クルーウェル先生に言われて考えてみるけれど、そもそも私が何をしているのかもわからなくなってしまうという状態まで落ちてしまって、ただただ無心でシレーヌを撫でるしかなかった。いつも完璧なブラッシングなのに、今日はごわごわしている。
「……ナマエ、今日は珍しく元気がないようだね」
「心配だな。何かあったのだろうか」
オクタヴィネル寮出身で、こうも表に感情が出てしまうのはフロイド先輩くらいだと思っていたのに、今の私の状態はまあ、感情ダダ漏れらしい。丁度馬を連れてきたリドル先輩とシルバー先輩が、私にギリギリ聞こえるくらいの声量で話していた。けれど、あくまで悩んでいませんよ、というふうに口角をほんの少し上げて、シレーヌを撫でれば目を細めた。
「どうした人間。オーディションに落ちたことがそんなに悔しいか」
「……いや、そういうわけではないけど」
同じように馬――テンペストを連れてきたセベクが、シレーヌの横に馬を繋げると、同じようにブラッシングを始めた。憂鬱なのは見たままなのだろうけれど、先日クルーウェル先生に言われたことと、あのときのフロイド先輩の声色。それから今日の午後にフロイド先輩と会ったときどうすればいいのか、なんて考えてしまっているのだ。謝らなきゃいけないけれど、謝るどうこうで済むのかもわからないし。一度、あ〜! って思いきり叫んでこの場に転げ回りたい気持ちもなくはないけれど、流石にそのあたりは弁えている。
「なんだ違うのか。しかし、オーディションに意義を申し立てたくなる気持ちはわかるぞ」
「ああ、リリアさんね。そういえばオーディションのとき、話させてもらったよ」
「そうか! リリア様は素晴らしいお方だろう!!」
「うん。セベクやシルバー先輩が大好きなのも頷ける」
セベクが悔しい気持ちを込めてブラシをぐっと握るものだったけれど、私の口からリリアさんの名前が出た瞬間にアンティークゴールドを強く光らせると、一気に目を細めてにこにこと笑顔をこちらに向けた。「そうだろうそうだろう!!」「よくわかっているではないか!!」と言っていたセベクは、いきなりハッとして、私に鋭い視線を向けた。
「にんげ――」
「人間の分際で、リリアさんのことをわかった気になったことを言ってごめんね」
「!! よくわかっているじゃないか」
セベクのことだから、たった一度会っただけの私がリリアさんのことをわかった気でいるようなことを言うのはいただけないかと思ったので、先にセベクの言葉を予測すると、ビンゴ。しかし、そのセベクの表情を見るに、リリアさんを褒められたことに対しては満更でもなさそうだった。
「こらセベク。ナマエは親……リリア先輩を褒めてくれているのだぞ」
「言われなくてもわかっている!! 一度話した程度でナマエにそう言わせるほどリリア様のお人柄が素晴らしいということだからな!!!」
「はぁ……。お前は相変わらず声が大きい」
後ろからさり気なく話に入ってきたシルバー先輩と、いつものようにこの広いグラウンドに響きすぎる大声を出すセベクに、抱えていたものが軽くなった。躁鬱、とでもいうのだろうか。やっぱり何か考え事をしているときは、違うことで気を紛らわせるのがそのときの処置としては適切だと思う。まあ、あと数時間経てば鬱の方に逆戻りだとは思うけれど。
「少し表情が和らいだか」
「そう、見えますか?」
「ああ」
「じゃあ、そうなんだと思います」
シルバー先輩が今日も整った、神様の最高傑作みたいなお顔をいつも通り真剣な表情のままにして、私を気にかけてくれた。本当に、王子様か何かなのだと思う。ふふ、と笑えば、シルバー先輩も息を洩らして、ほんの少し。ほんの少しだけ口角をゆるめた。
その様子を見ていたセベクがふん、と鼻を鳴らすと、ブラシをカゴに放り込んではテンペストを軽く撫でる。
「そうでないとな。主人の気が落ちていれば、彼女――シレーヌも上手く走らないだろう」
「うん。セベクも心配してくれてありがとう」
「しっ!? 心配、だと!!? 僕は貴様の心配などしていない!!!!」
