暖房がない校舎内は不思議なことに、霜が降りるこの時期になっても、暑すぎず寒すぎない、過ごしやすい温度を保っていた。しかし、鏡舎から本校舎までの道が寒すぎて、私の気分も上がらない。なんなら外と中の寒暖差のせいで眠気が襲ってくる始末まである。
「こんなもんかな……」
冬になると寮から出るのが億劫になって、少しでも暖かい時間に出ようとギリギリになってしまっているけれど、今日いつもより早く目が覚めてしまった私は、登校までの時間を潰すために手指にネイルを施すことに決定した。退屈な授業も、このネイルが目に入ればモチベーションが上がるだろうという考えのもとである。もちろんこの冬場という時期に合わせた寒色系。ただベタ塗りするだけでも良かったのだけれど、せっかくならとストーンも散らした。ネイルチップの方が取り外しができるし良かったかな、と後悔しつつあったけれど、取れたらまたすればいいし、寮服は手袋ありだし問題なし! といったポジティブシンキングで乗りきることにした。
「へへ……」
まだ授業にも入っていない、なんならまだ自室だというのにこうしてにやけが止まらない。せっかくだからエペルにも自慢しよう。フロイド先輩の制服の着崩し方や、ポムフィオーレ寮生がネイルをしているのを見るところ、きっとナイトレイブンカレッジの校則は厳しくはない。今日は馬術部の練習がないから、そこでは自慢できないのは少し残念だけれど、すれ違う生徒たちにわざと見せつけるようにしよう。
早く起きたにもかかわらず、始業一○分前に鏡舎を出るくらいには怠惰になってしまっているけれど、結果的にいつも間に合うから良しとしている。大体、この学校広すぎて移動教室すらも休憩時間全部使わなければいけないから、もっと至るところに鏡を置いてくれればいいのに。マフラーで口元まで覆いながら、雪が降る前なのに最上の防寒装備で登校をする私の隣を歩くのは、偶然出会ってしまった白い息を吐くフロイド先輩だった。フロイド先輩は私なんかと対照的に、秋とあまり変わらない服装をしている。
「寒そうだねぇ」
「寒いんですよ。先輩は寒くないんですか?」
「まあ寒いかどうかって言われたら寒いけど……オレらは寒い環境には強ぇし」
そう言うフロイド先輩の鼻先と耳はほんのりピンク色になっているけれど、その隣を歩く私のはもっと赤いんだろうな。かじかむ指にはあ、と息をかけると、じんわり温かくなったのはものの数秒だけだった。あ、でもネイルかわいい。このネイルを見せつけるために、寒い日はお決まりだった手袋を今日はしていない。やっぱりしてくれば良かっただろうか、と思わせるのは、赤くなりつつあった震える指先だった。
「ナマエちゃん指真っ赤」
「もうほとんど感覚なくなってきちゃった」
「マジで寒そー。……あ、ナマエちゃん」
もはや冷たすぎて手が温かいのではないかとすら感じ始めてきたとき、フロイド先輩が副寮長みたいに馬鹿にするような笑顔でも、嬉しそうなにこにこ笑顔でもなく、淡々とそう呟くと、私の口元を覆うかじかんだ指を見て、大きな手でぱっと掴んだ。フロイド先輩の白くて大きい手は、いつものひんやりとした感覚はなく、もはや温かく感じたので、私の身体は相当冷えているらしい。私の手首を持っていたかと思うと、指先に手を添えてまじまじと観察し始めたので、何事かと思うと同時に、そういえばネイルをしたんだった、と思い出した。
「ネイルしたんだ」
「はい。……今朝、気分で」
「へぇ……。かわいいね、オレにもまたやってよ」
「私はそんなに上手くないので……多分フロイド先輩は自分でやった方が上手にできますよ。器用だし」
私は本当に、ベタ塗りしたものにストーンを軽く置いただけの簡易なものだから、もっと凝ったものならきっとフロイド先輩の方が得意分野だ。人魚の鱗ネイルとか、興味あるんじゃないかなあ。私の言葉を聞いたフロイド先輩は不機嫌そうに、拗ねてますよ、と言いたげに、また子供みたいに頬を膨らませた。あ、私がよくやるやつだ。もしかして、と思って冗談半分、背の高いフロイド先輩に向かって思いきり背伸びをして、冷たい冷たいこの指先でいつもの仕返しみたいに両頬を挟むと、わあ、間抜けだ。ふふ、とほんのり白い息が洩れる。
