昨日ステージの上で号泣していたエペルは、何事もなかったかのように、むしろ吹っ切れたかのようににこにこして、ホットアップルジンジャードリンクに息を吹きかけている。私だけがその事実に目を丸くして、それを配っていたフロイド先輩と、通りがかりの副寮長こそ何も思っていないようだった。
「グッピーちゃん、林檎めちゃくちゃ使わせてもらってるわ。ありがとー」
「グッピーって……わのこどが!?」
「は? 何言ってんのかわかんねー」
「豊作村の林檎ジュースも大好評でしたよ。エペルくん、ありがとうございました」
「……あっ、いえ、とんでもないです!」
よくわからないあだ名で呼ぶフロイド先輩に不満を持ちつつも、こちらこそありがとうございます、と律儀にお礼をするエペルを横目に、売り子として道行く人にドリンクを売りつける。昨日のエペルの活躍と、今日は男子の制服を着ているおかげか、女性客が昨日よりも多く感じる。エペルも結構握手を求められていたりするし、嬉しいことといえばそうなのだけれど、寂しさもないことはない。嫉妬? 独占欲? なんていうんだろう。
むう、と頬を膨らませて、私の公式制服姿がレアだと言うイグニハイド寮生にドリンクを渡しては、記念撮影をしてほんの少しのお金をいただく。これは昨晩の集計時点で、ロイヤルソードアカデミー優勝に苛立ちが隠せない私に寮長が提案したものだった。昨日は「チェキ一枚のためにお金を払う人いるわけないじゃないですか」と言っていたのに、いざ実行すればこれだ。
「か、家宝にするよ!」
「わ〜、ありがとうございます」
「ナマエちゃん、良かったらサインも……」
「追加料金かかりますよ〜」
遠くであんなに饒舌に話していたのに、私と対面するといつもこうだ。この二人はお得意様なので、しっかり名前も顔も覚えさせてもらっている。私の返答にノールックでお財布からマドルを取り出してくれた常連に、ありがと〜、と微笑みながらさらさらとサインを書けば、二人がさらに笑顔になった。
「あ、ああ、あありがとう!」
「いーえ。いつもありがとうね」
「ヒィ……認知されている……」
イグニハイド寮生は滅多に変なことをしない、というより、ほぼ確実に変なことをしないので、フロイド先輩による監視も適当な節はある。ばいばい、と横に手を振ると、彼らもこちらをちらちら見ながら手を振ってくれた。いやあ、いつも来てくれてありがたい。普段からチェキを入れるのもありかも、と思ったけれど、クラスや友達とは無償で撮ったりしてるしなあ。
「おい」
「ひ、びっくりした」
新しくチェキをラウンジで提供するのもありだな、と思いつつ、それは流石に調子に乗りすぎかあ、と思っていると、低音が耳元で響いて背筋がぞわぞわした。相変わらず、私たちより歳上だからなのか、あまり関係ないのか、良いお声をしていらっしゃる。
「レオナさん、ドリンク買いますか?」
「あ? いらねぇよ。それよりナマエ」
「? はい」
フロイド先輩のところにキュートなライオンさんの分の飲み物をもらいに行こうかと思ったのを、いらねぇ、のひと言で止められた。うーん、レオナさんがラウンジに来るところは見たことがないし、第二王子の舌には合わないのかもしれない。どうしたのかと首を傾げると、相変わらず眉間に皺を寄せたまま、小さく溜息をついた。
「うちの寮生が悪いことしたな」
「あ、ああ……前の。……ほんとに、悪いことされましたよ」
「強く言っておいた。ラギーと、リドルとアズール、あと双子と、それからシルバーか。それはもう大変世話になったらしいからな」
もう二度と変な気は起こさねぇだろうよ、と頭に手を置いたまま言ったので、それはもう、二年生の先輩方にきつく言われたのだろう。私一人のために、ありがたい話だ。私はもう気にしていない、といえば嘘になるけれど、幸いトラウマにはなっていないし。あらためてこうして寮長直々に謝罪をしてくれるのは、やっぱりお育ちがいいのか、しっかりした人だと思う。