あーもう、声大きい。キン、としてシルバー先輩は慣れたように片目だけ閉じて、少し離れたリドル先輩は衝動的に手綱を握ったまま耳を塞いで、防御力がゼロの私は普通にやられてしまった。攻撃力が本当に高い。頭の中がぐわんぐわんしている。
うう、と頭を押さえているとシルバー先輩が「大丈夫か」と言ってくれたので、何も言わず頷いてから、背の高いセベクを見上げた。
「ツンデレだね、セベクは」
「! 上目遣いをするな!! そうやって僕を弄ぼうなんて考えは無駄だと思い知るがいい!!!」
「いや、身長差で自然にそうなってるだけだよ」
ツンデレだし、ピュアピュアだ。茨の谷には同年代がいなかったとシルバー先輩とセベクに聞いたことはあるけれど、それによる産物だろうか。大声を出しながら狼狽えるセベクをからかうのもいいけれど、私の機嫌が良い今のうちに一生懸命部活に勤しもうと、手綱を引いてリドル先輩のところへ向かった。
◈◈◈
午前練習が終わり、ふんふん、と鼻歌を歌いながら、まさに軽い気持ちで鏡舍に向かっている最中に、そういえばバイトだった、と肩を落とす。見事な躁鬱具合だ。ラギーさんはいるかなあ、とシフト表を確認するも、今日はお休みらしい。副寮長と寮長は当然のようにいるものの、間違いなくフロイド先輩の欄には欠勤の文字がないので、今日出会ってしまうことは避けられないだろう。
「はあ……」
「ナマエ、また元気がないようだけれど……。体調が悪いならモストロ・ラウンジでのバイトは休んでもいいと思うよ」
「いえ。身体はすこぶる元気です」
「あれだけ元気に馬を走らせていたからな。疑いようもない」
身体は元気、という言葉に、リドル先輩がぼそっと「じゃあ心の問題か……」と言ったのを聞かないふりをすると、心配させるのもなんだし、と背筋をピンと伸ばして闊歩する。それを見たリドル先輩は、ひとまず息をついてから、口を開いた。
「いいかい? 確かに文化祭も目の前だけれど、ボクたちには大会も控えているんだ。不調がないよう、ゆっくり休息をとることだね」
「はい、リドル先輩」
「よろしい。いい返事だね。ハーツラビュル寮生にもキミのような生徒が増えればいいけれど……キミはオクタヴィネルがよく似合う、か」
褒め言葉なのかそうでないか、わからないものを一つ。ぽつりと最後にそう落とすと、鏡舍についた私たちは各々の寮の鏡の前で解散をした。馬術部って、もしかしたら私の精神安定剤なのかも。「ボクは明日のパーティーの準備をするよ」とリドル先輩が言うと、ディアソムニア寮の二人も「昼餉の後は鍛錬をするぞ」と言っていて、皆各々やることがあるんだなあ、なんて当たり前のことを思い浮かべた。私も、まずは面と向かってフロイド先輩とお話しよう。
そうしてパパッとと着替えながらラウンジに到着したところで、副寮長と目が合った。フロイド先輩と間違えることはとうになくなったけれど、それでもあのゴールドとオリーブ、それから耳元で揺れるピアスを見ると、なんともいえない気持ちになった。
「ナマエさん。部活動お疲れ様です」
「副寮長も、お疲れ様です」
「あちらに軽い試作品があるので、良ければ昼食にどうぞ」
「わあ、ありがとうございます」
副寮長が指した調理台には、ラップのかかったテリーヌのようなものが置かれていたので、手早く手洗いを済ませると、かかっていたラップを剥がし始めた。「どれくらいもらっていいんですか?」と聞けば、「残りはナマエさんの分ですから」だそうで。新商品開発、でこんなに凝ったものをパッと思い浮かぶなんて、私とは大違いだ。
「それ、フロイドが考えたものを掘ってきたんです」
「フロイド先輩? 掘っ、て……?」
「彼は調子がいいとどんどん新商品を思いついて、機嫌が悪くなるとすべての案をぐちゃぐちゃにして捨ててしまう、それはもう困ったものですから」
「へえ……」
それは、なんというか、やっぱりフロイド先輩らしいな、と思うと同時にくすっと口端から自然に笑みが零れた。そんな私を見て、同じように口角をつり上げた副寮長は食器乾燥機から白い皿を取り出して、一度元の食器棚に戻した。それから、まさに急に思い出しました、というように「そういえば」と続けるのだ。