その状態で、私も足を子鹿みたいにさせながらいると、フロイド先輩はいつかみたいに、ゴールドとオリーブをそれぞれ真ん丸にした。それから数秒間そのままだったので、もしかして怒らせてしまっただろうか、そして私の、寒さによるでなく、つま先立ちによって震える足も限界を迎えそうになっていたので、手を離して元に戻ろうとすると、宙ぶらりんになっていた長い腕が、手が、私の手を包んだ。あ、それはちょっと、予想外。冷えたはずの耳にじわ、と熱が広がって、顔、そのまま指先へと伝染していくような感覚があった。絶対今、顔赤い。
「うわ冷た」
「あ、……思ったより冷たくない」
「ナマエちゃんが冷えすぎ」
「あの、皆通るところなのでちょっと……」
「ん? なに金魚みてぇに口パクパクさせて」
やっぱりフロイド先輩の手はいつもみたいにひんやりしていなくて、むしろ温かいくらいだ。それはそうとして、まるで付き合っている男女のようなこれは、ちょっと抵抗がある。驚いていたように見えたフロイド先輩は、余裕そうで悪そうな笑みを浮かべて、今度は私の心の内を知ってだろうに、フロイド先輩は私の手を離す気はないようで、けれど強すぎない力で握っている。周りの目が気になって見回すと、不思議なことに歩いている人はいないらしく、フロイドパワーかな? と思っていたところで、メインストリートに予鈴が鳴り響いた。
◈◈◈
ネイルの力半分、私の努力半分のおかげでなんとか最後の魔法薬学の授業まで持ちこたえることができた。それにしても魔法史は相変わらず眠かったけれど。昼食のときなんかも、ご飯を食べようとする度に自分の爪が目に入るから、いちいちネイルを気にするような仕草をしていると、エペルに「ご機嫌そうだね」と言われたので、思う存分自慢していた。思った通り、ヴィルさん含めポムフィオーレ寮にもネイルをしている人は何人かいるそうで、エペルにやらないのかと聞けば、やたら細かくて何がいいのかわからない、みたいなニュアンスを方言で言っていた。気がする。そのあとハッとしたように口を塞いで周りを見回していたけれど。まあ、人それぞれだよね。エペルもネイルしたら絶対にかわいいけれど、本人がこんな感じだし、押しつけるようなことでもない。
「今日は前回の小テスト返却から始める。名前の呼ばれた仔犬から速やかに取りに来るように」
授業開始のチャイムから間もなく、今の時期にぴったりなシマウマみたいなファーコートを身につけた、とても午後の授業のビジュアルとは思えないクルーウェル先生に告げられた言葉によって、教室内がざわつく。私も期末テストの結果が良かったから、この間の小テストは手を抜いたというか、勉強せずに挑んじゃったなあ。
「ミョウジ」
「はい」
クラスメイトが先生から採点された小テストを受け取っては、まあ妥当かな、という表情をしたり、明らかに悪い点を取ったのに平気なふりをしていたり、色々な反応があったので、あの人はこのくらいの点数かな〜、なんて予想をしていると、私の番が来たらしかった。といっても小テスト返却なんて流れ作業なので、次々と名前は呼ばれていくのだけれど。
先生の方まで下りて、テストを受け取るとき、「気を抜いたな」なんて言われたので、あまり良い点数ではないのだろうなと思えばまあ、案の定だった。十点中の五点。特段悪いわけではないけれど、いつも八点以上は取っていたのでそれに比べれば、といった具合だろう。けれどもう学期末だし、成績の集計は終わっていると信じたいなあ。
ネイルってそんなに意味があったかなと思うほど、授業の後半につれてなんだかモチベーションも下がってきたのは、午後の授業だから仕方ないと思う。今日は当てられなかったし、尚更だ。
チャイムがなる二分前に授業を切り上げてくれたクルーウェル先生に感謝しつつ、しかしチャイムが鳴るまで教室から出るな、らしいので、筆記具をペンケースにしまっていると、この教室には用済みのはずのクルーウェル先生が声を上げた。
「ミョウジ。後で実験準備室に来るように」
「えっ私ですか? は、は〜い……」