「わざわざありがとうございます」
「これで済むとは思っちゃいねぇが、なんか欲しいもんでもあったら呼べ」
「そんな、謝罪だけで十分ですよ」
「あーはいはい。イイコだもんな、ナマエチャンは。財布くらい貸してやるっつってんだろ」
いい子というワードと私の名前がまあ、イコールで結べなくてつい眉間に皺を寄せると、「間抜け面」と吐き捨てたレオナさんがコロシアムの方に消えてしまった。いや、それにしても、いつでもレオナさんを呼び出せば何か奢ってくれるなんて。電話番号もマジカメのアカウントも知らないけれど。また有効活用させてもらおうかな。多分、嘘ではないと思うから。
すると、レオナ・キングスカラーに怯えた様子のイグニハイド寮生が、レオナさんがいなくなったのを見計らってわらわら出てきて、また一人ずつ相手する。限定チェキ率が相当高い。
「あら、頑張ってるじゃない」
その後またイグニハイド寮生を捕まえたり、イグニハイド寮生をお見送りしたりで、新たなお客様を捕まえようと、フロイド先輩の周りをうろうろしていると、お上品な声が背後からかかったので、糸で引っ張られるみたいに自然にそちらを向けば、さらさらで艶のあるシャンパンゴールドの髪に、陶器みたいな肌。完璧すぎるお化粧に、着崩れさせない制服。それから、ヒールなのに綺麗に保たれた姿勢。わあ、と口を開くと、「だらしないわよ」と言った。
「ヴィルさん! ご無沙汰してます」
「ええ、久しぶりね」
「昨日のVDC、本当に本当に美しかったです!」
「まあ。当然のことを言わないでちょうだい」
「へへ」
「……あら、そのリップ。アタシが前にブランドとコラボしたものじゃない」
美しいけれど、初対面のときよりは何故だか親しみやすくなってしまって、思わず口元がゆるゆるになると、また注意を受けた。それから、肌が荒れないようにか、それとも手袋越しだから、メイクが崩れないようにか、ヴィルさんが細長い指先だけで私の顎を軽く持ち上げると、じっと唇を凝視した。それから、アイメイクから、シェーディング、ハイライトの入れ方までを、上から順に目を滑らせる。美しすぎるお顔と、それから何を言われるかとドキドキしていると、すっと手を離してから、表情は真剣なままにふ、と息を洩らした。
「――及第点ってところかしら」
「わあ、嬉しい」
「アンタがポムフィオーレ寮生ならもっと厳しく指導したわよ。けれど、独学なら大したものね」
「毎日やってるので。それに、ポムフィオーレ寮には私だって入りたかった」
「その割にはオクタヴィネルから離れたくなさそうな顔して。その制服も、初めに会った頃より様になってる」
「ふふ、ありがとうございます」
お礼を言えば、ヴィルさんは口角をほんの少しつり上げて、そのまま宝石みたいな瞳を静かに動かすと、エペルやフロイド先輩のいる方を見た。それにしても、きらびやかな香りがする。ウッディで、ほんの少しアンバリー。その香りに気を取られている私に、あちらの毒林檎と人魚から視線を外すことなく口を開いた。
「エペルはいつの間にモストロ・ラウンジの売り子になったのかしら」
「……あっ!」
「何よ、急に大声出して」
「……いや、私、エペルを待たせてる身だったの思い出して……そろそろシフト交代してもらおうかな」
時計を見ると、エペルと合流してから既に三十分以上が経過しようとしていた。もう少し待って、のつもりが、私のシフト時間の一時間半も待ってもらったわけではないけれど、相当待たせてしまっている。丁度良い時間だし、そろそろ次の寮生へとバトンパスさせてもらおう。すると、ヴィルさんが「ねえ」と声をかけたので、フロイド先輩たちの方へと向かいかけていた足を止めた。