「ナマエさんもレーズンバター、作っていましたよね?」
「あっ、……最近忙しくて? ……なかなか進んでなくて」
「おや。いつものようにフロイドを頼ればいいじゃありませんか」
「それ、が……うぅ……」
確かに、いつもなら事あるごとにフロイド先輩を頼って頼って頼りまくり、の私がこうもわざとらしく距離をとる様は、不自然極まりないのだろう。それも、副寮長や寮長から見れば一目瞭然。テリーヌをゆっくり咀嚼するのを止めて、ごっくんと飲み込めば、あ、とか、う、なんて、意味を成さない母音ばかり。まるでここに来たばかりのときみたいに吃ってしまう。
「あなた、ここ最近フロイドと何かあったでしょう」
「……ま、まあ。そうなります。……百ゼロで私のせいで」
「ここ最近のフロイドは急にベッドで機嫌良く飛び跳ねていたかと思うと思いきり暴れて、僕のテラリウムが犠牲になるところでしたよ」
「ええっ! それも私のせい……ですよねぇ……」
「さぁ、どうでしょうね」
語尾が次第に小さくなっていって、またまた罪悪感は募るばかり。そんな私を横目で見る副寮長はいつも通り、フロイド先輩とは対照的に何も読めない表情だけれど、わずかにゴールドが鋭く光り、ギザギザの歯がいつもより怖く見えた。にこにこしたままの副寮長に肩を落として、食べ終えたテリーヌのお皿を渡せば、親切にもそれは洗ってくれるらしかった。副寮長は、「フロイドをああさせた責任はとっていただかないと」と言うものだから、背筋がぞわぞわして、身体が硬直した。
「……今日、謝ります」
「そうですか。ところで、フロイドはもう仕事を終えてしまいましたよ」
「……えっ!?」
こんなにも心臓をバクバクさせながら来たのに、副寮長からの言葉で間抜けな声を出してしまった。私の緊張、返してくださいよ。それにしてもシフトには間違いなく出勤とあったのに、どうしてだろう、とラウンジの冷蔵庫に貼られたシフト表を見る。すると、明らかに後から書かれたであろう、赤いボールペンでのバツ印がついていた。それも、午後の欄にだけ。
「フロイドも今日は午後から部活動だそうです。あちらも大会が近くて急遽入ったのだとか」
「そうだったんですね」
「おや? どこか安心しているように見えますが」
「……いえ、気のせいだと思います」
ほっと胸を撫で下ろすと、それを見た副寮長が目ざとく唇に弧を描いてギザギザの歯を覗かせた。私、やっぱり思った以上に感情が表面に出るんだなあ、と思ったけれど、溜め込んでしまえばそれはそれでまた別のストレスが溜まってしまうだろう。なら、今はとりあえずこれでいいか。フロイド先輩に会わなくても良いという安心感と、これ以上期間が空いてしまえばどうなるのだろうというもやもやが混ざって、私の中に少しずつ積もっていった。
「さあ、今日も頑張りましょう。ナマエさんには休んでいた分も働いていただかないと」
「はい、わかりました」
「オムライスのオーダーが来たら、僕かアズールを捕まえてください」
オムライスのオーダーのとき、私についてくれるのは、基本はフロイド先輩で、不在のときは支配人が副寮長か、ラギーさん。どうやらそれ以外の従業員は弱い、らしい。戦闘力とか魔法の腕とかそういう意味ではなくて、適性なるものがある、だとか副寮長が言っていたことがある。
了解です、と伝えると、早速フロアチェックがてら、布巾とホルダーを手に取った。
◈◈◈
部活もあって疲れているでしょう、というアズール支配人直々の配慮のもと、いつもなら休日は午後からなら夜までぶっ通しで入っているものだけれど、カフェタイムが終わると上がり、というかたちになった。申し訳ないけれど、支配人が決めたことだし、その分たくさん働かせてもらった。
「うわあ、いっぱい売れましたね」
「また卵の買い出しに行かなければなりませんね……。ナマエさん権限で安くなったりしないのですか?」
「んー……私にはそこまでの力はないので、ラギーさんに値切りでも教えてもらいますね」