私指名で、私だけに言われた言葉に背筋が伸びた。クルーウェル先生が呼び出す条件だなんて、やたら成績が悪いくらいしか思いつかない。肩に教科書や出席簿を乗せるように先生が教室を出た後、ハウルに「お前何かやらかしたのか」と言われたので、心当たりのある小テストの点数を広げると、他のクラスメイトに「俺の方が悪いから安心しろ」なんて宥められた。うん、私も呼び出されるほど悪くないと思ってるんだけど。
◈◈◈
「失礼しまーす……」
「来たか」
今学期は錬金術の授業がなく、入ることが一度もなかった実験準備室には、フラスコやビーカー、錬金の材料であろうものが並んでいた。割ってしまったら怖いなあ、なんて最悪の想定をしてしまうのはいつものことで、落ち着かないので室内を見回した。魔法薬の類は置いていないから、それはもちろん魔法薬学室にあるのだろう。
これまた長い脚を組んで座っていたクルーウェル先生に、その向かいに置かれた椅子に座るよう促されたので、失礼します、と言って丸椅子に腰かけた。ふわ、と大人っぽくて少し甘い、スパイスをほのかに感じる、いい匂い。
「今日は時間はあるか?」
「ラウンジのシフトは後半なので一応、急ぐ必要はないですけど」
「なら良かった」
あ、脚なが〜。もうそれにしか目がいかなくて、もちろんいつも一緒にいるリーチ兄弟の脚が長いのも、ヴィルさんやレオナさんの脚が長いのも身近で経験済みなのに、目の前のイシダイ先生はすごく綺麗な脚をしていらっしゃる。というか、これ、私がもう少し勘違い女子だったら、こんなにイケメン先生と二人きりだなんて変な気を起こしていたかもしれない。先生はそういうところを気をつけた方がいいと思うな、なんてひとまわり以上上のクルーウェル先生に心の中で説教しつつ、先に口を開いたのは私だった。
「あの、私そんなに小テスト悪かったですか? 確かにいつもよりは低かったけど……」
「ん? ああ、確かにそれも気になったがそうじゃない」
「……あれ?」
クルーウェル先生の目線は私の顔から、そのまま下に下りて、スカートの上に置かれている私の手に移された。手……手? その手を上げて、指先を少し丸めて私の目の先でじっと見ると、指先でストーンが光った。あ、もしかして、
「せ、先生、ネイルって校則違反でした?」
いや、そんな馬鹿な。すれ違う先輩方とか、エペルが言っていたみたいにポムフィオーレ寮生だとかもネイルはしているはず。というか、これを気にするならフロイド先輩の制服の着崩しも一緒に指導をしてもらわなければ困る。せっかく可愛くしたのに〜、と先生に眉を下げて訴えると、強い赤色が私の手を控えめに取った。
「校則違反ではない。ただ、塗りムラがな」
「……え、塗りムラ?」
「利き手でない手で塗った方が特に目立つ」
予想外だ。本日の予想外二人目だ。私の指先に軽く手を添えて、じっと眺める。あ! これ、傍から見たら事案ですよ! なんて茶々を入れてしまえばまたバッドガールどころか駄犬と言われるだろうから、次にクルーウェル先生が言葉を放つのを黙って見ていた。それから持たれていない方の指先を見ると、あ、確かに少しボコボコしていたり薄い部分がある。というか先生、もし本当にネイルのムラが気になって私を呼び出したのなら、ちょっと面白すぎる。次の返答を待っていたのを汲み取ってか、ようやくクルーウェル先生は口を開いてくれた。
「仔犬なりに一生懸命塗ったところ悪いが、塗り直してもいいか?」
「ふ、ふふ……お願いします。どうせならストーン取っていいのでめちゃくちゃ可愛くしてくれませんか?」
「それが五点の態度か」
「すみませんでした」
ごもっともです。一生懸命塗った、というより、時間があったから塗った、という感じなのでぜひとも塗り直していただきたい。そう言いながらも先生は、鼻で笑っては除光液をコットンの上に垂らして、爪の上に置いた。除光液にコットンに、すっと出てくるあたり、先生の美意識の高さが垣間見える。垣間見えるどころか、見るからに美意識だらけだけれど。髪も整髪料を使っているだろう、下ろしているところも見てみたいなあ。
「コートあったかそうですね」
「ああ。でも学内では逆に暑いときもあるな」
「あ、そうだ。暖房ないのにあったかいですよね。あれどうして?」
「古くからナイトレイブンカレッジには火の妖精が仕えている。それに関してはいずれ習うことになるだろう」