「ドリンク、アタシもいただきたいのだけれど。確か、相当な量の砂糖が入ってるんですって?」
「あー……ちょっと待ってくださいね」
顔を顰めながらそうおっしゃるヴィルさんに、同じように顔を顰めては苦笑いをする。甘すぎるといっても砂糖が大量に入っているわけではないけれど、こういった要望に応えて昨晩、砂糖ほぼ不使用のものを少量だけれど、ひと回り小さいサーバーに用意させてもらった。ほぼ未使用、 ほぼ不使用のものってフリマアプリでも割と売れるんだよねえ。
カップにドリンクを注いで、甘さ控えめな湯気が立つそれをヴィルさんにお届けすれば、ヴィルさんが首を傾げた。
「これは?」
「砂糖ほぼ不使用になっております。ジンジャーが結構強く感じられて、喉がピリピリするかも」
「摂りすぎが良くないというだけでわざわざ用意してくれなくても買ったのに。でもお気遣いありがとう、せっかくだしそちらを買わせていただくわ」
あらら、もしかしてヴィルさんのは単純な質問だったのか。紛らわしい。カップを持つ仕草に指先まで美しいヴィルさんがくいっとそれを口に流し込む様子をドキドキしながら見ると、飲み口を手袋を着けた指で軽く拭った。
「流石ね。素材の味を生かすのが上手」
「ふふ、褒めるならフロイド先輩を」
「代わりに伝えておいて。アタシは映画研究会の方に行かなくちゃならないから」
「はぁい。映研の方も時間があれば覗かせてもらいますね」
「ナマエさん、そろそろ交代の時間ですよ」
ヴィルさんに馴れ馴れしく手を振ると、私に背を向けて、左手を上げて去っていった。スマートでかっこいい。そんな私に声をかけたのは、キノコを手に持った副寮長で、思わず三度見くらいはしてしまった。大きくて威圧感がある副寮長がキノコとチラシを持って、いや、完全にやばいやつじゃないですか。山を愛する会の展示への勧誘としては、失敗だと思う。
「わかりました。フロイド先輩、じゃあ私はここで」
「え〜、やだ。行かないで?」
「かわいくしても効きません。ただでさえエペルのこと待たせてるのに」
「そうですよフロイド。昨日の分も働けばアズールが天引き分は少なくすると言ってくれていたじゃありませんか。それにナマエさんたちは今から僕の部活の展示に来るので」
副寮長が珍しくフロイド先輩を止めてくれていると思えば、山を愛する会への勧誘というか、もはや決定事項みたいに言うので思わずエペルと目を合わせた。寮長よりもはっきりとした青色を丸くして、私から目を離せば、フロイド先輩に掴まれた手を払った。
「うわ、ナマエちゃんが今日冷たい」
「そういう気分ってことにしておいてください。副寮長、とりあえず私たちはサイエンス部の方でお昼を済ませてくるので、あとで必ず行かせていただきます」
「はい、お待ちしております。では僕もそろそろ持ち場に戻りましょうかね」
早くもお昼前になってしまったし、お昼は観葉植物カフェで! というふうになっていたので、計画通り私とエペルは植物園の方へと向かうことにした。あからさまにやる気がなくなったフロイド先輩を屈ませて、頑張ってください、と言えば、コウモリが水鉄砲を食らったような顔をして、その表情のままドリンクをカップに注ぎ始めた。
◈◈◈
「ボードゲーム部の展示で結構遊んじゃった」
「あ、それ私も。それで昨日のVDC、結構ギリギリになったの」
エペルは私と合流する前、それなりに文化祭を見て回ってきたようだった。研究発表は退屈ですぐに出てしまっただとか、ボードゲーム部はやっぱり安定して楽しかったとか。やはり昨日よりは混雑しておらず、マジフト部があたっていたステージの設営も昨日でほとんど終わっていたために今日はお互いに運動部としての仕事ももうないし、思う存分残り数時間を満喫することにしよう。
「…………ガーゴイル研究会、行った?」
「うん。少し覗いてみたけれど、よくわからなくて入らなかったんだ」