ディナータイムまでの準備のために一度ラウンジを閉めて、カフェタイムまでの集計に入る。大体平日だとディナータイムに一番売れるオムライスは、休日で朝から開いているのもあって、ランチタイムに一番売れるという結果になった。いやあ、ありがたい。やはり一番オムライスの売上に貢献してくれているのはなんといってもイグニハイド寮生で、支配人も「以前まではイグニハイド寮生の影なんてなかったんですがね」と言っていた。やっぱり、そういうのがお好みの人が多いのだろう。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「はい、お疲れ様でした」
ラウンジを後にすると、帽子をとって髪を整えながら自室へ向かう。それから手袋を外して、そろそろネイルをしようかなあ、と思ったとき、脳裏にクルーウェル先生の顔が思い浮かんだ。それと同時に、フロイド先輩も。本当に、いつ謝ることができるのだろう。やっぱり避けるなんてらしくないこと、するんじゃなかった。
心のもやもやはずっと晴れないまま、談話室を横切って、他の寮生たちより少し離れた自室へと足を向けていると、途端にぐい、と腕を引っ張られて、そのまま壁に背中が叩きつけられた。
「きゃっ」
ドン! という衝撃が背中から、全身にびりびり走ると、視界が揺れた。なに、刺客? カリムさんじゃあるまいし。そう思ってぼやける視界がはっきりとする前に、いつもの爽やかで落ち着くはずだった香りと少しの汗の匂いが混ざって、さらには金色の光。それらのせいで、すぐに正体が明らかになった。目の前にいるのは刺客なんかよりも恐ろしい人魚だった。唇が震えて、けれど大きくてひんやりとした手に縫いつけられた手首と、壁につかれたもう片方の腕が私を逃がすことをしない。普段なら、壁ドンだ、なんて呑気に思っていただろう。
「ねー、なんで逃げんの?」
「っ、ちが、その……」
「オレさぁ、昨日すっげームカついたんだけど」
なぁ。耳元に唇が寄せられると、身体の奥まで響くみたいな低音が発せられて、もう後ろに下がれないのに、壁に思いきり背中を預けた。計画していない、いきなり予想外のことが起こって、そのうえで謝ろうだなんて私には難易度が高かった。その間にも、フロイド先輩が私を見下ろす目から感じる怒りと、威圧感と、呆れ。
どうしよう、怖い。
一瞬でもそう思ってしまったのが、悪しくもフロイド先輩に伝わってしまったのか、表情を削ぎ落としたフロイド先輩は、ハッとして私の手首に込める力をわずかにゆるめた。
「違う、違うのフロイド先輩……私、」
フロイド先輩に謝りたくて。そう言う前に、フロイド先輩は眉を下げて、怒りなんて感情は一つもこもっていない。ただ、そのオリーブとゴールドに哀しみだけを孕ませて、ふ、と笑った。その笑顔が、また、私の喉元から胸まで、全部を締め付ける。
「ねえ、オレナマエちゃんに何かしちゃった?」
「待って、聞いて――」
「……ごめんね」
聞いてって言ってるのに。それすらも聞いてくれないフロイド先輩は、私の肩口に顔を埋めようとして、なのにそれすらも寸前で止めると、壁についていた肘を力なく、摺るように下ろしていった。どうしてフロイド先輩が謝ってるの? どう考えても私が悪くて、でもそう言おうにも、自責や恐怖に支配された頭では唇は震えるばかりで、言葉を発しようとしなかった。
ぎゅ、と最後に私の手首に力を込めると、その後は一切私の目なんて見ずに、頭に手を優しくぽん、と置いてくれるわけでもなく、私の向かっていた先とは逆方向へと歩いていった。その場に放置されるしかなかった私は、少ししてから、感覚のなくなった足をゆっくり動かして、自室に入って、そのままベッドに飛び込んだ。
「もう、わかんない……」
私は、どこで間違えたのだろう。きっと、ホリデーで余計なことを聞いてしまったあの瞬間から。いや、そもそも私の距離のとり方だって、クルーウェル先生が言っていたから。少し高い枕に顔を伏せると、そのまま、枕が濡れることはなかった。