秋もこの服装だったから、夏もこの服装なのかな。確かにクルーウェル先生のアイデンティティといえばそうだけれど。外を歩くときは丁度いいだろうけれど、夏場なんかは地獄だなあ。汗をだらだらかいているクルーウェル先生だなんて、とても想像つかないけれど。
すっ、とコットンを引くと、元通りの飾りない綺麗な爪に戻った。私が持っている除光液よりも綺麗に取れたから、今度調べておこう。次いで先生は、筆を何種類か机の上に広げた。えっ、付属のものじゃなくて、専用のやつだ。細いのから、平筆まで。本格的。
「先生もネイルするんですか?」
「凝ったものはしないが、たまにな。昔はよくしていたが」
「器用そうですもんね」
「まあな」
ドヤ顔をするでもなく、さも当然のことのように零したクルーウェル先生は、私の手指に淡々と色をつけていく。先生、自分でするなら黒ネイルとか結構好きそう。ゴテゴテのネイルをしたヤンチャで若いデイヴィス・クルーウェルが気になるなあ、と思っていると、それを見透かしたかのように視線を指先から私に移したやや上目遣いで、「俺はヤンチャはしていなかったが」と言った。私も別にヤンチャはしてませんけど。
先生が集中するためだろう黙り込むと、私も何も言わないように口を閉じた。楽しく話を弾ませていたけれど、こんなところで空気を読まずに口を開けばバッドガールだ。白と銀のかわいいストーンを、色が違う親指と薬指だけにピンセットで散らされると、雪の結晶のような形が見えた。えっ、かわいい! 先生のセンスかわいい! 他の指にもラメが散りばめられ、全指単色塗りをしてストーンを置いただけのものより華やかになった。
「ほら、できたぞ」
「わ、かわいい! 先生天才!」
「当たり前だろう、クルーウェル様だからな」
「すごーい! 天才クルーウェル様!」
「馬鹿にしているだろ」
まだ乾ききっていない指先を下手に動かさないように見るけれど、本当にかわいい。冬らしくて主張するところとそうでないところがはっきり分かれていて、クルーウェル先生はネイリストに転職するのも悪くないと思う。寮服で手袋を着けるのも惜しいし、かといって外して料理するのもなので、しばらくはホールに居させてもらおう。指先から注意を天才ネイリストクルーウェル様に移すと、大人の余裕たる笑みを向けた。クルーウェル先生はあの表情で今までに何匹の仔犬を落としてきたのかと思ったけれど、そもそもナイトレイブンカレッジが男子校なことに気がつく。
「次はもうないからな。自分でやるか、シェーンハイトにでも頼むことだ」
「ヴィルさんよりクルーウェル先生の方が仲良いです」
「俺が教師でお前が生徒ということを忘れてないか。……ああ、リーチ弟と仲がいいなら、あいつも手先は器用だ」
「今朝そんな話しました」
ヴィルさんは私がこうも堂々と過ごすためのきっかけをくれた人だし、けれどあの一度くらいしか話したことがない。教えてください、と言えば教えてくれるだろうけれど。フロイド先輩は確かに器用そうだけれど、私にしてくれるかって言ったら……してくれるかなあ。
そろそろ十分乾いただろうと思って椅子から立ち上がって、先生にお礼を言って、去り際にバレないくらいさり気なく先生のふわふわファーコートを指先で触ると、先生が眉をひそめた。
「ふわふわだからつい……」
「バッドガール。マニキュアが付くだろうが」
「ごめんなさい」
「まあもう乾いていそうだが……くれぐれも気をつけろよ」
バッドガール脱却は今日も難しそうで、はあ、と目頭のあたりを押さえて溜息を洩らす先生のファーコートをもう一度触って、実験準備室の扉に手をかけた。あ、ネイルかわいい。せっかくやってもらったし、あとで写真撮ってマジカメに上げておこうかな。もう一度振り返って、白黒の先生の方を向くと、先生もこちらを見ていた。
「先生、ありがとうございました」
「ああ。帰りは気をつけろよ」
「はぁい。またお願いします」
「次回の授業はお前から当てるから予習を忘れないように」
「う、わかりました」
次はないと言いつつ、なんだかんだで次もやってくれそうなクルーウェル先生に手を振ると、軽く赤い手袋に包まれた右手を上げた。ネイルかわいい〜、早く寮に戻って自慢しよう。