「……マレウス・ドラコニアのところ。私、昨日あそこで会った」
「え!? 一対一でか!?」
「そう。あの後本気で腰抜けたの」
思い出しても怖いというか、気まずかったというか、しかし腰が抜けてしまったり、たった今耳の裏がぞわぞわしてきたりするあたり、怖いという感覚で正解だったと思う。エペルは目を見開いて驚いた様子で、その後眉をひそめてから私の耳に小さな顔を寄せて、小声で私に言った。
「実は僕も――僕たちも、昨日会ってるんだ」
「えっ」
「マレウス、サン。……監督生サンの、友達らしい」
「ええっ!?」
大きい声が出てしまうのも、無理はない。監督生、つくづく巻き込まれ体質かつやたら交流関係が広いと思っていたけれど、マレウス・ドラコニアまで手懐けてしまうとは。やっぱり猛獣使いなのでは? じゃあ、VDCに来てたのも監督生の誘い? という眼差しをエペルに向ければ、二回無言で頷いた。
「けれど、昨日は思ったより怖くなかった……かな」
「すご……いや、どういう状況で会ったのかわかんないけど。……もうこの話はやめよう」
「そう、だね」
マレウス・ドラコニアの話をすると、なんか、ちょっと場が凍ってしまうというか、世間からも恐れられているので、とりあえず今はやめることにした。セベクもシルバー先輩も、護衛としては当然だと思うけれど、マレウス・ドラコニアのことをあんなに慕えるのはすごいと思う。いや、私が彼のことを知らなすぎるだけか。
ドーム型をした植物園が目に入ると、それと同時に私のお腹がぎゅるる、と鳴ったので、急いで植物園へと向かった。
開放された植物園に入ると、多くの植物の独特な匂いに、美味しそうな匂いが混ざっていた。植物園、確かに色々な区分がされていて広いから、カフェとしてはとても良い案だ。また参考にさせてもらおう。
「やあ、エペルくんにナマエさん。来てくれたんだね」
「はい、お腹が空いて」
「もうすぐ混んでくるだろうから、今来て正解だよ。さあ、席まで案内させてもらうよ」
実験着姿でも変わらずハットを被ったルークさんがしなやかな動きでメニュー表を持ったまま私とエペルを亜熱帯ゾーンまで案内してくれた。広くて、植物たちに遮られてはいるけれど、それでも全貌が見渡せる。それに、冷え込む今には丁度良い気温だった。
「決まったら呼んでくれたまえ。部員がオーダーを取りに来るよ」
「わかりました。ルークさん、昨日のステージ良かったです」
「メルシー! そう言ってもらえて嬉しいよ」
メニューを手渡しされると、そのままルークさんは流れるような動きで他のテーブルへと行ってしまった。いやあ、しっかりテーブルクロスまで敷いてあって、なかなか凝っているなあ。メニューを広げると、手書きの筆記体でいくつか並んでいた。サンドイッチにしようかな。
「この後どうする?」
「ナマエに合わせるよ。……あ、でも」
「いいよ、遠慮なく言って」
「……イグニハイド寮が、マジカルホイールの展示をしているんだ。それを見に行きたくて」
何を言いづらそうにしているのかと思えば、そういえばパンフレットの下の方に書いていた気がする。リドル先輩が言うにはイグニハイド寮での申請があったらしい、マジカルホイールの展示。多分、男の子のロマンなのだろう。私にはよくわからないけれど、いつも一緒にいてくれるし、昨日も良いもの見せてもらったし、今日も待たせちゃったし、いくらでも付き合うよ。
「何、それくらい全然行くよ」
「えっ、ほんと!?」
「ほんとほんと。エペル、いつもありがとう」
「い、いぎなりどうすたんだ。……僕の方こそ、いつもありがとう」
エペルのことだから、本当はもっと強い、ハウルみたいな人と一緒にいたかったりするのかもしれない。けれど、今こうして私と一緒にいることを選んでくれているし、最初に声をかけてくれたのもエペルだ。本当、エペルにも、感謝だけが募っていく。
