ると、それを掬って思いきりトラッポラの口の中に突っ込んでいた。

「あっつ!!!」
「は? 客がオクタヴィネルのテリトリーで、オレらに文句言える立場なの?」
「災難トラッポラ」
「芸名みてぇだな」
「おやおや」

 出た、副寮長の「おやおや」。一日で何回言っているのか記録をつけたいくらいには、何度も言っている。トラッポラが口をはふはふと動かして、オムライスってそんなに熱かったっけ、と思うほどに口の中から湯気を立てている。そんなのにお構いなしといったようにフロイド先輩は次のオムライスを口まで運んでいて、本当に災難トラッポラだ。あんなにあからさまに機嫌が悪そうなフロイド先輩、久しぶりに見た。けれど前のサバナクロー騒動のときみたいに怖い感じかと言われればそうではない。

「ハウルは何か頼まないの?」
「あ? いや、俺はいい」
「えー、来たからには何か頼んでいってよ、ほら」
「あ、おい!」

 どうしてだか、監督生たちの席の近くで佇んでいたハウルをスペードの隣に空いたかろうじての一人分のスペースに無理やり座らせると、メニュー表を広げた。ハウルの好きそうな、それこそプロテイン入りの料理なんかはないけれど。そんなハウルが少し迷った末に頼んだのは、微炭酸のスペシャルドリンクだった。上に載せるバニラアイス、大きめにしておいてあげよう。

 ◈◈◈

「お疲れ様です」
「寮長もお疲れ様です」

 休日なのも相まって、平日に比べれば人手も多かった。けれど寮長の新しいサービスの宣伝が功を奏し、集客率がいつもの三倍くらいにはなっていたようで、まだ若い私の肩が凝り固まりそうだった。売上も普段の三倍らしく、その三分の一は私のおかげではないだろうか。

「ナマエさんのおかげで良い結果でしたよ。今度イデアさんも誘ってみます」
「イデアさん……ああ、イグニハイドの」

 あの髪が青く燃えている、見るからに陰の波動を出していたあの人を頭に思い浮かべる。私のことあんまり好きそうじゃなかったけれど、やはりイグニハイド寮生だし、そういうのには興味があるのだろうか。もしモストロ・ラウンジを介して仲良くなれるものなら、私もボードゲームに混ぜてもらいたいな。
 売上なんかはほとんど寮長がまとめてくれているので、私が淹れた特別美味しくもない、可もなく不可もない普通のストレートティーを口に含んだ。副寮長はきのこのテラリウムがどうとかで部屋へ行ってしまった。きのこのテラリウムなんて新しいワード、すごく気になる。夢に出てきそうな椎茸のテラリウムを頭に思い浮かべつつ、うーん、と思いきり上に伸びをすると、視界が何かに覆われ、ふわ、としつこすぎないマリン系の香りが広がった気がするので、「フロイド先輩」と呼んでみるとそれは当たりだったらしい。

「せーかい。すげー、なんでわかったの?」
「んー、フロイド先輩の匂いがしたから……」
「え、ナマエちゃんも鼻がいい感じ? オレらと一緒じゃん」
「鼻がいい……っていうより、香水、かな」

 すん、と鼻を鳴らすと、いつもみたいに安心する匂いがした。こういうマリン系の匂いって、街中ですれ違ったときにすると結構きついものがあった気がするけれど、加減なのか、やっぱりそうくどくは感じなかった。私のひと言でフロイド先輩も自身の手首に鼻を近づけて、匂いを確認するように鼻を鳴らした。

「これブルーオーシャンらしいんだけど、こんなの全然海の匂いじゃねえ」
「まあ香水ってそんなもんですよね」
「でも結局気に入ってそのままつけてんの。人間って面白いよねぇ、視覚だけじゃなくて匂いでもオシャレできんの」

 そう言って、心の底から楽しそうに笑顔を見せるフロイド先輩。今日アトランティカ記念博物館でも思ったけれど、私たち人間の普通って、人魚にとっては普通じゃない。逆に人魚の普通は人間の普通じゃない。それって、すごく面白いし、だからこうして人魚のフロイド先輩たちは陸での生活を謳歌しているのだろう。なんだかそれって、嬉しいな。
 私が褒められたわけではないのに、破顔しそうなのを抑えていると、フロイド先輩は私の方に顔を寄せてまた、匂いを嗅ぐ仕草をした。わ、なんかゾクッとした。

「ナマエちゃんもいい匂いするよねぇ。香水つけてんの?」
「いや、今日はつけてないと思いますけど……」
「へー、おもしれぇ」

 シャンプーかなあ。シャンプーって、おろしたては自分でもわかるくらい良い匂いがするのだけれど、日が経つにつれてその匂いも自分の一部となってしまうので、自分の匂いってわからないものだ。髪をひとふさ掴んでみて、自分の鼻に寄せてみたり、柔軟剤か何かだろうかと寮服の袖を嗅いでみるけれど、てんでわからなかった。
 フロイド先輩は、いったいなんの匂いだろう、と私の近くに顔を寄せたままにしていて、その正体がわかるか飽きるまで離れる気配がなかったので、そのターコイズブルーから少し遠くで見ていた寮長に視線を移すと、「じゃれ合うなら外でやってもらえますか」と咳払いをした。
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