そのままなんだか、ほわほわとした空気感になってしまったこの場に来たのは、ルークさんとは違う人だった。
「邪魔して悪いな。注文は決まったか?」
「あ、私はこのサンドイッチと紅茶を」
「僕はこっちのバケットの方で。あと、林檎ジュース」
「了解。確か、エペルとナマエだったか?」
さらさらと注文を紙に書いてから、私とエペルを順に見てから名前を呼んだのは、昨日一度だけ見かけた人。ハーツラビュル寮の副寮長のトレイさん。今の時間帯はどうやら、運営委員ではなくこちらのお手伝いをしているらしい。名前が知られていて、またしてもエペルと目を合わせてはぱちぱちした。
「うちの一年からよく話は聞いているよ。悪いなナマエ、今はクルーウェル先生は不在なんだ」
「またよく話を聞かれている。いいですよ、先生とはいつでもお話できるので」
「はは、そうか。すぐ料理を用意するからちょっと待っていてくれ」
眉を八の字にして、すっと下がっていったトレイさんから視線を滑らして、エペルを手招きすると向かいのエペルがぐっと私に体ごと顔を寄せてきたので、今度は私がエペルの耳元に口を寄せた。
「私、そんなにクルーウェル先生のこと好きに見える?」
「実際そうでしょ? いつも尻尾が見えてる」
「そっかあ、クルーウェル先生のためにも気をつけなきゃな」
「それもそう、なのかな。ああやって先生に好かれるの、僕はすごいと思う」
「私が好いてるだけだよ」
えへへ、と笑いながらエペルから離れると、数秒置いてからエペルも元通りの体勢になった。クルーウェル先生のことは好き。先生の中で一番好きだし、面倒見がいいし、顔もいいから。実際、大抵の生徒がそうだと思う。エペルがそんな私を見て、薄く笑っていた口元を元に戻した。
「でも僕は――」
「おまたせしました。注文されたものを持ってきたぞ」
「わ、ありがとうございます〜」
エペルが何か言いかけたとき、トレイさんがトレーにサンドイッチとグラスを持ってきたので、それを受け取った。トレイ先輩がトレーって、もはやギャグじゃん。そんなことを思いながらエペルの方を見ると、口を噤んでからまた笑顔でトレイさんに「ありがとうございます」とお礼を言っていた。その後も、何も言い直したり気にする様子もなかったので、私も気にせずサンドイッチを頬張った。
◈◈◈
山を愛する会の教室までの道中に、マジカルホイールの展示を見かけたので寄ってみたら、結構すごかったし、大いに歓迎された。私も、エペルも。イグニハイド寮らしい、見たことないデザインもたくさんあったし、中にはおしゃれな装飾のものもあったりしたので、後者に惹かれていると、そこそこ声をかけられた。「ナマエさんも興味があるの!?」とか、「乗りたいならまた教えるよ!」とか。イグニハイド寮生って、やっぱりどの寮生よりも気遣いがすごいというか。馬に乗り慣れているから、それに似たものはないかと聞けば、「次会うときまでに開発しておくよ!」だそうで、いや、とんでもない才能の持ち主が集まったものだ。イグニハイド寮生、結構就職に有利そうだなあ。
たくさん跨らせてもらったり、短い距離を試運転できて満足そうなエペルを微笑ましく見ながら向かったのは、約束したからには行かねばならない、例の場所だった。
「ナマエさんにエペルくん。山を愛する会の展示教室へようこそ」
「あ、はは。……テラリウムですか?」
「はい。拾ったきのこなどで作ったものです」
教室に入ると、机にたくさんのテラリウムや写真、それから生身のきのこが展示されていた。テラリウムは案外かわいいけれども。写真を見ると、なんてことない花や草や、岩。副寮長がいつも校舎の裏にある山を探索することで得ているものらしい。何の変哲もないものだけれど、アトランティカ記念博物館にあった銀の髪すき同様、人魚にとっては珍しいものなのだろう。
「ではナマエさん、こちらをどうぞ」
「わ、押しつけないでください。……きのこ? いらない!」
「酷いですねぇ。昨日からリドルさんも監督生さんも貰ってくれなくて」
「寮であんなに出して嫌われたのに、この期に及んでまだ懲りてないんですか」
副寮長が土を払った、ブナシメジ? ブナシメジであろうきのこを私の手に押しつけてくるので、そのまま押し返すとあっさり諦めてくれた。私も一週間以上連続のきのこ料理の餌食になったことがあるので、わざわざきのこをもらう趣味なんてない。「他寮の人に渡したらどうですか」と言えば、エペルに差し出した副寮長だけれど、「僕もいいです」と拒否していた。ナイスだよ。
「新入部員を増やしたいのですが……どうも陸の人間にはありきたりみたいで」
「でしょうねえ。……あ、ガーゴイル研究会と組んだらどうですか?」
「ガーゴイル研究会と? ふふ、それは面白い冗談を」
「部員数、一人同士だし」
「……ナマエって、怖いもの知らずなのかどうかわからないな」
はあ、と溜息をつくエペルに、わざとド天然みたいに首を傾げる。怖いものしかないよ、私。マレウス・ドラコニアとも対面したら腰が抜けるくらいだし。本人がいないところでは調子に乗れる、あまり良くない人間の例だ。眉をまたひそめたエペルは私に「なんでもない」と言っては笑った。
◈◈◈
一日目に比べて二日目は、かなり時間があった。またボードゲーム部に遊びに行ったり、映画研究会が作った映画を見に行ったり。それにしても、ヴィルさんが指導してくれているからか、本物の映画みたいだった。むしろ下手なB級映画よりも面白かったというか。
夜になると、談話室でいつものように集計が始まる。片付けもあったのに、皆アクティブだなあ。私を含めて。
「ナマエさん! またしても売上は上々ですよ」
「へへ、私のおかげですね」
「ええ。その通り。しかしあなた、謙遜を知らないんですか」
「当然なので……」
以前の事件から、懲りずに、しかし私の周りのガードをガチガチにすることで私を商売に上手く使ってくれている寮長。私自身、チェキだったりサインだったり、あとはオムライスも楽しかったりするし、他寮――主にイグニハイド寮生とのコミュニケーションにも繋がるから、廃止しないでくれているのはありがたい。
「さて、明日もラウンジはいつも通り営業しますが……そろそろバレンタインシーズンだ」
「え〜、またナマエちゃんのこと良いように使うわけ?」
「いえ、去年と概ね同じです」
レーズンバター提供と同時に始まるらしいバレンタイン期間は、去年もどうやら一般の女性客に人気だったらしく、内容はフォンダンショコラやガトーショコラなどチョコを使ったメニューに従業員がベリーソースなどでハートやら絵を描く、と。ほぼオムライスじゃん、と思いながらも、これが人気なのはラウンジの技術と、男子高校生が絵を描くかわいさだろうか。
「今年はナマエさんもいますし、男性客の来客も見込めそうだ。よろしくお願いしますね」
「はい。あの、文化祭でやったみたいにチェキは――」
「だめ〜。オレあんまナマエちゃんの安売りしたくないんだけど」
「ええ。フロイドもこう言っていますし、今日は特別だったので。今後するとすればイベントのときだけですね」
「そっかあ……」
期間は約一週間。明日から、バレンタインが終わってから数日までだ。終業後にフォンダンショコラをもらえたりするのかなあ、とわくわくする。フォンダンショコラが嫌いな人は多分いないと思うし、字面だけで楽しい。……待って、それにしても。
「……バレンタインかあ」
全国の女子が悩まされる期間を、なんと今年は去年までと違う、男子しかいない空間で迎えることになるとは思わなかった。小さく呟いたのも、溜息をついたのも、運良く三人には聞こえていないようだった。